胎教

胎教1

今回は胎教に関して精神的視点と霊的視点から考察しながら何回かに分けて述べてみたい。

胎教は妊婦が精神修養を行うことによって胎児によい影響を与えようとすることをいいますが、もっと広く言えば。良いことも悪影響も胎児にかかわることのすべてを含めて胎教と捉えた方が広く理解できるでしょう。

ここでは人間の精神活動がどれほど自身の体と胎児の体と心に強く影響するかということの重要性をのべていきます。

『出産後に赤ちゃんを可愛いと思えない。』自分は育児ノイローゼだといって相談に見えた方がいた。

話をきいているうちに妊娠前の仕事に就いているときも、うつ病の症状があり心療内科に通院していたと明かした。

精神的に情緒不安定の時期に妊娠し、発育して出産することは決して胎児にとって良い影響をするはずがない。

このような不調和な精神環境のなかで発育し生まれた子供は後々に精神的問題を発症する可能性が大きくなってくるというそのメカニズムのことを知る人は少ないであろう。

私はこれまでいろいろな悩みのカウンセリングをしてきた中で、問題解決するために相談者の家庭環境や幼小期の記憶まで遡(さかのぼ)る場合が多く、

更に、もっと遡ると妊娠した時期の家庭環境までたどり着くことになるのが常である。

少し長くなりますが、具体的に胎教の論理と実例を述べてみます。

障害者が生まれるのは先祖や前世の因縁ではない。

科学と医学の進歩によって胎児の様子を画像にして見れるようにはなりましたが、親なら誰れでも子供が生まれる時、一番心配するのは、「五体満足で手足が揃っているであろうか。」と言う事でしょう。

健康な赤ちゃんを生んだ母親の安堵した喜びにひき替えて、障害者だと医師に告げられた時の暗澹(あんたん)とした、やり場のない悲しみ、悔恨(かいこん)はどんなに深いものであろうか。
あの世の天上界で親子となることを約束した子供の霊は、地上から発せられていく親となる両親のバイブレーション(波動)に引き寄せられて地上界へ霊線が繋がる。

つまりこの世の胎児とあの世の霊と縁結びができる瞬間である。

霊が完全に肉体(胎児)に入るのは出産の刹那(せつな)であるが、それまでは天上界と胎児の身体を行き来しながら母となるべき人の胎内において、やがて自分が乗り物としなければならない肉体がどのように創られてゆくかを見ているのである。

4次元世界から見る3次元世界は見えないものはなく、すべて素透しで見えている。

もし、不完全な状態に創られつつあることを知ると「しまった。」と思うが、『よし、やむを得ない。本当は五体健全な肉体を乗りものにして魂の勉強をしようと思ったが、こうなったら仕方がない。不完全な肉体を乗りものにしての魂の勉強は難しいが、一生懸命にやろう。』と覚悟して生まれてくるのです。

だから障害者は、肉体的には一人前ではないと見られているが、魂は、心は立派に一人前の人格者なのであって、五体健全な人よりも難しい肉体を利用して、健康な人の経験できない厳しい心の勉強をしようとしている勇者なのだ。

ダウン症の子供として生まれてはいても、その子の魂が高いステージにあるものであれば立派に開花して感動を与える仕事を成せるものです。当ブログの右側サイドメニューのアーカイブ23年12月21日『仏心』のタイトルで紹介した金澤翔子さんの作品にはそのエネルギーが溢れています。ご覧になってください。

ですから我々は、障害者を見た時、心からその人を賞賛し「厳しいでしょうがしっかりやって下さい。」と励ます心で見守ることが大事なのです。

小さな子供の手を引いた若い母親が、時々障害者の後ろ姿を指差して「いい子にしていないと、あんなになりますよ。」と言っている光景を40年も前にみたことがある。

また、不潔なものでも見るかのような眼差しで見て通り過ぎる人があるが、そういうことは絶対にしてはならないのです。

肉体はどうあろうと魂は神の子であり、皆素晴らしい人格者なのである。

障害者として生まれるのは、宗教家や霊能者が言うような、その人の前世の因縁でもなければ、もちろん先祖の因縁でもない。

今まで多くの宗教家は、すべて先祖や前世の因縁だと言って信仰させ、因縁を浄化しなさいと言って多額の献金をさせてきた。あってはならないことです。

しかし、因縁は心で創るものなのですから、心で創ったものは心を変えないと消えないのに、金や物を教団にあげれば因縁が切れると説いているのは間違っているし、そのような教えはあってはならない。

もし、病気や苦悩の渦中にある人がいたら、決して先祖のせいにしないこと、前世のせいにしないことです。

因縁を切るためにと、先祖伝来の土地も寄付してしまい困っていると言う話しもあります。因縁を切るために金や物を上げさせる宗教は邪教であり、邪道です。

そんなものを決して信じてはならない。もし、今信じている人があったら即刻そのような信仰はやめるべきです。

障害者として生まれてきた人は、その厳しい肉体を乗りものとして魂の修行をしようと決意して生まれて来たのですから、むしろ、健康体の人よりも難しい勉強をするチャンスに恵まれたと感謝して、肉体の不自由さを克服してゆくその経験を心から喜ばなければいけないし、「こういう体に生んで。」と親を怨んではならない。

もちろん、社会全体を怨み健康体の人を見て怨んでもならない。

いろいろな不幸をも含めてそれらを全て先祖や前世の因縁だと言う宗教家達は「献金をすれば因縁が切れる。」と言うが、しかし、いくら献金をしても[これであなたの因縁は切れました。」と言うようなことは絶対に言わない。

「切れる。」と言うなら「切れました。」といえなければならいはずであるが「これであなたの因縁は切れました。」と言った人があることを私は聞いたことがない。

切れたといえばお金にならないのだから言えるはずがないであろう。

各宗教団体の大きな殿堂を見るたびに私は「この建物は、先祖や前世の因縁だと脅かされた人達の金で造られている。」と思う。

またその教団の指導者のなかに邪心があれば建物の前を通過するだけで邪悪で汚れたエネルギーを感じてしまうから決してゴマカシはきかない。

因縁は金や物を上げることによって消えることは絶対にない。

因縁は心で創るのですから、心の持ち方を変えれば消えるのです。

心の持ち方を変えるのには一銭も金はかからない。その方法を知りたい方はブログに投稿してください。知り得る限りのことはお伝えさせていただきます。

もし、今まで先祖や前世に因縁だと言われて恐怖心を持ち因縁を切るために金や物を上げている人があったら即刻それはやめて、その金や物は、もっと自分自身や家族や廻りの人達を幸福にするために上手に活かした使い方をすべきである。

