驕りと傲慢

驕(おご)りと傲慢(ごうまん)

つい先日、ギックリ腰で思うように歩けないと言って来院した方がいた。

脳神経外科内科に一週間ほど通院して腰にブロック注射をしていたが、一向に改善されないという。仕事を休んで静養はしているがいつまでも休めないし、この先どうなるのだろうと気持ちまで落ち込んでいたといいます。相当、顔が沈んでおられた。

この方は思い余って先生に質問したという。『ぎっくり腰の時は整形外科に行くものでしょうか?』と。

先生いわく。『ぎっくり腰は脳神経外科内科なんだよ。整形外科は昔の考えで古いんだよ。黙ってここで治療すればいい。』といって腰にブロック注射をして帰るだけの治療だという。

現在、整形外科でも、やはりブロック注射と鎮痛剤、冷湿布が定番です。ギックリ腰に関しては脳神経外科内科も整形外科も治療内容は大して変わりません。

整形外科が古いとする脳神経外科内科の先生の語り口は品格に欠けるもので気の毒でさえある。

私は来院者の身体の状況を確認してすぐ整体施術をスタッフにさせた。

この程度なら回復は早いですよ。といってお帰りいただいたが、翌日に来院した時は痛みが半減していると笑顔が見えた。

また3日目に来院したときは痛みが7割ほど取れましたとのこと。

4日目に再度、来院したときは殆んど痛みがとれたといいます。これで仕事に行けますと笑顔がみえた。

今回のようなケースが時々あるのですが。いつも考えさせられるのは、先生と言われる立場にある人の傲慢な態度や言葉がどれだけ患者さんの心を傷つけているかということです。

本来、人の健康に関わる仕事の医療現場でこのようなことがあるのは全く私には解せないことです。

そして更に、似たようなケースが心の健康を取り戻すための心療内科でもおきていることをカウンセリングの中で来院者からたびたび聞かされる。これは弱っている立場の人にとっては相当にショックなことです。

患者の一進一退の症状に対して患者自身がいちばん、焦っているはずなのに主治医が冷静に対応できず、自己都合で感情的になり患者から質問されると時間ばかり気にしてイライラする精神科医、どっちが患者なのか全く混然としています。

難関を突破し国家試験を合格して医師免許を取るための勉強は大変なことではあろうが、いちばん大事な人としての心の勉強をしていないことは国の方針であるにしても残念でならない。

しかし私たち民間療法の施術家は整形外科医や脳神経外科内科医からは否定されている存在でもある。

不必要な注射と投薬、検査で財を成すことに専念して贅沢の限りを尽くす医師の悪評は嫌なほど聞こえてくる。医術に非ず算術。では困るのです。

 

葬儀

致死率100%、人間が必ず通る道です。

近年、葬式の様相が目に見えて変化をしてきています。

その形態は自由葬、直葬、家族葬、密葬、と様々な言葉で表現されている。

大きくはふたつに分類できそうで、ひとつは、これまでどおり葬儀のご案内をして、大勢の会葬者に来ていただくもの。もうひとつは、いわゆる「家族葬」です。

家族葬といっても、ほんとうに家族近親者だけで行うものから、親戚には来ていただくもの、親しい友人には来ていただくもの等さまざまで、会葬者も数人程度から数十人程度までと幅がありますが、趣旨として「義理の会葬を辞退したい」ことが原則にあるようです。

「密葬」という言葉もよく聞かれますが、これも、「家族だけで見送る葬儀」「告別式を後日改めて行う場合の家族の葬儀」等の場合に使われていますので、密葬と家族葬との明確な境目は示すことができないようです。

また、病院から直接、火葬だけをする「直葬」も増えていて、一説では、20%近くの人が全く葬儀を行わず、火葬のみ行っているとも言われています。

このような世相をみるとき、もちろん大げさな葬儀が必要だとは思いませんが、葬儀ひとつのなかにも、故人の遺志、遺族の思いが表れてきます。

故人への悼む心が希薄だから極力、簡単に済ますのではないかとみる人もいれば、盛大な葬儀だけが意味を成すものとは思えないとする考え方もあります。その辺の是非は読者の価値観や判断にお任せしましょう。

