人間は神にはなれない

20100909_1931164私は神である。
我は〇〇神なり。
神様がこういった。
というようなことをいう人ほど、その場ではもっともらしくみえるのだが、良く考えるとその言動のどこかに疑問をもたせ、無理や矛盾のある場合が多い。
人間はどう逆立ちをしたって、神になることはできないし、宇宙創造の神が人間に入って語ることもない。
間を支配し、神と名乗っている?その霊は、実は人霊であったり、動物霊であったり、自然霊であったりする。
それなのに自分の物事に対する考え方、正しい生き方、判断力を培うことをせず、そういう人たちの所に出入りして当たるとか当たらないとか一喜一憂している人たちの何と多いことか。
次元の低い霊ほど人間の心の隙を支配(憑依)し、口を借りて「神」と名乗りたがるし、あるいは人間の都合で単にパフォーマンスしていることもあるようだ。
人間が神になることができない理由は、私たちの人生を考えたときに、この地上では何人といえども、自分の心を磨くという人生修行の最大の目的を外すことができないからです。
自然における生命の循環をみればわかるように、人間の生命もまた転生輪廻が永遠に続くことをみれば、この地上の修行もまた永遠に続いてゆくものでしょう。
人生には、これで完成したというシナリオはありません。
医学の進歩、科学の発展は、人工心臓や宇宙船をつくり、百年前の人知では想像も出来なかったような進展をみせていると思います。
しかし、医学の進歩は、反面において新しい病気の発見があり、現代医学の薬漬けの対処療法は、更に副作用をつくりだし体を破壊し、病気と医学は、いわば追いつ追われつで進んでいるといえる。
また、外食産業がもてはやされるほど味の濃いものを食べる機会がふえるなど、食生活の変化は、これまでになかった病気をつくりだす原因ともなり、いつの時代も医学の進歩と比例するように新たな病気が発生し、発見されているのです。
原子力や宇宙船は人類に新たな希望を与えたが、核を常備する世界の国々が増すにつれて人類絶滅という不安感をも同時に与えている。
このように科学ひとつとっても、発展の裏には常にリスクが伴い、これでよい、これで終りということはない。
同じように、人間の魂も、時々刻々、より以上の完成をめざして進んでいることは否定できない事実でありましょう。
こういう意昧において、肉体人間が神仏になる、ということはあり得ない。
そうなると私たち人間は、先ずは、人間らしく生きてゆくことが最も大事であるということがいえると思うのです。
それでは人間らしく生きるとはどういうことでしょうか。
私たちの心には神性仏性があります。
神性仏性は
良心としてもちあわせています。
愛があります。
慈しむ心があります。
寛容な心があります。
ですから人間は、人生の目的を明確に自覚し、その自覚にもとづいて思惟し、行うことではないかと思うのです。
しかし、思惟することも、行うことも、決して偏ることのない中道の心を忘れないようにしないと、せっかくの行為も想いも良からぬ方向へと傾いてしまいます。
例えば、一日の出来事を省みることは良いのですが、反省ばかりしているとかえって心は狭くなり、偏屈になることにもなりかねません
ところが、反省を忘れると自分の我に流されてこれまた方向性を見失います。
私自身も嫌というほど実感するのだが、働くときは働き、身体を休める時には休むことも大事です。
余暇を楽しむということも必要でしょう。
人それぞれの趣味も心を解放し、情操の学びとなるでしょう。
こうした中からでも数限りなく人間の生き方が教えられます。
企業戦士という言葉を聞いたことがありますが、夜遅くまで、仕事、仕事で追いまくられ、追い廻していると、本来の丸く大きな心までやがていびつにしてしまわぬともかぎりません。
人間は神様ではない、やりたいことをした方が得だと考えるやり方も人生の目的を見失ってしまう。
大事なことは、人間がなぜ生まれ、どんな目的で何を為すべきかをはっきりと自覚し、その目的に沿った想いと行動をしてゆくことであろうと思うのです。
身体を休める、音楽を聴く、旅に出る、芝居を観る、子供たちと語る。
そういうことのできない人生は、喉の渇きを無視して沙漠をゆく旅人に等しく、人間らしいふくらみ、安らぎから遠ざかるものではないだろうか。
こうした機会は、人間の目的から少しも離れぬばかりか、むしろその目的を成していくための原動力となるでしょう。
私の安らぎ
私自身が一時期、禅寺に足を運んだことをきっかけに、人間の心、魂ということについて深く探究するようになり、気づいたことは、正しい生き方の基準であり、心の在り方でした。
そしてそれが、人間らしく生きることを教えるものだということを知ったことでした。
子供の頃より、人間はなんのために生きるのかということを考え始め、社会に出てからもそのような心がどこかに在り、道を求める者は、孤り山に坐す禅僧のようでなければならないという自分なりの規範をつくり、その規範に自分をはめ込んで生きていたところがありました。