次回は『どうして障害者が生まれてくるのか』について考察してみたと思います。

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生まれる前も、今も、これからもⅡ

前回の投稿『生まれる前も、今も、これからも』のタイトルは神の存在を実感できるにはどうしたらよいか?という問いに対する会話の内容として記述しましたが、今回は続きを述べてみます。

世界総人口の約70億4697万人の内、約19億人超がキリスト教信者、約10億人超がイスラム教信者、約7億人超がヒンドゥー教信者、約3億人が仏教信者というように地球人類の約7割の人間が宗教に関わっていることになります。驚くべき数字です。

これまでの地上人類はいつの時代も宗教と深く関わり、現在でも、その人口は相当な比率で宗教と関わっています。勿論、無宗教(入信していない人)や無神論者も相当な比率で存在します。

日本では日ごろ信仰心や宗教に関心が薄い人でも、年末にはキリスト教徒がいうメリークリスマスといってケーキが飛ぶように売れる。

結婚式は教会で、子供が生まれると神社へ、死者の葬儀は仏教でというあたりは、不思議なところでもありますが諸外国の文化を受け入れやすい日本人の気質があるからでしょう。

いずれにしても神という存在を否定する人、信じる人、特定の信仰を持ってはいるが神の存在を信じきれない人、など様々です。

さて、目の前に一つの紙袋があるとします。老年の品の良さそうな紳士があなたにそれを示して、「この中にはお金が入っている。」と言ったとしましょう。

あなたは信じますか?

信じなかった場合。やはりその中にお札はないのでしょう。紳士は呆れ顔で帰ってしまいます。

でも信じた場合は? あなたの頭の中で、紙袋のなかにはいくらのお金が入っているのかな?と考えます。その瞬間、お金は紙袋の中に存在していることになります。

この例え話と同じように、神様はあなたが「いる」と思った瞬間にだけ、そこにいるのです。あなたの心の内に存在するのです。

信じる人は報われる、とはよく言いますが、まさしくそういうことなのだと思います。

日本の神道(しんとう)にみる天照大御神(あまてらすおおみかみ)をはじめ八百万(やおよろず)の神々といわれる多くの呼び名がでてくる神。

人間に恵み、祟り(たたり)をもたらす土着信仰的な神。

キリスト教でいうところの、一神教的な神。

インドやネパールなどで多数派を占めるヒンドゥー教のような多神教の神。

世界には様々な意味をもった神と言われるものが存在しています。

しかし、宇宙の法則には種類がたくさん存在しません。一つです。

この一つの法則によって太陽系は維持されています。

そして、ここに銀河系を統御するエネルギーが存在していることは誰もが認めることでしょう。

宇宙の法則は人間が呼称する多くの呼び名を持つ神と称するものを法則としません。

この真の法則そのものは見えませんが存在します。

宇宙を支配する意識です。

あらゆる生命体はこの存在によって生かされています。

人間もです。

神はいると実感できる魂(心)の資質や能力を持った人は多数派ではありませんが居ます。

このブログを読んでくださっているあなたも、その一人かも知れませんね。

証明して確信をもてるようなことがあれば信じるという人がいますが、そのような人は形に現れた現象だけを以って信じるということであって、形にないものや、現象として確認できないものは認めないということなのでしょう。

実は、このような考え方はとても非科学的な思考と言えます。いつも言うように大気中の酸素は肉眼で確認できませんが存在しています。

大気中の水蒸気は温度が上昇するほど粒子が小さくなり肉眼では確認できません。しかし、存在します。

この宇宙空間には人間の目で認識できるものより、できなくて存在するものの方がはるかに多いのです。

実際のところ神というものを人間の肉眼で確認することは敵いません。

3次元の肉眼で4時元より遥かに高次元の存在を認識しようとするところに無理があります。

ですから神を見たというのは、誤りです。神の声を聞いたというのも誤りです。いかなる聖者でも。

もし仮に、4次元世界から正しき存在がコンタクトしてきたとしてもそれは、神からの使命を担(にな)った光の天使が声を掛けた(心の内側から)のであって、その神々しい天使の姿を見せられたということなのです。

それは神ではなく特異な任をもった高次元の光の天使の姿です。あくまでも、かつて地上に誕生した人間の霊体です。

しかし、このような場合の声は耳から聞こえるのではなくて、心、胸に広がる感覚といった方が正しい。耳から聞こえたものは邪悪な霊の憑依によるものと知っておくべきです。

我は『○○の神である』という声を耳元で聞いたという人がいますが、完全に動物霊や地獄霊の声を聞かされたのであり、一時的にその偽(にせ)の姿を見せられたにすぎません。

実際に霊感があると自負するものや、神が付いているという者の行動に人間としての常識的良心や穏やかな人柄の欠如、冷静さに欠ける挙動不審、感情的言動、言行不一致、気分屋なところがある場合は100%動物霊や地獄霊に憑依されての霊感や霊視とみてよい。

人はこのように動物霊や地獄霊に憑依されることによって見えたり、聞こえたりする場合が多いので、トラブルに合わないためにも、よくよく気をつけてこのような人間を観察することが大事で、無闇に信じてはならない。

話を戻します。世界中の殆どの人には信仰心はあっても神の存在は実感できません。

しかし、五官で感じる存在は邪悪なものです。

社会の法律は人間がつくったものですが、その法律は道徳心のうえに成り立っています。

自然界の重力や質量、慣性の法則は人間が発見できたことではありますが、作ったのではありません。

しかし、人間の力や理解力を超えた法則がこの自然界宇宙には存在しています。

神を見ることが優れたことではありません。

見ようとすることが心の執着を作り出し、道を間違えます。

人間は自身の内から湧き出る良心に従い、あなたが望むことを妻や、夫や、子供たちに与え、日々の平和に感謝しながら生きる。これが愛であり、慈悲であり、正しい人の道でしょう。

それは、あたかも太陽が無所得でこの地上に膨大な熱と光のエネルギーを与えている姿と同じではないだろうか。母親が乳飲み子に無所得で母乳を与え優しい眼差しで笑みをうかべる姿です。