一方では宗教儀礼を伴わない、「無宗教葬」「自由葬」と呼ばれる告別の会も増えてきています。「普段、信仰とは無縁で生きてきたのだから、宗教儀式は無しで。」というのも、ひとつの選択のようです。

「葬儀」は、亡くなった人の「命」に関わる厳粛なものであり、遺された者たちの「死」を受容するための大切な作業であると言えるでしょう。また生前に親交のあった方々への礼儀を含めたところもあります。

本来は規模の大小も、宗教の有り無しも、本質的には大事なところではないのです。どのような形式であれ、葬儀を通して、人間の「心の痛み」を受け止め、共有することができるかどうかが、大切な問題ではないでしょうか。一人の人間の死は様々な波紋を呼ぶものです。

同時に死は、新たな旅立ちでもあります。実際のところは死者は眠ってなんかいません。

古い話しになりますが、昔は、地域共同体の中で、どんなに仲が悪い間柄であっても、火事と葬儀だけは無条件で協力をした習慣があります。村八部でも、残りの二分が火事と葬儀、というわけです。

行政も変化と同時に地域共同体が形を為さなくなり、また緊密な近隣関係を好まない人が多くなった現在、それに代わって、葬儀業者が葬儀の全てを請け負う形になってきました。

地域の人たちの「葬儀」に関する知恵や経験を得る隙もなく、葬儀業者に全てを委ねることになりますが、実際のところ葬儀業者は、故人のこれまでの人生や価値観について何も知りません。

葬儀業者としては一定の形式を用いなければ、短期間で儀式を執り行うことができないし、繁栄をはかることもできませんから、「みなさん、こうなさいます」「これが習慣ですから」「これは決まりごとですから」と誘導することも起こってきます。

理解も納得も充分とはいえない状態のまま、「それが習慣ならば」、「決まりごとならば仕方ない」と、言われるままに葬儀が施行されることになります。

葬儀も終わり、どうやら落ち着きを取り戻した頃、「こんなに費用が掛かるとは思わなかった」とか、「あれで、ほんとうに良かったのだろうか」という疑問が沸いてきます。

このようなことにならないためには自分たちの葬儀にかけられる予算も打ち出しておくことは大事なことです。業者によって虚栄心をうまく駆り立てられて競争心をくすぐられ世間の予算に合わせることは全く必要のないことです。

葬儀の費用だけではなく戒名料の場合も近年、問題視されてきました。数十万は珍しくなく、数百万の戒名料を支払ったケースもあります。『故人は世に名を残した立派な方です。それに相応しい戒名をつけて弔いましょう。』と、よいしょの言葉を僧侶に言われて、いうがまま戒名を頂いたら200万の請求がきたという実話があります。

言葉は悪いが、ぼったくり、です。これなども人任せと言っては失礼かもしれませんが遺族の虚栄心、競争心を巧みに利用した商業主義の戒名料としかいえません。この辺に寺離れの根本原因があるようにも思えます。

しかし、これまでの荒廃した仏教界の営利主義に疑問をもった人々は、ようやく気づき始めました。本来、人間の生き方や死に方を導く立場にある宗教家たちの金や物に支配された物欲、金欲の矛盾に。

衣をまとえば金の盲者も形にはなる。私たちは故人の意思を尊重しながらも自分たちの立場で最小限の葬儀を営み、そこに心を尽くしていきたいものである。

 

内省

内省は無限の光を放つ源泉であるが、それを探し当て、くみ出すのは自分しかできない。

内省は何のために行うのか。

内省の目的は、自分自身や他の人々を責めることではなく、ましてや賞賛することでもありません。ただ、公平な目で、第三者の目で自らの思考行動観察することにあります。

その上で、気づいた点から自らの言動を改めるように努力することにあります。

こうして内省を続けていくと、だんだんと自分自身を観察することに熟達していきます。そして、やがて道徳面においても、精神的、霊的な人生の側面においても、心の成長を加速していることに気づくはずです。

