運命と因縁因果のしくみ


花が咲き実がなる姿を、ひとつの結果という言葉で表現するなら、そこには当然原因があるわけですが、では原因はとなると、昨年の実が土に落ちたり、宿根があったからで、そして種や根は、土や水分、養分、光合成というがあってはじめて成長をし、やがて花が咲き実をつけることになります。
きょうは原因結果によって成されることを述べてみますが、これは人生にも当てはまる宇宙の法則ではないだろうか。
因縁因果は別の言葉でいえば循環の法則をいったものです。何故なら原因と結果は相互に関連して繰り返すものだからである。
人の心が病むにはそれだけの原因がある。悪を思えば悪、善をえば善のが返ってくることになり、この様な原因と結果の相互関係は極めて宿命的な関係であって避けることのできない性質をもっています。
前世の因縁が今世の因果をつくっているというようなことをよく言いますが、これは根拠が非常に曖昧(あいまい)で、いまの結果を見て前世を語るには余りにも無理がある。
あの世での生活が前世と今世の間で営まれており、そのときに前世の因縁をある程度修正してから人は生れてきているわけですから、その人の前世の因縁がそのまま今世の因果となることはないのです。
このようなことから、前世で泥棒をしたから今世で貧乏するとか、前世で人を殺したから今世で殺されるということはないでしょう。
また前世で夫につらく当たったから今世で夫から罵倒されたとか、暴力をうけているのだということはないのです。
ただしこのようなことは言える。前世の因縁は今世でもその縁に引きずられる要素は持っています。それがために今世でも同じようなことを繰り返してしまうことも間々あるのです。
例えば前世は職人であったけど、今世では経営者になりたい、前世では教師ではあったけど今度は政治家になりたいと生れる前に計画していた人が生まれたのちに環境や教育、思想、習慣などの様々な理由から前世の経験に引きずられて再び同じ職業に就くというようにです。
因縁因果は前世と今世についてみた場合、このように全くストレートに現れてくるものではなく、この世において作り出した因縁に因果がついてまわるということです。
これが因縁因果は循環するということの意味であり内容である。
したがって『何代前の先祖が成仏できないが為にあなたが問題をかかえているのだから先祖供養をして運を良くしなさい。』とか『あなたが前世で悪事を働いたから今世で貧乏しているのだからカルマの解消のために先祖供養して徳を積み先祖からの守護をいただきなさい』などというのは全くあたらないし、運命と因縁因果の本質から離れた、ご都合主義の話しです。
このような事をいう霊能者や拝み屋、占い師、などがいたら出入りすることはやめたほうが痛い目を見ずに済む。
さて悪質で暴利をむさぼる者が栄えて、善人がひもじい思いをするのはおかしいではないかと反論する人がいました。素朴な疑問である。
しかし、この世で如何に金銭的に栄えようが地位や名誉に評されて表面的には人生の勝ち組にみえても、その人の心の状態をみると地獄である場合が多いのです。
人生の価値をどこに置くかは人それぞれですが、経済的な豊かさや地位や名誉などの肩書に執着すると間違いなく魂はスモッグで覆われてしまい、行く先は天にとはいかない。
魂の財産は執着のない澄んだ心であり、それだけがあの世の行先を決める絶対的要素である。死んで人生が終わるのではない、まして眠るのでもない、意識は生きつづけて次元の違った世界で暮らすのである。
因縁因果はこの世の価値とする外見的なものでは推し測れない場合が少なくありません。
さて運命についてですが、文字通り命を運ぶとなります。一般的には宿命的なものように考えられていますが実際はそうではありません。
運命は自分で切り開いてゆくものであって人や環境などに押し流されるようなものであってはならないでしょう。
ただ人にはそれぞれに、この世で果たすべき役割があります。
例えば男は男としての役割、男女の相違です。才能の違いによって就く仕事の役割。器の大小による立場の役割。性格の違いによる適材適所などというようにです。
このようにしてそれぞれの要件の下で役目を果たしてゆくのですが、その限りでいえば運命は決められているといえるかもしれません。
因縁因果が宿命的な運命となって現れることは原理的には多少は言えるのですが、人間は本来自由に意思を持って自由に創造してゆくものですから、宿命的な部分に自分を翻弄されることは自分を見失ったことを意味します。
これは正しい生き方から見た場合大変な損失になります。
本来、人間としての心穏やかな日々と正しい生き方をして真の人生の意義に気づきたいならば易占いや霊能者などに自分の将来を宣託してもらうようなことはすべきではありません。
同じく営利主義の宗教団体などでその都度金品を支払い、人生相談や先祖供養を行うことの危険性は依存信仰であって、心の学習と自立心を養うには悪影響以外のなにものでもない。
やがては心身ともに蝕(むしば)まれてかえって人生を不幸にする場合が多いのである。
実際にそのような方々の相談をうけてきたが、信仰をして心が穏やかでなく、いつも迷いのなかにいる人が多いのは矛盾する宗教指導や、営利目的だけの、根本を間違ったカウンセリングなどに依存することを考え直さなければならないでしょう。
人生における答えは全て自身の心のにあることに気づかなければならない。にあるものは、あくまでもヒントであり指針であるだけです。
『真理はどこにあるのか』とよく聞かれますが、真理は自分の心のなかにあるのです。
心は天に通じているから心に真理があるのです。正しい法則は調った自分の心の中に存在し、自分の私心(我欲)を捨てて耳を傾ければ正しい答えが必ず得られるものである。
その為には自分の行いを客観的にみる習慣を身につけることで可能となる。
『一燈(いっとう)を提(さ)げて暗夜を行く。
暗夜を憂(うれ)うること勿(なか)れ。
只(た)だ一燈を頼(たの)め。』
※ここで暗夜というのはお先真暗な人生行路をいっているのであり、一燈とは自己の限りない向上心、執着のない心をいうのであろう。
弟子の阿難が、釈尊の最後が間近いことを知って、「私はこの先、誰に頼ったらよいのでしょうか」と泣きながらに訴えた。
釈尊はいわれた、阿難よ、汝自らを灯火とし、汝自らを依り所とせよ。他を依り所とするな。真理を灯火とし、真理を依り所とせよ。」と。『自灯明・法灯明』
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