1秒間に200万トンの石炭を燃焼して地上に降り注ぐ太陽のエネルギーを化学的にお金に換算し、請求されたら地球の経済が破綻するだけの膨大なエネルギーです。

過去も現在もこれからも太陽は天文学的な時を超えて燃え続け、地上にエネルギーを与えます。

愛も慈悲もどれだけ与えても、与えても減って困ることはありません。

それが人間神の子として生まれた証です。

あなたが頂いた命は、決して涸(か)れることのない、神からの分け御霊(わけみたま)。

逆に与えるほどにあなたの魂は潤いを増し光り輝くのです。

神の存在を実感するにはどうしたらよいか、という問いかけには、

五官で知り得ることではないということ。

人間が神を見られるようには創られていないということ。

心の中でしか存在できないし、実感できないものであるということ。

人間の創造する心(魂)の力に全て委ねてあるということです。

愛は与えた時に真に光輝く。

それが天なる宇宙意識の法則。

心の光即ち行。

行即ち心の光。

生まれる前も、今も、これからも、

人間は天の光を宿した神の子です。

生まれる前も、今も、これからも

私は宗教家でもなければ宗教団体、その他の組織にも入信もしていない。まして自分が知り得て体験し理解できることでも、それをどうこうして利益しようとは一切おもわない。

だが、ある男性から『神の存在を実感するには、どうしたらよいのか?』という質問を投げかけられたことがあります。至って真剣にです。

彼は仕事の関係で、ある寺院に出入りしていたが、住職の教えに疑問を持っていたのだった。

その彼に話した内容でもありますが、この事を理解するには、先ず第一に、宇宙生命(神)の意識とは何であるかを明確に認識する必要があります。

過去において正しいことを説いた宗教家や研究者も一部にはいましたが、それが広く世に浸透することは難しく、また長い歴史のなかにおいて、それが間違った概念のもとに信じられてまいりました。

その理由としては、宇宙の意識(神)を、限りある言葉で言い表すことは、必然的に不可能なことだからです。

限りない存在を、限りある言葉で、表現できる道理がありません。

結局いつの時代においても、神の真の実態は捉え難く、限りある地上人間の理解力では正しく理解することができませんでした。

しかしながら、皆さんも霊的存在であり、魂の内部に神性の灯りを宿しております。

程度の差があるとはいえ、神の子の資質を備えているのですから、生命の全諸相(全ての地上生命を含む宇宙全ての姿)に現れている崇高にしてダイナミックな生命力を、一輪の野の花にも、小さな子イヌにも、山の姿にも、川の流れにも感じ取ることはできるはずです。

ただし、それにも程度の差はありますが・・・・。

もう一度いいましょう。ここで言う神の子として備えた資質度合の差ということを例えていうなら、幼児が理解できない道理を小学生が理解できるように、中学生ぐらいで理解できない道理を20歳の若者なら理解できるというようなことです。

必ずしもこの通りではありませんが、解りやすく年齢で区別をしてみただけです。

実際のところは、年齢の若い人でも年を重ねた大人より人間的に大人(できている)である人もいるのです。

これは知識の多寡(タカ、多い少ない)のことではありません。

あくまでも人間の霊的資質をいうものであって、それは唯物的思考から離れた、唯心的思考がなければ心(魂)の広さ気根というものが育つことが無い。

宇宙の意識(神)の存在を認識する方法として最も身近な、その条件は、物的感覚を鎮静させること(精神統一)ができるようになることです。これが必須条件です。

世間の雑音、不協和音、いがみ合い、乱れた心、過ぎた物欲、執着、愚痴、怒り等は、きれいさっぱりと忘れ去らないといけません。

内面を穏やかに保ち、あたりを包んでいる崇高な根元的エネルギーに魂をゆだねるコツを身につけないといけません。

その段階で内部から湧き出る静寂の醍醐味(だいごみ)それが草木や動物、鉱物、など形ある生命現象の内奥の霊的エネルギーと一体となった時の実感です。

形あるものは無常なのですが、しかし、形だけではなく、背後に必ず霊的生命が存在します。

そこに共鳴し、至るには、時間忍耐知恵とが必要です。

が、私たちのまわりに充満する霊妙にして微妙な霊的生命のバイブレーション(波動)を感じ取ることができるようになるにつれて、自己内部の霊的生命に潜む驚異的可能性に気づくようになります。

それが、宇宙の意識(神)の存在を実感するということに進展するのです。

しかし、それは容易なことではありません。

何故なら、その存在は五官に反応して、見たり、聴いたり、手で触ったりできるものではなく、皮膚感覚で感じ取ることではないし、あくまで自身の魂で共鳴するときにしか心に広がらないものだからです。

以上のことから判断すれば理解しやすいでしょうが、

神とは宇宙の創造主であり、無限生命の根元的存在であり、その意識の全ては愛と慈悲です。

人間の魂(心)の根元には、この愛と慈悲が分け与えられているのです。

生れる前も、今も、これからも、人間は神の子です。

彼との2時間にわたる会話が終わって、『ようやくこれまでの疑問が溶けた。』と言って顔に笑みがこぼれた。

※文中用語の説明

唯物的思考とは物質を第一次的、根本的な実在と考え、心とか精神を副次的、派生的なものとみなす考え方、哲学をさす。

唯心的思考とは第一義に精神を存在の根源とみなす。精神、生命、物質、というようにです。

続きは次回まで。

 

見えないものを見通す

盛岡市&滝沢村の整体『観身堂』

整体院『観身堂』では、痛み、シビレ、凝り、疼痛だけではなく、寝汗や動悸、不眠、うつ病、パニック障害、過換気・過呼吸症候群、リストカット自傷行為、摂食障害(過食症、拒食症)自律神経失調症、PTSD(心的外傷後ストレス障害)、更年期障害などを含む心の痛みを訴えてくる患者さんに対してもスタッフの協力を得ながら対応している。

私は骨格に関していえば普通一般的には見えないこと、整形外科でレントゲンやMRIなどの画像判断できないことが判断できるし感じる。と言ったら何を馬鹿なことをと思われるかも知れません。

特に脊柱(背骨)や骨盤、全身の骨格に関しては、はっきりとイメージできて皮膚を通して絵を見るかのようです。

例えば、これまで来院された方で、頸椎(けいつい)の棘突起(きょくとっき)の捻じれが整形外科での検査で発見されたという方の例がありません。

しかし、観身堂に来院してチェックしたときに微細な捻じれに初めて気づいたということになり、その頸椎棘突起の捻じれを正しい位置に戻してやりますと症状が著しく改善されて回復に向かい始めます。

頸椎の捻じれを正しますと偏頭痛、目眩(めまい)、耳鳴り、突発性難聴、のぼせ(ホットフラッシュ)などの症状にとても顕著に効を奏します。

私の場合ミリ単位で骨格アンバランスを感じ取れますし、それが見えてきます。

骨盤のアンバランスは勿論ですが、脊柱のわずかな圧迫や滑りの微細な違いがわかってしまう。

西洋医学的な知識に関しては最低限のものでしかありませんが、私の整体施術の根本は東洋医学的なところが基本となっています。

従って医療機器を否定するものではありませんが、根本的にレントゲンやMRIを中心とする機器に頼った西洋医学とは視点の違いがあります。

患者さんが来院されても整形外科のようにレントゲンやMRIで撮るわけではありません。

それだけに人間の持ち得る感性を研ぎ澄ましてきた結果が今の見えないものを観る力になったのだろうと思います。

偏頭痛が治癒した患者さんの言葉で『片頭痛には西洋医学は無力だね。』と言った人がいました。あらゆる検査で異常がないと言われても酷(ひど)い偏頭痛があるのに対処できない西洋医学に限界を感じたといいます。

