成仏できていない被災者の魂
自然災害とはいえ、2011年3月11日の被災で亡くなられた方々には心からのご冥福をお祈り致します。
さて、今朝は、今でも被災地で幽霊がでるという話しについてふれてみます。
つい先日のこと、「来週は沿岸に行って一週間ばかり現場で仕事をしてくるよ」日常会話のなかでそういって釜石の被災地へ出かけて行った友人の工務店社長。
数日後、出張で家にいるはずのない社長がいたから声を掛けた。
「現場に入ったら急にめまいと、動悸、血圧の急激な低下、で救急車を呼ぶしかないかなと思ったが、我慢して自分で運転して家に帰ってきた」ということだった。
社長は目いっぱい邪気を被っていた。
私はすぐにその場で浄化することにした。
数分後に彼の身体に血の気がもどって胸の苦しさが取れたといって安堵していた。
正に霊的邪気の被災である。
霊的な事は何もわからないという一般の人たちのなかにも、被災地に出向いて具合が悪くなったという声はたくさんあります。
ストレスという言葉だけでは片づけられない霊的な背景が関連していることは否定できない事実であるが、これは経験した当事者自身だけが認めるところです。
私の経営する院に来院する人たちのなかには、霊的な影響を受けることで体調を崩し、さまざまな療法を試みて改善できず、たまたま縁があっておいでになったことで浄化をして急激に症状が好転する事例が時々あります。
本人が気づいていない場合が多い霊的な背景など、その悪影響に関しては、来院した本人には必ずしも伝えることはしないのだが、本人が知らぬ間に施術のなかで浄化してクリーンにすることは時々あることです。
何故そうするか、霊的な悪影響を来院者に知らせるには、その事実を受け入れられる状態にあるか否かを見極めなくてはならず、余程慎重にしないと問題がある。
精神的動揺を考えると必ずしも事実を知らせればよいということにはならないからだ。
来院者はあくまでも身体の不調を改善したいという思いでみえるのであって、霊的な相談にみえる訳ではないからである。
しかし、現実には霊的な背景を背負って見える方は多い。
さて、話しを三陸沿岸の被災地に戻します。
通常、霊は日中よりも日が落ちてからのほうが見えやすいのですが、これまでも昼夜の別なく人(霊体)の姿を見たという被災地の情報は後を絶ちません。
そして、霊の存在を感じて体調が悪く、ご飯を食べれない、痩せていく、体が異常に重い、めまいがする、胸が苦しい、頭痛がするようになった、いつも人の気配を感じて眠れない、等々、心療内科で向精神薬を処方してもらっても一向に改善されないで苦しんでいる人もいます。
当然、被災によって亡くなられた方については、遺族の人たち、親族の人たち、あるいは僧侶や民間人、公的な機関によっても命日や祥月命日には追善供養をしているのであるが、亡くなられた全ての故人が成仏しているわけではない。
成仏とは、仏に成ると書く。
仏とは、一般的には亡くなった方を称して「仏さん」と呼んできたのですが、真の仏といおう言葉の意味は、「悟った人」のことを言うのであり、最も心が調和された人、すなわち右にも左にも上にも下にも決して偏らず、心に一切の執着、拘りがなく、他に対しても慈しみと愛をもって関わることのできることをいう。
仏教でいえばお釈迦様のような如来やその下の菩薩のような境地まで達した人のことでしょう。
そういうことで、被災によって亡くなられた方も本当に成仏しているのであれば被災地の霊波動がもっとクリーンになってもよいはずですが、実際の現地の霊波動はそうではない。
とすればこれは何故であろうか。
この世の被災者に救済の手が施されるように、実は、あの世でも自然災害によって亡くなられた人々に対しては何もしないのではなく、天上界の光りの天使たちによって魂救済の手が差し伸べられるのである。
ところが、故人の生前の土地や家、自分の身内、物、金などに未練、執着をもつ度合いは人それぞれで、みな一様ではない。
生前に自我の強い人、つまり、不満、愚痴、怒り、激しい感情の起伏、拘り、執着心の強い人の場合は、死ぬ瞬間の心の状態に応じて霊界にスムーズに入れるかどうかが決まってくる。
