何の為の人生?

人間は宗教のために生まれてくるのではない

朝の5時過ぎ、目が覚めると外ではもう野鳥の声がにぎやかに聞こえている。

丁度、雛(ひな)がかえったばかりの子育て真っ盛り、餌を運ぶ親鳥は忙しい。

私が朝ごはんをいただくときに見る子育ての光景は心を和(なご)ませてくれる。

野鳥には宗教などまったく関係のないことだが、ただひたすら雛に餌を運び立派に子育てをしている姿をみると、なまじっか人間の小さな分別など子育てには必要ないなと思えてくる。

さて日本における宗教の信者数は、文部科学省の宗教統計調査によると、合計2億900万人となり、日本の総人口の2倍近くの信者数になる。

その内訳は、神道系が約1億700万人、仏教系が約9,800万人、キリスト教系が約300万人、その他約1,000万人、神道系と仏教系だけで2億人にせまる。この要因として、以下が挙げられている。

(1)統計調査はアンケートで行うため、必然的に自団体の信者数を多めに申告する傾向にあるということ。

(2)日本古来の民俗信仰の基盤の上に、自然風土の中で培われた年中行事や、祭礼などを通じて、多くの日本人が七五三や初詣、あるいは季節の祭りを神社で行い、江戸時代の寺請制度の影響で、葬式やお盆などを仏教式で行うなど、複数の宗教にまたがって儀礼に参加しているということ。

例えば身近なことでは、日ごろ信仰心のないのに年末年始には神社や仏閣に参拝のために詣(もう)でて願い事する人々、葬儀はキリスト教や神道もあるが少なく、仏式で執り行う場合が圧倒的に多い。

キリスト教の信者でもないのにクリスマスでメリークリスマスとお祭り騒ぎをする。そして何よりも宗教団体の数の多いことが宗教人口が多い理由です。また宗教被害も多い。

キリスト教などでは洗礼を受けた時点でその宗教の信者に成るのに対し、日本ではその宗教の神を拝めば信者とみなすわけで、氏子(神社の信奉者)・檀家(寺を護持する家々)の家庭に新たな子供が生まれるとそのまま信者数にカウントしてしまう。

また、死亡しても信者リストから外すことなく放置するなどの例もあること。このような理由が重なって宗教人口が国民の総人口を上回っているのです。

しかし、現実には無宗教の人たちが相当数いることも事実である。この点は注目したい。

さて人間が生まれて来る時のことを考えてみましょう。

親が入信している場合、その信仰がどんな信仰であろうと、そんなことには関係なく、子供は自然に生まれてくる。この点では岩手山麓の野鳥と何ら変わらない。

親がある信仰をしているからといって、「お前はこういう生まれ方をしなさい。」と言う親もいなければ、自分は信仰していないから「こういう生まれ方をしなさい。」と教える親もいない。

自然の生命の法則に従って子供は生まれてくる。宗教や信仰に関係なくそのまま自然に子供は生まれてくる。宗教や信仰によって生まれ方が違うということはない。

だとするならば人生の目的である心(霊)の向上を図る、魂を磨くという生き方をするには別に今ある地上にある宗教や信仰に頼って生きる必要はないのではないか。

ある宗教の指導者は、その宗教を信じなければ幸福にならないと説くけれども、その宗教を信じなくなくても結構幸福に暮らしている人は多い。

無神論者でもないが特別ある宗教を信じていると言う訳でもないのに幸福に暮らしている人も多い。

またその反面に、その宗教を信じていても苦悩し、不幸だと言う人も多く、相談に見える方がいる。

その宗教を信じたら幸福になると言うなら全部の人が幸福にならなければならないはずなのに、入信しても幸福にならないと言う人があるのはどう言う訳であろうか。

生まれて来る時に宗教が必要である訳でもないし、現在あるような宗教を信ずることが必ずしも人間を幸福にするものではないと言うことであれば、現在あるような形の宗教というものは信じなくてもよいのではないのか。

人間が生きて行くうえに必ずしも現在あるような宗教は必要がないといっても、人間の心から宗教心を無くすることにはならないから、これまでの宗教というものに拘る必要は何もないであろうと思う。

人間が生まれて来ることと生きていくこと、それと宗教との関係はもっともっと考えてみる余地があるのではないのか。

このように考えてくると、我々は特別に何かの信仰を持たなくても、人間が神の子であることの尊厳を知り、人間は小宇宙であることを知り、心を大事にして、宇宙の法則に従って心(霊)を向上する生活が出来れば、それで良いと言うことに落着くのです。このことは死の事実による現象を見る時さらにはっきりとなってくるのである。

何故なら宗教の入信や信仰には全く関係なく、その人の心のステージ(調和度)によって往(い)くあの世の段階が違うからです。

むしろ宗教に入信することによってかえって執着をつくりあの世の低い階層に往く人が多いのは考えものである。

このことは信仰を持っている人たちの相談を受けてみてわかってきた実態であります。

信仰をもつと、ご本尊にすがりなさい、教祖を崇拝しなさい、他を救済するために布教しなさい、そして徳を積みなさい、読経しなさい、何か良いことがあるとそれはご本尊である○○の神様や教祖のおかげだといい、一向に苦悩が無くならないと、それはあなたの信心がたりないからだ、という。

つまり良いことはご本尊と教祖のおかげでよくないことは自己責任という都合の良い理屈で責任転嫁するやり方は定番です。

問題なのは、このような宗教に疑問を持たず、脱会もせずにいる人たちの場合です。

冷静に考えてみれば矛盾がたくさんあるはずです。

精神を高め、心を磨く意思があるなら、
自分自身を知ろうとするならば、
いかに他の人々が行動するかを観察せよ。
あなた自身が他の人々を理解しようとするならば、
先ず、あなた自身の心を観(み)よ。
心の苦しみは体の苦痛より悪し。
心は己をその住まいとする。
岩手県 盛岡市 滝沢村 整体

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Posted by kansindo