ソウルメイト・守護霊と指導霊

守護霊

守護霊の個性

十人十色ということばが示すように、人それぞれ姿に特徴がありますし、その性格的長所や短所についても個性があります。

そして私たちの守護霊や指導霊という存在もかつては地上で生活をしていた人たちであり、同じよう特徴を持っているものですが、特に守護霊の場合は魂の兄弟姉妹という関係であるために尚更です。

そういう意味でも、自分の長所短所をよく知ることによって、自分の守護霊の個性も非常に似通ったところがあると思ってよいでしょう。

そして守護霊は特別に霊格の高い人がつくわけではなく、自分とほぼ同格のものと思ってよいでしょう。

「霊格の高い守護霊をつけてあげます」などといって金銭の多寡によって守護霊の霊格を区別するやり口が横行していますが、一般的に見えないことをいいことにして、まったくもって真実からかけ離れた由々しき問題です。

あの世の諸霊たちがこの世の人を守護する立場でつくのは、既に私たちがこの地上に誕生する以前にあの世で決めたことであって、私たちがこの世に誕生した時点で定まっているのです。

守護霊や指導霊も、そして守護神もこの世の人間の采配によって後付できるようなものでは決してありません。

過去世からの深遠な絆によってはじめて成されるこの世の縁生であるということです。

幽界や霊界下層階のような比較的低いステージの住人達は、肉体的先祖、両親、兄弟の関係については、執着心が強い。

国の単位も、その住人達(同じ霊域)によって造り出され、かつて地上界で生活してきたと同じように、彼らは、彼らの霊域に比例した社会を構成しているものです。

普通は、死後五十年ぐらい経つと、私達は肉体的先祖というものに対する考え方が変わってくる。

なぜなら、魂の兄弟達が度々訪ねてくるようになり、「お前の兄弟だ」とか、「お前の親戚の者だ」といってくるのだが、それは必ずしも同国人、同民族と限ってはいないからです。

お互い、思っていることや考えることが似ていたり、良く分かるため、始めて魂の兄弟ということを悟るようになっていくのです。

特定の国粋主義者の塊のような意識を持っている住人達は、彼らだけの社会を霊界でも造っています。

しかしそれも、時間が経つに従って、人類は皆兄弟であることを悟るようになっていくものです。

その時間とは、あくまでも彼らの霊域に比例した学びの段階があるために、彼ら自身の神仏の子としての自覚への修行の時間が必要であり、そのためにそうした生活を続けなくてはなりません。

彼らはこの地球上の人類と違って、潜在意識が逆に表面に出ているため、地上の人間よりはるかに物分かりが早く、丁寧に説得すればしっかり理解し、悟ることも早い。

それは日々のカウンセリングのなかでも実感するところでもあります。

なぜなら、地上の人間は、物や金、地位、名誉、学歴、職歴、結果、成果、相対観(比較)、等々に執着するために、非常に心の偏りを修正しがたい傾向にあるからです。

地上の人間の場合は潜在意識の90%が沈んでいて、わずか10%の表面意識で思考し、判断して生活しているために、非常に唯物的、現実的な思考に偏ってしまうという、心の修行にとってはリスクが大きい半面、そのリスクを超えた気づきは大きな学びとなって悟りに近づくことになります。

つまり地上生活は、物質社会であるためにリスクは大きいが学びが深くできるという点では得ることも非常に大きいということです。

あの世の場合は逆にのんびりしている社会であるため、修行はこの地上界よりずっと遅くなり大変である。

従って、この地上界の修行場で悟って帰る場合は、あの世における修行の経過よりはるかに前進していることになる。

辛さを忍耐して超えていかなければならない理由はここにもある。

地上界の一年は、あの世の三十年、五十年にも匹敵するくらいである。

偏った思想によって、意識の宝珠を、にしてしまった人々は最も気の毒でしょう。

そうした人々がこの世を去るときは、その意志に比例した、より強烈な世界に落ちて行き、物理的な慣性の法則と同様の方向に進んで行く。

ということは、私達の意識というものは、この世を去ったからといって即座に仏性に目覚めるというものではないからだ。

具体的な事例をあげてみます。

イエス・キリストも、ゴーダマーシ″タルダー(お釈迦様)も、後世の人々によって神理の化身のように崇められているが、やはり人の子であって、生身の体を持って生活しました。

ただ、悟っている人間は、肉体に執着がないし、物に執着がない。

そのため、死というものを恐ろしいと思うことがない。

なぜなら、その心は常にあの世、この世と連絡がとれるし、やがて帰る自分の世界の状態を知っているため、心は常に平穏ですべてに足ることを知っているからです。

このような霊的現象について、後世の弟子達や学者達は、頭で学び、知識で知ろうとしたため、心の世界の問題が非常に理解しにくくなっていきました。

その結果、この問題から遠ざかって行くようになったのです。

霊的現象は、あくまで神理を悟るための一コマであって、霊的現象をみせることができるから悟りの境地に到達した人間だという、とい考え方、見方は大きな誤りです。

ここで話しを古代インドに遡ってみます。

釈尊の滅後、しばらくして侍従であったアナンは霊的な力により、現象が出せるようになった。

しかし、第一回目の結集のときには、ベルヴェナーの洞穴に集まった四七三人の弟子達の中から、霊能力がなかったため、アナンは除外されようとしたのである。

ただ、釈尊の秘書として、永い年月最も身近で神理を聞いていたというところから、教えを暗記する弟子達の協力者となったのでした。

一部分は書き残され、ほとんどは口伝えです。

そのため、霊的な諸現象に対しては非常に誇大視して残されている。

釈尊やイエスは、もちろん偉大な人物だが、後の人たちが神格化するため奇跡的現象をとり上げすぎた嫌いがある。

後世の人々の中には、宗教環境の中で生活している場合、そうした神格化が大いに必要だった人達があったかも知れません。

現代流にいえば、スターが必要だったのだろう。

その結果、偶像崇拝、他力本願の宗教に変わってしまったことは、この辺りに原因がある。

祈る心は、即行為であって、行為の伴わない祈りは、神理とはいい難い。

だが、祈りに固執して、祈りのために生活の為の貴重な時間をつぶしてしまうことはないのです。

祈りは単なる祈りであってはならないということ。

それは、行為(働き、生活)を祈りであるが如く生きればよいのである。

思うこと、考えていること、行なうこと、正しい生活のすべてが祈りの行為となって、神仏と調和される。

苦しいときの神頼み”という言葉があります。

これは人間が、六根煩悩によって造り出してしまった苦しみから離れようとして、自分自身の魂の故郷である神仏に、安らぎを最後に求めようとする行為です。

そのような心境になって、自分の苦しみの原因を反省し、間違いを正して、「どうぞ、私をお助けください」と祈ることにより、魂の兄弟や指導霊達が、私達に慈悲と愛の手を差しのべてくれる場合もある。

しかし、神仏に通じる早道は、ただ思うだけ、祈るのみではなく、八つの正しい道の生活を行なうこと、と知るべきです。 「悟りの境地に至る道」

多くの人々は、奇跡的な現象や未知の世界に対する認識が足りないため、少しでも変わった超能力者と称する者に現象をみせられると、神秘的に思い、いつか教祖を造り上げ、自分自身も神仏の子であることを忘れて狂信、妄信にはしってしまう。

少しばかりの神秘力を持っている者も、いつの間にか己を失って増上慢となり、生き神さまに納まって自分の分を超えた言動するようになり罪を重ねていく。

信仰をもつ人たちも自身の理性と知性をもって臨み、盲目であってはならないでしょう。

そうした教祖や霊能者などの、いうことと行為が一致しているか(金に執着していないか、名声に固執していないか、他を批判中傷しないか)、偽善者であるかどうかを良く判断する必要があります。

神仏は人間の反省については強制しません。

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光の天使は謙虚で、その慈悲と愛には表裏がなく、心は常に平穏であります。