世の中はどうしても物やお金に偏重しやすく、あらゆる場面で誘惑が付きまといます。それは衣食住のなかでもあります。食べないことよりも食べ過ぎて不健康であったり病気をしたりの傾向もそうです。衣服もブランドに拘るとエスカレートして、使うお金もエスカレートすることになります。

こうなると物では豊かでも心が豊かとはいえないですね。やはり、人間、足ることを知る必要があります。そして改めながら正しい思考と言葉を行動につなげることで心の調和が成されて徐々にステージアップしていくのです。

日々の内省は毎晩、眠りにつく前の、潜在意識に入りやすいタイミングで行ないます。

ベッドに座ってもいいし、体に問題のある方の場合は眠ってしまわなければ、横になっても構いません。

完全にリラックスして、先ず、朝起きた時から順を追って、今日一日にあったことをすべて思い出します。

一つひとつの出会い、出来事をもう一度見つめ直してください。この時、自分自身や誰かを責めることなく、客観的な第三者の目で見つめることが大切です。このような回想は丁度DVDを再生してみるようなことと似ています。

内省の仕方

寛大な心をもって、自分自身に次のように質問してみる。

思ったり感じたりすべきでなかったことで、思ったり感じたりしてしまったことは何か?

思ったり感じたりすべきだったことで、思ったり感じたりしなかったことは何か?

言うべきでなかったことで、言ってしまったことは何か?

言うべきだったことで、言わなかったことは何か?

すべきではなかったことで、してしまったことは何か?

すべきだったことで、しなかったことは何か?

この場合に自問自答することになるのですが、自分にとって都合のいいように解釈したり、弁解したり、自分を責めたり、しないこと。またそれは相手に対しても同じことです。決して相手を非難しないことが重要です。

それは何故かと言いますと、相手への非難は怒りに変わるからであり、内省は思考や言葉や行動を調えることに意味を成すものだからです。

さあ内省が終わったら今度は深く息を吸って、瞑想し、自分自身に問いかけてみましょう。

私は一体誰なのだろう。

愛とは何だろう。

私は誰を愛しているのだろうか。

私は正しい愛をもっているだろうか。

あなたのハートを、黄金の光か、カナリアの羽の色のように鮮やかな黄色い光を放つ、明るい太陽のようにイメージして輝かせてみましょう。

そして、この光があなたの周りを大きく照らすのです。この光を感じてみましょう。

呼吸は自然呼吸にしましょう。黄金の光に包まれるイメージは何分ぐらい継続でるでしょうか。1分ですか?5分ですか?個人差がありますけど気にせず時間を決めて練習をしましょう。

今この瞬間にあなたは、他の誰からも分離した一人の人間として、自分のことを捉えているかもしれません。

自分の家族からも、自分の父や母や子供たちからも、分離した一人の人間なのだ、とあなたは感じているかもしれません。

あなたは自分が、家族の誰からも完全に分離した立場にある一人の人間であると感じているでしょうし、あなたの回りのすべての人々から完全に分離した人間であると感じているかもしれません。

けれども、今のあなたは宇宙空間の絶対的意識に近づいているのです。

内省と守護霊

あなたは、塩の味について説明できますか? 塩を一度も味わったことのない人に、言葉で理解させることができますか?

塩は白い水晶のような固体で、主に塩化ナトリウムから組成されている、と説明する人がいるかもしれません。 あるいは、その化学的組成がNaClだと言う人もいるでしょう。

しかし、私ならこう言います。「まず、塩のひとかけらを舌にのせることです。そうすれば、塩の味を知ることができる」と。

では、この塩を味わうために、私たちは何をすべきでしょうか?私たちは、ツルハシを手に取って、塩の鉱山へと向うべきではないでしょうか。と言いたいところですがそれは無理ですから海水を煮詰めて水分を完全にとばすとミネラル豊富な塩ができる。

