ソウルメイト・守護霊と指導霊

守護霊
守護霊の個性
十人十色ということばが示すように、人それぞれ姿に特徴がありますし、その性格的長所や短所についても個性があります。
そして私たちの守護霊や指導霊という存在もかつては地上で生活をしていた人たちであり、同じよう特徴を持っているものですが、特に守護霊の場合は魂の兄弟姉妹という関係であるために尚更です。
そういう意味でも、自分の長所短所をよく知ることによって、自分の守護霊の個性も非常に似通ったところがあると思ってよいでしょう。
そして守護霊は特別に霊格の高い人がつくわけではなく、自分とほぼ同格のものと思ってよいでしょう。
「霊格の高い守護霊をつけてあげます」などといって金銭の多寡によって守護霊の霊格を区別するやり口が横行していますが、一般的に見えないことをいいことにして、まったくもって真実からかけ離れた由々しき問題です。
あの世の諸霊たちがこの世の人を守護する立場でつくのは、既に私たちがこの地上に誕生する以前にあの世で決めたことであって、私たちがこの世に誕生した時点で定まっているのです。
守護霊や指導霊も、そして守護神もこの世の人間の采配によって後付できるようなものでは決してありません。
過去世からの深遠な絆によってはじめて成されるこの世の縁生であるということです。
幽界や霊界下層階のような比較的低いステージの住人達は、肉体的先祖、両親、兄弟の関係については、執着心が強い。
国の単位も、その住人達(同じ霊域)によって造り出され、かつて地上界で生活してきたと同じように、彼らは、彼らの霊域に比例した社会を構成しているものです。
普通は、死後五十年ぐらい経つと、私達は肉体的先祖というものに対する考え方が変わってくる。
なぜなら、魂の兄弟達が度々訪ねてくるようになり、「お前の兄弟だ」とか、「お前の親戚の者だ」といってくるのだが、それは必ずしも同国人、同民族と限ってはいないからです。
お互い、思っていることや考えることが似ていたり、良く分かるため、始めて魂の兄弟ということを悟るようになっていくのです。
特定の国粋主義者の塊のような意識を持っている住人達は、彼らだけの社会を霊界でも造っています。
しかしそれも、時間が経つに従って、人類は皆兄弟であることを悟るようになっていくものです。
その時間とは、あくまでも彼らの霊域に比例した学びの段階があるために、彼ら自身の神仏の子としての自覚への修行の時間が必要であり、そのためにそうした生活を続けなくてはなりません。
彼らはこの地球上の人類と違って、潜在意識が逆に表面に出ているため、地上の人間よりはるかに物分かりが早く、丁寧に説得すればしっかり理解し、悟ることも早い。
それは日々のカウンセリングのなかでも実感するところでもあります。
なぜなら、地上の人間は、物や金、地位、名誉、学歴、職歴、結果、成果、相対観(比較)、等々に執着するために、非常に心の偏りを修正しがたい傾向にあるからです。
地上の人間の場合は潜在意識の90%が沈んでいて、わずか10%の表面意識で思考し、判断して生活しているために、非常に唯物的、現実的な思考に偏ってしまうという、心の修行にとってはリスクが大きい半面、そのリスクを超えた気づきは大きな学びとなって悟りに近づくことになります。
つまり地上生活は、物質社会であるためにリスクは大きいが学びが深くできるという点では得ることも非常に大きいということです。
あの世の場合は逆にのんびりしている社会であるため、修行はこの地上界よりずっと遅くなり大変である。
従って、この地上界の修行場で悟って帰る場合は、あの世における修行の経過よりはるかに前進していることになる。
辛さを忍耐して超えていかなければならない理由はここにもある。
地上界の一年は、あの世の三十年、五十年にも匹敵するくらいである。
偏った思想によって、意識の宝珠を、にしてしまった人々は最も気の毒でしょう。
そうした人々がこの世を去るときは、その意志に比例した、より強烈な世界に落ちて行き、物理的な慣性の法則と同様の方向に進んで行く。
ということは、私達の意識というものは、この世を去ったからといって即座に仏性に目覚めるというものではないからだ。
具体的な事例をあげてみます。