地上に降りた光の天使は、法則を造るためにきたのではなく、法則が何を意味するかを人間に教えるために降りてきました。

また人々の罪を裁くためにくるのでもありません。

人間は、自分自身の心の世界においては自分自身が裁判官であり、最もすぐれた先生であることを知るべきですね。

誰もが他から多くを学びますが、最後の決断は自分自身が成さなければなりません。

魂の兄弟達(守護霊)は、心の内より人間に常に協力し、有意義な人生を送るための指導を惜しみません。

人間は、己の心こそ自分の偉大な指導者であることを忘れてはならないでしょう。

不調和な罪は、自分自身の理解の欠乏と知り、心の兄弟を始め多くの人々を傷つけることを知るべきです。

常に自身の心の内にある神性仏性を自覚をし、多くを行い学びとり、努力して心の調和、安らぎの生活を得なくてはならない。

生命は永遠のものである。

魂の世界は、死ぬことも生まれることもない。

この地球をふくめて、あの世においても私達の魂は変わることなく、久遠の世界に住んで学びを続けています。

永遠とは、未来のことではない。

今現在も、いつも、私達の生命である魂が永遠に生き続けて肉体の乗り継ぎをして行く輪廻をいいます。

この瞬間の行い、生活がすべてであり、瞬間の連続の先にあるのが未来というだけのことである。

ちょうど、羽田から飛行機でロサンゼルスに行き、自動車に乗り継いで目的地へ行くように、乗物は異なっても、乗っている人は変わっていないようなものです。

このように、私達の肉体も人生の学びのための乗り舟であることを悟るでしょう。

私達の肉体も、意識(魂)の霊的エネルギー粒子の集中された物にしかすぎません。

その支配者の霊こそ、自分自身なのであります。

この地球上の人類はこうした生命を受けて、神の体の一部である太陽系を始めとする広大な宇宙体の調和を計るためと、魂を磨く目的を持って、あの世、意識の世界を、その環境に適応した魂の乗り舟である肉体に乗って転生輪廻し続けているのである。

神仏はこのように人類に、子孫保存の本能を与えて魂の修行場を保存してくれています。

人類は、肉体の先祖が幾度か罪を犯した形で造った不平等な階級制度により、権力者を保護し、大衆を虐げてきました。

そのため大衆が反抗して闘争が生まれるという繰返しの不調和な歴史と社会を造ってきました。

さらに子孫繁栄と財産保全の独占欲が、人間本来の仏性、神性を失わせ、自らを物質経済主義の奴隷に追いこんでしまったのであります。

私達は、いまこそ自分自身をとりもどさなくてはならないでしょう。

自分の魂を、肉体にとらわれない自分自身の正しい意識をとりもどし、あらゆる物質的欲望の奴隷から解放しなくてはなりません。

私達の肉体の支配者であるあの世からきた不滅の魂、不変の意識、広大な心こそ本当の自分自身であることを知り、魂の兄弟姉妹こそ人生を渡って行く途上の心の友であり、指導者であることを知るべきです。

またいつの日か、私達があの世に帰ってから、魂の兄弟達がこの地上現象界へ肉体に乗って学びに出るときは、私達が今度は協力(守護霊・指導霊)をしなくてはなりません。

自分があの世に還って、ある程度の段階まで魂を昇華できれば、今度は自分が魂の兄弟姉妹のために守護霊となり、指導霊となってサポートしなくてはならないという意味です。

そのためにも私達は、この地上界で修行できる機会をより以上に生かして、正しい法則に沿った想念と行為の中で、多くの人々の心を救い、自分の心を浄化し、人生経験を豊かにする学びを心がけねばなりません。

それは行者が行っているような肉体的な煩悩を戒めるための肉体的苦行ではなく、哲学的な経文を祈るのみの宗教に縛られることでもない。

神理に気づいた自分の心に忠実な生活をすることが正しい人間の生き方なのです。

大宇宙を支配している神仏を始めとして、霊界以上の神界、菩薩界、如来界、宇宙界の大指導霊や光の天使達は、特定国家だけの応援者でもなく、協力者でもありません。

太陽の熱光のエネルギーは、特定国家にだけの特別な配慮などしません。

すべてに平等であります。

このことに謙虚に学ばなければなりません。

私達は、私達の努力によって、個人の単位、夫婦の単位、家族の単位、部落の単位、市町村の単位へと調和して行き、やがて一国家、隣国同士、世界に平和な文明を築き、調和につなげて行かねばならないでしょう。

隣国どうしで争っている場合ではありません。

いかなる巨大な物体も、小さい調和された原子の組み合わせによって構成されていることを思うべきであります。

極微単位の世界の調和が、極大単位の世界の調和を造り出していることを、忘れてはなりません。

この地上界の真の心の指導者は、あの世とこの世の支配者であり、大指導者であります。

釈尊ことゴーダマーシッタルダーや、イェスーキリスト、それにモーゼは、上上段階光の大指導霊であります。

そしてあの世において、そのような高いステージでは、約数百名ほどの上段階光の大指導霊(如来)がおられるでしょう。

そして、約2万人近くの上段階光の指導霊(菩薩)がおり、約一億数千万人の光の天使達が霊界上層階以上の世界にはおられるでしょう。

霊界、幽界の上段階の天使達は更に相当数におよび、秩序正しい生活を送っておられる。

この天使達によって、地球上の環境はある程度守護され、大難を小難に、小難を無にするべく守護しておられるようです。

地上界の神社仏閣に祀られている神様と称する者のほとんどは、大宇宙創造の神ではなく、この天使達が多い。

したがって、間違っても私達人間に神(god)が出ることはない。

神と名乗っていても、それは、人間の。上であって、天地創造唯一の神ではない。

仙界、天狗界、地獄界の動物霊達が、自ら神だと名乗るような、いたずらが多いこともあるから気を付けなくてはならない。

神罰、仏罰を与えるというような神仏を、信じてはなりません。

本物の神仏や光の天使達は、絶対に人間に罰を与えるというようなことはしない。

罰は、自分自身の不調和な想念と行為、不安や恐怖心が造り出したものであって、その原因は、神でもまた他人のせいでもありません。

すべて、自分自身にあるということを認識すべきであります。

あの世の光の天使達は、神仏と表裏一体で、心の調和がとれており、絶対に神だ、仏だといって人間を威圧するようなことはしない。

威圧して出てくる者は、100%人間に近いものか、それ以下の者達の仕業です。

光の天使が、地上界の人々の体を借りて出られる霊域は、非常に精妙で、その人の心は調和のとれた状態となり、絶対に謙虚で増上慢ではない。

語る言葉は神理であって、人々の心に調和のとれた安らぎを与える。

また光の天使達は、霊能者の心の調和度に比例して力を出すことができる。

次元の異なる意識の世界、あの世の世界から光の天使が霊能者の意識を支配すると、その力は、その人の地上界での表面意識(10%)を90%近くにしてしまいます。

のため、霊能者の心が調和され精妙化されて行くに従って偉大な力を発揮するようになる。

霊能者は、神理を悟り、毎日の生活自体を正しく生きるように勤めることが必要であります。

たとえ不調和な考えを持って生活をしても、即座に反省できるよう、心の制御装置を忘れてはなりません。

このように、毎日の正しい法則に適った生活をしている霊能者の力はより高度に発揮されることになっている。

だが、人間は聖人になる必要はない。

ただ神理に則して、他の諸現象に対して自己保存自我我欲の執着を持たない生活のできる人間になることが大切でしょうね。

そして物質文明の上に、偉大なる心の世界を築き上げること、より社会人類が調和されることによって、文明は急速に発展すると約束されるのである。

科学の力は、やがて宇宙空間に、人類の居住できる天体を発見し、地球以外にもよりすぐれた生物の生存していることを知るようになるでありましょう。

海洋へも科学の力は伸び、海底には人類が想像もつかないような古代の動物のいることを発見し、エネルギー革命によってこの海底にも生活できるように進歩していくことでしょう。

それまでに、地球には地中に埋蔵されていたエネルギー粒子の塊である硫化物や二酸化炭素が空中に放出されて、特定の公害が多発し、大きな社会問題に発展して行くのではないだろうか。

やがて、光のエネルギー、熱のエネルギーの応用や、電磁力の応用が発達して、科学は急速な発展を遂げると思われます。

また硫化物や一酸化炭素をはじめとして、生物に害を与えるような物質は、他に広く無害に応用されて行くであろう。

このように心を失った文明は公害をつくり、ますます人類に課せられた重要な問題点となり、その中和のために、人類の智恵は集中されることになる。

私達の魂の兄弟姉妹達は、魂の学びの場を一日もはやく人々の心の調和によって、完成することを待ち望んでいるのです。

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死直後の魂の浮遊

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火の玉

2011年3月11日14時46分に発生したM9.0の地震によって津波が発生し、多くの人たちが犠牲になった。

その詳細は次のようになっている。死者15,884人(宮城県9,537人、岩手県4,673人、福島県1,607人、茨城県24人、千葉県21人、東京都7人、栃木県4人、神奈川県4人、青森県3人、山形県2人、群馬県1人、北海道1人)、行方不明者2,633人。