とはいってもこれも簡単には体験できることではない。しかし、私たちは言語や理論の勉強に打ち込むだけでは不充分なのです。

禅の教えに『冷暖自知』という言葉があります。冷たいも、暖かいも自分で体験しなければ分からないという意味ですが、知識だけでは片手落ちで、何事も体験することが重要だということのようです。

私たちは、私たち自身や生命、そして宇宙と人間についての内なる到達点を目指し、多くの経験をしなくてはなりません。その中でいつも指導者がそばにいて欲しいと思うこともあります。

しかし、そのような願いは、人生を歩んでいく上で、いつも松葉杖に頼っているのとさして違わないでしょう。私たちは人生において生命を知るために本気で、恐れず、勇気をもって“自分自身“と向き合わなくてはならないということです。

私たちを取り囲む世界は、日々複雑性を増し、あらゆる混乱と誘惑がひしめいているため、私たちの注意を散漫にしてしまいます。

しかし、私たちはしっかりと大地に根を張るような決心と不動心を持たなくてはならない。

すなわち、私たち自身にいつも意識を傾注させていかなくてはならないのです。

なぜなら、私たちの人生を織り成すあらゆる事象というものは、何世紀もの時間のなかで変化し続けていく無常なものですが、人間としての状態や経験や目的はいつの時代も変わるものではなく、永遠のものなのです。

ですから自分に内在する心の成長に向けて行動することです。どうすることが最善なのか、違いを見分けられるようになりましょう。それが、適切な結果をもたらしてくれます。

これだけは忘れないでいただきたい・・・「私たちの人生には、“心の向上“以上に求めるべき行いはない」ということを。

幸せとか、不幸とか、試練とか、逆境、裕福、忙しい、暇だ、貧しい、多い、少ない、不足、満足、等々は頂上に登頂するためのプロセスにおけるファクターであって、そのことに目的があるのではない。

また、救われたいとする思いから宗教に盲信や狂信して、かえって迷いのなかにある人も現実にいる。また宗教を持たずとも正しい理性と努力のなかで智慧をしぼり懸命に生きている人もいる。

私は後者を支持するし、自分もそうありたいと常に心に置いて生活しています。

心や想念をクリーンにするための積極的で懸命な取り組みは普段の生活のなかにこそあらねばならないと強く思うのです。そして大きな苦労は大きな成果になります。

調和されたパーソナリティー」を育てることからの恩恵は、物質的な肉体を離れた後も、永く引き継がれて行きます。

自分の物質的な肉体の状態を良く知りましょう。そして、善い秩序を保つようにしましょう。

感情のコントロールが出来るようになると、それが理性的な思考との健全な働きをもたらします。

豊かな感情、調った理性、智慧の3つの意識を備えた自分の「現在のパーソナリティー」は、“経験“を重ねることと、より成長するためのワンステージのようなものです。

人は誰もがこの世に誕生したときから守護霊の助けを受けながら、休むことなく、あなたを刺激し気づかせ激励し、導いてくれています。しかし、守護霊からの協力を得られない理由は、不調和な足ることを忘れた欲、愚痴、怒りです。そして怒りは宇宙の法則から最もかけ離れた感情です。

私たちの最も価値のあるエクササイズである「日々の内省」を例に取ってみましょう。

もし、内省に真剣に取り組めば、あなたが利己的な想いから行動しているか、あるいは、徳目や道義的基準に導かれて行動しているかを、誰でも今まで以上にはっきりと観ることができるようになります。

利己的な言動は、結果として自分自身と同時に、他者にも痛みをもたらすことになります。内省を継続していけば、それらをゆっくりと、「生命活性化の想念」に置き換えていくことができるのです。

次回は内省の方法に触れてみたいと思います。

 

死後の世界

質問を頂いた。

『人間は死んだら土に還りすべてはそれで終わりなのか。死んだ後には自分の存在は何もないのだろうか』と。

最近は死後の世界やあの世の事をテレビでも放映する機会が増えたようですが、このことは賛否両論というところであって、死後の世界には何もないとする人も、死後の世界にも自分は存在するとする人も、どれだけの確信があってそれを支持するのかとなるといたって曖昧なようです。

