過保護がつくる心の歪み

愛
過保護で甘やかした子どもが精神的疾患を表わすようになる事例は珍しいことではない。
例えば、男の子の精神的歪みの例からいうと、お母さんが過保護にすることによって発生するケースもあるのだが、その場合、そのお母さんの心理的原因は、夫を尊敬し愛することができないことにもある。
夫を尊敬し愛することができないところに男の子が生まれてくると、夫によって満たされなかった愛を、子どもを愛することによって満足させようとする。
人間は、誰かを愛し、誰からか愛されずにはいられない存在でもあるから、子どもを愛し、子どもから「いいお母さんだ」といわれたい気持ちは潜在的には誰もがもっているものであろう。
子どものことにかまけてますます夫婦の間に溝ができることになるが、十五、六歳頃からの思春期は、精神的にも肉体的にも一人の大人として立ってゆかなければならない時期です。
ところが母親が自ら、「して見せて、行わせていない」から、身体だけは大人みたいになっても精神的には母親に寄りかかり、肉体的には何ごとも、何をどうしていいかわからないのである。
人間には自尊心がある。その自尊心を傷つけられたくないという気持は誰でも持っている。
やれば失敗して自尊心が傷つけられて恥をかくと思った場合、甘やかされた気の弱い人間は、やって失敗して恥をかくよりは、やればできるけど、しないだけのことであるという姿勢をとり、結局やらない。
そして心の中で、あんなことをやるのは低級な人間で、自分は優秀で高等な人間だからあんなことはしないと、高くとまって誤った優越感を持っている場合もある。
三十、四十歳と年を取ってくると、同じ年齢の者は既に結婚もし、子どももあり、社会的にもそれ相当になっているからなおのこと仲間入りできないと思ってノイローゼが重症になってなにもできないという姿勢を取ることになる。
その上に後に書いてあるように性的な問題がからんでくるからますますややこしいことになってくる。
非行、暴力、反抗、ノイ囗-ゼの検証
原因は夫婦の不調和であり、父親も母親も、どちらかが厳し過ぎたり、甘やかし過ぎたりして極端な状態ですから、躾や教育もバランスの良い中道でなければならない。
特に、母親があまりにも子どもに関心を持ち過ぎることはいけない。ノイローゼに至っては、母親が性的感情を持って子どもを見るということが原因な場合もあるから、子どもをそういう眼で見ないこと。
また、父親が娘を溺愛するあまり、性的な感情をもって接したために、娘は思春期頃を機に歪んだ感情を表すようになってくることがある。
10代の女の子が、男子に対して甘える素振りをみせて自分の意のままに操ろうとする姿は、父親に甘えると何でも望みを叶えてもらえるという父親の溺愛から生まれた精神構造によるものであろう。
母親は子どもに対して偏り過ぎた感情移入してはならず、いかにして夫と調和するかを考え、夫が喜び、穏やかな心になれるかという環境作りをすれば、気がついた時は、子どもは一人で立ち直っているということになるものである。
父親コンプレックスの女性の場合、冷たい初恋の男性を思いつづけている女性が、冷たく、夫を愛することが下手であることがある。
父親にひどく溺愛された女の子は、父親に心が固着して、父から受けたように愛されることばかりを求めて、自分の方から積極的に夫を愛そうとしない、性的にも不感症であったりすることがある。
家庭の破綻にならずに調和への生活を希望するならば、結婚したら父と娘という愛だけに固執することなく、夫と妻という立場をはっきり意識して、妻としての役割を果たすことに努力しなければならないだろう。
性生活を忌避する潔癖な妻の影響とその解決
性生活を忌避するのは、性を罪悪だと思う心もひとつの要因として背景にある。
人間は本来、罪を犯したくはない。だからなるべく罪を犯す行為はするまいとします。
それに小さい時から、性を不潔だと教えられ、プラトニックラブ(心だけの結合)をすばらしいと思う心が強いと、性の衝動を感じてもそれを抑制しようとする思いが働き、結果的には欲求不満となる。
妻があまりにも貞淑で、道徳堅固で日頃から何かと潔癖感が強く、夜の営みのときも、行為が終るとすぐ洗浄に立ち上がるというような場合、夫は常に妻の過ぎた潔癖さに威圧され、妻のいやがることはなるべくすまいとして性の衝動を抑制するようになる。