特に震災直後は体調不良や精神不安で来院する人たちもいらっしゃいましたが、心療内科や精神科で投薬治療を受けているが改善できないという人たちも多かった。

いまは少し落ち着いてきているようですが、当時の被災地は非常に霊域がよくなかったのである。

私のところにおいでになる人たちの中にも霊障とは知らずに精神不安や体調不良に苦しんでいた人たちも多かったのです。

幽霊を見たという人が一気に増えた時期がありましたし、火の玉を見たという人たちもいました。

きょうは火の玉についてお話しをしましょう。

火の玉というのは実は光子体(霊体)のことです。

人間が死にますと、あの世の仕組みとして二十一日間は住んでいた家の棟などに自由にいることができることになっています。

この世に80年も90年も生活してきたのですから、いくらこの世に未練をもってはならないといわれてもそれくらいの自由は許されて当然と思います。

私の義兄が52歳で大腸ガンで亡くなる時も、3日まえに私のところに霊体で挨拶にきました。

友人、知人にお別れに行くこともあろうし、気にかかることもあるでしょう。

そんな時に、光子体、すなわち魂の姿で飛んで行きます。

あの世は時間、空間はなく、思えば即その状況になるという世界ですが、地上界には地上界の物理的法則があるのですから、火の玉が飛んで行くように見える場合があります。

この飛んで行く火の玉の色ですが、暗い灰色がかった玉や、青白い色の火の玉の場合は低い霊格の人、淡いゴールドカラーなら高い霊格の死者のものと言えます。

あの世の次元のものですから、壁があろうと障害物があろうがスーツと抜けて行きます。

壁があって立往生するようでしたら、火の玉(魂)ではありません。

この世の物理的なものです。

また、「暗い夜道の雨の降るときに、一人で車を走らせていると、女の人が立っていたので車に乗せたらいつの間にかいなくなっていた」などというミステリアスな話を聞きますが、これも幽霊の霊視です。

この世からあの世をみれば不思議な事ばかりですが、それは3次元と4次元の違いですから致し方在りません。

しかし、この世には不思議はありません。必ず理由、原因があります。

火の玉の話も、場所は夜道であったり墓地のそばがほとんどですが、道路なら交通事故現場付近、あるいは自殺、殺人、行き倒れの場合もあります。

墓地での火の玉現象は次のことが考えられます。

日本人はこれまで、死ねばお墓や仏壇の中に住むのだと、永い間に教えられてきました。そのためにお墓や仏壇が死後のすみかと信じてきた人は、本当にそこにいます。

現実に年老いた人がそのように「おらあ~死んだら、あの墓にいるからな」言っていることも聞きましたし、人の話しでも聞きました。

あの世は心のままの世界ですから、信じた人は本当にそうするのです。

これはお墓に、心の暗い霊がいたということであり、このような執着した霊のひき起こす現象ということです。

人間は死んだらあの世の天上界へ帰るのが正しいのですが、霊の中には地上の墓や仏壇や事故死、自殺などの死んだ場所をすみかとしている困った霊もいるのです。

死後のことに正しい知識や理解を持てない人の場合、このままでは、これからもずっと困った霊が増えていくことでしょう。

困った霊を一人でも少なくするには、あの世の霊をどうこうしようということ以前に、一人でも多くの人が正しい生き方、人間として知らなければならない原理・原則を学ぶ以外に道はありません。

病気を根本的に治癒させるためには、対処療法的な投薬治療に明けくれるのではなく、原因となる生活の見直し、執着しない心の調和された生き方をすることが原点になくてはならないでしょう。

「正しい生き方の法則」を学んだ人達が、地上界の生活を終えてあの世へ帰り、そしてまた、次の世代の人が地上界に出て「正しい法」を勉強する。

これを繰り返してゆく。

このようにして、地獄の足場を崩していく以外に道はないのです。

廻り道のようですが、コツコツと一歩一歩、これしかありません。

人間の習慣、生き方、ものの考え方を変えていくのは、決して容易ではありません。

でも、やらなければなりません。

私たちの一人ひとりが勇気を以って学び、実践することです。きょうから。

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心が調うと病気が少なくなるのは何故?

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前向きであったり、素直な心になれば、病気になりにくくなり、たとえなっても比較的直りやすくなるものですということを医療現場の看護師さんや師長さんからも聞いたことがあります。

入院患者が退院に到るまでの日数に差が生じるのは、同じような病気や怪我でも気持ちが前向きにある人の場合は、逆に悲観的であったり、ネガティブな思考にある人より回復が早いと言います。

全く同感です。

というのは、一つには素直な心になれば物事の実相、すなわち真実がわかりますから、いらざることに心を悩ませたり、いたずらに心配したり不安感におそわれるというようなことが少なくなるからです。

そのことがどれほど病気をしたときに大切な心構えであるかということなのでしょう。

多くの人たちが何らかの病気にかかったり、故障を生じていたりして、そのために日々苦しんだり、不便な思いをしている場合が少なくないと思います。

ところが、それらの病気や故障の中には、いわゆる精神面からきているものが相当に多いということも事実であり、否定しきれません。

これは精神アンバランスが招く、さまざまな事象が、私たちの身体に与える影響という点でどれほど大きな問題であるかということです。

つまり、仕事上の問題や対人関係の不調からくるストレスというものがつみ重なって、胃腸などの内臓を痛めたり、また人生上の悩みからノイローゼになったり、あるいは頭痛に苦しんだり、身体の特定部位が痛むというように、心の面、精神面からくる身体症状や病気というものがかなり多いわけです。

そういうことを考えてみますと、自分が素直な心(バランスのとれた心)を養い高めてゆくことによって、それらの身体症状が無くなり、病気にかかるということを随分と少なくしてゆけるのではないかと思います。

(Aさん50歳、主婦)気分がすぐれない、何かをしようとすると不安感でいっぱいになる、動悸もする、寝汗が出て気持ち悪い、身体も重いし気力が湧かないといって心療内科にいったら、看護師さんが記入表を差し出して該当する項目に記入してくださいといった。

Aさんが診察室に招かれ、開口一番、先生の言葉が「うつ病ですね。」三分程の先生の話のあと、「薬を処方しておきますからしばらくは服用して様子をみてください」と言われて帰宅した。

自宅に帰って薬を飲んだらこれまでにない症状がはっきりと表れて具合の悪さに恐怖感を覚えたという。

三日ほど服用してみたが一向に具合の悪さが治まらず服用をやめたら治まったとのことでしたが、以来、医師の対応と薬の副作用に疑問を持ち、心療内科にはいかなかったという。

Aさんはカウンセリングを求めて私の所に来院しました。

Aさんの日常生活を聞いたり、物事にたいする思考癖を確認したり、起きてもいないことに関して不安感をもつ癖がどこからくるのか心の深層を会話から探った。

失敗したらどうしよう、うまくいくだろうか、まわりは私をどう思っているだろうか、私にできるだろうか、等々、不要なことを延々と悩み、その渦の中に自ら入り込み苦しくなっているのだった。

Aさんの幼少の頃の家庭環境に話題をもっていくと目にいっぱいの涙を溢れさせた。

「あなたは生まれ育った家庭環境のなかで、あなたは親や周りの人たちにとがめられないように、いつも顔色をうかがいながら生きてきたのではありませんか?」と問いかけると彼女は一気に嗚咽したのです。

50歳になった今でも、人とのコミュニケーションがとても苦手で苦痛を感じ、人前で失敗したくない、まわりは私のことをどう思っているのだろう、などと自意識過剰にもなっていた。

結局、Aさんは自分で不安感をつくりだし、行動することに怯えていたのです。

幼少のころの悲しみや苦しさを理解し、受け止めてやることで彼女の心がほぐれはじめ心療内科で話せなかった心の内を話しだした。

心療内科、精神科における現状の対応は、患者さんの心の叫びを聞こうとしないというところに問題があると患者さんも不満を言い、そのような事実を限りないほど通院者からきいてきました。

しかし、なかには良心的な対応をしている医院もあるだろうが、残念ながらそのような声はあまり聞こえてこない。

先のさんの一時間半のカウンセリングが終わる頃にはすっかり日が暮れていたが、笑顔で「お陰さまで心が楽になりました」とお礼述べ、次回のカウンセリングの約束をして帰宅の途に就いた。

心身一如という言葉があります。

身も心も別ではなく、同時に存在し、心と身体は常に連動し、関連しあって一人の人間なのだという教えでしょう。

したがって、身体が病めば心が沈むものではあるが、心の持ちようによって身体も本来の機能を取り戻せるものだということもいえるのではないだろうか。

このことは私自身が死線をさ迷った経験から再起したことで確信がもてることであります。

さて、話しを戻しましょう。

お互いが素直な心になったならば、たとえどのような問題がおころうと、また自分がどういう立場におかれようと、そのことによっていたずらに心を悩ませるというようなことはなくなるだろうと思います。