あの世での生活は信じられないとする理由。信じるとする理由。どっちともいえない。皆さんそれぞれです。

例えば臨死体験をしてからあの世の存在を信じるようになった。亡くなった人の姿をみた。その他の霊的な体験をした。確認できないから信じられない。などなどあります。

それでは問いかけをしている私はどうなのかですが、確信をもってあの世の存在、あの世での生活があると言っておきましょう。その根拠をこれからお話しいたします。

例1、今年1月2日電話が鳴った。紹介を頂いたということで中学生の娘を見てほしいということだった。

正月中ではあったが緊急を要する電話の雰囲気に会うことを快諾した。両親に付き添われた女子中学生の目はうつろで私の顔を見ようとしないどころか私を避けていた。

落ち着きがなくソワソワして背を丸めて下を見たままだ。両手は握りこぶし。動物のそれである。

ご両親から経緯を説明してもらった。31日の大晦日に某稲荷神社に深夜1時、初詣をして直後から娘の様子が一変して動物的な目になり変な奇声をあげるという。

言うことが支離滅裂で気違いになったとのこと。

あまりの危険な様子に病院に連れて行ったが安定剤を出されて正月明けに再度、精神科の外来に来てくださいと言われて帰宅したが、とても心配だから夜が明けるのを待って近くの拝み屋さんに連れていったといいます。

しかし、全く様子は変わらないとのこと。この状態で私の処に電話が入ったのです。

私は先ずこの気の毒な娘さんを正気に戻すことを最優先に考えた。

私は語りかけた。

『この者に憑いている霊よあなたは何故この者に憑依したのだ。

如何なる理由があってもこの地上の人間に憑くことは許されることではありません。いますぐこの者から離れなさい。おまえはどこの卷族(けんぞく)だ。話しなさい。』

『俺は豊川稲荷の※卷族だ』という。※卷族(けんぞく)とは稲荷神の使いをして修業している野狐(のぎつね)の霊をいう。私は野狐の霊を諭して娘さんから離れてもらい、本来の居場所まで私の守護霊にお願いして送り届けていただいた。

私は、このような問題がなぜ起きたのかを検証してあの世の真実を知っておく必要があると思い、ここに記すことにしました。

①先ず、娘さんは高校の受験に向けて猛勉強をしていて心身ともに疲労が限界まできていたということ。

②日ごろから親御さんが勉強を強要してストレスを与えてノイローゼに近い状態まで追いつめていたということ。

③娘さんの御両親が二人とも教員であったがため教育に囚われ過ぎて知識偏重主義となり家庭が不調和になっていたということ。

④深夜の神社は霊的にも非常に危険な場所であるということ。

⑤家族の心が不調和でありながら受験合格の願いを稲荷神社に祈願したということ。

⑥受験の合格は自身の努力の結果によるものであってそのような事を神社で祈願するのは人間の欲からくるご都合主義の神頼みにすぎない事。

このようないくつかの条件が重なって心に隙間をつくった結果が動物霊の憑依を受ける原因となったのである。

私は御両親をきつく戒めました。教育は知識の集積に囚われたら人間の心を忘れてしまうことを。

ご両親には深く反省している様子がうかがえた。お母さんは正気に戻った娘の背中に手を添えて帰っていった。

私は家族の平和と心の調和を願いながら見送った。このようなことで二度と再び私を訪ねてくることがないことを願って。

ここまで記述したことはあの世の存在と魂の存在を理解していただくための一例としてあげたものです。

また私自身が死線をさまよいあの世の世界を何度も見てきておりますからその事実は否定のしようがありません。

この世とあの世は次元が違いますので通常の肉眼では確認することはできないものです。肉体は3次元の存在ですから、その肉体で4次元を見ることはできないということです。

もう少し詳しく例え話をしましょう。映画館でみるスクリーンは平面ですから2次元の世界です。観客は立体空間の3次元の世界にいます。平面2次元のスクリーンからは立体3次元の観客の存在は知りえません。観客からはスクリーンに向かってどんなに声をかけてもその声は届きません。これが次元の違いです。

