啐啄同時(そったくどうじ)
禅の言葉に『啐啄同時・そったくどうじ』というのがあります。
今の時期5月は野鳥にとっては子育ての時期です。卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛(ひな)がコツコツとつつくことを「啐・そつ」といい、ちょうどその時、親鳥が外から殻をコツコツとつつくのを「啄・たく」といいます。
雛鳥が内側からつつく「啐」と親鳥が外側からつつく「啄」とによって殻が破れて中から雛鳥が出てくるわけです。
両方が一致して雛が生まれる『機』(タイミング)を得て両者相応じる得難い好機のことを「啐啄同時」というのです。
親鳥の啄が一瞬でもそのタイミングをあやまると、中のヒナ鳥の命があぶない、早くてもいけない、遅くてもいけない、まことに大事なそれだけに危険な一瞬であり啐啄は同時グッドタイミングでなくてはなりません。
もう少し簡単に説明すると、卵の中の雛が外に出ようとして内側から殻をたたくと、同時に母鳥も外側からコンコンと叩いて割り、雛が外に出るのを助ける。
これは雛の誕生と親鳥の手助けだけにとどまることではなく、迷っている人が答えを出すときグットタイミングで、賢者がヒントを与えることをいっているのです。
学びというのは教える側がただ単に知識を流せばよいというものではなく、学ぶものの状況、心の段階に合わせた内容の提供と時期(機)が大切なものです。
心の準備が整っていない時期に迷いを吹っ切るためのヒントを与えてもなかなかスンナリとは心に入っていかないのがわかります。また逆に機が熟していると与えたヒントが砂に吸い込まれる水の如く吸収されるのがわかります。
同じように与えたヒントでもそれを受ける側の気根(心根)によって全く生かされなかったり、核心の部分に触れることで逆に反発したり、またそのヒントで大切なことに気づき迷いを脱する人もいます。
気根とは心の大きさとも言えますが、ものの道理に対する理解度の差ともいえます。ただ、この道理に対する理解度という広さは心に拘りや執着があるほど小さく、心に落ち難く前進しがたいものです。
ですから日頃から努めて心の在り方を学び、それを生活に実践していないと、いざというとき大切なヒントにも気づけずに戸惑うだけで苦悩の日々となりがちでしょう。
さて中国に鏡清禅師(きょうせい)という方がおられた。
一人の僧が禅師に「学人啐す、請う、師、啄せよ」といった。
意味⇒学人(修行僧)=「私は十分に悟りの機が熟しております、私は今まさに自分の殻を破って悟ろうとしています、どうぞ先生、外からつついてください」
鏡清禅師=「つついてやってもいいが、本当のおまえが生まれてくるのか」と。
学僧=「私は、もし悟れなかったら世間に笑われます」といったので、
鏡清禅師=「この煩悩まみれのたわけものめが」と、一喝した。
※自分の殻(から)という執着を破って悟ろうとしていると話した修行僧が悟れなかったら世間の笑い者になるという言葉を聞いた師はつまらないことにこだわっている弟子の心に悟りなど程遠いものを観たから、「この煩悩(ぼんのう)まみれのたわけものめが」と、一喝したのです。
師匠と弟子、親と赤子、先生と生徒
このように「啐啄同時」は、弟子をヒナ鳥に、師匠を母鳥にたとえ、師匠と弟子が意気相合して、間髪をいれる瞬間もないことを示すグッドタイミングな間合いの言葉です。
禅門では修行者と師僧とが、互いに意気が合って一体不離になっていることをいいます。
すなわち弟子の修行が円熟しておることに気づいて、師僧が悟りの機会をあたえてあげる、但し、これは師僧の励ましに応じる境地に弟子が至っていなければ敵わないことです。
鏡清禅師は「啐啄の機」ということを常に説いておられたそうです、師匠の悟らせようとする働きと、弟子の悟ろうとする働きが一致した時が悟りの好機、気づきのチャンスなのです。
親子の場合も、卵の殻を内側から子が無心につつき、母も外側から無心でつつく、互いに意識せずとも、「啐啄同時」というのは自然にそうなっているものでなければならない。相談しながら同時につっついたりするものではありません。