それえは、なぜそのように悩まなくなるかといいますと、すでにくり返しのべておりますように、素直な心になれば物事の実相もわかり、物の道理も良くわかります。

たとえば自分の立場のみを中心にして物事を考えるとか、自分の感情や利害にとらわれて事を判断するようなことがありません。

しかもその心が高まっていけば、融通無碍(拘り、執着のない自由な心)の働きをすることもできるわけです。

したがって、自分の感情が満たされないために悩むとか、自分の利益が損なわれるから悩むとか、物事がうまくいかないから悩むなどといった姿は、あまりおこってこなくなるでしょう。

そしてつねに心は安らかに安定するだろうと思います。

そこにあるのはいつも感謝のみです。

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だから、心の面、精神面からくる病気というものは、お互いが素直な心を高めてゆくことによって、しだいに少なくしてゆくことができるのではないでしょうか。

また、そうした精神面からの病気ではない病気であっても、お互いが素直な心になればやはり少なくしてゆけるともいえるのではないでしょうか。

たとえば、素直な心になれば不規則な生活、不摂生な姿を続けるようなことも、これは体に良くないからしないようにしよう、というように気をつけて日々を過ごすでしょう。

つまり、暴飲暴食をさけるとか、いろいろな病気の予防に気をつかうようになると思うのです。

そこから、病気にかかるというリスクもおのずとより少なくなってゆくでしょう。

そうして、万が一『病気にかかってしまった場合でも、素直な心になれば、自分の病状がある程度自分でつかめるようにもなるでしょう。

だから、医者の指示もよくわかって、その治療の効果を高めるよう協力していくということもスムーズにできるのではないかと思うのです。

反対に、もしもその患者に素直な心が働いていなかったならば、大切な場面で医者の指示にも従おうとしなかったり、自分自身で間違った判断をしたり、みずから病気を重くするようなこともしかねないでしょう。

そういうことを考えてみますと、心のバランスを調えるということは、病気になりにくくなり、たとえなっても比較的直りやすくなるということがいえるのではないかと思います。

バランスのとれた心の効用というのは測り知れない好結果を生みだすものです。

次回は27日「火の玉の謎」について投稿予定しております。

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霊的ステージアップの条件・拘らない心・澄んだ心

こだわらない

いうまでもなく、社会は人と人との関わりのうえに成り立っています。

不思議と敵をつくる人がいますが、お互いが謙虚に素直な心になったならば、人からなにをいわれようと、また何事がおころうと、自らの心に、わだかまりや、拘りが残るということは比較的少なくなるものです。

例えば、子供の頃、冬の寒い日など窓ガラスに息を吹きかけて遊んでいました。

ふっと息を吹きかけると、外と家の中の温度差で、すき通った窓ガラスに白いくもりができますが、そこに絵を書いたり、字を書いたりしたものです。

白いくもりができると、向こう側かよく見えなくなります。

けれども、間もなくそのくもりはうすくなって、また元のすき通ったガラスにもどります。

そこでもう一度息を吹きかけますが、再びくもった窓ガラスは、すぐにまた元通りになるのです。

これは何度くり返しても同じことであって、自然の法則でもあります。

人間も素直な心になったならば、ちょうどこの窓ガラスと同じように、なにか拘りやわだかまりを持つようなことが身にふりかかったとしても、それがいつまでも心の中に残るようなことは少ないであろうと思うのです。

つまり、ごく短い間には、そのことが気にかかるかもしれませんが、すぐにそれは窓ガラスの白いくもりと同じように、自然に消えていくであろうと思います。

ということは、素直な心になるということは、私心なく真理というか正しいことにしたがうというところに基本の態度があり、そこに一つの大きな安心感がうまれます。

細かいことにくよくよせず、つねに前向きにものを考えるという姿勢が保たれているからではないでしょうか。

したがって、拘りという心の曇りは、いつまでもこだわりとならず、わだかまりもまた何時までもわだかまりとはならない、といような姿も生まれてくるということになってきます。

問題を抱えて苦しんでいる場合、必要以上にそのことに固執するが故に心が苦しくなるのであって、その固執、こだわりというのは実は、背景には自我心の強さという問題が潜んでいるものです。

自分の思うようにいかないことで人に対して感情的になることは相手の批判をかうことにもなり、中傷の的にもなり、敵対感情をつくることにもなるのですから余計に自分の立場を悪くしてしまいます。

こうした拘りやわだかまりは、個人個人だけの問題には限らず、集団と集団の間でも発生するものでしょう。

例えば、今日、世界の各地域でさまざまな紛争や戦争がくり返し行なわれていますが、そういう紛争、戦争が行なわれるたびに幾多の人命が失われ、人びとが傷ついています。

しかもそれが人類全体の平和を高めていく上でいろいろの障害をもたらしていることも事実です。

それらの紛争、戦争がなぜくり返しおこなわれているのかといえば、そこにはきわめて複雑な問題があるので軽々にはいえませんが、やはり一つには主義、主張の対立、思想の対立、宗教の対立、民主化運動や一党独裁主義の弊害等々、国内問題からはじめ、民族と民族の対立、争いであるとか、あるいは利害や勢力をめぐっての争いなど、さまざまな原因、様相というものがあります。

これは、ことばをかえていえば、民族や国家の間に拘りやわだかまりというものが生じて、それが高じて紛争、戦争に結びついているともいえるのではないかと思うのです。

もし仮に、そういう紛争、戦争をくり返している地域の人びとに謙虚で素直な心が十分に養われていたとしたならば、今日みられる姿は相当変わったものとなっていたのではないでしょうか。

それがどういう姿かはわかりませんが、しかし少なくとも今よりはずっと穏やかな、平和で好ましい姿ではないかという感じもするのです。

そういうことを考えてみても、謙虚で素直な心を養い高めてゆくことがいかに大事であるかが、おのずと明らかになってくるでしょう。

つまり、素直な心になれば、お互い人間の心の中にわだかまりやこだわりがいつまでも残るというようなことはなくなってゆき、いつも晴れ晴れと明るく澄み切った心持ちを保ってゆくこともできるようになれるということです。

そしてそれは、お互い個々人の生活、人生を明るく楽しくするにとどまらず、人間同士の集団、国家社会、共同生活全体を明朗にし、和やかなものとするでしょう。

素直な心になるということは、このように尊く、また非常に大事なことであると思うのです。

拘りを継続するということは執着になります。

執着ということは、物事を偏った思考で捉えているということです。

人間の心は、この偏った思考や拘りによって苦しみ、戦うことになるようにできていることがわかると思います。

人の心がわかるということは、実は自分の心に先のガラスのような曇りがないことで可能となってくるものです。

この曇りというのはご承知のように、拘り、執着、自我心、私心という言葉で表現されte

いるもののことです。

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精神医療・言葉を奪われた青年

私はこれまで、うつ病患者、パニック障害、発達障害、統合失調症、不登校、いじめにあった子供たちに接して相談を受けてきた。

そのなかでも、うつ病、パニック障害と診断されて向精神薬を多種、多量に服用していた人たちと話し合い、減薬から断薬までアドバイスして自分を取り戻した人たちがいます。

もう20年以上も前からこのことを奨めてきましたが、現在もこの姿勢は変わりません。

きょうは、精神医療ルネサンスからの転載でドキュメントをアップしましたが、皆様にも精神医療現場の実態とその問題、間違いを知っていただければと思うところです。

 

以下。

20121125

「精神医療ルネサンス・言葉を奪われた青年」から転載させていただきました。

治療するたび状態悪化 2012年10月30日、関東地方の大学病院。精神科病棟に入院中のタクヤさん(仮名)と対面した時、私はここ数年の精神科取材で何度も体験した憤りとやり切れなさに再び襲われた。