これと同じ現象があの世とこの世の関係です。私たちの生きる3次元世界からは4次元世界のあの世は分からないことと同じなのです。あの世を知るには4次元の心で観るしかありません。しかし、それは簡単なことではないし、あの世を知ることや見ることに人生の意味があるのではないことを添えておきます。

また何事もこの目で確認できないから見えない世界は認められないとする考え方も少し非科学的なところがあります。何故なら肉眼で確認できなくても存在する生命体は数えきれないほどの数です。

例えば、水は手に取ることもできますが、蒸発して気体となってしまえば肉眼では確認できませんし、手に取ることもできません。しかし、H2Oは存在しています。氷点下になると氷の個体となります。

水は温度を縁として形の変わった状態で宇宙に存在していることになります。見えないけど存在するものは宇宙空間に無限大にあります。科学が証明しているのは一部だけでしょう。

科学ではあの世の存在を証明できていません。しかし、存在しています。

これを読んでくださっているあなたには心がありますね。だから恋をすれば胸が切なくなります。悲しみのときは胸が苦しくなります。喜びの時は胸が躍ります。

人間の感情や理性や本能や知性はすべて胸に位置する心から発する意識です。頭脳からではありません。しかし、一般的には心は見えません。でも存在しています。全ての人に。心は魂です。

肉体は朽ち果てても、魂はそのまま生き続けます。私たちの肉体は3次元の物質で構成されていますが同時に4次元の魂を宿して生きています。ただ、4次元の魂ではあっても3次元の肉体を持つと肉体の五官によってのみ外界を知ることに慣れてしまいます。それが人間です。

4次元の世界、あの世を知るには心で観ること、感じることで可能になります。本来、人間には6感が備わっているものですが肉体中心の生活は心不在の人生となりやすく、感性が育ちにくい。

『花が散り実を落とし、また花が咲く。』この自然の法則と人間の生き方、輪廻転生は何も変わりません。それが宇宙の法則であり不変の真実です。私たちは宇宙の法則によって生かされているだけです。本来、人間の心は宇宙大の大きさ広さを持ち合わせているものです。

人間の地上における目的、生きる理由は魂の向上。この一点のためです。幸せも、不幸も人それぞれで価値判断に違いがあります。しかし、それは魂の向上のためのプロセスにすぎないでしょう。

幸せになることが人生の目的、生まれてきた目的とするなら深遠な魂の向上には程遠い生き方となるでしょう。

肉体五官に偏りすぎた生き方は心を見失います。私は特定の宗教に属しませんがイエスや釈迦の残した人生訓は素晴らしい心の在り方だと思います。

心のきよい者は幸いです。その人は神を知るからです。これはイエスの言葉ですが、心に執着がなければ霊の存在も、あの世の存在も観智することが可能となることをも意味しています。

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禅の心

 

インフルエンザ初めての経験でした。微熱と節々の痛み。器官の不調から脱出できました。

禅といえばあなたは何を連想するでしょうか。たいていの人は、薄暗い禅堂で足を組んで、目を半分閉じてじっと座っている僧を連想するのではないでしょうか。

また、実際に座禅を体験したことのある人は、足のしびれや、じっとしていることのつらさとともに、静寂な時間の新鮮な経験や終わったときの爽快感などを思い出すでしょう。

私たちはまた、禅がさまざまな文化現象にかかわっていることも知っています。禅僧の書いた文章、書、墨絵に高名なものが数多くあります。

茶の湯や能などの伝統芸能、剣道、柔道、合気道、空手などの武芸にも禅の精神は生きています。つまり、禅は心を静め、精神を統一し、自らの感性を高めるなかで美意識や自己探求と深くかかわってきました。

さらに、禅はストレスの多い生活のなかで不安や悩みを抱える人、あるいはもっと深く、人生の根本問題と向き合っている人、それらの人にとって問題解決のための手段のひとつともなってきました。

禅がどのような思想か、また歴史的にはどのように発展してきたのについて理解することも大事です。しかし理解といっても、歴史、人物、思想内容という事柄の理解だけを求めているのではありません。

