魂という純金・霊界から地上へ

魂
人間、どうしても必要でないことに心を向けて不安になるが、やることがいっぱいあったとしても優先順位を決めれば動きやすいもの。
そして、意外と先延ばしすることは精神疲労となって心に残るために心配のた種になる。
この不安感や心配する心、更に恐怖心というものが、人間のもてる能力や才能というものを発揮できない大きな原因であることに気づいているだろうか。
私たちは自分の持てる能力、才能がどれほのものであるか、またその能力を地上生活の場においてどれだけ使うことができるのかに気づいている人は少ない。
しかし、私たちの魂がこの地上に生まれては還り、輪廻するに際して誰もが、地上で使用するその才能、能力にについてあらかじめ生まれる前は認識しているのです。
ただ、肉体を持ってこの地上に生まれた瞬間にその認識は心の深層部分に潜在してしまうことで、肉体五官を頼りに生き、判断している私たちは、それぞれの能力と才能、智慧に気づかないだけである。
才能がありながら、能力を備えていながらそれを使用しない者は、才能の無い人より大きな自己責任を取らなければならないだろう。
これは能力の備わった者が霊界にいるときに志を立てていながらそれを行わなかった場合の自己責任という意味です。
志は人それぞれで、自分の魂を向上させるにはどういった生き方が一番良いかを自分で決めてこの世に誕生するということだ。
またその才能を自己の欲心のために使用した者は霊界に還ってからそれだけの軌道修正を図るための非常に厳しい反省と心(魂)の調和の修練をすることになる。
それが才と能力、力を持てるものの責任ということです。
一方、仏教で言うところの生老病死という言葉があるように、人生においては、誰もが、苦楽と共に悲しみも経験します。
悲しみという心の働きは、それが魂の琴線(きんせん)にふれた時、魂の悟りを開かせる数ある体験の中でも特に大いなる深い意味をもつものであり、心の眼を覚まさせる瞬間となるものであります。
魂はポイントととして胸の部分を中心に奥深く埋もれているのですが、それを目覚めさせるためには多くの体験を必要とします。
こうしてみると、悲しみ、無念、病気、不幸、挫折、等の厳しい環境は地上で生きる私たち人間にとって、とても重要な教訓を得るための大切な手段であり、要素であるということが理解できるでしょう。
もしも、目の前の問題がそれほど難もなく簡単に学べるものであれば、それは自分にとっては大して重要な価値をもったものではないといえるのです。
悲しみの極みにおいてのみ気づかされること、学べること、習得できることがどれだけ己の魂にとって深甚な価値を含んだものであるかに気づかなくてはなりません。
 
これなでブログの中で繰り返し述べてきたことですが、宇宙の真理心の法則は魂がそれを悟る準備の出来た時に初めて学べるものであるし、心に吸収されていくものであります。
地上生活においては、自身の霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはないであろう。
私が主催する『心と体の健康教室』に参加して方々でもそうですが、こちらからいくら手を差し伸べても、それを受け入れる心の準備が出来ていない人の場合は本来の正しい霊的気づき、覚醒が叶うことはありません。
気づき、覚醒、それはそれぞれの魂のステージ、進化の段階によるところです。
 