タクヤさんは26歳。言葉を話せない。先天的な障害ではなく、深刻な頭部外傷を負ったわけでもない。

以前は家族や友人ともふつうに話していた。

精神科病院で「統合失調症」と診断され、多剤大量投薬と電気ショック(電気けいれん療法)23回を受けるまでは。

2008年暮れ、私は朝刊連載・医療ルネサンスで統合失調症の深刻な誤診問題を取り上げた。

以来、精神科で治療を受ければ受けるほど、状態が悪化した若者たちを数多く取材した。

なぜこんなことになるのか。主治医たちの言い分は決まっている。

「統合失調症が進み、重症化した」。すべて「患者の症状」のせいなのだ。

こうした主治医が、自らの診断や治療を見直すことはない。

患者や家族が疑問をぶつけると、意地になって自分の方針に固執したり、逆切れや開き直りを始めたりする。

そして最後は、こうオチをつける。「嫌なら出て行け!」

精神科の無責任でいいかげんな「治療」が、重度の障害者を次々と作り出しているのではないか。

そうした疑念は強まるばかりだ。

そしてまた、タクヤさんという新たなケースに出会ってしまった。

タクヤさんは病棟スタッフに連れられ、面会室に歩いてやって来た。

年齢よりも幼く見えるかわいらしい顔立ちで、やさしい目をしている。

身長はすらりと高く、健康に暮らせば女性にもてるタイプだろう。だが今は、左の鼻の穴に挿入された管が痛々しい。

もうずっと食事を摂れず、鼻から栄養を補給しているのだ。

長期服薬の影響で、肩や首が前傾気味になっている。

タクヤさん(仮名)は幼少期、体が弱く、よく熱を出していた。

「上の2人の子と比べるとあまり笑わず、いつも不安そうな顔をしていた」と母親は振り返る。

言葉の発育が遅れ気味で、カ行がうまく言えず、「ばか」が「ばた」になったり、「ぼく」が「ぼち」になったりした。

1人遊びが多く、同世代の子どもの輪に加わろうとはしなかった。5歳の時、自分から「サッカーやりたい」と言い出し、チームに入った。

「急に生き生きとし始めて、練習から帰って来ると顔が輝いていた。

試合でも楽しそうに動き回っていました。やっと子どもらしくなったと感じて、私もうれしかった」。

ところが8歳の時、コーチが替わって勝つことが優先されるようになると、状況が一変した。

タクヤさんはコーチに期待され、厳しい指導を受けるようになった。

ある試合中、コーチはタクヤさんに次々と指示を飛ばした。

タクヤさんは急に動けなくなり、しばらくその場に立ちすくんだ。

「もうやめたい」。度々漏らすようになったが、サッカーを通して成長することを期待した父親が引き留めた。

だが、試合前になると体調不良を訴えることが増え、練習でも生き生きとした表情が消えた。10歳でサッカーをやめた。

「クラスの人たちがこそこそ悪口を言っている気がする」。そう言い始めたのは14歳の時。

親しい友人が家に来ても居留守をつかった。

いじめられていたわけではなく、「僕、頭がおかしくなっちゃったのかな」と自分でも不思議がった。

少しすると被害妄想的な言動は消えたが、今度は宿題を一切やらなくなった。

高校受験を控えた三者面談。担任教諭は「入れる高校がない。宿題がずっと滞っているから内申点が足りない」と告げた。

その晩、タクヤさんは自宅のイスに座ったまま長時間動かなくなった。

翌日以降も中学は休まず通ったが、帰宅するとイスに座りっぱなしになったり、1点を見詰めたまま立ち続けたりするようになった。

食事をほとんど摂らなくなり、1か月で体重が15キロ減った。

小児科に3週間入院し、点滴で栄養を補いながら少しずつ食べる練習をした。

手を何時間も洗い続ける、深夜に泣きながら家中を歩き回る、服を脱いだり着たりを繰り返す、布団に入ったり出たりを繰り返す、シャワーを何時間も浴び続ける……。

決まった動作を繰り返す常同行動が顕著になった。

常同行動は、精神科では統合失調症の一症状などとして扱われてきたが、自閉症の人にも現れやすく、知的障害のないアスペルガー障害(アスペルガー症候群)の人が、強いストレス下で同様の状態に陥ることも知られるようになった

だが、発達障害の知識を持つ精神科医は依然として少なく、子どもの常同行動をすぐに「(初期や前駆段階の)統合失調症」と決めつけ、対応を誤るケースが後を絶たない。

タクヤさんの常同行動は、母親たちが体を押さえても止まらなかった。

一晩中、体力が尽きるまで家の中を歩き続けたり、立ち続けたりした。

心配した母親は、15歳のタクヤさんを精神科病院に連れて行った。即入院になった。

被害妄想や幻聴は表れていなかったが、主治医は「幻聴は間違いなくある。幻聴から脅されていて言えないんだ」と、まさに精神科医らしい妄想的、ご都合主義的な決めつけをし、「統合失調症」と診断した。

さらに主治医は「肉親に会うと帰りたがるので、しばらく面会に来ないでください」と母親に伝えた。

1か月後、2分間だけ面会が許された。タクヤさんは保護室で全身を拘束され、導尿もされてベッドに横たわっていた。

母親の顔を見るなり泣き叫んだ。

「これは虐待ではないか」。母親がそう感じたのも無理はない。

タクヤさんは自分や他人を傷つけたわけではなく、同じ行動を家で繰り返していただけなのだ。

主治医は、常同行動が起こった背景には無関心で、ただ動きを強制的に止めるため、体の自由を奪って導尿まで行った。

こころを扱う精神科でありながら、思春期の複雑なこころには目を向けず、ズタズタに切り裂いたのだ。

「今すぐ退院させたい」。母親は焦ったが、自宅に連れ帰っても、また常同行動を繰り返す可能性が高い息子にきちんと対応できる自信はなかった。

ほかに相談するあてもなく、結局は病院を信じるしかなかった。

2012年夏、大学病院に再入院した。

主治医と共にタクヤさんを診ることになった精神科教授は「統合失調症なのか発達障害なのか、判断がたいへん難しいケースだが、薬は可能な限り少なくしていきたい」と話す。

同病院では、抗精神病薬のエビリファイとリスパダール、抗うつ薬のパキシルなどを使ってきたが、11月に入り、リスパダールの減薬を始めている。

長年にわたり相当量の薬が投与され続けたため、減薬中に症状が強まる恐れもあるが、単純に「症状悪化」と決めつけず、薬をうまく使い分けながら慎重に判断する必要がある。

減薬が順調に進み、状態が安定すれば「言葉が戻る可能性はある」と精神科教授はみる。

タクヤさんは一体何病なのか。専門家でも意見が分かれるだろうが、重症に至った原因を「病気の進行」だけで片づけてはならない。

ここまで悪くなったのは、不適切な治療が原因ではないか、そうした検証が欠かせない。

1種類の使用が原則の抗精神病薬が5種類、依存性のあるベンゾ系薬剤が3種類、そして薬の副作用として現れるパーキンソン症状を抑える薬が3種類……。

これは患者を治すためではなく、潰すための投薬ではないのか。

日本の精神医療の異常さに、身の毛がよだつ。

2週間後、二度目の面会時には拘束は解かれていた。だが代わりに、鎮静目的で多量の向精神薬が投与されていた。

タクヤさんの首は激しく前傾し、顎が胸についていた。

両腕が震え、何かを持とうとしてもつかめない。

両脇を支えないと立てず、すり足で歩幅が小さい小刻み歩行になっていた。

ヨダレがダラダラと流れ落ちる口を必死に動かし、同じ言葉を繰り返した。

「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」

壮絶なドキュメント

個人的には、記事をみる限りはどうみても医学的には発達障害で、どのへんが統合失調症なのか疑問ですが、時折統合失調症に特徴的な症状が前景に出ず全体的にレベルダウンする場合もあるので何とも言えません。

常同行為(同じことを繰り返す)やカタトニア(緊張症)などがあるところからは発達障害っぽいですが、しかし現実的には、統合失調症なのか発達障害なのか分からないケースがホントに多いので、注意は必要です。

それほどまでに、発達障害への理解が進んできたとも言えますし、統合失調症を早期に発見できるようになったとも言えます。

ただ大事なことは何かというと、前医の診断を鵜呑みにしないこと、これに尽きるでしょう。

薬が入ってしまうと著明な症状は出ないので、悩ましいところではありますが、前医からもらうのは詳細な情報だけでいいんじゃないかと思うのです。

確かに精神科医というのは往々にしてそれぞれに得意分野があって、それに応じた対応をしてしまいがちです。

一時的にでも薬が必要なのに心理療法で何とかしようとしたり、逆に心理療法だけで何とかなるのに薬だけでどうにかしてしまおうとしたり。

体重が65キロの30代男性と同じように体重が40キロに満たない老人にも同じ多種類、多量の処方箋をだして、食事の量ほどの薬の量によって一気に症状が悪化して体がブルブルと震えるといったケースを何度もみてきている。

医学的には震顫(しんせん)と表現されますが、その震えを抑制するためにまた更に薬が追加されるという悪循環がある。

つまり、薬の副作用を抑えるための薬を服用させるといういたちごっこが繰り返されるのです。

診断も同様で、能力のない精神科医が開業していて、適当な診察で診断を下してしまうと、何だか分からなくなってしまい、事の本質を見失い、その診断名だけが一人歩きしてしまうと最悪です。

この症例も普通に考えれば、まず疑うべきは発達障害であって、むしろ統合失調症が隠されている可能性を考えて、少しでも手がかりをみつけようと詳細を聞いてから、抗精神病薬の投与を検討するのが妥当ではないでしょうか。

ただ、この記事と逆に、間違いなく統合失調症の診断が下り、薬が必要な症例であっても、親が抗精神病薬の投与に同意せず、悲惨な進行を遂げる統合失調症の症例もあるので、その点は悩ましいところです。

医師も親との話し合いをしっかりするべきなのでしょう。

慢心せずに謙虚に素直に学ぶ姿勢は、人間にとって、医師にとっても生涯において必要なことと思うところです。

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感情の調え方・自己訓練とステージアップ

瞑想

Saori様のコメント 2014年10月17日

お忙しい中、丁寧にご返答頂きましてありがとうございます!