禅とかかわるなかで、自分とはなにか、生きるとはなにか、人生とはなにかという問題意識をもっていただければと願います。古人は自然の音を聞いて世界の真実を悟り、眼に入った色を見てわが心がどういうものかを明らかにしたのである。

これをみて分かるように、私たちの周りには、あらゆるところに真実への門が開かれているのである。ある僧が老師に向かって、「私は禅の教えを求めているものですが、禅というものには、どこから入ればいいでしょうか」と問うた。

すると禅師が、「お前さんはあの谷川を流れる水のせせらぎが聞こえるかい」と言われた。「はい、よく聞こえます」と答えると、「そこから入れ」と言われた。

そう言われて、いくら谷川のせせらぎに耳を傾けても、すぐに心の道理を悟ることなどできないであろう。その理由はせせらぎを聞く者の未熟さにあって、いくらせせらぎの音が自然の呼び声であっても、馬の耳に念仏である。

同じように大自然が宇宙の真理を眼の前に見せつけてくれていても、気づかない者にはまるで夢を見ているようなものであろう。

南泉和尚は、庭に咲き乱れる花を指さして、「時の人、この一株の花を見ること、夢の如くにあい似たり」と言われている。われわれ凡人の眼は、骸骨の眼のようにポッカリ空いた節穴でしかないのである。

ところが苦労して道を求めてきた人には、何でもない日常的なものを見たり聞いたりするだけで、瞬間に世界の真相を見抜いてしまうのである。あるいは真理をつかんだ自分の、尊い心に気づくのである。

雪が舞う 冬すずしかり 心静かなり  (観童)

 

怒りの心理

私達はどういった時に怒りを感じるのでしょうか。
怒りによって夫婦が、親子が、兄弟が、友人が、同僚が、仲間が傷つき離れていく悲しみがある。

怒りは多くの大切なものを失わせてしまいます。

私達は、いきなり怒れと言われても怒ることはできないものです。

人間がある感情という意識を抱える時には、かならずそれを引き起こした引き金があります。

人間の怒りの心理を探る際には、まずその怒りを引き起こす引き金について考えていくことが大切となります。私達が怒りを感じる時の代表的な例が『自分を否定された時』です。

では『自分を否定された時』とはどのような時でしょうか。そのひとつは、行動ではなく人格を否定された時です。

例えば、会社に遅刻をしたり仕事でミスをして、上司から注意をされるだけであれば、それは行動を指摘されただけになりますが、「お前はダメなやつだ。」「会社に必要がない人間だ。」と言われれば、それは人格を否定されたことになります。

行動人格への指摘は違います。例え行動が間違ったとしてもそれは人格の否定にはつながりません。もし人格を否定されてしまえば、その人は、自分が優れた人間であるか、出来の悪い人間であるか二者択一を迫られてしまうことになります。

そして、自分をダメな奴だと思い落ち込んでしまうか、「そんなことはない!」と反発してしまうかのどちらかとなってしまうでしょう。人格への良し悪しという白黒は否定へつながることになるのです。

また、女性がアドバイスをしたことで男性が『自分を否定された』と思いこみ、怒りに変わってしまうこともあります。
これは恋人同士のトラブル、夫婦間のトラブルにおいて非常に多いので、ぜひとも覚えておいて欲しいのですが、人間は『わかっていることをアドバイスされる』と自分を否定されたと思いこんでしまう傾向があります。

この様な背景には『同等』や『相手が下』の意識が傾向としてあるからでもあります。あるいは自分が上だという意識がある人が相手から言われた場合も怒りに変わりやすい。

しかし、このような意識は自我にほかならいということも知っておかなければならいことです。

女性の多くは恋人・夫に対し、愛する人だからこそもっと成長してほしい、魅力ある人間になって欲しいと願うもののようです。そしてその要求はふたりが親密になればなるほど大きくなっていきます。

