功徳・教団信者の押し付け
教導と功徳
ご婦人のSさんから、『普段は何の連絡もなく、それほどお付き合いがあるわけでもない知人から選挙の時期になると決まって直接電話がきて迷惑しています』という話しを聞いた。
ある日、Sさんは『普段のお付き合いはいいのですが、選挙の投票依頼の電話は今後は無しにしていただけませんか?』とハッキリとお断りしましたと話していた。以来、電話がないそうである。
公明党の支持母体である創価学会の信者から選挙のたびに投票依頼の電話が来るという話しは珍しくはない。
私のだいぶ前の話であるが、あるお茶屋さんに定期的に煎茶を買いに行っていたことがあったが、いつのまにか店主が選挙の投票依頼の電話をよこすようになった。熱烈な学会の信者である。以来、家内がお茶も買いに行かなくなった。
『素晴らしい内容だから聖教新聞を2カ月だけでいいから取って読んでちょうだい。』と知人らにお願いして布教と拡販をしている信者たち。
教団からは、『教えを広めることは自分の功徳になる。』と指導されての行動であろうが、信者たちは時間的にも、金銭的にも相当な無理をしている。
質問、『宗教の世界では人びとを教え導くと功徳がある、と教えられているようですが、はたして功徳というものはどのようなものでしょうか。』
きょうは教導と功徳について考えてみます。
先ず、人びとを教え導いて、功徳がないということはないのです。大いにあります。
人の意識は24時間にわたって働き、その人の想念と行為を心に記録し続けています。但し、眠っているときの自己意識は記憶がないだけです。
肉体的死を迎え、あの世に帰ったときに、その心に記録された中身が、善と悪に分けて、どちらが多かったかによって、その人の行くべき場 所が決まります。
善行が多ければ、天国に、悪行が多ければ、地獄に堕ちます。
あの世では心の善悪、執着の度合いによってハッキリと明暗が分かれて、心の状況次第で居住する環境が違うのです。
もっともこういうことが言えるでしょう。
人生の大半を酒を飲み、家庭や友人を困らせてきた人が、死の寸前において深く悔い改めて、ああ悪かった、人生の目的は酒を飲むためではなく、人びととともに、助け合い、励まし合う行為であった、ということを悟ったならば、その人は地獄に堕ちずに天国に行くということ。
この点、間違いではありません。この喩(たとえ)は、悟りという功徳の偉大さをいっているわけですが、実際には、死の寸前まで酒におぼれ、人びとに迷惑をかけ通してきた人間が、死の寸前で悟ることができるでしょうか。
そういうことは実際には絶無です。
つまり、昨日まで欲望のままに、自我のままに、人々にも迷惑を掛けてきたような人間が、一夜明けて今日になって悟りましたということはあり得ないということです。
人間の心というものは、そのように簡単に変われるものではありません。
悟りとは、反省し、正しい想念を善行に現わしてゆくものであり、そうした積み重ねが、やがて大きな悟りにつながっていくものです。
ですから、あの世における功徳の基準は、この世における善と悪の比率、そして心の執着の度合い、つまり、心の曇りが、問題になってくるのです。
またその功徳は、あの世においてだけ現われるかというとそうではなく、この世においても、現証(結果)として現われてきます。
例えば、仕事に一心(愛)をこめれば、その結果は、その仕事自体に、あるいは仕事を通しての環境の調和に、思わぬ利益を生み出して行くでしょう。
人々を教え導けば、人々に感謝され、その感謝の想念は、大きな愛念となって、その人の心と精神的生活を、より豊かにしてくれます。
このように、人々を教え導くことの功徳は、非常に大きなものがあります。他を教え導くということは、自らがそれだけの実践者でなくてはなりません。
実践者とは、正道、つまり、決して偏りのないこと、自分の価値観を押し付けないこと、迷惑をかけてまで価値観を押し付けないこと、どれほど自分が良いものだと思っても相手が嫌がるものを押し付けるのは全くのエゴであり、正道(調和した正しい生き方)とはいえません。
勿論、このような教導の仕方は、自身の功徳にはなろうはずがありません。
功徳は、自分の心の内に蓄える愛と慈しみの大きさであるということです。
ここで問題になるのは、教え導く時の意志のあり方です。
つまり、教団に入信させることが功徳であるとする指導と、それを信じる信者、その為に布教することに偏り過ぎて傲慢になり、嫌がる人々にも、あの手、この手で新聞や著書を買わせようとする。
功徳を受けるために教え導く、人から良く思われたい、教団から称賛されたい、そのことで自己の欲望を満たすためとすれば、教導の反作用(悪果)は明らかです。
故人や先祖の供養をすれば功徳が得られるとすれば、念仏や、曼荼羅を拝し、読経に数時間を費やして生活に支障をきたすことにも何らの疑問さえ持てなくなる。
このような意志のあり方には滅私の心が無く、調和された心があるとはいえないだろう。
本来、教導というものは、広い心、深い心、高い志から行うものです。
それは、知識があるなしではなく、滅私の心が伴わないと、本当の功徳とはならないのです。
競争の為の布教であってはならず、実績のための布教であってはならず、何のこだわりも、欲望もなく、ただひたすら謙虚に教え導くときに最も大きな自身の功徳となるのである。
大乗の思想は、今は、盲信的狂信者を生み出しています。
信仰の態度が他力であり、そしてその根底には、人びとを救えば自分も救われるといった考え方が強くあるからです。
その心は打算的であり、自分が救われる為に人を救う、であってはならない。
正しい生き方の法則、まず自己の確立です。
確立された後に人々を導くことです。
しかし、正しい生き方の法則を悟ったならば、その信ずる心にしたがって人々に対し、一切を思わず、求めず、そして、押し付けず、功徳など捨てて、滅私の心で教導することです。
そうすることではじめて教導の過程において、自己の心が磨かれていくものです。
それが功徳です。
功徳とは心の財産である。
教導の過程で、さらに新たな疑問にぶつかっていきます。
疑問は理解につながり、信をより深く、強くしてゆきます。
功徳は、こうした連続の中から大きく生まれてきますし、正しい生き方の法則は、信じ、行うことによって、たしかな生きがいを感じてくるものです。
多くの人たちと接していくことで私自身が学びの場をいただいていることに感謝するものです。
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