それを自分でも堅苦しく感じ窮屈だと思っても、その殻を破ることは堕落だと思って、自分でつくった型に自分をはめ込んでいたのです。
煩悩をなくするとはそういう生活をすることだと考えていたのです。
しかし、一方ではそんな生き方は「人間らしくない」と感じていたのでした。
そういった私の偏った価値観と生き方が、我が心の師の教えによって、その殼を破り、普通に人間らしく生きることが正しいのだということがわかったことは、実に大きな喜びだった。
私が自分でつくってきた生き方の規範は、父親の苦境など知る由もなく、父親の酒浸りと家庭内トラブルが根底にあり、こんな人生は嫌だという思いが幼心にもあったことも起因していたのです。
冗談を言って笑うことさえも罪のように感じ、いつも厳粛な気持を持たなければならないと思うと、私には冗談をいって笑うことも罪のように感じられていました。
特に、仏教に関する本には、煩悩を絶つための内容が書かれていることが多く、そのことだけを拡大解釈したり、間違った解釈によって自分の思いを押さえつけていたところがあったのである。
「中道で偏りのない生き方こそが人間らしく生きること」というこの言葉を聞いた時、私は自分でつくってしまった自分の堅苦しさからはじめて自分を解放することができたのである。
自分では殼を破ったと思っていても、殼をかぶっていた時の私は、実はほんとうの私ではなかったということです。
長年自分を自分で縛っていた心から、私は自分を解放することができました。
そうしてこれまでになく心が安定するようになっていった。
正しい心の基準ということや、偏りのない想い、生き方がわかってくると、心も安らかになり、安らかになった心で禅定しますからぐんぐん心の安定は深くなっていきました。
人問らしく生きることが、神性仏性をいただいている人間としての修行の道だということがわかれば、山に籠って修行しなければならないこともないし、肉体行は必要ないということがわかります。
これまでどれだけ宗教が人間らしさを歪めてきたか。
真に正しい法則、教えに気づいたとき、人間らしく当り前であることがどれだけ尊く偉大なことであるかということがわかってからは、以前のようなブレた想いが無くなってきました。
かつての自分がそうであったように、当り前であることが偉大である、ということがわからなかった当時は、当り前でない神秘的と思われている異常現象に興味を持つものです。
例えば、今でも相談者のなかには、自分の過去世や前世について教えてくださいという人がいますが、私は過去世や前世についてはお応えしておりません。
霊的な視点からすればお応えできるその可能性はゼロではありませんが、しかし、前世、過去世についてはそれほど興味がないということと、知る必要を感じていないというところです。
人間は前世、過去世の記憶を生まれる瞬間に記憶しないように仕組まれて生まれてきます。
そのことの意義を理解しないからこそ、前世、過去世に興味を持ち、こだわるのでしょうが、この人生を学ぶための人生ですから、前世、過去世を知る必要などないだけではなく、むしろ翻弄されたり、方向性を見失うということを考えれば邪魔なだけの情報にすぎないでしょう。
そして、聞いた前世、過去世についても100%信じているのかとなると、実はそうでもないといいます。
それはそうでしょう。その殆どは証明のしようがない信憑性に欠ける情報に過ぎないからです。
前世、過去世について触れているサイト、占い師、霊能者は数多く存在するようですが、前世、過去世よりももっと大切な、いまの人生について深く思惟してほしいと願うところです。
太陽は太陽らしく東から昇り、西に沈むという、当り前であることがありがたいし、地球は地球で一日に一回転するからありがたいし、もし太陽が一分間でも輝くのをやめたり、地球の回転が一瞬でもとまったりしたら、すべての生物は存在しえなくなります。
昼があり夜があり、春夏秋冬があり、眼も耳も鼻も囗も、身体も、当り前に働くからありがたい。
変わったことがないと、ありがたくないと思い、当り前であることに感謝することができないという心、その人がどんな信仰をしていようとも、その信仰は、ほんとうの意味での心の成長にはならないでしょう。
まして変わったことを売りものにしている宗教は真の宗教とはいえないでしょう。
ですから、病気をして治ったということよりも、病気をしない方がありがたいのであり、事故に会って助かるよりも、事故に会わない方がありがたいのです。
正しい信仰は、「当り前であることがありがたい」と、わかることでもあります。
「人間らしく」あることは大事なことだと私は思っております。
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