試練のなかで咲く美しい心の花

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花には季節がありますが、人間の花には季節がありません。
自分の生き方ひとつで、いつでもどこでも咲ける花が心の内にあります。
相手の立場に立ってモノを考えれば、人間は他者のためにどんなことでもできます。
どんな悲しみや苦しみも必ず時の流れが癒してくれることもあるでしょう。
その意味では時間も必要なプロセス。
人間の身体は体力が弱っていたり、病気をしているときなどは痛覚が増し敏感になる。
そういうときは痛みの感覚がレベル1程度のものであって、八にも十にも痛いと感じるものです。
もちろんん、痛みに関しては個人差があります。
これと同じように、人は、不幸のときは辛さや悲しみを一を十にも思い、幸福のときは当たり前のようにそれに馴れて、十を一のように思って不平不満を言ったりします。
ほんとうは誰もが、苦しんだ分だけ、愛の深い人に心が育っているのですがそれに気づけない。
気づけないほど自分の感情にどっぷりと浸かって本当の自分を見失っています。
それだけに、本当の自分、すなわち人を愛せる自分、人を許せる自分、苦しみのなかでも消えることのない愛に気づいたときの喜びは言葉で表現できないほど大きい。
他人のために心を尽くしても決してお返しを期待しない、感謝の言葉も求めない、ただ淡々とやっているだけ、それが本当の奉仕であって、その原点は愛。
心に何もないから美しいのでしょう。
ですから、心に余分なことをたくさん持てば持つほどキレイな大輪の花を咲かせることができません。
煩悩という言葉はそれをいうのでしょう。
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大きな美しい花を咲かせるには、どうすればいいのか。
例えば、ボタンのつぼみがたくさんついていたら、まだ、つぼみが小さいうちに、一枝に蕾を一個だけ残してあとは全部摘んでしまいます。
これは三分の二くらいは蕾を捨てることになりますから勿体ないと思うでしょうが、美しい大輪の花を楽しむには欠かせません。
そうすれば、大輪の花を咲かせることができるのです。
私たちも牡丹の花のように美しい大輪の人生にするにはどうしたらいいのでしょうか。
それには、心の中にある余分なものを捨てれば可能になります。
余分なものを抱えてしまって苦悩するのが人間の自我であることは、人類の抱えている課題そのものでしょう。
不要な思いを抱えていながらもそれを心から離すことができない、捨てることができない心とはいったい何でしょうか。
それこそが自我心です。
自分の思いを通したい、という拘り、執着がその背景にあります。
しかし、そのような思いが強ければ強いほど苦しみの淵から抜け出すことはできません。
ここで拘り、執着がどういうかたちであらわれてくるか述べておきます。
心の執われ
不満、愚痴、怒り、傲慢、逃避、誹謗、中傷、妬み、恨み、争い、独善、排斥、差別、自己顕示、自意識過剰、自己満足、自己否定、卑下、良く思われたい、悪く思われたくない、周りの目を過剰に気にする、高いプライド、過剰な不安感と恐怖心、物やお金の偏重主義、こういった心は自分自身の心を毒して苦しむだけではなく、他人をも苦しませることになっていきます。
何故なら、こういった想念と行為は執着に根があるからです。
拘りと執着の想念は、愛と慈しみの心から最も遠い距離にある。
人生の目的は?
最近何をするにもやる気がなく、気力が湧いてこないといった35歳の男性相談者に質問した。
あなたはこれまで35年間どういう思いで生きてきましたか?
あなたにとって人生の目的は何でしょうか?
