無力なのではなく無気力になっているだけ
どうにも気持ちが乗らない時ってないだろうか?
例えば仕事に取り掛かっても、モチベーションは上がらず、しまいには仕事が片付いても片付かなくても、どうでもよくなっている。
友人と遊びに行っても仲間だけ盛り上がっていて、自分は冷めたまま……。
このように意欲、感情、情熱がスランプになってしまった状態がある種の無気力状態。
無気力が長引いたら危険!
一時的に無気力になる事は誰もがよくあることで珍しいことではない。
でも無気力が長引けば深刻な悪影響が出やすくもなってきます。
「能面のような」という言葉イコール「無表情」の代名詞として使われてきました。
能面の特徴は、表情があるのかないのかよくわからないように感じるだけに何かしらその奥に潜む深い喜怒哀楽、表面からはわからない人生の機微があるように思います。
A君20歳と面談してすぐ私の心に浮かんだことは、能面だった。
なぜ能面なのかというと、A君にはごく普通の目の動きや顔の表情筋の動きというものが感じられないからだ。
いわゆる表情がない状態。
語りかけても返事がこないし、片言の言葉を発するのに沈黙が続いて待っているという状況だった。
何が20歳の彼をこういう状況にさせたのだろうか。
勿論、心療内科の向精神薬を服用はしているのだが、薬の副作用だけではない寡黙さに大いに疑問がある。
「はやく服を着なさい、はやく学校に行きなさい、早くご飯を食べなさい、早く宿題をかたづけなさい、早くお風呂に入りなさい、早く寝なさい」これが一日繰り返され、毎日繰り返される。
とにかく忙しく、スピードが要求される子育て。
まるで呪いをかけて呪縛しているに等しい。
ブログを読んでくださっているあなたが子どもの頃はどのような環境だったでしょうか。
一般的に、子どもが幼いころは親のいう事をよくきくし、親の言うとおりにするものだし、また、させることが多いものですが、しかし、小学校高学年から中学生ともなると、しっかり自我が芽生えてきて必ずしも親の言う通りにはならなくなってきます。
男子の場合は中学生ともなるとお母さんの対応ではなく、お父さんの出番が必要となってきます。
お父さんが子供の躾や教育に関して、妻に「子供のことはお前に任せるから」という無責任なことを言う人ほど自分勝手な行動をしている場合がある。
それに伴ってお母さんの責任感が過干渉となりかねず、そのことが子どものやる気を失わせ、自立心の芽を摘んでしまい、やる気の邪魔しているようなこともあります。
子供が望んでいないことを親が先走って、何でもかんでもお膳立てしてしまうと、やがては無気力な子ども、物事に無関心な子供、必要な時に自分の意思で行動できない子どもがつくられていく。
こういった弊害はこれだけでは済まない。
子どもが社会に出たときに、まったくこれまでの家庭環境とは別な環境に戸惑い、対応しきれず、人間関係に円滑さを欠くことの根本的な原因となって社会生活に支障をきたす場合があり、それが「うつ病」を発症するきっかけになることもあります。
失敗したってまだ20代じゃないか
A君20歳は、朝は起きれない、夜は眠れない、日中は無気力状態で何も手につかず、行動をすることに不安感と、時には恐怖心さえもって悶々とした生活をし、やがては自己嫌悪に陥り、自分は無力だ、と将来への絶望感だけが頭をグルグルと巡るようになっていた。
自分は死んだ方がいいのかな。いないほうがいいのかな。と考えるときがある。
こうなると危険な信号を発していると受け止めなくてはならない。
根気よくA君に話をさせるように誘導し、ようやく聴きだした言葉が、
「今までは親や周りが何でもやってくれて自分の意思は何もなかった」というこの一言だった。
A君の今の状況からして、これまでの親子関係、家庭環境がこの一言で全て語られた気がした。
お母さんに来ていただき、日を改めてお父さんにもきていただき個人面談をしてお願いした。
「今後は全てに関して息子さんの意思で行動させてやってください」と。
A君は、就職に関して自分で行動することに躊躇して一歩が踏み出せないでいた。
ミスがなく、完全にやろうとする気持ちが先走り、失敗したらどうしようとか、自分にできるかなとか、仕事は厳しいのかなとか、タダタダ不安を募らせて臆病になっていた。
20歳の青年が初めて就職をするのですから多少の不安は当然のことでしょう。
その気持ちは十分に理解できる。
しかし、その不安も、まるで一生が決まるが如くに大げさに考えてしまって足元がすくんでしまっては一歩どころではありません。
A君は元々物事に対してあまりにも拘りが強くて自分で心の自由をなくして苦しんできたことが過去に度々あったことを話してくれた。
私はA君に話した。
一歩を踏み出す勇気がある人、無い人、この違いは何だろうか?