結果、そういう妻の前では自由に振舞えなくなってくる。
そこで夫は、もっと自由に性本能を発動することができる相手を求めることになる。
これが貞淑な賢妻を持つ夫が、そうでもない女性に走る原因でもある。
夫を責める前に夫に愛される女性になれているかを振り返ることも大事であろう。
なぜ性欲が罪悪視され、不潔視されるか、恋愛の理想的な、いわゆるロマンチックな美の感情は、肉体的な結合を拒否する。
しかし一方において、肉体的な感覚は肉体の結合を求める。
従来、性的行為が罪悪視され、低卑視されてきたのは、人間を単なる動物だと見て、性的行為を動物的行為だと思うようになったからである。
宗教においては、信仰をもつ人間が口では「神よ」、「仏よ」と称えながら、一方で動物的行為をするのは人間の堕落であると考えたところがある。
そこからして神に仕える聖職者は純潔で童貞で処女でなければならないと考えられてきた歴史もある。
それにもう一つは、子どもを産むという神聖な器官が、汚ない糞尿を排泄する器官と連合しているために、性器を汚いと思うようになり、汚いものにはなるべく触れてはならないと思ったからである。
小さな子どもが自分の性器に手をふれると、「あ、汚い、さわってはいけない」という言葉を使って抑止し禁正してきた感があり、そのために自然に性欲が低卑化されてきた。
あまりにも厳格な家庭に育った女性、またクリスチャンの家庭に育った女性が、往々にして結婚忌避症になったり、潔癖感が強過ぎて性的に冷淡であったり、不感症であったりするのも、一つはそのことに原因がある。
人間はなぜ性器と排泄器官を同じ場所に持って生まれたかつくられたか。
その糞尿が排泄される場所の近くに子どもを生ませ、また生殖器官がある。
昼間の知性、理性をもって働かなければならない時間においては、糞尿の出てくる場所に手を触れることは、汚いという意識が伴う。
しかし、夜になって感性が高まり、愛の感情が高揚してくると、性器に手を触れることを汚いと感じなくなって、むしろ積極的に触れ、結合したいという感情が高まってくる。
こうした行為を、人間はごく自然に繰り返してきたのであるが、男女の間における心の高揚感は、こうも状況を変えてしまうものなのである。
神聖な子どもが生まれる場所と、糞尿が排泄される汚い場所を、なぜ創造主は同じ場所につくられたのであろうか、誰も今までそのことについては考えてこなかった。
しかし、創造主からみれば汚いもキレイもなくそれを超えた神聖な器官ということであろう。
少し「愛」の感情と働きを分析して考えてみよう。
愛は、憎しみのあるところに安らぎをもたらすもの。
争いのあるところに許しを。
疑いのあるところに信を。
絶望のあるところに希望を。
闇のあるところに光を。
悲しみのあるところに喜びをもたらす。
慰められるよりなぐさめることを。
理解されるよりもりかいすることを。
私たちは人に与えることによって心の富をえることができる。
許したときに己の心が解き放たれてゆるされる。
沈黙と孤独は自身を知る時。
光りとエネルギーを無償で与え続けている太陽の意識こそ愛の姿といわずして何と表現しようか。
わが子を愛する母親は、わが子の頬にキッスして、「この子を食べたい」と表現する。
愛する者同士はお互いに相手を強く抱擁して、相手の身体を自分の肉体に押し込んで、相手と自分と一つになりたいと思う。
尊敬し愛している者同士が、一緒に食事をするのは、実は尊敬し愛するあまりに、相手と一体となりたい、相手に同化したいという心の現われでもある。
愛は、恋人同士の愛だけでなく、家族愛、親子愛、兄弟愛、人類愛、広くは友情も含まれるだろう。
人における愛は行動を生み出し、行動は相手のために何かをしようとし、あるいは、許容し、そばにいて受け止めてあげようとする。
それらは母子の関係にある、愛を与える母と受け取る子供、例えば、赤ちゃんにオッパイをあげている母の姿は美しく、何一つ望むことなく乳をあげて優しいまなざしで微笑みを浮かべている。
母の腕に抱かれて乳をのむ赤ちゃんは安らぎの極致であろう。
あげて喜びを感じる母と、いただいて幸せな赤ちゃんの姿は、誰の目にも愛おしく顔がゆるんでしまう。
ここに愛の原点がある。
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