大変勉強になりました!

あと、謙虚な心と受け止めてくださった事も恐縮です。

今私は32歳なのですが、最近1つステップを上がった感じはあります。

というのも、あまり何事に動じなくなりましたし、霊的なものや未知のものに対する恐怖心が無くなった事などがあります。

感情の整え方も自分流ですが、得ることが出来ました。

私は娘と2人で暮らしている為、仕事に家事、子育てと忙しく、イライラと感情的になる事もあります。

そんな時は深呼吸して、空気の匂い、風、空、、と徐々に意識を広いものに向けていき、地球、宇宙まで広げていくと、不意に自分から感情が切り離されるような感覚がして、自分が宇宙の一部分に溶け込んだような気持ちになります。

この感覚から戻ると周りのもの全てが尊く思えて、自分個人の感情なんてどうでもよく思えます。

そしてすごく穏やかな気分になります。 ちょっと変な気分転換ですよね…

もし能力を駆使出来るようになった時、このような方法で心を整えるのは有効ですか?

子どもの頃から宇宙に思いを巡らす事が多くて、その時には意識と体が別のような感覚もあり、子供ながらに妙な感覚だったのを覚えています。

すみません、少し話が逸れました。

もし何か人のお役に立てるのであれば、グレードアップしたいですが、指導出来る方というのをどのように探したら良いのかわかりませんし、指導を仰ぐのにどのように依頼すれば良いのでしょうか? 質問ばかりで申し訳ありません。

教えて頂いた浄化の方法を仕事中と先程もやってみました。

すると首の後ろの付け根部分から後頭部にかけてがゾワゾワっとしました。

これで良いのでしょうか…ちなみに今日はまだ一度も耳なりはしていません。

効果が出ているのかもしれませんね! 実は私も頭痛がひどく、めまいもよくします。

低血圧のせいだと思っていましたが、違う要因もあるのかもしれませんね…

浄化しなくても邪気を寄せ付けないくらいになれたらいいですが… よほど調和がとれていないといけないのでしょうね。

でもこの前世から引き継いだ見える力は、今世で頑張って磨いて来世にバトンタッチしたいですね。

毎度長文失礼致しました。

 

返信

子育てに頑張っていらっしゃるようす、とても感心して拝見しました。

何かとご苦労もありましょうが喜びもあります。

子は親の宝、国の宝、人類の宝です。

子どもは親や先生の言うようにはなりませんが、親や先生がしたようになるといいます。これもまた道理でしょう。

それだけに子育ては難しいものですが、穏やかな心で接していきたいものですね。

本当の意味で感情的にならない、動じないというのは、決して頑なになることではなく、偏らない心で生きると言うことです。

さて、霊的なことや、未知のことに対して恐怖心をもつ人は意外と多いのですが、それが無くなったというのは一つの進歩かと思います。

感情の整え方も自己流とはおっしゃいますが、「深呼吸して、空気の匂い、風、空、と徐々に意識を広いものに向けていき、地球、宇宙まで広げていくと、不意に自分から感情が切り離されるような感覚がして、自分が宇宙の一部分に溶け込んだような気持ちになります。 この感覚から戻ると周りのもの全てが尊く思えて、自分個人の感情なんてどうでもよく思えます。そしてすごく穏やかな気分になります。」という内容をみますと、とてもよく調和の仕方を無駄なく、真髄を突いていてとても感心しております。

変な気分転換どころか、有効な方法と思いますのでこのまま続けてほしいと願うところであります。

宇宙に思いを巡らしますと、その集中度によって、あるいは統一状態によって、身体と意識が別次元であることに気づき始めます。

既に子どもの頃にそういった体感を得ているのですから、そのことは大切にされたほうがいいですね。

私がお伝えした「自己浄化」によって「首の後ろの付け根部分から後頭部にかけてゾワゾワっとしました。」ということ。

これでいいのです。これが浄化されていく過程で起こる身体の反応なのです。

頭痛は霊霊的なものの感受反応、邪気、マイナスエネルギーの感受反応によっても発症します。

勿論、めまいもそれが関係して発症する場合が多々あります。

前回申し上げたように、目眩の原因は、頸椎の捻じれが相当影響します。

それに併せて低血圧となりますと条件がそろうことになりますね。

人間は肉体をもって生きている以上、ある程度は邪気を被ることも致し方ない事です。

ただ、そのこと(感受反応)を自覚しているか否かの違いでしかありません。

どのような賢者、達人であっても食事の不摂生をすれば病気をするように、かかる邪気は浄化してクリーンにしておくことが必要でしょう。

火事場では消防士が防護服を着て活動しますが、それでも火の粉や灰を被り、煙を吸うことになります。

霊的な現象もこのことによく似ていまして、どのような場面でも、人との接触でも霊的な関わりの中で生活しているということです。

自分の能力を更にステップアップしていくとなりますと、一般的には霊能者という人たちや、ヨガではグルの指導を仰ぐということになるのですが、先ず有料でしょう。

当然と言えばそれまでのことですが、お金を支払ったから学習内容が正しいものとは言い切れませんし、下手をすると危険であったり、悪質なリスクも伴います。

こういったジャンルで正しい指導者を探すことは、正直もうしあげてかなり難しいと思います。

こういってしまっては絶望的なお話しにしかなりませんね。

直接、師のところに通って教えを受けられたらそれはそれで望ましいことですが、必ずしもそうでなくても学びは可能です。

遠く離れていても指示を受けたことを実践し、その様子、変化を報告し、さらにアドバイスを頂きながら実践すればよいのですから。

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自己浄化の方法

心の光

saori のコメント:  2014年10月14日

早速のご返答ありがとうございます。

なるほど、と納得する気持ちと、やはり見えるものなんだ、という安堵感の入り混じった気持ちです。

私は妬みも怒りも欲もありますので、心がキレイという自覚はありませんでしたが、日頃から何となく自分は幸せだなぁと思う能天気な心持ちがよかったのでしょうか…

コメントを入れてから思い出したのですが、この煙のようなものは幼少の頃から見えていました。

当時は、電波が見える!と親に言っていた記憶があります。それをつい忘れていたようです。

私は昔から、たまに不思議な物を目にしていて(例えば高校生の頃シャボン玉ようなの光の玉の中に何かシルエットが見えて、妖精だと思った)、でも人に言うと変人扱いされそうで黙っていたのでモヤモヤしていました。

なので、こうして観童様がごく当たり前の様に受け止めてくださる事だけでも心がスッキリしました。

生命磁気は癒やしの力もあるのですね!
ただ見えるだけなら特に役にも立たないな、と思っていましたので…

母が偏頭痛持ちでしょっちゅう薬を飲んでいるので、頭痛を和らげる効果があるなら訓練してみたいな、と思いましたが…

そういった訓練はやはり1人では難しいのでしょうか?

あと関係ないかもしれませんが、生命磁気が見えるようになった頃くらいから、頻繁に耳なりがします。かなり高音でピーーーという音です。

特に不快ではないので、また聞こえるな、程度なんですが、それ以前は耳なりなんて殆ど聞こえた事がなかった為、何か関係があるのかなー?と少し気になりました。

耳なりと生命磁気が見えるようになった事、これは特に関係ありませんか?