死因が病死、事故死、自然災害とどのような原因であろうが、成仏できるか否かはまったく関係ない。
つまり日頃の心の状態がどれほど調和されているか否かで決まるということだ。
あれだけ大勢の人たちが同じ瞬間に亡くなられたのですから全ての人が日頃から心が調和されているとは限らないということがいえるでしょう。
これは私たちの普段の社会生活をみても理解できるかと思います。
震災後に霊界に入れず、未だにその地域で出没している霊の場合は明らかに成仏できていない霊であり、かつての地上生活から離れられないでいる人だといえるでしょう。
何故なら、成仏できている霊は、地上の人々に関わってくることはしないし、してはいけないことを悟っているからである。
死者の霊は、執着心が強ければ強いほど天上界から光の天使たちによって救済の教え、導きが為されても受け入れられず、その教えを学ぼうとせず、生前の心の不調和を反省するように促しても反対に拒否さえする者もいるのである。
このことは、この地上社会にも同じようなことがいえる。
人生の苦悩においてせっかく相談にきていながら、あまりにも囚われが強くて、悩み苦しみのない生き方、その為の方法を提案しても、それが受け入れられず、あるいは拒否して相変わらず苦悩する人がいるのである。
どうしてこのようなことが起こるのかというと、「自我心」である。
この場合の自我心とは正しい意味での自我ではなく、偏った不調和な心のことをいう。
地上社会においては、気づき、悟り、反対に、偏った価値観の心、不調和な想念と表現できますが、あの世に行った人の場合は、成仏という言葉で表現できるし、反対に、自縛、あるいは未成仏とも表現されます。
字の如く、自らを縛るということですが、これが自我心である。
きょうはここで「自我」についてもう一度詳しくふれておきたい。
私たちは両親を縁として、この地上に生れてきたのですが、成長と共にやがて自我が芽生えてきます。
この場合の自我とは具体的にどのような状態をいうのか。
自我という言葉は、非常に抽象的で誤解を招きやすいのですが、取りあえずここでは個性の魂という意味で広く捉えていただきたい。
したがって、この自我を偽我、善我、真我の三つに区分して考えた方が理解が早いでしょう。
ただ、その前に、通常、私たちは、他人と自分の関係のなかで、はじめて自分が意識されるものであることを理解しなければならない。
対象があり、相互関係のなかで自分の存在が意識できるということを。
その意味で、生れたばかりの赤ん坊は、まだ自我の意識に目覚めていません。
3ヵ月、半年、一年と経って、はじめて親と自分、つまり周囲の対象のなかで、自分の存在を自覚するわけです。
さて、そこで、自我のなかの偽我についてですが、これは対象のなかの自分をより強く意識し、このため「あの人は自分をどう思っているか、周りは自分をどう評価しているか」などという意識が過剰に働くことで自己本位に流れ、自分中心に思考してしまう自分である。
自意識過剰であり、俗にエゴともいい、やたらに人の目を意識し過ぎる、あるいは他人の心を考えず、自分だけのことしか思わない、小さな自分です。
こういった小さな自分しかわからない人の場合、いつも不安動揺が絶えず、恐怖心を持つようになり、心の中に平安がなく、いつも苦しみに満ちてきます。
相談者には執着を解き放すための心の学びをさせるのですが、素直に謙虚にそれを実践して自らを解放していく人もいれば、一時的、つまりその場だけの知識で理解したつもりに終始し、学んだことを生活に実践することもなく、生活を改めることをしないで同じことを繰り返している人もいるのである。
その一方では、遠く県外にいて面識がなくてもブログで学び、メールでのアドバイスを謙虚に受け止めて実践し、夫婦が和合し、子どもたちにも良い結果が現れて、家庭調和の大切さに気付いた人たちもいるのである。
心の苦しみの本質は、心が小さければ小さいほど、ものが良く見えず、ものの判断が自由にできないから、人生の岐路に立った時にいつも問題にぶち当たり、自分で判断することもできずに悩みます。
煩悩という言葉がそれです。
煩悩という迷いの原因は、すべての事象に対する拘り過ぎ、執着、とらわれ、自由のない小さな心だといっているわけです。