肉体を持ち、五官によって生命維持ができている私たちは、物質的観点から宇宙を眺め、自然界を眺め、日常生活での出来事を物質的尺度で測り、考え、評価するのは無理もないことです。
これは心の世界、宇宙てき視野からみますとほんとうに小さな出来事でしかありません。
言い方を変えると3次元的思考で4次元世界の広大さを推し量るのは無理があるということです。
心(魂)の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。
そういった意味では辛い失意も落胆も魂の肥やしといえるでしょう。
その肥やしが成長のために必要であるのに不満を言い、避けて通ることを選ぶならば、この地上に生まれる前の自分の志を捨てることになるということです。
選択という場が何度もありますが、魂がその秘められた力を発揮するにはいかなる肥やしを摂取すればよいかを知ることも大事であろう。
地上生活の目的を尋ねると、『幸せになるため』とかいう方もいますが、実はそれは単なる魂の向上をはかるための一つのファクターでしかありません。
幸せの条件は何だろうと考えてみてください。
お金でしょうか。土地でしょうか。職業の違いにあるのでしょうか。名誉にでしょうか。地位にあるのでしょうか。友人の多さでしょうか。持家だろうか。
こうしてみると、地上生活におけるこういった幸せの条件はとても不確実なものです。
幸せを感じて生きている人たち、失意のどん底にある時は、もう全てが終わったかの感じを抱くものですが、実はそこから真のスタートであり、幾多の苦難を乗り越えてきたからこそ、物ではない感動に目覚めているのです
私たちにはまだまだ発揮されていない心の力・・・それまで発揮されたものより遥かに大きな力が宿されています。
それは楽な人生の中では決して発揮されることはない究極の宝珠である。
この究極の宝珠は不思議なことに、苦痛と逆境の中にあってこそ発見され、悟れるものであります。
金塊(きんかい)もハンマーで砕かないと、その純金の姿を拝むことができないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経てこないと出てこないのです。
人間の生活には過(あやま)ちはつきものですが、しかし、その過ちを悔い改めることによって魂が成長します。
苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。
何かにすがり真言を唱えて御利益があるとする教えは危険この上ありませんし、邪道といわなければなりません。
人間は順調な時こそ足元に気をつけなくてはならない。
何もかもがうまくいき、日なたばかりを歩み、何一つ思い患うことのない人生を送っていては、他人の心も理解できず、魂のステージアップもなく、まして磨かれることもないだろう。
何かに挑戦し、苦しみ、宇宙の一部であるところの地球という星の場において、魂の扉を開き、神から授かった己の魂という器で試練に挑むこと、それが悟りを開くことにつながっていく。
その過程において発生する困難にグチをこぼしてはいけない。
困難こそ魂がステージアップするための条件であるからだ。
むろん困難の最中においてはそれを有難いと思えないだろう。
しかし、困難を乗り越え、あとでその時を振り返ったとき、それが私たちの心の眼を開かせるこのうえない必要条件肥であったことを知ったとき、全てに感謝するでしょう。
私たちがこの世に生まれてきて、楽な暮らしだけをしていたなら、どうして進歩や自己開発や、偏りのない中道の個性が成就できようか。
これは厳しく、辛い教訓ではありますが、何事においても価値あるものほど、成就には困難がつきまとうのです。
己の旨の内にある宝珠は高次なものほどその存在に気づくまで困難を極めるものである。
私たちの魂が休むことなく24時間働き、過去、現在、未来において輪廻をしているように、宇宙もまた一瞬たりとも休むことなく働き、全存在の隅々まで完全に通じております。
神は法則として働いているのであり、宇宙の中心的意識として存在しているのである。
宇宙の一部である存在の有限なる人間に宇宙を変える資格も裁く資格もない。
勿論、自分自身さえも裁いてはならない。
己の中の物的尺度で見るかぎり、世の中は不公平と不正と邪道と力の支配しか見えない。
当然かもしれないが、しかしそれは極めて偏った、誤った判断であります。
地上では必ずしも正義が勝つとは限らない。
なぜなら地上は肉体と物質の世界であって原因と結果の法則は必ずしも地上生活中に成就されるとは限らないからです。
この世では為そうとしたこと、それが形となるまで時間がかかるのです。
ですが地上生活を超えた長い目で見れば、原因と結果の法則は一分の狂いもなく働き、天秤は必ず平衡を取り戻します。
その点あの世では心に思ったこと、心に思ってあの世に還ればその状態がそのまま現象となって表れる世界である。
その点がこの世とあの世の違い、3次元世界と4次元世界の相違点である。
霊的に見て、自分にとって何が望ましいかは、私たち自身には分からない人が多い。
もしかしたら、あなたにとっていちばん嫌なことが実は、あなたの成長に対する最適の回答であることもあり得るのです。
否、そいう場合が多いのです。
ですから、なかなか難しいことではありますが、物事は物的尺度ではなく霊的尺度(中道の心、偏りのない、客観的)で判断するように勤めることです。
そういう意味で、あなたにとって悲劇と思えることが、天から見れば幸運だと思えることがあり、あなたにとって幸福と思えることが、天から見れば不幸だと思えることもあるのです。
それは霊的判断による違いです。
きを選ぶか、果敢に困難に立ち向かうかです。
心からの祈りというものにはそれなりの回答が与えられます。
しかしそれは必ずしも私たちがが望んでいるとおりの形ではなく、その時私たちの心の成長にとっていちばん望ましい形で与えられるであろう。
これが天の配剤でもあるが、天は決して人類を見捨てるようなことはしない。
しかし、宇宙からの恵み、施しを我々人類が地上的な尺度で批判することはやめなくてはいけない。
きょうの最後に絶対に誤ることのない霊的成長と真実について記しておきますが、そのうちから二つだけ紹介してみましょう。
一つは、動機が純粋であれば、どんなことをしても決して魂は被害をこうむることはないということ。
もう一つは、人のためという熱意に燃える者には必ずそのチャンスが与えられるということ。
この二つです。
焦ってはいけません。何ごとも一歩、一歩の歩みが大切であります。
私たち人類が、意識をもってこの地上に誕生するのに、どれほどの想像を絶するような長い歳月を要したかを思えば、たかだか人生80年前後のことでジタバタすることではないだろう。

※お知らせ。

※これまで一日おきに記事を投稿してきましたが、仕事と奉仕活動としてのカウンセリングが毎日と忙しく、投稿記事を書く時間が取れにくい状態にあります。

つきましては、26年1月からは週に一度のサイクルでアップする予定でおります。いつも楽しみにしてこのブログを訪問してくださっている方々には申し訳なくも、本当に心から感謝を申し上げます。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になるものがありましたら下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。

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