イエス・キリストも、ゴーダマーシ″タルダー(お釈迦様)も、後世の人々によって神理の化身のように崇められているが、やはり人の子であって、生身の体を持って生活しました。
ただ、悟っている人間は、肉体に執着がないし、物に執着がない。
そのため、死というものを恐ろしいと思うことがない。
なぜなら、その心は常にあの世、この世と連絡がとれるし、やがて帰る自分の世界の状態を知っているため、心は常に平穏ですべてに足ることを知っているからです。
このような霊的現象について、後世の弟子達や学者達は、頭で学び、知識で知ろうとしたため、心の世界の問題が非常に理解しにくくなっていきました。
その結果、この問題から遠ざかって行くようになったのです。
霊的現象は、あくまで神理を悟るための一コマであって、霊的現象をみせることができるから悟りの境地に到達した人間だという、とい考え方、見方は大きな誤りです。
ここで話しを古代インドに遡ってみます。
釈尊の滅後、しばらくして侍従であったアナンは霊的な力により、現象が出せるようになった。
しかし、第一回目の結集のときには、ベルヴェナーの洞穴に集まった四七三人の弟子達の中から、霊能力がなかったため、アナンは除外されようとしたのである。
ただ、釈尊の秘書として、永い年月最も身近で神理を聞いていたというところから、教えを暗記する弟子達の協力者となったのでした。
一部分は書き残され、ほとんどは口伝えです。
そのため、霊的な諸現象に対しては非常に誇大視して残されている。
釈尊やイエスは、もちろん偉大な人物だが、後の人たちが神格化するため奇跡的現象をとり上げすぎた嫌いがある。
後世の人々の中には、宗教環境の中で生活している場合、そうした神格化が大いに必要だった人達があったかも知れません。
現代流にいえば、スターが必要だったのだろう。
その結果、偶像崇拝、他力本願の宗教に変わってしまったことは、この辺りに原因がある。
祈る心は、即行為であって、行為の伴わない祈りは、神理とはいい難い。
だが、祈りに固執して、祈りのために生活の為の貴重な時間をつぶしてしまうことはないのです。
祈りは単なる祈りであってはならないということ。
それは、行為(働き、生活)を祈りであるが如く生きればよいのである。
思うこと、考えていること、行なうこと、正しい生活のすべてが祈りの行為となって、神仏と調和される。
苦しいときの神頼み”という言葉があります。
これは人間が、六根煩悩によって造り出してしまった苦しみから離れようとして、自分自身の魂の故郷である神仏に、安らぎを最後に求めようとする行為です。
そのような心境になって、自分の苦しみの原因を反省し、間違いを正して、「どうぞ、私をお助けください」と祈ることにより、魂の兄弟や指導霊達が、私達に慈悲と愛の手を差しのべてくれる場合もある。
しかし、神仏に通じる早道は、ただ思うだけ、祈るのみではなく、八つの正しい道の生活を行なうこと、と知るべきです。 「悟りの境地に至る道」
多くの人々は、奇跡的な現象や未知の世界に対する認識が足りないため、少しでも変わった超能力者と称する者に現象をみせられると、神秘的に思い、いつか教祖を造り上げ、自分自身も神仏の子であることを忘れて狂信、妄信にはしってしまう。
少しばかりの神秘力を持っている者も、いつの間にか己を失って増上慢となり、生き神さまに納まって自分の分を超えた言動するようになり罪を重ねていく。
信仰をもつ人たちも自身の理性と知性をもって臨み、盲目であってはならないでしょう。
そうした教祖や霊能者などの、いうことと行為が一致しているか(金に執着していないか、名声に固執していないか、他を批判中傷しないか)、偽善者であるかどうかを良く判断する必要があります。
神仏は人間の反省については強制しません。
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光の天使は謙虚で、その慈悲と愛には表裏がなく、心は常に平穏であります。
地上に降りた光の天使は、法則を造るためにきたのではなく、法則が何を意味するかを人間に教えるために降りてきました。
また人々の罪を裁くためにくるのでもありません。
人間は、自分自身の心の世界においては自分自身が裁判官であり、最もすぐれた先生であることを知るべきですね。