敢えて言うなら、人間は危機感がないと前に進もうとしないところがある。
あなたは親や周りが何でもやってくれたから自分から踏み出す必要がなかったのでしょ。
渡らなくても良い橋ならば勇気を出して渡る必要もないかもしれない。
でも、その危険な橋しか渡る事が許されないなら、一歩を踏み出すしかない。
ここに必要なのが「勇気」でしょ?と。
失敗した時の自分のみじめさを考えるから不安が生まれる。
リスクを恐れるから不安が生まれる。
つまり、結果に拘ると、一歩を踏み出す勇気が影を潜めてしまうでしょう。
慎重も過ぎれば恐怖心にまで発展して歩みを止めてしまいます。
その意味では慎重な人のほうが踏み出しにくいところがある。
結果がどうなろうが、命までとられる訳じゃなし、一歩を踏み出すことが自分の意思で生きる人生になることを話した。
失敗したって20代じゃないか。
ときには絞り出す勇気が必要なときもある。
勝ちも負けは それほど大事なことではなく
実は小さなこと
もっと大事なことは
どれだけ真剣に取り組んだか!
帰り際の彼の表情は本来の自分の顔となり、うっすらと笑顔がみえた。
辛くなったらまたいつでもいらっしゃい(^_^.)
青年よ、逞しく生きてほしい。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとワンクリックして頂ければ多くの方に読んでいただくことになります。
岩手県 盛岡市 カウンセリング うつ病 パニック障害 自律神経失調症 アダルトチルドレン DV 悩み相談 無料 奉仕 スピリチュアル 摂食障害 過食症 拒食症 家庭問題 仕事のトラブル 人間関係 宗教被害 霊障
ディスカッション
コメント一覧
私が無気力になった時のことを思い出しますと、確かに、恐れの感情がとても大きかったと思います。まじめに考えると、悪いことばかりが頭に浮かんでくるという有様でした。
しかしなぜ、そう悪いことばかりが頭に浮かぶのかというと、自分なりにできる限りの努力をして、「真剣に取り組んだ」のですが、それを理解されなかった、悪く捉えられた、やっかみを受けたなどが続き、この世が馬鹿らしくなったのでした。若い頃は、努力していたのは、少しでもこの社会に何か貢献できればと思う気持ちがありましたが、「その社会を構成している人間は、多かれ少なかれ、やっかみで他人の脚を引いたり、集団になって陰で悪口を言う、人前で平然と嘘を言う…という点があるとわかった。」 そう思った瞬間から、こういう人間のために努力するのは意味がないと思えてきました。自分自身にも意味を見出せなかったので、努力する意味を失いました。理屈で考えると、いい人間もいるはずです。でも、私は平凡な人間は、究極的には、自分がかわいくって他人が自分以上に活躍するとか思える(実際はそうではないが)と、集団になって貶めるのだと思っています。それが人間の本性というものだと。
今思うのは、いつも真剣に努力している人は、そういう足の引っ張り合いをする時間があれば、自分の目標にまい進するだろうから、私の出会った多くの人は、「いつも真剣に努力する人」にはなりえなかったのでしょう、私のように。
また思うのは、どういう理想があれ、習慣といつも自分が感じていること、考えていることが自分を支配していることです。どんなに立派なことを口で唱えていても、私のように奥底に人間不信がある者は、問題に次から次ぶつかった時、とっさの判断は、「人間は醜くて嫉妬深い」という考えに基づいてしまいます。
習慣的考え方とは恐ろしいものです。