これと類似した言葉は以前からよく聴かされる言葉です。西洋医学の整形外科が痛みに対して無力だというより症状に対しての視点が違うだけのことですが、しかし、これまでの診断の仕方や対処の仕方では思うように回復するはずがありません。

だから私の院に来院してくる方もいるのでしょう。

偏頭痛や目眩(めまい)、突発性難聴、メニエール、耳鳴り、その殆どが頸椎の圧迫と棘突起の捻じれが原因です。ですからこれにアプローチすれば改善が早まり治癒するのです。

しかし、整形外科では圧迫と捻じれに対して見向きもしませんし、疑問さえも持ち合わせていません。この辺の整形医学に関しては現代医学の盲点ともいえます。

人間の肉体を見るときミクロ(極微)の世界を見すぎてマクロ(極大)の視点を失っているところに問題があると叫びたい。つまり部分的な見方に偏って全体を見ない傾向があるということです。木を見て山を見ないようなものです。

私の整体院では腰のトラブルは腰痛からはじめ椎間板ヘルニア ギックリ腰 坐骨神経痛 尾骨の痛みなどに対処、肩は肩凝り 四十肩 五十肩が代表的なところ、首は頸椎捻挫 ストレートネック 寝違え むち打ち症 頸椎ヘルニア 頸椎症 頸椎ヘルニアなどに対応しております。

妊婦 マタニティ整体を希望する方も随分多くなりましたが、出産を機に産後の骨盤矯正を希望する方が増えてきた。

これは骨盤バランスの大切さを理解する女性が多くなったことによります。

また子供たちのスポーツ障害によるシンスプリントや成長痛、オスグット、捻挫などの故障も多い。

その他としてドケルバン病(狭窄性腱鞘炎)変形性股関節症 変形性膝関節症 脊椎側弯症などにも対応している。

完璧をめざしてやる。これまで数多くの施術例による貴重な経験は多くの学びとなり気づきとなって私を成長させてくれた。

来院される人たちは症状の軽い、重いという違いはあっても皆、早い回復を期待してくるのです。

だから限りなく最善を尽くすことはあっても手を抜くなどは絶対にあってはならない。

マッサージひとつにしてもやってほしいポイントを絶対に見逃すことがないように、自分だけの勘に任せず必ず患者さんに確認を取ることを行う。

勿論、強弱についてもそのポイントで確認を取りながら納得のいただける状態で進めていきます。

いつも目指すことは限りなく完璧に近く、患者さんと向き合うときは全ての持ち得る感覚、嗅覚を研ぎ澄ます。

そこに誇りがあるから。私のところにおいでになる患者さんは紹介とホームページによる人たちで、痛みや凝りがあって初めて整体を体験する方もいます。

あるいは整形外科やその他の医療機関で時間と回数を費やしたが改善がみられず最後の頼みだといって深刻な症状で来院する方も多い。

それでも私は逃げない。

絶対に今の状態より改善させて好結果を出してやろうと自らを奮い立たせる。

最終的には現代医学で改善できなかったことでも、難治な症状ほど、その人のために私の整体院で結果を出してやらなければという使命感と、自惚れや傲慢ではない結果を出せるという誇りがそこにあるからだ。

盛岡市&滝沢村の整体院『観身堂』http://kansindo.mods.jp/

うつ病、パニック障害、PTSD(心的外傷後ストレス障害)、過換気・過呼吸症候群、リストカット自傷行為、摂食障害(過食症、拒食症)自律神経失調症などには(無料カウンセリングをご利用ください。)

 

業の自壊

業の自壊

人の手によって物が創作されるには心の想像から始まり結果的に形ができあがる。

つまり、想念(思い)がものをつくるのである事は皆さんは既にご存知であろう。

物に限らず運命もまた、自らの想念が始発点となってそれぞれの人生というストーリーが出来上がっていきます。

水面、地表面から蒸発する水蒸気が、一定の飽和点に達すると雲となり、上空の冷たい空気に触れると雨となって降ってくることもまた既に知っておられることである。

それと同じように、その人の絶え間のない想念は、善いものであれ悪いものであれ、ある飽和点に達すると、それはその想念にふさわしい運命となって形の上に現れて来る。

だから、運命を良くしようと思う人は、日々の想念を良い運命が来るような執着のない明るい想念に切り替えなければいけないのです。

いつもは暗い想念を持ち続けながら、善いことが来ますようにと祈ってみても運命は良くならないのです。

いつも嫉妬や愚痴や怒りを持った心でいながら幸せになれますようにと神仏の前で手を合わせてもそれは叶うことがないのです。

ここでブログを読んでくださっている方々に良く考えておいてもらいたいことを角度を変えてお話ししてみます。

近年、平和利用という美名の元に原子力、原爆開発が世界の各国で急速に進められているが、原爆、水爆、中性子爆弾というものは、人間を殺傷する以外には使い道のない代物です。

それらの製造を命じ、また製造している人々の心の中に想念されるものは、この爆弾によって沢山の人々が殺されると言う想念だけである。

多くの人が幸せになりますようにという想念は全くないのです。

だからそれらの爆弾が製造されれば製造される程、人殺しの想念は積み重ねられて増大して行く事になる。

水蒸気が一定の飽和点に達すると雨となるというのが自然の法則であるが、そのように、それらの爆弾が製造されてゆくごとに人殺しの想念は蓄積されてゆくのですから、ある一定度まで蓄積されると、その人殺しの想念が形になって現われるということになる。

これを「業の自壊作用」と名付けましょう。

業とは執着した悪想念のことです。

このことからして、それらの爆弾が戦争という手段によって使用されなくても、ある一定度蓄積されるとその想念(業)の自壊作用によって、それらの爆弾が、接触、取り扱いミス、誤って運搬中に落とすとか等の事故によって自然爆発することが起こってくるということになる。

アメリカでも過去にそのような事故で技術者がたくさん死んでいるし、ソ連でも1957年末から1958年初めに、南ウラル地域で地下貯蔵庫が何らかの原因不明の理由で大爆発を起こし、約1000平方マイルが放射能で汚染されて住めなくなっている。