誰もが他から多くを学びますが、最後の決断は自分自身が成さなければなりません。
魂の兄弟達(守護霊)は、心の内より人間に常に協力し、有意義な人生を送るための指導を惜しみません。
人間は、己の心こそ自分の偉大な指導者であることを忘れてはならないでしょう。
不調和な罪は、自分自身の理解の欠乏と知り、心の兄弟を始め多くの人々を傷つけることを知るべきです。
常に自身の心の内にある神性仏性を自覚をし、多くを行い学びとり、努力して心の調和、安らぎの生活を得なくてはならない。
生命は永遠のものである。
魂の世界は、死ぬことも生まれることもない。
この地球をふくめて、あの世においても私達の魂は変わることなく、久遠の世界に住んで学びを続けています。
永遠とは、未来のことではない。
今現在も、いつも、私達の生命である魂が永遠に生き続けて肉体の乗り継ぎをして行く輪廻をいいます。
この瞬間の行い、生活がすべてであり、瞬間の連続の先にあるのが未来というだけのことである。
ちょうど、羽田から飛行機でロサンゼルスに行き、自動車に乗り継いで目的地へ行くように、乗物は異なっても、乗っている人は変わっていないようなものです。
このように、私達の肉体も人生の学びのための乗り舟であることを悟るでしょう。
私達の肉体も、意識(魂)の霊的エネルギー粒子の集中された物にしかすぎません。
その支配者の霊こそ、自分自身なのであります。
この地球上の人類はこうした生命を受けて、神の体の一部である太陽系を始めとする広大な宇宙体の調和を計るためと、魂を磨く目的を持って、あの世、意識の世界を、その環境に適応した魂の乗り舟である肉体に乗って転生輪廻し続けているのである。
神仏はこのように人類に、子孫保存の本能を与えて魂の修行場を保存してくれています。
人類は、肉体の先祖が幾度か罪を犯した形で造った不平等な階級制度により、権力者を保護し、大衆を虐げてきました。
そのため大衆が反抗して闘争が生まれるという繰返しの不調和な歴史と社会を造ってきました。
さらに子孫繁栄と財産保全の独占欲が、人間本来の仏性、神性を失わせ、自らを物質経済主義の奴隷に追いこんでしまったのであります。
私達は、いまこそ自分自身をとりもどさなくてはならないでしょう。
自分の魂を、肉体にとらわれない自分自身の正しい意識をとりもどし、あらゆる物質的欲望の奴隷から解放しなくてはなりません。
私達の肉体の支配者であるあの世からきた不滅の魂、不変の意識、広大な心こそ本当の自分自身であることを知り、魂の兄弟姉妹こそ人生を渡って行く途上の心の友であり、指導者であることを知るべきです。
またいつの日か、私達があの世に帰ってから、魂の兄弟達がこの地上現象界へ肉体に乗って学びに出るときは、私達が今度は協力(守護霊・指導霊)をしなくてはなりません。
自分があの世に還って、ある程度の段階まで魂を昇華できれば、今度は自分が魂の兄弟姉妹のために守護霊となり、指導霊となってサポートしなくてはならないという意味です。
そのためにも私達は、この地上界で修行できる機会をより以上に生かして、正しい法則に沿った想念と行為の中で、多くの人々の心を救い、自分の心を浄化し、人生経験を豊かにする学びを心がけねばなりません。
それは行者が行っているような肉体的な煩悩を戒めるための肉体的苦行ではなく、哲学的な経文を祈るのみの宗教に縛られることでもない。
神理に気づいた自分の心に忠実な生活をすることが正しい人間の生き方なのです。
大宇宙を支配している神仏を始めとして、霊界以上の神界、菩薩界、如来界、宇宙界の大指導霊や光の天使達は、特定国家だけの応援者でもなく、協力者でもありません。
太陽の熱光のエネルギーは、特定国家にだけの特別な配慮などしません。
すべてに平等であります。
このことに謙虚に学ばなければなりません。
私達は、私達の努力によって、個人の単位、夫婦の単位、家族の単位、部落の単位、市町村の単位へと調和して行き、やがて一国家、隣国同士、世界に平和な文明を築き、調和につなげて行かねばならないでしょう。
隣国どうしで争っている場合ではありません。
いかなる巨大な物体も、小さい調和された原子の組み合わせによって構成されていることを思うべきであります。
極微単位の世界の調和が、極大単位の世界の調和を造り出していることを、忘れてはなりません。
