にんげんの矛盾

私は無類の犬好き。我が家に流れ着いた猟犬を含めてこれまで4頭を見送った。現在は14歳の雌の老犬と野鳥の声を聴きながら毎朝の散歩を楽しんでいる。
特に犬の場合は介助犬や盲導犬のように人間に対し生活の中で直接的に関わり貢献するものたちがいます。
他のペットもそうですが、愛された動物たちは感謝の念をもっています。何故なら動物にも心(魂)があるし、死んでのちも生き続けているからです。
まして人間が死後も生き続けることに関してはもはや“信仰”の問題ではなく“事実”として受け止めるべき時期に達しているはずなのですが、しかし、いまだに唯物的思考に執着している人が多い。
唯物的とは精神的(心)思考を重んじるのではなく、物質優先、打算的な思考をすることをいい、お金や物に価値観をもつことです。
さて私が親しくお付き合いしていた農家で片田舎の家族に90歳になるお婆さんが寝たきりでいたが、私はこのお婆さんの顔は見たことがない。
どういう訳かこのお婆さん、若いころから家の周りで蛇をみつけると決まって殺したという話を家族から聞いて知っていた。相当な数を殺したようだ。
私が訪問したとき、奥の寝室からお婆さんの『この大っきな蛇をとれっ~。』という奇声と自分の身体をバンバンと叩く音が聞こえていたが、無益な殺生をしたことで蛇の恨みを一心に受け、蛇の霊体が体に巻きついての発狂である。
やがてその声もきこえなくなる時期が来て他界した。
『人間、この身勝手な動物』を考えてみると、人間ほど矛盾に満ちた行為をしている生きものは他にいないのではないだろうか。
神の化身かと思うほど気高い行為をする人がいるかと思う一方で、悪の権化のように極悪非道を平気でする人間もいます。
知恵のある動物には違いないが、何とも厄介な生き物でもあります。そして人間が一番多く殺生をしています。
ご存知のようにクリスマスはイエス・キリストの生誕を祝う日です。
その日に、あるいはそのイブにご馳走をいただくのは良いとして、七面鳥をそのために飼育し絞めて食卓に上(のぼ)るというのは、一体だれの許可を得てやっているのでしょうか。
あの日一日だけで世界中で果たして何百万羽が殺されていることでしょう。
その事実を天上界から見ているイエス・キリストが喜ばれるはずはないと思うのですが。
私たちは普段の食事をみても何ら不足のない恩恵にあずかっているのに、それでも多くの生き物の命を奪い食欲を満たそうとし、そして飽食による病気と闘っているという矛盾があります。
また、自分の愛している動物たちがちょっと傷ついても大騒ぎして獣医さんのところへ掛け込むのに、動物実験でメスを入れられ、やがて殺されていく同じ種類の動物へは一片の同情も憐(あわ)れみをも憤慨(ふんがい)も覚えないところもあります。
そういう人はきっとこう弁解するでしょう。
『酷(ひど)いことであることは私も認めます。でも、結局は人類の医療や福祉のために行われているわけでしょう?』
『他の手段では成就(じょうじゅ)し得なかった発見がたくさんあります。それによってどれだけ人類の苦痛が軽減されたことでしょう。』と。
しかし、この理屈がいかに根拠のないものであるか、人間だけの都合による殺りくであるかは、この人には考えの及ばないことでしょう。
ある世界的権威の医学者の数人は強く提唱しています。
『病気には必ずそれにもっとも適切な治療法が用意されている。がそれは、動物に苦痛を与えるやり方からは絶対に生まれない。』といった意味のことが述べられています。
道徳的に間違っていることが科学の世界で正当化されるということは、絶対に有り得ないのです。
物を優先した考え方や体を優先した考え方には決して心(魂)を主とした考えは生まれません。
人間も動物も魂を最優先にすることの大切さに気付いたなら無益な動物実験や海からの乱獲もクリスマスの七面鳥も減るはずです。
私はクリスチャンではないが、生命の尊さの観点から申し上げているだけですし、必要のない七面鳥をそのために食卓にのせてアーメンと祈る様は滑稽です。
イエス亡き後の人類の矛盾でしょう。
私たちは動物たちに対する犠牲に対しもっと真摯に向き合わなくてならない。
そこから良心の呵責(かしゃく)が始まり、魂の煩悶(はんもん)に苦しむことがなくなっていくことでしょう。
とある保健所で動物の生体解剖と薬の実験ばかりをやっていた人物が、犠牲となった動物たちの憑依をうけて体調を悪くしている実例が過去にありました。
このようなケースは医学的には心身症とか自律神経失調症ということで片づけられ、抗精神薬を処方される場合がほとんどです。
しかし、霊的に捉えた場合、動物実験は人類の進化を遅らせている最も強力な悪の一つです。
人間が自分の行為には自分が責任をもつという原則は、死後の生命の存続という事実があって初めて生きてきます。
つまり、私たちはどうあがいたところで、地上生活の行為の結果からは逃れることはできないということになるからです。
地上で送った人生が、そのまま死後の生活の基盤となるのです。
結果には原因があり、原因があるから結果があるので、原因と結果は常に循環輪廻しています。
光と影の如くにです