更にチェルノブイリでは1986年の26年前にも原子力発電所で起きた最悪のレベル7の事故によって立ち入り禁止区域が設けられている。

これまでアメリカ、ソ連は物を破壊せず、人間だけを殺傷する中性子爆弾、殺人光線の製造に重点を置き始めた。

その理由は、旧型の水爆は人間を殺すだけでなくあらゆるものをも破壊し、その土地に数百年も人間が住めなくなるような危険な放射能を残すから人間だけを殺す中性子爆弾、殺人光線の方がより人道的だというのである。

愚かな論理である。人殺しをするのに人道的とか何とかそういうことが言えたものではないと思うのですが、現実にアメリカ、ソ連の指導者たちはそう思っていたのです。

実に恐ろしいことである。今まで度々、核の自己爆発が起こっているということは、早く核爆弾の製造をやめよという警告なのです。

こういう時に、これは警告だと気づいて修正するとよいのですが、今のところ修正するどころか益々製造に力を入れている。

多くの人を殺すことを目的にしている国が、永久に繁栄すると皆さんは思われるであろうか。

個人でも悪いことをし続けていると「俺はこんなことを続けていると、ロクなことにならないなあ」と思うものでしょ。

悪い事を続けていて、善いことが来るということは絶対にない。だから、人殺しを目的とした核爆弾の製造に夢中になっている国は、その想念の自壊作用によってやがて滅びることになるということになるだろう。

私がここに述べている事は、個人に対してだけではなく、人類すべてに向けたメッセージであり人の道なのです。

アメリカ、ソ連と、最近ではイランの指導達が、この道理を知って核爆弾などの製造をやめればよいが、今のままで製造を続けるならば、やがてアメリカ、ソ連は滅びることになる。

更に北朝鮮が軍備の拡張に爆走し、国民を飢えさせているのに、中国やインドも軍備の拡大に力を入れ始めて同じ道を迷走しはじめた。

追随する国々もおなじである。アメリカやソ連は過去の歴史においては悪行を既につくっていたのだが、その上に近年も更に戦争によって殺人行為という悪行を重ねている。

日本も過去において侵略した歴史はあるが、最終的には広島と長崎に原爆を投下されて敗戦となったことが教訓となり原爆は作っていない。

悪を裁く戦争だとか、聖戦とはいっても殺人は殺人です。反省しなければやがてその業は自壊する。つまり国が衰退するのである。

我々、個人においても他に対して怒りを向けたり、攻撃したりすれば間違いなくその業火で自らが自壊して苦しむことになるのです。個人も国も同じことです。

世界を代表して突っ走ってきたアメリカではあるが今のアメリカは失業や経済が衰退し見る影もない。これも自壊作用の表れである。

昨年の3月11日の震災と原発事故を教訓に、本当は日本の原子力発電も自然エネルギーの電力開発に力を注ぐ時代に入らなければならない分岐点に立っているのです。

日本は世界に先駆けるだけの技術開発をできる民族だと思います。やがて化石燃料に代わって、その技術によって自然エネルギーが主流をなす時代があと50年もすれば構築されてくるであろう。

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※文中の用語説明

自壊作用(自分の悪想念によって身におきるよくない出来事)

(不満、愚痴、怒り、嫉妬、嫉み、恨みなどの偏った心)

業火(不調和な心で燃え盛っている状態)

岩手県 盛岡市 整体 うつ病 パニック障害 薬依存 過食症 拒食症 過換気 過呼吸症候群 リストカット 自傷行為 不登校 自閉症 霊障などに無料カウンセリングで対応。

感情的な人

自分を改められない理由

これまで多くの人たちから様々なトラブルや悩みを聞き、様々な精神的疾患、肉体的疾患の相談にのってきたなかで突き当たる共通した障害がある。

それは癖(くせ)の繰り返しです。

癖とは心の傾向性であり、行動の傾向性のことをいいます。

自律神経系に作用する薬や向精神薬に依存して長期にわたり減薬、断薬できない人の場合も根本的なところではこの心の傾向性(癖)が大きな妨(さまた)げになっている。

傾向性(癖)は、思ってはいけないことを思い、苦悩し、自分に嫌悪してみたり、健康になるため飲食してはいけないものをやめられず摂って体調を改善できないなどがその代表的なところである。

心の癖(傾向性)と行動の癖の背景には見栄(虚栄心)や嫉妬(しっと)や抑圧された心、我慢、傲慢(ごうまん)、頑固、などの自我(エゴ)、執着が潜んでいるものですが、心の改善に必要なことは決心勇気と小さな努力の積み重ねだけです。

これらはみな本能、感情、知性、理性偏った心のバランスから発生しています。

なぜ悪いことをした人が反省しにくいのだろうか。

なぜ怒りを改めることができないでいつも同じところを右往左往しているのだろうか。

善いことをしたら善い結果が出てくるし、悪いことをしたら悪い結果が出てくるという原理原則ぐらいは大抵の人が知っている。

知っているのになぜ悪い事をする人がなかなか絶えないのか。

相変わらず自分の心の怒りを直すことができないのか。

それは悪い事を思っても、悪いことをしてもすぐには悪いことの結果が出て来ないからです。

悪い事をしたらすぐにでも、あるいは次の日に悪い結果が出て来るというのであれば反省する事も早くなるであろうが、自分が改める気がなかったり、隠したり、口をつぐんだりすれば誰もわからないから悪事は連続してしまう。

二人の子供が連続して骨折する怪我を負ったケースがあった。私は家族の夫婦仲、ご両親の不仲を確認したらまったくその通りであった例がある。数か月前まで家の中は非常に不調和であったことが解明された。

不調和から怪我という結果が出るまで数か月後や、数年後という場合があるものです。

原因結果のサイクルは早い場合は数か月後、3年、5年、7年と大きな流れがあるから、善いことをして善い結果が出て来るのは3年、5年、7年周期律であるし、悪い事をしてもその結果が出て来るのは3年、5年、7年の周期律であるから、悪い事をしてもすぐ結果が出てくる訳ではない。犯罪を犯して現行犯逮捕などのような話はここでは問題外です。

仕事をしても信用を得るまでは3年かかるところから昔の人たちは『石の上にも3年』といって精進することの大切さを知っていた。

大抵3年も経つと、特にその日その日の行き当たりばったりの生活をしている人ほど、3年前にどんな事をしたかも忘れてしまっている。

既に悪い事をしたという記憶もなくなっている頃に、3年前の悪い結果がポコッと出て来るものだから、何も悪い事はしていないのに偶然にポコッと悪い事が起こったように感じてしまうのです。