お礼のコメントのつもりが、何点か質問する事になってしまいました。
申し分ありませんが、またお時間の許す時で結構ですので、ご返答頂ければと思います。

質問にお答えします。

「私は妬みも怒りも欲もありますので・・・・・」とおっしゃいましたが。

本当に妬みや怒りの渦中にある人はこういうふうに自分を省みる余裕などないものです。

Saori様の場合はご自分をよく見ておられますから、上記の言葉は謙虚なあなたのお心と受け止めております。

その証拠に「自分は幸せだなあと思う」といっておられることが何よりの証明でしょう。

幼少のころから見えていたということ、「電波が見える」と親御さんに話していたこと。とても愛らしく子どらしい表現ですね。

一般的に見えないものが見えるというようなことをいうと、大概は「おかしな子だね」と一笑に伏されてしまうことが多いようです。

何もおかしなことではありません。このような現象は様々な言葉に表現されます。

大事なことは、このような現象をどう表現するかではなく、そのような能力をどう受け止めるかということではないでしょうか。

こういうことは通常は望んで簡単に得られる能力ではありませんし、能力だけを望んで訓練(修行)することは心を不調和にする可能性が多く、とても危険を伴うことでもあります。

それだけにこういった能力は、日頃不調和な心にならないように努め、活かしていければそれはまたそれで尊い事でしょう。

実際には能力の高低はあるのですが、いずれにしてもその能力をどのように使わせていただくか、どのような心で使うのかが重要かと思うのです。

仮に、この能力を駆使できるようになった場合でも、一番気を付けなければならないことは、慢心しないこと、増上慢にならないことでしょうか。

何故なら、人間は他人がもっていない物や能力を身につけるとどうしても有頂天になりやすく慢心するものだからです。

シャボン玉のような球体が見えるというのは不思議な現象ではありますが、実は不思議なことではありません。

四次元以上の世界には厳然として存在していることであり、ただ、その存在が見えるというのは一般的でないというだけのことです。

それでは、耳鳴りの件ついてお話しいたしましょう。

身体に起因するという点からすれば、首の凝り、頸椎の捻じれなどが考えられます。

これは実際に耳鳴りの患者さんを診て施術してよくなった数多くの事例からいえることです。

特に頸椎の捻じれは頸部全体の靭帯や筋肉に負荷がかかる原因となりますから正しておくほうがいいです。

自分でほぐせる方法もありますが、首の凝りは血流を悪くし、耳鳴りの原因ともなります。

もうひとつ、霊的な視点から耳鳴りを検証しますと、マイナスエネルギーをたくさん体に被った場合に発生しやすいです。

どういったときに被るかというと、人混みの中、ショッピングセンター、スーパー、学校、病院、福祉施設、不調和な人と会った後、重篤な病気を抱えている人に会った後、霊的次元の低いスポット、などに出向いたときなど。

しかし、被ったことを自覚できるかできないかはこれまた個人差があり、体質にもよりますし、魂が過去世において、霊的な事に関して学びを経験しているかどうかによっても差異がでてきます。

そういった意味では、あなたの「高音でピ~~ッ」という耳鳴りと生命磁気が見えるようになったこと、つまり霊的なことは無縁ではないでしょう。

ここでいうマイナスエネルギーとは、邪気のことであり、人の発するネガティブ波動のエネルギーであり、未成仏霊の波動のことであり、汚染された低い霊域(場所)の波動のことです。

こういったマイナスエネルギーを被ったままであったり、蓄積しますと体が重くなったり、頭痛がしたり、人によっては軽いめまいになったり、あるいは動悸がしたり、気持ちが落ち着かなくてイライラしたりすることもあります。

こういったマイナスエネルギー(波動の低い霊的な存在)は体に留めておかないほうがいいですから、その為の方法として、自己浄化が有効ですからお勧め致しますから参考になさってお試しください。

 

霊体

『不調時の対処・自己浄化法』

心で、黄金色に光り輝く大きな球体に包まれているとイメージし、大体2~3分から5分前後をめやすに、手のひらで胸をポンポンポンと叩きます。

この時に、深く、ゆっくりと、吸う息より吐くを長めにしてやることがポイントです。

例えば、3で吸ったら、6で吐くというようにです。

体から邪気が抜けるときには、あくびが出たり、涙が出たり、人によっては咳が出たり、悪寒が走ったり、げっぷが出たりします。(個人差はあります)

なぜ手のひらで胸をポンポンと叩くのかですが、ご存知のように、特に手のひらからは生命磁気、すなわちエネルギーが放射されていますから、そのエネルギーによって胸部を刺激することで体全体の霊体に刺激を与えることになり、そのことが、肉体にも程よいバイブレーション(波動)を与えて邪気の昇華につながるという仕組みです。

とてもシンプルなやり方ですが、この方法でかなり身体が楽になります。

お風呂に塩を入れたり、シャワーを浴びたり、ハーブを利用したり、部屋にお香を焚いたり、あるいは真言を唱えると言う方もいますが、それはそれで有効であれば問題としません。

私のやり方は何もなくても身一つで、いつでも、どこでもできるという便利さと、効果がとても大きいことが確認できていますから私には欠かせない方法となっています。

この自己浄化は応急処置のようなものですが、しかし自己浄化の条件としては、心の調和を図ることがとても大事です。

除霊ではなく浄化と理解していただければと思います。

できればお母様が頭痛で苦しんでいるときに片方の手のひらを頭頂部にかざして、もう一方の手のひらは首の後ろに数分間かざしてみてください。

もしくは首をマッサージしてあげると頭痛は改善できます。

浄化もマッサージもそれが終了して5分から10分もすれば頭痛が軽くなるか消失しているかと思います。

自分にも他人に与えるにも、浄化エネルギー(光)を最大限いただくには自分の心に、先への不安や、過去の出来事に対する拘り、物事に対する不満や愚痴や怒りや嫉妬、そねみ、わがままから日頃の生活で荒い言葉使いがなく穏やかに調和されていることが大切です。

人により浄化能力の差があるのは、自身の心の調和度の差と理解していただければと思います。

あなたが見えるようになったのは魂レベルでの背景があることで、それは過去世での人生も関係していることです。

決して今世だけでそのように見えるようになったのではないでしょう。

できれば、いまあなたが持ち得ている能力をグレードアップして何かしらのかたちで人のお役に立てることができるならばとは思いますがどうでしょうか。

その為にひとりで訓練することも可能です。

但し、それを指導できる人の協力を得ながらというのがいいと思います。

ご質問への答えになったでしょうか?

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生命磁気(オーラ)について

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Saori

2014年10月12日 コメント

いつも心に染み入るブログを書いてくださってありがとうございます。

せわしなく過ぎていく日々の中で、こちらのブログをのぞくと、ふと立ち止まり深呼吸したくなるような気持ちになります。

さて、この度コメントを入れさせて頂いたのは、ブログの中に出てきた「生命磁気」についてお伺いしたかったからです。

個人的な素朴な質問なので、お忙しい中大変恐縮ではあるのですが、お時間が出来た時で構いませんので教えて頂きたいのです。

どういった事かと申しますと、 仕事中にふとパソコンの画面のふちから、透明の煙みたいな何かが放出されているのが見えたのです。

そして視線を移すと自分の手からも同じものが出ているのが見えました。 驚いて手をよく見てみますと、特に指先から強く出ていました。

まるで水の中に砂糖を溶かしている時のような、透明の揺らぎが煙のように、シュワーっと指先から出ているのです。

一度見えてからは少し意識を集中して、普段とは違う目の使い方をすると見えるようになりました。

今の所見えたものはパソコン、自分の手です。

これは何なのか、と考えていました。

目の錯覚か何かなのでしょうか?

でも何でも見えるわけでもないようなのです。

自分では磁気か何かなのかな、と思っていたので、ブログに「生命磁気」という言葉が出たとき、もしや、と思いました。

ただ私はとくに心がキレイだとも思いませんし、パソコンからも出ているなら「生命磁気」ではなさそうですよね。

何かおわかりになりますでしょうか?

すいません、家族に言ってもあまり取り合ってもらえないですし、聞けるような人がいないものですから、質問させて頂きました。

 

Saori様。ブログの訪問をありがとうございます。

そしてコメントくださいましてありがとうございます。

ご質問の「生命磁気」について私の経験からお話しをさせていただきます。

ブログで生命磁気という表現をしましたのは、科学的な表現をするほうが現実的で、理解しやすいのかなと考えたからです。

別な表現をしたら全く別なことをいっているということではないと思います。

例えば、「気」、「生命エネルギー」、「オーラ」、「プラーナ」、「霊気」等々、これらは根本的にまったく異なったことを表現している言葉だとは思っておりません。

何故なら、宇宙エネルギーと私たち個人のエネルギーはマクロとミクロの違いというだけで、実は非常に深いつながり、関連のなかで同時存在しているからです。

ですが、その詳細についてはとりあえず割愛させていただきます。

あなたの手、指、手のひらから発するという「水の中に砂糖を溶かしている時のような、透明の揺らぎが煙のように、シュワーっと指先から出ているのです。」このことは良くわかります。

