死後の世界
質問を頂いた。
『人間は死んだら土に還りすべてはそれで終わりなのか。死んだ後には自分の存在は何もないのだろうか』と。
最近は死後の世界やあの世の事をテレビでも放映する機会が増えたようですが、このことは賛否両論というところであって、死後の世界には何もないとする人も、死後の世界にも自分は存在するとする人も、どれだけの確信があってそれを支持するのかとなるといたって曖昧なようです。
あの世での生活は信じられないとする理由。信じるとする理由。どっちともいえない。皆さんそれぞれです。
例えば臨死体験をしてからあの世の存在を信じるようになった。亡くなった人の姿をみた。その他の霊的な体験をした。確認できないから信じられない。などなどあります。
それでは問いかけをしている私はどうなのかですが、確信をもってあの世の存在、あの世での生活があると言っておきましょう。その根拠をこれからお話しいたします。
例1、今年1月2日電話が鳴った。紹介を頂いたということで中学生の娘を見てほしいということだった。
正月中ではあったが緊急を要する電話の雰囲気に会うことを快諾した。両親に付き添われた女子中学生の目はうつろで私の顔を見ようとしないどころか私を避けていた。
落ち着きがなくソワソワして背を丸めて下を見たままだ。両手は握りこぶし。動物のそれである。
ご両親から経緯を説明してもらった。31日の大晦日に某稲荷神社に深夜1時、初詣をして直後から娘の様子が一変して動物的な目になり変な奇声をあげるという。
言うことが支離滅裂で気違いになったとのこと。
あまりの危険な様子に病院に連れて行ったが安定剤を出されて正月明けに再度、精神科の外来に来てくださいと言われて帰宅したが、とても心配だから夜が明けるのを待って近くの拝み屋さんに連れていったといいます。
しかし、全く様子は変わらないとのこと。この状態で私の処に電話が入ったのです。
私は先ずこの気の毒な娘さんを正気に戻すことを最優先に考えた。
私は語りかけた。
『この者に憑いている霊よあなたは何故この者に憑依したのだ。
如何なる理由があってもこの地上の人間に憑くことは許されることではありません。いますぐこの者から離れなさい。おまえはどこの卷族(けんぞく)だ。話しなさい。』
『俺は豊川稲荷の※卷族だ』という。※卷族(けんぞく)とは稲荷神の使いをして修業している野狐(のぎつね)の霊をいう。私は野狐の霊を諭して娘さんから離れてもらい、本来の居場所まで私の守護霊にお願いして送り届けていただいた。
私は、このような問題がなぜ起きたのかを検証してあの世の真実を知っておく必要があると思い、ここに記すことにしました。
①先ず、娘さんは高校の受験に向けて猛勉強をしていて心身ともに疲労が限界まできていたということ。
②日ごろから親御さんが勉強を強要してストレスを与えてノイローゼに近い状態まで追いつめていたということ。
③娘さんの御両親が二人とも教員であったがため教育に囚われ過ぎて知識偏重主義となり家庭が不調和になっていたということ。
④深夜の神社は霊的にも非常に危険な場所であるということ。
⑤家族の心が不調和でありながら受験合格の願いを稲荷神社に祈願したということ。
⑥受験の合格は自身の努力の結果によるものであってそのような事を神社で祈願するのは人間の欲からくるご都合主義の神頼みにすぎない事。
このようないくつかの条件が重なって心に隙間をつくった結果が動物霊の憑依を受ける原因となったのである。
私は御両親をきつく戒めました。教育は知識の集積に囚われたら人間の心を忘れてしまうことを。
ご両親には深く反省している様子がうかがえた。お母さんは正気に戻った娘の背中に手を添えて帰っていった。
私は家族の平和と心の調和を願いながら見送った。このようなことで二度と再び私を訪ねてくることがないことを願って。
ここまで記述したことはあの世の存在と魂の存在を理解していただくための一例としてあげたものです。
また私自身が死線をさまよいあの世の世界を何度も見てきておりますからその事実は否定のしようがありません。
この世とあの世は次元が違いますので通常の肉眼では確認することはできないものです。肉体は3次元の存在ですから、その肉体で4次元を見ることはできないということです。
もう少し詳しく例え話をしましょう。映画館でみるスクリーンは平面ですから2次元の世界です。観客は立体空間の3次元の世界にいます。平面2次元のスクリーンからは立体3次元の観客の存在は知りえません。観客からはスクリーンに向かってどんなに声をかけてもその声は届きません。これが次元の違いです。
これと同じ現象があの世とこの世の関係です。私たちの生きる3次元世界からは4次元世界のあの世は分からないことと同じなのです。あの世を知るには4次元の心で観るしかありません。しかし、それは簡単なことではないし、あの世を知ることや見ることに人生の意味があるのではないことを添えておきます。
また何事もこの目で確認できないから見えない世界は認められないとする考え方も少し非科学的なところがあります。何故なら肉眼で確認できなくても存在する生命体は数えきれないほどの数です。
例えば、水は手に取ることもできますが、蒸発して気体となってしまえば肉眼では確認できませんし、手に取ることもできません。しかし、H2Oは存在しています。氷点下になると氷の個体となります。
水は温度を縁として形の変わった状態で宇宙に存在していることになります。見えないけど存在するものは宇宙空間に無限大にあります。科学が証明しているのは一部だけでしょう。
科学ではあの世の存在を証明できていません。しかし、存在しています。
これを読んでくださっているあなたには心がありますね。だから恋をすれば胸が切なくなります。悲しみのときは胸が苦しくなります。喜びの時は胸が躍ります。
人間の感情や理性や本能や知性はすべて胸に位置する心から発する意識です。頭脳からではありません。しかし、一般的には心は見えません。でも存在しています。全ての人に。心は魂です。
肉体は朽ち果てても、魂はそのまま生き続けます。私たちの肉体は3次元の物質で構成されていますが同時に4次元の魂を宿して生きています。ただ、4次元の魂ではあっても3次元の肉体を持つと肉体の五官によってのみ外界を知ることに慣れてしまいます。それが人間です。
4次元の世界、あの世を知るには心で観ること、感じることで可能になります。本来、人間には6感が備わっているものですが肉体中心の生活は心不在の人生となりやすく、感性が育ちにくい。
『花が散り実を落とし、また花が咲く。』この自然の法則と人間の生き方、輪廻転生は何も変わりません。それが宇宙の法則であり不変の真実です。私たちは宇宙の法則によって生かされているだけです。本来、人間の心は宇宙大の大きさ広さを持ち合わせているものです。
人間の地上における目的、生きる理由は魂の向上。この一点のためです。幸せも、不幸も人それぞれで価値判断に違いがあります。しかし、それは魂の向上のためのプロセスにすぎないでしょう。
幸せになることが人生の目的、生まれてきた目的とするなら深遠な魂の向上には程遠い生き方となるでしょう。
肉体五官に偏りすぎた生き方は心を見失います。私は特定の宗教に属しませんがイエスや釈迦の残した人生訓は素晴らしい心の在り方だと思います。
心のきよい者は幸いです。その人は神を知るからです。これはイエスの言葉ですが、心に執着がなければ霊の存在も、あの世の存在も観智することが可能となることをも意味しています。
※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
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