よく言われる「忘れた頃に災難がやってくる」と言われるのもそういうことからです。

この世に偶然と言う事は何一つないのですが、それはその原因を自分がつくったことを忘れている為に、偶然のように感じられることだけのことだけなんです。

人間は一日のうちに善い事、悪い事、色々な事を思う。その思ったことの一つ一つがみな結果として即座に出て来るとしたら、この世に幸福な人は一人も居ないということになる。

仏教的にいう如来とか菩薩といわれるような段階の人になれば別として、それ以外の多くの人は善い事悪い事など色々な事を思う。

一つの原因に対しては必ず一つの結果が現われてくるというのであったら、とてもこの地上の人生はたまったものではない。

外面からはどんなに、謹厳実直で、聖人だと見られている人でも本能があるからきれいな女の人を見て欲心を起こさなかったと言う人はないであろう。

悪に関しては本来は「心に思うこともいけない」のですが、まだまだ私は程遠い。

特に若い頃の私はそうであった。常に清浄でありたいとする自分と、内心の醜さとの葛藤に悩んだものです。

この善悪二面の自分の人間性に大いに悩む人が真に真理(宇宙の法則と人生の極意)を求める資格のある人であるといえる。

心で悪い事を思っても、思った通りの悪い事が必ずしも出て来ないのは、人間には反省するという心(知性と理性の総合された心の働き)が与えられているからである。

しかし、反省しない、反省できない、それを実践できないという人は知性、理性の働きが鈍いか、感情が強いか、欲望が強いか、知性と理性がない人である。

だから、そういう人を感情だけで動かされる感情的な人という。

「あ~悪かった。すまない。」と言う反省、悔い改めの心から行いがあれば悪い事が起こって来るという運命は修正出来るのです。

この色々の人生の出来事を反省する事が出来るような目覚めた心を持つようになればなるほど、心の力で運命を変化改善させる力は拡大されて来るのです。

家庭内の夫婦関係も他人との付き合いでも、社会でも感情を先に出してしまう人は必ず相手の怒りを誘いやすくトラブルが絶えない。

自分が正しいと自己主張する人も問題を起こす。

これまで何度も申し上げてきましたが、偏った気持ちで冷静さを失っているときに自己主張すると、即座に問題が発生しなくても後々に悪いことが現象化してくるから改めなければならないのです。excuse me(ごめんなさい)を人前でもいえることも大事です。

表裏一体

死について

私は今月5日に縁者の葬儀に出席してきました。享年72歳の男性、昨年4月に末期ガンを宣告されて以来、一年の命を灯した。

親しい人たちからの弔辞(ちょうじ)が述べられていた。

弔文(ちょうぶん)の内容は『安らかに眠ってくれ。』や『ゆっくり休んでくれ。』や『深い眠りについているだろうな。』等々の言葉がでてきます。

さて肉体を去った後の魂は、実際は眠っているのだろうか。

『千の風になって』、という歌の中に『眠ってなんかいません。』という歌詞があります。作者はあの世の実態を知ってか知らずして作ったのかは分かりませんが、うまく真実を言い表しています。

キリスト教では「最後の審判」が来るまでは醒(さ)めることなく眠っているというが、それは事実ではない。

あの世では毎日毎日が、全ての霊魂にとっては、自分で自分の心を反省し修正しなければならない日々なのです。

あるとき相談に見えた方に関わる霊をその人の身体に降霊させたら自分が借金を苦に首つり自殺した霊が、恨み、つらみを語りだした例があります。

人間が死んであの世で眠っているのなら、降霊しても人の身体を借りて語りだすことはないでしょう。

ですから死んだ後に、何もしなくても良い極楽で休息と恩恵の世界に入るというのも間違いであれば、永遠に呪いの世界に入るというのも間違いなのです。

また、死ねば直ちに仏になって、天地の秘密の全てを知り尽くすのでもなく、あの世とこの世のあらゆる問題を全て解決出来る力を持つのでもないのである。

大抵の場合は、死んだ後は、この世で生きていたと同じような状態を維持して生活することになる。

この世では目が見えない盲目な人でも心が善良ならあの世に行ったときにとてもよく目が見えるのです。あの世は心だけの世界だからです。

反対にこの世で目が見えても心に自我我欲、執着が強ければあの世に行った途端に光のない無明の世界に身を置くことになる。

だからこの世で無智(自我、執着、欲得)であった人は、あの世でも無智であり、この世で賢明(調和、愛、慈悲心)であった人はあの世でも賢明である。

この世にいた時と同じような精神状態にあり、天国また地獄といっても、それはその人が心の中に造った天国と地獄の反映に外ならない。

つまり自らの心の中に天国も地獄も作り出すことになるのです。光の使者である霊格の高いものは、奈落の底に下りて来て光を与え、その人が新しい意識の境涯へ進歩するように導き霊感づける。

このようなことは『アガシャの霊訓』のなかにも記してあります。死んでしまえば、一切の罪、一切の苦しみから逃れるのではないのである。

如何にこれまでの宗教家である僧侶や牧師、オーム真理教はじめ多くの新興宗教の教祖、拝み屋、霊能者、占い師たちが間違った事を説いて来たか、いまもその事実の相談が後を絶たない。

間違った宗教家の言うことを正しいと信じてみても、あの世で救われる事にはならないし、身についた心の垢を落すのに相当の年月を要することになる。

生きている時に、間違ったことを正しいと信じて死んだ人達は、正しい信仰をして来たという意識だけが強いから、あの世の光の指導霊に反省を促されても、正しい信仰をして来たという意識に邪魔されて、正しく反省することが出来ないのです。

素直に反省できるようになるまでには時間と年月がかかるのである。

宗教団体の講師達が、如何に、その教団に忠誠を尽くして功労があったとしても、その教団の教義が間違っていれば、この間違った教義を説いた罪を問われることになるのですから、間違った教義を説いている教団で、最も功労のあった者ほど深い暗闇に堕ちるということになる。

だから講師たちが罪を犯さず闇の奈落に堕ちないためにも、自分で納得出来るものだけを説くようにしなければならないし、教団から給料をもらって生活しているからといって、自分で納得出来ない教義は伝えないようにしなければならないのです。

しかし、現実には給料を頂く身とあればそれができようはずもないであろう。

こうして自分にも他にも罪の上塗りをしていってあの世に行った時に罪の重さに猛反省させられることになるのです。

私はいつも言うのですが、この世とあの世は、別な世界ではなく、一枚の紙のようなものであり、裏表の関係にあると。表裏一体の存在です。

だからこの世で生きる今を大事に心の成長のために努力しなければならないと。

狂信・盲信

私のお母さんは『霊感がある』と言ってるという娘(48歳)Aさんからの相談。

『母が高額で様々な御利益グッズを次々と教団から買い自分のところに持ち込んでくるのですが、その度に自分はいつも頭痛がしたり具合が悪くて困っています。必要のないものを持ちこんで増えるばかりでどうしたらいいですか?』という内容でした。

