地獄のスポット・間違った信仰

田園風景

昨日は休みでお天気も良く、友人と約束をしていた薪割り機を軽トラックに積み、案内されて自宅まで届けることにした。

友人宅にいく途中、頭をファッともっていかれそうな感じと、何とも気持ちが落ち着かなく避けたい感じのポイントがあった。

その右手には立木のある小高い丘があったが、その丘から荒い霊波が流れてきているのが感じられる。

そして、田園風景が広がっている見晴らしの良い交差点に差し掛かったときは嫌な霊波が最高潮に達した。

この場所で事故による死者が出ていると直感したが果たしてどうなのか考える間もなく通過した。

そのポイントを通過して2キロぐらいで友人宅に到着した。我が家をでてから30分ほどだった。

田園風景の向こうには岩手山と八幡平の稜線が残雪で覆われていてとても素晴らしい景色だ。

友人ご夫婦は最高のロケーションのなかで幸せに暮らしていて微笑ましかった。彼は木工に携わる立派な職人さんとして真剣に会社勤めしている。

だが、出会った頃の彼は経営内容のよくない会社運営に疑問を持ち、幹部のやる気のなさ、役員の不正に相当に苦悩し、退社を考えていた。

その内容を聞いた時の状況は最悪なもので、社員の中には精神を病み、退社していく者もあったほどだ。

昨日の談笑のなかにもその話題がちらっと出たが、その当時会社内容を聞いた私が「ゴーストカンパニーだね」と評したと言っていたが、失礼ながら私自身は記憶がない。

しかし、彼は厳しい社内事情のなかでも逃げずに、試練として受け止め心のあり方を学んでいき、様々なことに気づいていったのである。

数年経った今でも会社の事情は何ら変わってはいないが、彼自身は以前の彼ではなく、不調和な事、邪悪なものにも動じない男に成長している。

39歳の彼は私の息子より一歳若いが頼もしい友だ。

木をふんだんに使用した彼の家の中は、玄関から入るとコンクリートの土間に立派な薪ストーブと、一枚板の赤松の白木テーブル、お茶も美味しく頂き、ついつい人生の談笑をして花が咲き90分も長居してしまった。

その時、たまたま話題になったのが、例の交差点のことで、事故が多く、死者も出ているということと、あの丘には昔、城があって、その周囲で戦があったということだった。

なるほどと合点がいった。丘の周囲では昔から様々な事故や変死があるという。

このように霊的に荒い波動のスポット、あるいは人間の波動を察知することは肉体的には心地よいものではないし、むしろ何も分らない方が良いのかもしれない。

だが、そのことによって人々の窮地に手を貸すことができる場合もあるから役立つ場合もある。

何故、こういうことができるのだろうかとなると。

片寄りのない中道の物差しで、自分の心の在り方と行動をしっかり反省し、丸い豊かな心の状態に已を浄化されることで可能になってくる。

つまり肉体から心が離れることができるほど可能になってくるものです。

逆をいえば、肉体に心が執着を持っていると不可能になってくる。

ところが、物欲が強かったり、お金に貪欲であったり、嫉妬心が強かったり、怒りっぽく、感情の起伏が激しく、どうみても心が不調和だと思えるような人でも霊感の働く人がいます。

このような人の場合は邪悪な者たちによって心を支配されている、或いは影響を受けている場合が多いものだが、言うこと、行うことに一貫性がなく、支離滅裂で奇異な言動が目立つからわかりやすい。

私達は、日頃の生活の中で、うらみ、ねたみ、そしり、怒り、足ることを忘れた欲望、思いやりがない、慈しみの心もない、人を愛することもしない、その他もろもろの執着した想念も、こうした心の自由と力を不可能にしてしまいます。

人間は、霊的な能力を得るために人生を歩むのではありませんが、人間として心を磨き調和することで副次的に能力が開花する場合もある。

そこで、こうした執着を善なる已に嘘のつけない心でその歪みを修正し、瞑想することによって、次元の違った世界とコンタクトされるようになってきます。

また、心が丸く、調和されてくると、自分の周辺が柔らかい黄金色のオーラー(後光)で包まれてきます。

人間が異次元に入る時は霊的なラインによって結ばれ、この世とあの世を結んでいるのです。

霊的なラインは自分の肉体と霊体をつなぎ、この世とあの世の行き来をするのである。

このラインは、その人の心の調和の度合いによって太くも細くもなる。

心に歪みがなくなり、調和されてくると、霊的ラインが輝きを増し、明るく、太くなり、黄金色となってきます。

人間の死といわれるのは、霊的ラインが途中で切断され、二度と再び肉体を支配出来なくなった状態です。つまり霊体のライフラインが切断された状態である。

霊ラインの太さ、明るさは生前の心の状態に比例してつくられており、死後の生活の決定は、霊体のラインが切断されたときの状態によってもちがってくる。

つまり、地獄に堕ちる者、天国に昇天する者、それは霊体ラインの切断時の状況によって大きく左右されるといえるだろう。

しかし、あの世の地獄に堕ちたとしても、自分を反省し、人間神の子としての自覚が芽生えてくれば、その芽生えた心境に比例した調和の世界にのぼって行くのです。

この世の人々が、イライラした心のままで反省したり、瞑想することは、玄関にカギをかけないで夜に眠るようなものです。

それはもっとも危険この上ない行為といえましょう。この地上周辺には、すでに亡くなって地獄に堕ち、厳しい環境に耐えきれず、この世に執着を持っている霊たちが多くいます。

