業の輪廻

やじろべえ
業という言葉は、仏教における基本的概念として理解されてきました。
人間が為した善悪に応じて結果という報を生じ、それは死によっても失われず、輪廻転生に伴って繰りかえされ、伝えられる個性といえるでしょう。
業は、前世において肉体修行をしてきた生命にも、あの世で修正するための生活をしてきた人にも、いわゆる行をしたという人の場合であっても、その意識の中には未だ少しは残っているものです。
この業を、私達はまたこの地上生活において修正するために肉体を持つのですが、人間はともすると、肉体の眼、耳、鼻、舌、身、の五つの感覚や意識に振り廻され、己を失いがちになります。
業というと悪い心の代名詞のように思われがちですが、業の中には、良い業と悪い業があり、現在私達が思っている不調和な考え方や行為は、そのまま自分自身の現世で作りだした業と過去世の業の合成された姿だと思っていいでしょう。
この姿を悪い業といいます。
しかし、この地上に肉体を持っても、悪い業をさらに自ら造り、重ね、修正はおろか、悪しき業に更に悪しき業を重ねてあの世に帰ってしまうという人々が少なくない。
それはわずか10%の表面意識で思考し、判断する生活するになっているため、つい肉体的な感覚器官と意識に支配されやすくなり、自分の善なる本質を忘れてしまうからです。
何事においても物や現象的な面に心を奪われ、自分自身の理性と知的本質を見失って行き、環境の中で起こった結果についてその原因を反省しないため、ますます自分の業、すなわち過去世の業を悟れず、不調和な現象に悩まされるということになるわけです。
潜在意識の90%は、私達の生き様の一切、そして過去世のこともを知っているのに、正しい心の調和ができないため、良く己の特長をつかみ得ないのが人間であり、それだけに大きな修行ができるというこのリスクのある地上生活だともいえるでしょう。
巷では前世のことや、過去世のことを話題にしてお金儲けをしている人たちも近年多いようですが、実はそれほど自分の前世や過去世を知ることがこの世の人生修行においては重要なことではない。
今の生活姿勢が問題点の多い状態なのに、前世や過去世に云々することは本末転倒と言わざるを得ない。
現在の自分の心の想念の状態が調和されたものであるか、あるいは不調和なものであるか、そして、自分の為している行為の姿こそ、己自身の過去世の姿だとうけとめなくてはならないでしょう。
自分の本当の姿、それは、地位、名誉、経済、持ちえる物を除いて最後に残るものこそ己自身の本性の姿だということ。
大自然界の慣性の法則と同じように、現世に肉体を持つと、過去において造り出した不調和な業が表に出てくるということですが、しかし正しい心の制御、理性、調和、働きによってそれを修正することはできるのです。
自分が変わりたい、心をステップアップさせたい、向上したいと思うならば、正しい想念の働きによって、ひとつ一つ努力するなら必ず自己改革ができるものです。
だが、過去世において、地位ある立場の人生を生きた人や、知識人、支配階級に生まれた人々、経済的に豊かな暮らしをした人ほど、とかく自己主張が強がったり、人を見くだしたり、排他的であったりして、本来人間は、愛と慈しみをもつ寛容な心でなくてはならないということを忘れてしまっている。
人間は皆、神性仏性を頂いているという意味において平等であるのですが、人間は自分が厳しい環境や試練にたったときに自分の不遇を嘆き、呪い、他のせいにしたり、自分の内にある愛と寛容も悟らず、権力や虚栄の座への執着心が強くなったりします。
こうした自己の内にある神性仏性を忘れた人間、自我我欲の強い人間は、良く肉体の支配者である己自身の心を反省をし、調和と安らぎの生活を心掛けて努力することにより、早く悪い業を追放しなくてはならないでしょう。
一見、理性もあり、分別のある優しい人とみえる人間が、お互い良い関係でいられるときはそんな顔でいても、とっさに自分に不都合なことがあると豹変して感情的になり、乱暴な言葉を相手にぶつけてしまうということがありますが、こういったことは表面的にはできた人とみえても、実際はまだまだ悪しき心の癖である業が内面に残っている証拠だということです。
悪しき心の癖、即ち業というものは、とっさのときにその姿を現すものである。
ですから己の心の修正なり改造が必要となるです。
こうして正しい心の基準を求めていく行為の中にこそ、自身の魂がより次元の高い境涯に進んで行ける可能性があるといえるでしょう。
自分の心の内にある神性仏性を忘れてただ人間として動物的本能まる出しの生活をしている人々には、本当の安らぎを得ることなどほど遠い話である。
また自分の思っていることの邪悪な想念やすべての行為は、私達の潜在意識にすべてが記録されて行き、時の経過とともに必ず現象化する。
このような人々の心の中は常に格闘の連続であり、安らぎなど見出すことはできない。
私たちは肉体を去るとき、すべての所有物を手放し、人間としてなしてきた不調和な想念と行為など、一切を清算しなければなりません。
そして自分の潜在意識に記録されているあの世の世界に行き、自分の内にある神性仏性という自覚について強い反省をすることになるでしょう。