私はこれまで霊感があるという方のお話しも聞いたり、そういった霊的な能力があるという方に直接、会う機会も10数名ほどある。

また霊能者といわれる人たちが出版した著書についてはリサーチの意味から百冊を超えて読んでみた。しかし、実際のところ能力の高低はともかく、文面から人間的良識を感じ取れる人は数人だけであった。

数年前に、一時期テレビで報じられた女性霊能者の書いた本を読んだときに私は大いに、この霊能者の人格に疑問をもったことを記憶しています。

その女性霊能者いわく『私は若いころから筆舌に尽くせないほどの辛酸をなめてきたが、ある日を境に霊能に目覚めた。そして今はベンツを所有するまでになった。・・・・・・』と続く文面を見たからです。

この霊能者という人は何を勘違いしているのだろうか。ベンツを買えたことが著書に乗せるだけの意味をもつことなのか、ビジネスの成功談義をのせて自己アピールしたいだけの実に幼稚で小さな器の精神性がうかがえる。

直感的にこの女性霊能者の先々に危険性を感じてしまった。その数年後やはり問題は起きた。体の健康祈願と除霊の費用を6百万円ほど支払ったが何も改善されないため疑問を持った信者が訴訟を起こした。

この女性霊能者はテレビに出ることで有名にはなったが、心は欲望のためにまっ黒くなってしまっている。問題を起こすのは目に見えていることです。

しかし、このような人間を公共の電波に乗せて視聴率アップと利益をもくろむテレビ局側にも大いに疑問を感じる。

私たちはテレビのショーアップされたこの手の番組に踊らされてはならないし、視聴者が知らないカラクリが巧妙に仕組まれているものです。必ず後から問題が噴出している。

ある日突然、霊能に目覚めたという人の場合は殆んどが動物霊の憑依による影響か、もしくは地獄霊の憑依による低次元の霊障の場合が殆どといってもよい。これは本来の霊能とは異なるものです。

本来の正当な霊能といわれるものは心の完成度に準じて副次的に覚醒した能力でなければなりません。

調和された心の勉強と実践を行っていないものが霊的な能力だけに魅了されてこれを求めることは低次元の霊に憑依される心の隙ができるため最も危険なことです。

反対に心が調和された良識のある人間は全くの普通人ですし、ベンツを買ったとか、豪邸を建てたとか、公(おおやけ)に吹聴(ふいちょう)することはしない。

特に神仏を口にするものの場合、仮に正当な働きでお金を得たとしても、本来はそれに執着することなく世に還元することを考え、行わなければならない。

相談にきた主婦には、人間の都合でお守りやご利益グッズ、お札などを買い込んだりすることの愚か、狂信、盲信することの危険を伝えたうえで、すべて持参していただき、私が処分させていただいた。

私は一般の人々には穏やかに、心の安らぎを得ていただけることを念頭に御話をさせていただきますが、自称、霊能者、拝み屋、占い師という人がお金を頂いている場合は相当に手厳しくその言動をみておりますし、直接お会いした場合は何が正しい事かを申してきました。

何故なら、プロとしてお金を得ているものが人の心の分野に立ち入り誤った導きをしてはならないと思っているからです。

霊障がどうの、心がどうのと言って説いているものが人の弱みに付けこみ欲望をもって暴利を貪ることは断じて許されることではありません。

だが、自分の足元を見ずに、自分のこれまでの言動を省みることもなく簡単に他に依存してしまうところに心の隙ができるから狂信、盲信になりかねないのであって、被害は自分が蒔いた種でもある。

 

 

 

自分の生き方

逆境を生きるために

『禍福は糾える縄の如し』(かふくはあざなえるなわのごとし)

禍(わざわい)と良いことは縄をなうときのように交互にやってくるものだという意味です。

誰もが経験していることでしょうが「こういう生き方をしたい」とは思っても、なかなかすぐにはできないことが多いものです。

だからと言って、自分の生き方を善くしていく努力をしないで、今の自分の生き方を卑下したり、否定したりすることはよくない。

「自分の生き方はこれでいい」と思えるように、少しずつ長く努力していくことが大切だ。

ただ実際のところ『これでいい』にはそれぞれの立場や環境、条件によって違いがあるのは当然のことです。

他人の環境や状況と比較して自分はどうのこうと悩んでしまうと『これでいい』ということにはならない。

このような相対的な見方は必ず嫉妬や羨望(せんぼう)の心を作り出すから改めることです。

今の自分の生き方は、現実に則して時間をかけてつくってきたものですから、自分にとって「それなりにいい」ところもあるはずです。

欲を言ったらキリがありません。自分の理想とは違うからと、現実的に無理なことを自分に要求しても自分を苦しめるだけで、間違えると失望や挫折、無気力にもなりかねない。

「今の自分の生き方は、これで(それなりに)いい」と思えれば、その中で生活を愉しむ工夫もできるものです。

今の生活の中で、小さな何かを変えていくことはできるはずです。

他人と比較しない生き方は自分を強くさせます。

もう一つは、自分が望む方向に生き方を変えていくことです。

すぐには変えられないかもしれませんが、自分の生き方を変えられる機会は時折あると思います。

そういうチャンスを見逃したり、迷っているうちに見過ごしてしまわないようにできたら、と思います。

心が冷静さを見失うと先ず状況判断ができにくくなります。

そうなれば大切なことに気づかなかったり、見逃したり、せっかくのチャンスをも失うことになってしまいます。

自分のことだけでなく、対人関係においても、相手に変わることを望んでいるうちは解決できない問題が、自分が気づき変わることで好転してしまうことが多いものです。

こうしてみると自分次第という言葉の持つ意味が明瞭になってきますね。

「今の生き方もいいけど、チャンスがあれば生き方を変えてみるのもいいのではないか」と考えられたら、またそれもいいでしょう。

いちばん大事なのは、「自分の生き方はこれでいい」と言えるように努力することです。

今の生活を善くする努力もしないで、自分の生き方を否定するのはよくありません。

今の生活の中で少しずつでも幸せを感じられるようになれば、「今の生き方はそれなりにいい」と思えるようになれるでしょう。

「自分の生き方はこれでいい」というのは、決してエゴイスト的な生き方をいうではありません。

同じ「自分の生き方はこれでいい」でも内容はまったく違います。

やはり正しい生き方は精神的に偏りのないバランスのとれた状態であることが基本です。

そのうえで「自分の生き方はこれでいい」と思えるようになると、かえって、いろんな生き方を選択できるようになるものです。

こうなると、いろんな展開が可能となってきます。

幸運は豪華なプレゼントであるが、逆境は最も偉大な教師。

自分の意思の力と努力で結果が見えないときは、好機の到来を待つことが必要なときです。

文中用語の説明

※相対的な見方(他との比較すること)※羨望(せんぼう、人のことをうらやましく思うこと)※禍福(喜ばしくないことと良いこと)