毎年これからの時期に野鳥を観察していますと感慨深く巣立ちの時にも「啐啄同時」しています。自分で餌をとり自活していく能力が雛に具わったとみるや、親鳥は雛(ひな)に巣立ちを促(うなが)し外から呼びかけています。
雛もこれに応じて巣から飛び出します、巣立の瞬間です。しばらくは親が運んできた餌をいただいていますが、親を見習い徐々に自分で餌を取り始める。
しかし人間は時期がきているのに子離れしない親、親離れしない子がいかに多いことでしょうか、「啐啄同時」の機会を逸してるようにもみえるし、タイミングを大切にしていない気がします。
親の指導と子供の自発とが一致した時、はじめて効果をあげるのではないではないだろうか。
ほんのちょっと待っていれば子供がひとりでに覚えたり行動したりするのに、待てずに一方的な親の押し付けで逆効果になっていたり、今教えこもうとしてムダ骨を折ったり、教えなくてはならない大事な時期をはずして手遅れになったりしていることが多いでしょう。
子供は知らないと思っても、親の身勝手はちゃんと見抜いていることもあります。また淋しい子供の心は、親の愛情をもとめています。
教えをうける側と教えを与える側とが一致した時、真のしつけや教育がおこなわれる。子供の教育は、その心身の成長の段階に応じて適宜適切(てきぎてきせつ)におこなわれなくてはなりませんが、とかくズレてしまいがちです。
人間関係においても、相互の啐啄が時間的に間髪入れずに意気投合しておるようであればうまくいくでしょう。
機縁とは、あることが起こるようになるきっかけをいうのですが、おのずとおとずれてくるものであって、つくろうとしてもつくれるものでもありません。
機縁とは熟するもので、この機縁が熟した時こそ、啐(そつ)の時であり、啄(たく)の時です。
親と子も、そして世の中の人間関係においても、人と人との関係が疎外(そがい)されている現代社会において、この「啐啄同時」は、とても意味深い言葉となります。
親と子、師と弟子、人間と神仏の関係、また自力と他協力の双方が大切であることを大変うまく説明している言葉だと思います。
たとえば、同じ一冊の書物でも、10代の頃に読んだ感想と50代になってから読んだ感想とでは、まったく異なってくる場合がある。10代の頃にはどうしても理解できなかった本が、50歳になって読み返したときには、素晴らしい人生の書としてその後の人生の羅針盤となることもあるだろう。
書物に書かれていること自体は何も変わっていない。変わったのは読んだ人の心境だ。書物は常に、その人を導こうとして、目の前にあった。
しかしその書物がどんなに素晴らしいものであったとしても、それに気づくだけの心の力が養われていないとき、気根が整っていないとき、つまり機が熟していない人々には、どうしてもその書物の持つ光に気づくことができないものです。これは言葉でも同じことがいえます。
弟子が、今まさに悟ろうとしている。しかし今一歩のところで悟ることができない。あと少しの何かが足りない。それが何かどうしてもわからない。
師は、その瞬間を見極めて、その時に雷鳴(らいちょう)の如(ごと)く、弟子の悟りに必要な最も適切なアドバイスをする。
この自力と他力が絶妙のタイミングで組み合わさったときに、弟子は悟りへの障害を打ち破っていくことができる。
私たちが心の在り方や宇宙秩序を学び実践していくことを目指すなら、常にこの自力と他力の原理を意識しておくべきであると思う。
何も自助努力をせず、「神は愛だから、仏は慈悲だからこんな私でも救ってくださる」などと100万回真言や読経を唱えたところで気休めに過ぎないし、片頭痛のときの鎮痛剤にすぎないだろう。
また、かたくなに他力を排除して、自分自身だけの力で生き抜こうとしても、それもまた偏った生き方であり、社会から孤立して協調性にかけることになりかねない。
要は何事も偏らず思考し、実践し生活することが大切だろうと思うのです。
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