また一部の生命(人間)は、死してなおこの地上世界に未練を持っている意識の場合は、ある程度のステージに悟るまでそこで苦しい魂の修行を課せられる。
自縛霊、地縛霊、浮遊霊、地獄霊などがそれである。
あるときは光の天使達によって補導され導かれることもあるでしょう。
それら未浄化の生命は、未だ自分が地上世界で肉体を持っているような錯覚をしていて、死を悟れないでいる場合が多い。
このように、死んで肉体を去った人々の中には、物理的現象と同様な慣性を持ち続けることか起こる。
地上界の時間で計算すると、四、五百年近くも己を目覚めさせることなく、不調和な地獄界と称する場所に住んでいる人々もある。
しかしいつの日か、人間は必ず己の内にある神性仏性を自覚し、救われることになっているし、それがいつになるかはそれぞれの業の深さによっても違いがあるのです。
どのような苦しい生活も自分自身に原因があるのであり、決して他人の故ではない。
蒔いた種の結果は、自分で刈りとるのが神性仏性を頂いている人間としての掟である。
だから私達は、悪い種を蒔かないように心がけなくて生きなくてはならない。
悪い種は意識の中で悪い業となる。
悪い業は想念や行為を善なるものから離れさせ、悪を為し、更に業を重ねていくのである。
そして輪廻転生して肉体を持って出てくる度に業の芽を出してくる。
私達はこの悪い種によって生じた悪い芽を摘みとり、調和のとれた、真理に適った新しい種を、意識の中にしっかりと実らすことが、悪い業をのぞく人生の修行であると心得ねばならない。
人類が、この地球上に天孫降臨してきた当時は、他の天体からこの地上世界に適応した肉体舟を得てきた私達が、楽しく生活できた調和のとれた平和で豊かな楽園であっただろう。
その頃の人類は、寿命も非常に長く、あの世と常に交渉を持ち、人々の心に自己保存、自我我欲の不調和な考えはなかった。
しかしその子孫は、人口増加とともに、それぞれの種族保存の自我に陥り、神性仏性をいただいた人間だあり、人類はみな兄弟であることを忘れ、他の種族との争いや同族の階級闘争に明け暮れるような仏性を失った存在になって行った。
やがて人類の心の不調和は黒い想念と化し、地球の表面を覆い、遂に、眼、耳、鼻、舌、身、意識という肉体に執着、囚われた虜となってあの世との通信を途絶えさせてしまった。
そのためあの世から多くの光の天使達が、人間の自覚を促すため地上世界に肉体を持って生まれてきたが、神性仏性を失った人類は、ますます闘争と破壊の業を造り出してしまった。
その結果、心を悪魔に売った人類の想念は、もはや神仏の光を失い、過去に高度な文明をもって栄えた大陸の陥没という現象に見舞われるような事件を招くことになったのである。
そうした幾度かの天変地変があっても、物質文明をよしとする偏った価値観は人々の心を失わせ、人々は闘争と破壊の業をくり返してきた。
現代社会の物質文明は、あくまでも人類の生活に対する智恵の物質化というだけのことでしょう。
歴史は語る。
その土地における種族の長によっての支配の座から豪族が生まれ、やがて外敵から種族を守るために武力の進出があり、武将を生む結果となる。
武将は武力によって他の種族を統合し、生活環境は自然界の恵まれた地域に構成され、次には他部落との経済交流が発達して経済力を持った人々として豪商を生む。
それらを統括して、武将が一つの支配圈を持って地域を拡大して行き、やがて武力の秀でた武将が一国を形成し、王を生んでいったというこれまでの歴史があります。
王侯、貴族、武将、豪商達は永い年月人々の多くを犠牲にして栄耀栄華をくり返した。
しかし我欲は闘争を起こし、国々の間の戦争となり、主権者は権力の座の収奪を繰り返し、一時は宗教の名のもとの僧侶の時代となったりしながら歴史は変遷してきた。
宗門も戦火に洗われたが、常に殺りくの時代の犠牲となったのは一般の庶民であったことを忘れてはならない。
それは昔の出来事ではあるが、しかし、現代でも世界のどこかで同じような愚かが繰り返されているのです。
人間の心は荒み続けています。
ここで学問の普及からなる文化が登場してきて、国の間の交流も盛んになり、人間社会の近代化が封建制度を覆えしていく。
しかし、だからといって人間のエゴイズムが消えたわけではなく、人類の変型した不調和な業は変わることなく今も続いていて、闘争と破壊は別の形でくり返されるというのが実情でありましょう。
社会は、いつか上流と下層というふうに段階が作られ、上流は下層の上にあぐらをかいた考え方をやめず、遂に階級闘争を生んでいく。
文明は発達する、という片側の思想の歪みが資本主義と社会主義の分裂にまで発展して果てしがなくなる。
こうしてみると主義思想もこれひとつで全てが万全という訳にはいかないのがご理解いただけるかと思うのです。
やはり何事もすべてにおいて、偏った価値観や判断というものが、人間の心に業を重ねていくことになるのだということがいえるのではなかろうか。
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