商業仏教

 今月6日の読売新聞に載った記事を一部紹介してみます。

葬儀で僧侶に渡す「お布施」を巡り、東京国税局などの一斉調査で判明した僧侶派遣会社や葬儀会社約10社による計約5億円の所得隠し。

複数各地の派遣会社に登録して働く僧侶たちは、「5割以上をピンハネされた」などと、お布施を業者に還流させる仕組みの詳細を明かす。

なかには「他宗派の僧侶を装って法事をさせられた」などの証言もあり、僧侶派遣ビジネスの不透明な実態が浮かび上がった。

「実家の寺の副住職としての収入だけでは食べていけない」。埼玉県内の僧侶(46歳)は約10年前、複数の派遣業者に登録して最近まで仕事を続けていた。

派遣業者に支払う仲介手数料は「お布施の半額」が基本だったが、時には、お布施35万円のうち、25万円のキックバックを求められたこともあった。

交通費や宿泊費、食費などは基本的に自腹。「5割以上のピンハネはつらかった」と振り返る。節約のため、格安のビジネスホテルかカプセルホテルを選び、食事はコンビニで済ませた。

派遣業者への支払いは振り込みが多かったが、現金書留を指定されることもあった。「裏金にするのだろう」と感じた。

こうして僧侶から派遣業者にバックされたお布施の一部は、多くの場合、派遣業者に僧侶派遣を依頼した葬儀会社に対して紹介手数料やリベートとして流れる。

お布施は数万~数十万円で、葬儀会社の取り分は3割程度。所得隠しが指摘された僧侶派遣会社「グランド・レリジオン」(埼玉県川口市)は、僧侶から受け取った紹介料の一部を収入から除外し、葬儀会社への手数料やリベートに充当。

葬儀会社もリベートを簿外で受け取るなどしていた。要するに裏金として表に出さない金となる。

ある葬儀会社幹部は、リベートの一部の使途について「患者が亡くなった時に紹介してもらえるよう、病院関係者らを接待するのに使った」と明かした。

こうした仕組みが施主側(遺族)に伝えられることはまれだ。グランド社から葬儀に派遣された僧侶の一人は「施主は読経の対価としてお布施を払っている。施主に実態は知られたくない」と語る。

僧侶の宗派をごまかして派遣するケースもある。

ある派遣会社から法事の仕事を受けていた関東地方の僧侶の場合、いつも知らない寺院の僧侶を名乗るよう求められていた。宗派も異なり、法事会場で「~~寺の副住職さんです」などと施主(遺族)に紹介されるのが後ろめたかったという。

他宗派の四十九日の法要で、重要な「位牌入魂」までやらされ、その宗派の作法が分からず、自分の宗派のやり方でごまかしたこともある。「とんでもないとをしてしまった」と、良心の呵責に耐えかねた。

ここまでが読売新聞の掲載記事です。

13年前、田舎のことですから、私の親父とお袋のときの葬儀は家で行いましたが、近年は斎事場にて葬儀会社が式次第を執り行うケースが多くなり、派遣会社や葬儀会社が会場に僧侶の手配をし、お布施からも利益を得ている時代です。

僧侶が頂いたお布施をキックバックするよう派遣会社が請求をするわけですが、その内容は上記の記事の通り。

派遣会社では僧侶へのお布施から葬儀社へのバックマージンを支払ったり、葬儀社は病院関係者への接待に使い葬儀の情報を頂くという構図です。

施主(遺族)は僧侶にお布施を支払っていても、これらの派遣会社や葬儀社などにもマージンとしてお金が流れていることになるわけで、お布施が高額になっていく一つの理由でもあるでしょう。

私はこれまでHeartschoolで何度となく述べてきましたが、仏教に限らず現代の宗教界そのものが商業ベースになってしまって、本当に心の救いを求める人にとっては甚だ用を成しえない内容に様変わりしてしまいました。

しかし、人々は形骸化した現代仏教界やその他の宗教界の堕落に気づいているいるのだろうか。一般的には知られていないし、金に群がる欲望は宗教に携わる人間も何ら変わらないし、むしろそれ以上で腐敗しきっているところが多々ある。

私はこれまで様々な形で宗教界をリサーチしてきたが、こんな腐敗状況のなかでも無欲で人々に手を差しのべている人もいることは一縷(いちる)の希望を見出せるて大変嬉しく思う。

現代の葬式仏教の中には2500有余年前のゴーダマシッダルタ釈迦無尼仏の説かれた、尊い人間の生き方である中道の精神は全くと言ってよいほど残っておりません。

従って、お金と宗教が非常に深くつながっている部分では、様々な腐敗の温床となってしまい、真の心の救いからは逸脱しているのです。あるのは形と儀式(パフォーマンス)だけです。

しかし、葬儀会社、僧侶、派遣会社の商業主義を助長する背景には施主(遺族)側の見栄も起因しています。

例えば戒名。僧侶が高額な戒名料で差別化をアピールしてくれば施主がそれに同調し見栄を張って院殿号をなる名称をつけて優越感に浸り喜々としている愚かな思いがあります。

形に拘(こだわ)ったりすればその分だけ全ての部分で費用がかさむのは致し方ないこと。

故人は戒名の高低料金で成仏するわけではありませんし、立派な祭壇や読経する時間の多い、少ないで成仏するわけではありません。

成仏するしないは、生前の生き方、その一点です。

最近は御墓を買うことで後々の管理の難しさが問題になり関心が薄れてきていますし、樹木葬という御墓のない樹木のある用地に御骨を埋めるシンプルな方法が評判になるなど、葬儀も多様化してきています。

ですが施主(遺族)の悲しみを、儲かるビジネスに変えていく新手の企業はまだまだこれから増える気がします。

私たち人間の裡(うち)には、お釈迦様が悟られた慈悲が、そしてイエスキリストが悟られた愛の心が内在されています。

ですが、私たちが一端、物や経済や地位や名誉などの形に囚われると、その内在された慈悲も愛も影を潜めてしまうのです。

物や経済は効率よく無駄のない使い方が最善の方法であり、物や金に翻弄され使われてしまっては人間として常軌を逸してしまうことになります。

金は人間を生かしもするが、堕落もする。しかし、金が問題なのではない、人間の心に問題がある。