この地上界の真の心の指導者は、あの世とこの世の支配者であり、大指導者であります。
釈尊ことゴーダマーシッタルダーや、イェスーキリスト、それにモーゼは、上上段階光の大指導霊であります。
そしてあの世において、そのような高いステージでは、約数百名ほどの上段階光の大指導霊(如来)がおられるでしょう。
そして、約2万人近くの上段階光の指導霊(菩薩)がおり、約一億数千万人の光の天使達が霊界上層階以上の世界にはおられるでしょう。
霊界、幽界の上段階の天使達は更に相当数におよび、秩序正しい生活を送っておられる。
この天使達によって、地球上の環境はある程度守護され、大難を小難に、小難を無にするべく守護しておられるようです。
地上界の神社仏閣に祀られている神様と称する者のほとんどは、大宇宙創造の神ではなく、この天使達が多い。
したがって、間違っても私達人間に神(god)が出ることはない。
神と名乗っていても、それは、人間の。上であって、天地創造唯一の神ではない。
仙界、天狗界、地獄界の動物霊達が、自ら神だと名乗るような、いたずらが多いこともあるから気を付けなくてはならない。
神罰、仏罰を与えるというような神仏を、信じてはなりません。
本物の神仏や光の天使達は、絶対に人間に罰を与えるというようなことはしない。
罰は、自分自身の不調和な想念と行為、不安や恐怖心が造り出したものであって、その原因は、神でもまた他人のせいでもありません。
すべて、自分自身にあるということを認識すべきであります。
あの世の光の天使達は、神仏と表裏一体で、心の調和がとれており、絶対に神だ、仏だといって人間を威圧するようなことはしない。
威圧して出てくる者は、100%人間に近いものか、それ以下の者達の仕業です。
光の天使が、地上界の人々の体を借りて出られる霊域は、非常に精妙で、その人の心は調和のとれた状態となり、絶対に謙虚で増上慢ではない。
語る言葉は神理であって、人々の心に調和のとれた安らぎを与える。
また光の天使達は、霊能者の心の調和度に比例して力を出すことができる。
次元の異なる意識の世界、あの世の世界から光の天使が霊能者の意識を支配すると、その力は、その人の地上界での表面意識(10%)を90%近くにしてしまいます。
のため、霊能者の心が調和され精妙化されて行くに従って偉大な力を発揮するようになる。
霊能者は、神理を悟り、毎日の生活自体を正しく生きるように勤めることが必要であります。
たとえ不調和な考えを持って生活をしても、即座に反省できるよう、心の制御装置を忘れてはなりません。
このように、毎日の正しい法則に適った生活をしている霊能者の力はより高度に発揮されることになっている。
だが、人間は聖人になる必要はない。
ただ神理に則して、他の諸現象に対して自己保存自我我欲の執着を持たない生活のできる人間になることが大切でしょうね。
そして物質文明の上に、偉大なる心の世界を築き上げること、より社会人類が調和されることによって、文明は急速に発展すると約束されるのである。
科学の力は、やがて宇宙空間に、人類の居住できる天体を発見し、地球以外にもよりすぐれた生物の生存していることを知るようになるでありましょう。
海洋へも科学の力は伸び、海底には人類が想像もつかないような古代の動物のいることを発見し、エネルギー革命によってこの海底にも生活できるように進歩していくことでしょう。
それまでに、地球には地中に埋蔵されていたエネルギー粒子の塊である硫化物や二酸化炭素が空中に放出されて、特定の公害が多発し、大きな社会問題に発展して行くのではないだろうか。
やがて、光のエネルギー、熱のエネルギーの応用や、電磁力の応用が発達して、科学は急速な発展を遂げると思われます。
また硫化物や一酸化炭素をはじめとして、生物に害を与えるような物質は、他に広く無害に応用されて行くであろう。
このように心を失った文明は公害をつくり、ますます人類に課せられた重要な問題点となり、その中和のために、人類の智恵は集中されることになる。
私達の魂の兄弟姉妹達は、魂の学びの場を一日もはやく人々の心の調和によって、完成することを待ち望んでいるのです。
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