相手の大きくなった要求が怒りや破壊につながる場合も多いのです。

例えば、子どものいる家庭で、夫が休日にゴロゴロしている時、妻が「お父さんなんだからもっと子どもの前ではしっかりして。」とか「子どもの健康のためにタバコを吸わないで。」と言ってしまうことがある。

しかし、そういう時、その男性はそのことをすでに頭の中ではわかっていることも多いのですね。女性からアドバイスされ、男性がカチンときてしまう。わかっているけれどもどう対処してよいのかわからない、わかっているけれども冷静にすることができない。

頭ではわかっている時に他人からわかっていることを言われてしまうと男性は自分自身を見下されたと思いこみ、それが怒りに変わってしまうことも少なくないのです。

この辺の男性心理を知っておくことも大切です。こういう時、女性側には悪気はありません。

むしろ私は、女性側は正しい事を言っていると感じます。しかし、いくら正しい事を言ったとしてもそれが相手に正しく伝わるとは限りません。

女性が男性にアドバイスをする時は、工夫が必要です。賢くこなす方法としては男性に対し、命令形ではなく、お願いするような、一歩、謙虚な言葉遣いすると効果は大きいでしょう。

またはある程度の信頼をよせて待つことも大切でしょう。しかし例え、人格を否定されても、また、すでにわかっていることをアドバイスされても、まったく怒らない男性もいれば、怒る男性もいます。

その違いはいったいなんなのでしょう?それが自我です。

心は一つの器です。器の大きさやその特性は個人差があります。

怒りは自身の理性を最大限働かせて冷静に行動するが必要です。

しかし、怒りを相手のせいにしているうちは自我心が改善されていないことになります。

 

 

良い心のアクセル

本能と理性

母性本能とか闘争本能という言葉があるように人間には本能と同時に理性が与えられている。この理性を除いては母性本能も闘争本能も動物には備わっている性質といえます。

また理性は、この本能をうまく制御して、人間の心を健康に成長させ、他人の成長の邪魔をさせないという働きもします。

人間はつい怒りとか、嫉みとか、恨みとか、嫉妬とか、中傷とか、いろいろの激情に左右されやすく、またそのことによって自分を見失いやすい。

理性はそういうときに、自分自身を冷静にさせて過ちを犯させないようにする働きをする。ですから人間には理性や良心、道徳心があるから、悪いことや過ちをしないで済みます。

悪い感情や欲望や考えに従って行動しそうになった時に、理性が働けば、未然に防ぐことができます。それでも、強い感情や欲望に負けて、自分にとって悪いことや人に悪いことや社会的に悪いことをしてしまうこともあります。

そういうことをできるだけなくすために、うまく理性を働かすことができるようになれたらいいのではないでしょうか。それができればこその人間です。

理性は心のなかの一部分を占める働きとして誰にでも備わっているものですが、その理性が正しく働けるように、日ごろの生活の中で心がけていくことによって少しずつ育つものです。

理性は行動をコントロールしていきます。自分の心をコントロールするためには、冷静な判断をすることですが、しかし、いざとなると冷静になれない。

ですから感情にまかせた思いや、言葉や、行動がどれだけ相手を傷つけ、自分も傷つき、双方にとってマイナスになるのかという事を知る必要があります。

過ぎた感情はリスクを伴うもだということを知って初めて、その過ちを回避する努力をするようになるでしょう。理性的な考え方を身につけるということはそういうことからです。

悪い感情を抑えられるような考え方、悪い欲望に身を任せないような考え方、悪い考えに従わずに考えを改めるような習慣は大切です。

悪い心にブレーキをかけるだけでなく、善い心のアクセルを踏むことも理性の働きを育てることだと思います。つまり良い習慣化です。

好い感情とは調った感情のことで不足にあらず、過ぎるにあらずです。

理性も過ぎれば冷たくなるし、理性を持てなければ怒りに翻弄されていまいます。

感情も不足では薄情となるし、過ぎれば敵をつくる。

自分を少しずつ育てていくことで、少しずつ自分をうまくコントロールできるようになっていけるものです。

心が成長するということは正しく理性を働かせて自分の怒りをコントロールできること。