彼らは、同じような心の波長の持主に、生きる場を求めてきます。

このため、イライラの心で反省や瞑想にふけると、波長共鳴の原理にしたがって、こうした地獄霊や動物霊を呼び込むことになります。

ノイローゼ、精神分裂は、こうした別人格の霊たちの憑依によって発生した現象といえるでしょう。

もっとも、ノイローゼや精神病は、禅定や、瞑想した経験がない者もいます。

ある日突然、そうした状態に追い込まれる人もありますが、こういう人たちの場合は、心の中に執着の念を溜め込んで、常にそこから離れることが出来ないでいるためにおこるのです。

人間関係や、事業の失敗、失意、うらみ、ねたみ、卑下、挫折、失望、強い哀しみ、等々の執着の念が心の中を占め、それから離れられないために、同類の霊を引き寄せ、精神病になってゆきます。

精神病院に勤務する看護師が精神を病んで相談にくるケースなども霊の悪影響によるところが大である。

その意味では、心療内科や精神病院で働く人たちの場合、よくよく心を調える習慣を身につけておく必要があるといえるだろう。

地獄霊の多くは、孤独で自分の小さな心の枠の中で、苦しみ悲しんでいる人びとの心を支配します。ウツ病、ソウ病は、こうしたことの原因も否定できない事実であるということです。

その意味でも精神的疾患の人やアルコール依存症なども心を調えるべく、自分の癖、傾向性を改める努力をしなくてはならないのだ。

精神分裂は本人以外の別な霊がその肉体を支配し、しゃべり始めるので、話があちらに飛び、こちらに飛んできます。聞き手は相手の話が急に変わり、それまでのその人でない傾向を帯びてくるので、これはおかしい気が違ったと見てしまいます。

精神病になると大抵はその一生を棒に振ってしまいます。気の毒というほかはありません。

しかしその原因はどこにあったかといえば、精神病を誘発する本人の心が、モノに執着し、物事に囚われるために起こるのであり、それも非常に片寄った形をとるので、どうすることも出来ません。

地獄霊は自分の本性さえも失っているため、生前の名前も、住所も、忘れ去っている場合が多いものである。

地獄に堕ちた人びとは、在世中に己自身の心を失い、自我我欲、自己保存に明け暮れた人びとです。

これらに憑依される人びとの心も同じ次元の人間です。

だからその地上での生活は、すでに地獄を現わし、心は常に何かにおびえ、あるいは怒り、悲しみを持ち、起伏があり、不安定そのものなのです。

救いは己の生命の自覚以外にありません。自覚は正しい道を実践された生活の中からひらかれて行くのです。

地獄霊たちも人間と変わらない肉体を持っています。肉体といってもあの世の霊体であって、その体は心に曇りをつけたままなので、黒くよどんでいます。

地獄界はさまざまな世界をつくっています。

この地上界で常に闘争と破壊を目的として人びととの調和を失った者、思想の自由を否定して自己保存に徹した者たちで、心に闘争心を持ったままこの地上を去った者たちである。

常に、自分以外の者は皆自分の敵であり、争いにつぐ争いをくり返しています。

間違った信仰

地上の信仰の中には神罰というのがあって、その信仰に疑問があっても、神罰を恐れるあまり、盲信、狂信の道を歩んでしまいます。

常識で考えてみて、神仏が人間に罰を与えるかどうか、まず考えてみる必要があるのです。

神仏というのはいわば人間の親です。

神仏の心は無償の愛そのもであり、太陽の熱・光りのように、善人、悪人の差別なく、
万人に惜しみなく与えてくれる慈悲の心しかありません。

その神仏が、一寸先も不明な人間に、どうして罰など与えましょう。

罰は、人間の心の黒い想念が自らつくりだすものである。

 あなたは自分の子どもの不幸を喜ぶだろうか。

そんな親はいないはずです。

それと同じように、神仏は人間の幸せを常に願っています。

信仰しないと罰を与える、お金を上げないと怒り出すなど、こういう神を語る人間や宗教を、恐れてはいけません。

罰は正しい道に反した偽我の自分がつくることを知り、心と行いの正しい道を悟ることが大事です。それが神の心に通じることなのです。

神は社殿や仏閣などの伽藍に祀られるようなものではなく、宇宙の意識エネルギーがそのまま神の現れだということです。

その意識は私たちが心で意識すれば自分の中にあるということだ。

私たちの心こそが神の宮なのである。

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