死は悲劇ではありません
これは昨年3月11日の震災で犠牲になられた多くの方々の死を軽んじて話すのではないことを先に申し添えておきます。
亡くなられた方にとっても、残された遺族の方々にとっても別れが悲しみを誘うのは人間としてごく自然な感情です。
ここではどのような状況で亡くなろうとも霊的な4次元の世界からみれば必ずしも悲しむにあたらない場合が多いのだということを記述させていただきます。
『死ぬことは悲劇ではありません。死を恐れてはならない。』
と、4次元の信頼に足るガイドは語ります。
ガイド『人間は、この世にあっていつかは死の現実に直面せざるを得ない。それは、愛する人であるかも知れないし、親友であるかも知れない。近所の人であるかも知れないし、同僚や知人であるかも知れない。中には、気の毒にもそれが身も心も打ち砕くほどの悲劇的体験となる人もいる。
そしてその悲しみの淵から抜け出るのに何か月も、時には何年も、掛かることがある。その観点からすると、人間が例外なく死を超えて生き続けるということについて確固たる証拠に基づく信念と内的確信をもつ魂の人は、何と恵まれていることであろう』と。
つまり『死を超えて生き続ける』とは生まれ変わり、輪廻転生することを言っているのです。ですから死ぬことは悲劇ではありません。この世的な感情や価値観だけが全てではないのです。
今日のような地上世界に生き続けねばならないことこそ悲劇です。
何故なら利己主義と貪欲と強欲の汚染で足の踏み場もなくなっている地球に生き続けることこそ悲劇というべきです。
死ぬということは物的身体のオリの中に閉じ込められていた魂(真我)が自由を得ることです。
苦しみから解放され真の我に目覚めることが悲劇でしょうか。豪華けんらんの色彩の世界を目のあたりにし、地上のいかなる楽器によっても出すことのできない妙(たえ)なる音の調べを聴くことが悲劇なのでしょうか。
地上で存分な創造活動ができなかった才能あるあなたが、その潜在する才能を発揮する機会を4次元に移住することで得るのが悲劇なのでしょうか。
利己主義もなく貪欲(どんよく)もない世界、魂の成長を妨げる金銭欲もない世界に生きることが悲劇でしょうか。あなたはそれを悲劇と呼ぶのでしょうか。
一切の苦痛から解放された身体(霊体)に宿り、一瞬の間に地上世界をひとめぐりでき、しかも霊的生活の極限の豊かさを味わえるようになることを、あなたは悲劇とお思いになりますか。
実は死後の世界に馴染むために人間は地上にいる時からしばしば霊界を訪れています。
そうでないと本当の意味での4次元で生きる活動を開始するときの霊にとって、霊界の環境がショックを与えることになりかねないからです。
問い『私たちが死んであの世へ行くと、地上で睡眠中に訪れた時の体験をみな思い出すのでしょうか?』
答えて『もちろんです。なぜかと言えば、その時点であなたは肉体の制約から解放されて、睡眠中に体験した霊的意識を発揮できるようになっているからです。睡眠中の全記憶、睡眠中の全体験の記憶が甦ってくるでしょう』
問い『では、死後下層界へ赴(おもむ)かざるを得なくなった霊の場合はどうなるのですか』
これは、そういう人もやはり地上時代の睡眠中の体験、たぶん下層界での体験を思い出し、それがあの世の下層界へ行ってからの反省にプラスになるのかという問いである。
答えて『死後下層界へ引かれていく人はこの地上での睡眠中の訪問先もやはり下層界ですが、この階層での睡眠中の体験は死後の身の上の反省材料とはならないでしょう。なぜなら、このようなケースは死後に置かれる環境はあい変わらず物質界(地上)とよく似ているからです。死後の世界は下層界ほど地上とよく似ているのです。その理由は波長が同じように物的だからです。』
高い界層になるほど波長が精妙になってきます。これは心のステージが高い人ほどオーラ(波動)が柔らかく安らぎを感じることで理解できるでしょう。