そうすると「幸せになるために」という。
あなたにとって幸せとはどのようなことですか?と問うと。
「結婚してマイホームがあり、子どもがいたら幸せかなと思います」という。
人はさまざまな価値観をもって幸せを願うもののようです。
しかし、立派なマイホームを持ち、子どもたちにかこまれた生活をしていても苦悩のなかで葛藤しながら暮らしている人たちは多い。
小学生の子どもに「人間は何のために生きるの?」と質問された親が答えに窮して、
「生きるために生きるのよ」と真顔で答えたお母さんがいました。
このお母さんは実は何も答えようがなくそう答えただけでしたから答えになどなっていません。
子さんに「何のために生きるの?」と聞かれたら、「誰かを幸せにするために生きるのよ」と答えてあげてもいいと思います。
また、「自分の心をキレイに美しく、大きくするために生きるのだよ」と答えたら最高に素晴らしい答えになるでしょう。
円滑な人間関係
人とつきあうのに秘訣があるとすれば、それはまずこちらが相手を認めること、そして好きになってしまうことではないでしょうか。
これは、自分が嫌いだと思っている人から好かれる道理がないように、相手もまた、あなたを嫌っていたらあなたから好かれる道理もないということを言っているものです。
相手の言葉、心の内にある思いを寛容な心で受け止めることが相手の立場、存在を認めることになり、それがまた、自分の身にかえってきてお互いの人間関係を円滑にすることになるだろうと思うのです。
一日に一回は鏡を見る
鏡を見たときにできればにっこりと笑ってみて、自分の笑顔がもっとも自然の状態を知る事。
心にわだかまりがない時は、鏡にうつった自分の表情がいきいきしているはずです。
その笑顔をもって、相手の立場を想像し、理解する力、相手の欲することを与えることができるなら、それは何にも勝る寛大な「愛」ではないだろうか。
誰もがたった一つの尊い命をもってこの世に生まれた、大切な存在です。
相手が今何を求めているか、何に苦しんでいるかを想像することが思いやりで、その思いやりが愛ですね。
相手が何を欲しているかを考えてみること。
相手の身になってしたいことを自分にできる範囲でしてあげればいいのです。
私は65歳、許されるなら20年は生きたいが、与えられた限りある時間に、思い残すことなく人をたっぷり愛しておかなければとしみじみ思います。
その愛は、訪ねてくる人たちの心の重荷を、少しでも降ろしてあげられることのために尽くせたらと願っている。
人間は善悪両方を持って生きる
自分の勉強や、その学んだことを実践によって善悪の判断をし、悪の誘惑に負けずに善行を積んでいければそれは最良の生き方となり、人の道だろうと思っています。
いろんな経験をしてきたからこそ、あなたの今があり、私の今がある。
だからすべてに感謝したい。
「別れ」
私もいろんな別れを経験してきました。
別れの辛さに馴れることは決してありません。
幾度繰り返しても、別れは辛く苦しいものです。
それでも、私たちは死ぬまで人を愛さずにはいられません。
だから人間であり、それが人間なのでしょう。
人生にはいろいろなことがあります。
しかし、悲しいことは時が助けてくれることもあります。
辛いことはじっと耐え忍んでいきましょう。
必ず安らかな心になれるときが訪れます。
それがこの四苦八苦の世を生きる唯一の方法ではないかと思います。
自分を高める道
もし、人より素晴らしい世界を見よう、そこにある宝にめぐり逢おうとするなら、どうしたって危険な道、恐い道、リスクを伴った道を歩かねばなりません。
また、そういう道を求めて歩くのが、才能に賭ける人の心構えであり、より高いステージに自分を成していく道のりなのです。
人間は生まれた時から一人で生まれ、死ぬ時も一人で死んでゆきます。
そういった意味でいうなら、孤独は人間の本性でしょう。
だからこそ、人は他の人を求め、愛し、肌であたため合いたいのです。
反面、孤独は人間の心を深く、強く、広く、そして大きく育む時間です。
そして、人は所詮一人で生まれ、一人で死んでいく孤独な存在です。
だからこそ、自分がまず自分をいたわり、愛し、かわいがってやらなければ、自分自身が反抗しますし、本当の意味で人を愛せないでしょう。
これは自分を甘やかすこととは違います。
人間は自分本位なところがあります。
そういう人は、自分中心に地球が廻っていると錯覚するところがあって、思い通りにならない現実に腹を立てて愚痴ばかり言います。
しかしそれは単なる自己愛であって、自己中心主義です。
自己愛には、人や社会のせいにして自分の殻に閉じこもる傾向があり、責任転嫁がみられます。
平和も戦争も家庭から始まります。
もし本当に世界の平和を願っているなら自分の心に怒りをもってはならない。
そして一番身近な人と相互に愛し合うことから始めていかなくてはならない。
もし、喜びを広げていきたいなら、先ずは自分自身が喜びをもって生活することが大切でしょう。
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