何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」ということであろうか。
次の善我というのは、この世の中は自分一人では生きていけない、皆と手を取り合い、愛に生きなければならない、各人めいめいが、勝手なことをいって生活しているが、ものの裏側を覗くと、実は各人は、人々の相互作用という関係のなかで生きており、自分本位に生きることは、結局は自分の首をしめてしまうということがわかっているという心をいうのである。
助け合い、補い合い、話し合うという愛のある生き方こそ、自分を生かし、他をを生かす精神だと理解できていることが善我である。
すべからく人は、こうした愛にめざめ、相互関係のなかで、他を生かしてゆくことが使命と言えるだろう。
人間の心は、愛や慈しみ、赦し、寛容、の精神から遠ざかったり、これから外れると、その外れた分量だけ自分が苦しむようになっています。
これが心の仕組みであり、慈愛こそが、唯一、神仏と連なる心である。
次の真我は、こうした相対の関係から離れて、人と自分は本来一つのもので、別々ではない、現れの世界(物質的この世)では別々でも、天の子として分霊した心は本来一つであり、そうして、すべての万物は、天の意識(神)の中で生かされ、生きている、という自覚の心です。
相対観とは、自分と他、他と他、というように比較をすることで存在を認識すること、あるいは比較をすることで優越感や、劣等感という感情をもつものである。
真我の心は、大我ともいえるものであり、慈悲と愛一筋に生きる精神といってよいでしょう。
自分の心が拡大していき、やがて宇宙大の広さにまで至り、存在する全てが我が子という思いに溢れる瞬間、宇宙は我が心にあり、我が心こそ宇宙であるという境地、宇宙即我、それこそが、真我の現れといえるでしょう。
さて、それでは、これらの心は、心のどの領域にあたるのでしょうか。
心の領域である本能、感情、理性、知性の機能が、単独で意思につながる時、偽我となって現れます。
例えば、本能が単独で意思につながれば、食べ物に貪欲であったり、物に執着したり、奇怪な行動をとるようになってくる。
感情が単独で意思につながれば、例えば、心の起伏が大きくなり、他愛のないことで怒りに燃えた感情が爆発し、行動となって現れるため、破壊につながっていきます。
感情に翻弄されると、人の心を傷つけるだけではなく、やがては自らを破壊することになっていくのである。
知性が単独で意思につながると知識に翻弄されやすく、人との関わりにおいて角が立ちやすく、理屈っぽく冷酷な人間になりがちであるために人に避けられる傾向にある。
理性が単独で意思につながれば、いつも冷静沈着に過ぎて、物事を見る目には暖かさが失われ、人からは冷めた人と見られるようになり、無表情、無感情の人間と映ってくる。
心の働きとしてある、本能、感情、知性、理性、これらは相互に程よくバランスよく働き、意思につながってこそ豊かな心となり得るのである。
どれひとつが突出して働いても偏った心の人間となって人間関係に支障をきたしてくることになるものです。
先に述べた善我の心は、反省によって成長するものであり、自覚もされます。
そうなりますと各人の想念の働きは、感情から単独で意思につながる行動とはならず、想念は、本能、感情、知性、理性の各領域に万遍なく作用し、愛の行為として現れてきます。
先に述べた宇宙大の広い心とは、これらのそれぞれの心の領域がバランスよく働くことで可能となる。
ですから、先ず、私たちの心は、反省によって調えられ、偽我から善我に移行すれば、正しい生活が約束されて運命も好転してきます。
すなわち安らぎある生活ができてくるのである。
三陸の震災によって亡くなられた人たちの魂が本当に解放されるにはまだまだ時間を要するであろうが、自らを調えて天上界に上がることを祈りたい。
次回は24日(木曜日)人間ドキュメント「夫婦の葛藤と愛」をアップ予定でおります。
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