それでは地上にいて生活している間でも睡眠中の体験を思い出すものかどうかについて説明しましょう。
夢の状態は肉体から離脱している状態ですが、朝になってその身体にもどり、その霊的体験(夢)を思い出そうとしても思い出せません。
なぜかと言えば、霊による意識の方が脳による意識より大きいからです。小(脳)は大(霊)を収容することができず、そこに無理が生じるのです。
それは例えば小さな袋にたくさんの物をぎゅうぎゅう詰めにするようなものです。ある程度までは入っても、それ以上のものを無理して入れようとすると形が歪んでしまいます。
それと同じことが肉体にもどった時に生じているのです。しかし、魂が進化してある一定以上のレベルの霊的意識が芽生えた人は、霊界での体験を意識できます。
そうなると脳にもそれを意識するように訓練することができます。
先ず私たちは肉体の臨終を境に霊体がその身体から離れると、脳という地上生活のための意識の中枢(ちゅうすう)から解放されます。
すると意識は4次元の世界の波長(進化の程度による個人差がありますが)での体験をするようになり、体験している間はそれを意識しております。
その体験の記憶が死後に役立つかというと、その通りです。何一つ無駄にはなりません。摂理(せつり)はうまくできているものです。
次にこのような睡眠中の体験はただ単に死後への準備なのかということと、それとも為すべき仕事があってそれに従事しに行く人もいるのか、というについて説明しましょう。
仕事をしに来る人もいます。しかし、ふつうは死後への準備です。物質界(地上)での生活のあとから始まる生活にとって役に立つような勉強をするために、あちらこちらへ案内されるのです。
そうしておかないと、いきなり次元の異なる生活形態の場へ行った時のショックが大きくて、その回復に相当な時間を要することになります。
そういうわけで、あらかじめ霊的知識をたずさえておけば、死後への適応がラクにできるのです。
何も知らない人は適応力がつくまでに長期間の睡眠と休息が必要となります。知識があり執着がなければすんなりと霊界入りして、しかも意識がしっかりとしています。
要するに死後の目覚めは暗い部屋から太陽のさんさんと照る戸外へ出た時と似ていると思えばわかりやすい。光のまぶしさに慣れる必要があるわけです。
霊的なことを何も知らない人は死という過渡的現象の期間が長びいて、なかなか意識がもどりません。さしずめ赤ん坊のような状態です。ハイハイしながらの行動しかできません。
睡眠中にあの世に訪れた時の記憶は一応思い出すのですが、それがちょうど夢を思い出すのと同じように、おぼろげなのです。
良い心がけが無駄に終わることは、地上においても4次元世界においても、絶対にありません。 そのことを常に念頭に置いて生活することです。
真心から出た思念、行為、人のためという願いは、いつか、どこかで、だれかの役に立ちます。
そうした願いのあるところには必ず霊界から援助の手が差し向けられるからです。
地上は今やまったくの暗闇におおわれています。
迷信とご利益を誇示する間違った宗教指導と狂信、盲信、無知のモヤが立ちこめております。
天の意志を受けて正しく意識できる人はごくわずかしかいません。
聖職者といわれている指導者たちの悪知恵と既得の権力が生ける天の意志と取って代わってしまいました。
物質万能主義がその高慢な頭をもたげ、霊的真理をことごとく否定しました。
その説くところは実に血気盛んでしたが、それがもたらした結果は無益な流血・悲劇・怨恨(えんこん)・倦怠(けんたい)・心の病・絶望・惨(みじ)めさ・混沌(こんとん)・混乱を伴った世界規模の大惨事でしかありません。
しかし、天の意志をいつまでも押し黙らせておくことはできません。
魂の覚醒(かくせい)が今ふたたび人びとの心に芽生えて世界に正気を取りもどさせることが必要です。
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