私自身もそのような現象は確認できているからです。

このようなエネルギーをとりあえず、三つに分けておきましょう。

一つは、あなたの肉体から発するエネルギー

二つは、あなたの霊体から発するエネルギー

と言うようにです。

肉体から発するエネルギーは次元的には高くはないのですが、霊体から発するエネルギーは肉体次元より高次なエネルギーと理解してよいでしょう。

そして、三つ目は、心から発するエネルギーは、霊体より更に高次なエネルギーとして自分の身体から大きく円を描くように発しております。

霊体から発するものと、心から発するエネルギーは、あなたの意思である程度操作できるようになります。

ただ、そのためにはある程度の訓練が必要ですが、できてくると指先から、より大きく、より長く放射されるようになれます。

これが出来るようになりますと、他人の軽い頭痛ぐらいなら癒せるようになります。

訓練法や利用法はいろいろあります。

手の生命磁気(オーラ)を見るには視線をその対象(手、指)に合わせるのではなく、ピントを少しずらせば見やすいでしょう。

慣れてくるとそれほど意識しなくても見えるようになってきますがこのこと自体は特に不思議なことではありません。

誰にでも生命磁気があるのであり、見えるか見えないだけのことです。

こういったことは実は、3次元的な視力とは少し異なっていて、どちらかというと4次元的な視力といえると思います。

何故かといいますと、見える人と、見えない人がいるからです。

3次元的な現象であれば誰にでも視力の一定以上のある人であれば見えるはずです。

心がキレイではないおっしゃいましたが、そのようにいうほどあなたは汚れているわけではないでしょうし、実際はあなたが思うより、あなた自身は心が調和できていて豊かな方だと思います。

パソコンがそのように見えるというのは、あなたの生命磁気が手を介してパソコンに触れることで一時的に伝播しただけで、電気的な原因によるものではないと思います。

磁石にくぎをくっつけておくと磁気が釘に移って弱いですが一時期、磁石になることに似ています。

基本的には動物、植物はこの生命磁気が確認しやすいでしょう。

実際には鉱物もそのように見えるものもありますが、鉱物の種類によってその差は大きいものです。

大体のところを大まかですが述べてみました。

理解できない点については御質問いただければできるだけお答えさせていただきます。

観童

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親でも、縁者でも、死からすくえない

「親子でも、縁者でも、その死から護れない」

生を明らかにし、死を明らかにすることは、人として生きるには必要欠かざる一大事だと思うのですがどうでしょうか。

「明らかにする」ということは、いわゆる断念の諦めるではなく、明らかに見る、確認することです。

人生ということについて真剣に考える人々にとっては、生とは、死とは何か、をよく明らかにして安らぎの心を知ることがもっとも大切になってくるはずです。

「生きがい」ということについてよく論じられますが、生死の意味を、正しく明らかにすることによってこそ、はじめて生きがいの根源となるのではなかろうか。

私の母は5歳の男子を木の実の食べ過ぎという事故で失っています。終戦間際のことですが、長男が生きておれば今の私はおそらく母の子としては今生、この世に生まれていなかったことでしょう。

ちょうど可愛い盛りのこどもを失った悲しみは測り知れないものであったはずです。

幼い息子の死は、この世的な考えでいうならば、親を選ぶ自由のない子と、子を選ぶ自由のない親との不思議な出会いの縁をかみしめる暇もなかったでありましょう。

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眼から鱗(うろこ)

ここで古代インドの話しをします。

キサーゴータミーは貧しくて若い母です。不幸にも、彼女は夫に先立たれ、ついで愛児を亡くします。

喪心した彼女は、医師に、「先生、必要なものは何でもさしあげます。どうぞ、この子を生き返らせる薬をください」と頼みます。

医師は、気の毒そうに、「死とは、細胞の新陳代謝がとまることである。人間なら、その生活機能が完全に、永久に停止したことである。気の毒だが、この子の呼吸も心臓の鼓動も止んだ。瞳孔もひらいて光線への反応がない。蘇生は不可能だ」と説明します。

彼女は、もとより医師ほど、死についての正確な知識はありません。

しかし、死んだ愛児が蘇生できないことは、よく知っているのです。

自分でわかりきっている解答ほど、いくら他から説明されても、腹の中までは納得しにくいものです。

わかっていて、実は心の底に落ちていないから苦しいのです。

というと、矛盾のようですが、その事例は相談事例としていくつもあります。

学問や道理で、いわゆる知識として理解できても、心の底までストンと落ち着く知恵になっていないのが、苦のゆえんです。

それには自ら開眼をしなければなりません。

そのためには、苦の問題を大切に持ちつづけ、自分自身で温めるのです。

すると、何かが機縁になって、うん。と合点できるときがやってきます。

これを、古人は「眼の鱗が落ちた」といいます。

眼中のゴミが、拭きとれたように、こころの目がひらくのです。

わかっていながら、わからない悲しみ

彼女は、目の鱗か落ちぬままに、次に哲学者を訪ねます。

哲学者は彼女のあせりを感じて、手短かに、 「よく聞きなさい。人は、生まれ、そして死ぬ存在だ。大王でも大富豪でも、この法則から逃れられないのだ」と説きます。

それも、彼女は百も承知です。承知していて、しかも承知できないから悲しいのです。

私にも両親を亡くした経験があり、可愛がってもらった叔母を亡くした経験、兄弟のように仲の良かった従弟をガンで亡くした経験があり、言葉にできない悲しみを体験しました。

ですから若いお母さんであるキサーゴータミーのうろたえを笑えません。

彼女は、人にすすめられて釈尊に問います。

彼女は、悲しみの極致にありながらも涙も枯れ果てて出ません。

彼女の愚痴に近い素朴な嘆きの訴えに対して、釈尊は何の説法もしません。

深くうなずくと、「ゴータミーよ、街に出て、どの家でもいいから、芥子(けし)の種を一粒づつもらっておいで。そしたら、その願いが適えられよう」と。

古代インドでは、どの家でも芥子の種が貯蔵されていたそうです。

現代で言う常備薬のようなものでしょうか。鎮痛効果や不眠、精神を落ち着かせるときに頓服的に用いたのでしょう。

芥子にも種類がたくさんあり、麻薬を製造できることからすれば当時の芥子の種を貯蔵する意図が生活の知恵であったと理解できます。

釈尊にそういわれた彼女はいそいそと街へ出かけます。

その後ろ姿を、釈尊のしずかな言葉が追いかけます。

「まだ一人の死者も送り出さぬ家に限るのだよ」と。

彼女の乞うままに、どこの家でも誰もが快よく芥子の種を出してくれます。

しかし、葬式を出さない家も一軒もありませんし、どこの家を訪ねても必ず死者が出た家ばかりでした。

この事実を体験してはじめて、キサーゴータミーは眼の鱗が落ちたのです。

鱗が落ちたら、新しい涙が乾いたはずの眼にあふれます。

冷たい、すでに色変じた愛児の骸を抱いたまま、彼女は釈尊の前に崩れるようにうずくまると、ただ一言「わかりました!」と、激しく嗚咽するのでした。

修行僧たちの誰もが涙を誘われ、若いお母さんの姿に泣き出しました。

彼女はのち出家して尼僧になります。

彼女の眼の鱗を落としたのは、芥子の種が縁です。

しかし、芥子の種に神秘性があるのではありません。

終戦後の日本なら、どこの台所でも見うけるマッチ一本が芥子の種にあたります。

「わが子 わが家畜(財産)の愛におぼれ 歌にとらわるる人びとを 死はさらわん 眠れる村を洪水の押し流すがごとくに」

子どもにも、財産にも執着すれば、それだけ心を見失ってしまうことになる。それはまるで洪水によっていきなり流されてしまう命のようなものだといえるでしょう。

このごろは、核家族がどんどんふえてゆきますか、どんな核家族でも、その直系の先祖や親戚が何年かの間に亡くなった事実のないはずはありません。

若いお母さんの、キサーゴータミーの知識が知恵に育つのには、自分の脚で歩く遍歴が必要でした。

小さな遺骸の前で、キサーゴータミーが我を失うほどに憔悴しきった姿は決して他人事ではないでしょう。

死は、私の師です。

学びと気づきがあるからです。

死は私の師なり。

生きている人間も私の師です。

すべての存在が私の師です。

多くの眼の死と師によって、私の眼の鱗をとらせてもらいました。

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苦悩と病

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夜空の星、太陽を取り巻く惑星の集団は、一糸乱れぬ秩序のなかにある。

それぞれがその分を守り、天命のままにしたがっているがゆえであろう。

人の肉体も同様です。

小宇宙として調和されている。

人の世も、それぞれが分を守り、天命を知るならば、

破壊や苦悩は生じてこないものだ。

そして健康然りである。

心の不調和はやがて身の病となって表出するものだ。

人間にとって何がいちばん難しいのか、

それは己を知ることであろう。

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