胎教


胎教1
今回は胎教に関して精神的視点と霊的視点から考察しながら何回かに分けて述べてみたい。
胎教は妊婦が精神修養を行うことによって胎児によい影響を与えようとすることをいいますが、もっと広く言えば。良いことも悪影響も胎児にかかわることのすべてを含めて胎教と捉えた方が広く理解できるでしょう。
ここでは人間の精神活動がどれほど自身の体と胎児の体と心に強く影響するかということの重要性をのべていきます。
『出産後に赤ちゃんを可愛いと思えない。』自分は育児ノイローゼだといって相談に見えた方がいた。
話をきいているうちに妊娠前の仕事に就いているときも、うつ病の症状があり心療内科に通院していたと明かした。
精神的に情緒不安定の時期に妊娠し、発育して出産することは決して胎児にとって良い影響をするはずがない。
このような不調和な精神環境のなかで発育し生まれた子供は後々に精神的問題を発症する可能性が大きくなってくるというそのメカニズムのことを知る人は少ないであろう。
私はこれまでいろいろな悩みのカウンセリングをしてきた中で、問題解決するために相談者の家庭環境や幼小期の記憶まで遡(さかのぼ)る場合が多く、
更に、もっと遡ると妊娠した時期の家庭環境までたどり着くことになるのが常である。
少し長くなりますが、具体的に胎教の論理と実例を述べてみます。
障害者が生まれるのは先祖や前世の因縁ではない。
科学と医学の進歩によって胎児の様子を画像にして見れるようにはなりましたが、親なら誰れでも子供が生まれる時、一番心配するのは、「五体満足で手足が揃っているであろうか。」と言う事でしょう。
健康な赤ちゃんを生んだ母親の安堵した喜びにひき替えて、障害者だと医師に告げられた時の暗澹(あんたん)とした、やり場のない悲しみ、悔恨(かいこん)はどんなに深いものであろうか。
あの世の天上界で親子となることを約束した子供の霊は、地上から発せられていく親となる両親のバイブレーション(波動)に引き寄せられて地上界へ霊線が繋がる。
つまりこの世の胎児とあの世の霊と縁結びができる瞬間である。
霊が完全に肉体(胎児)に入るのは出産の刹那(せつな)であるが、それまでは天上界と胎児の身体を行き来しながら母となるべき人の胎内において、やがて自分が乗り物としなければならない肉体がどのように創られてゆくかを見ているのである。
4次元世界から見る3次元世界は見えないものはなく、すべて素透しで見えている。
もし、不完全な状態に創られつつあることを知ると「しまった。」と思うが、『よし、やむを得ない。本当は五体健全な肉体を乗りものにして魂の勉強をしようと思ったが、こうなったら仕方がない。不完全な肉体を乗りものにしての魂の勉強は難しいが、一生懸命にやろう。』と覚悟して生まれてくるのです。
だから障害者は、肉体的には一人前ではないと見られているが、魂は、心は立派に一人前の人格者なのであって、五体健全な人よりも難しい肉体を利用して、健康な人の経験できない厳しい心の勉強をしようとしている勇者なのだ。
ダウン症の子供として生まれてはいても、その子の魂が高いステージにあるものであれば立派に開花して感動を与える仕事を成せるものです。当ブログの右側サイドメニューのアーカイブ23年12月21日『仏心』のタイトルで紹介した金澤翔子さんの作品にはそのエネルギーが溢れています。ご覧になってください。
ですから我々は、障害者を見た時、心からその人を賞賛し「厳しいでしょうがしっかりやって下さい。」と励ます心で見守ることが大事なのです。
小さな子供の手を引いた若い母親が、時々障害者の後ろ姿を指差して「いい子にしていないと、あんなになりますよ。」と言っている光景を40年も前にみたことがある。
また、不潔なものでも見るかのような眼差しで見て通り過ぎる人があるが、そういうことは絶対にしてはならないのです。
肉体はどうあろうと魂は神の子であり、皆素晴らしい人格者なのである。
障害者として生まれるのは、宗教家や霊能者が言うような、その人の前世の因縁でもなければ、もちろん先祖の因縁でもない。
今まで多くの宗教家は、すべて先祖や前世の因縁だと言って信仰させ、因縁を浄化しなさいと言って多額の献金をさせてきた。あってはならないことです。
しかし、因縁は心で創るものなのですから、心で創ったものは心を変えないと消えないのに、金や物を教団にあげれば因縁が切れると説いているのは間違っているし、そのような教えはあってはならない。
もし、病気や苦悩の渦中にある人がいたら、決して先祖のせいにしないこと、前世のせいにしないことです。
因縁を切るためにと、先祖伝来の土地も寄付してしまい困っていると言う話しもあります。因縁を切るために金や物を上げさせる宗教は邪教であり、邪道です。
そんなものを決して信じてはならない。もし、今信じている人があったら即刻そのような信仰はやめるべきです。
障害者として生まれてきた人は、その厳しい肉体を乗りものとして魂の修行をしようと決意して生まれて来たのですから、むしろ、健康体の人よりも難しい勉強をするチャンスに恵まれたと感謝して、肉体の不自由さを克服してゆくその経験を心から喜ばなければいけないし、「こういう体に生んで。」と親を怨んではならない。
もちろん、社会全体を怨み健康体の人を見て怨んでもならない。
いろいろな不幸をも含めてそれらを全て先祖や前世の因縁だと言う宗教家達は「献金をすれば因縁が切れる。」と言うが、しかし、いくら献金をしても[これであなたの因縁は切れました。」と言うようなことは絶対に言わない。
「切れる。」と言うなら「切れました。」といえなければならいはずであるが「これであなたの因縁は切れました。」と言った人があることを私は聞いたことがない。
切れたといえばお金にならないのだから言えるはずがないであろう。
各宗教団体の大きな殿堂を見るたびに私は「この建物は、先祖や前世の因縁だと脅かされた人達の金で造られている。」と思う。
またその教団の指導者のなかに邪心があれば建物の前を通過するだけで邪悪で汚れたエネルギーを感じてしまうから決してゴマカシはきかない。
因縁は金や物を上げることによって消えることは絶対にない。
因縁は心で創るのですから、心の持ち方を変えれば消えるのです。
心の持ち方を変えるのには一銭も金はかからない。その方法を知りたい方はブログに投稿してください。知り得る限りのことはお伝えさせていただきます。
もし、今まで先祖や前世に因縁だと言われて恐怖心を持ち因縁を切るために金や物を上げている人があったら即刻それはやめて、その金や物は、もっと自分自身や家族や廻りの人達を幸福にするために上手に活かした使い方をすべきである。
次回は『どうして障害者が生まれてくるのか』について考察してみたと思います。
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