夢が示すもの

夢

フロイト(1856年に生まれ、ウィーン大学で医学を学んだ脳解剖の専門医)の「夢の解釈」は有名ですが、はたして夢とは何でしょうか。
いったい夢は何を意味しているのだろうか。
夢に生活上の重要性はあるのかないのか。
ふつう夢には主観的なものと、第三者の介入による夢がありますが、きょうはこの辺の状況を霊的な背景も含めて分析してみたいと思います。
先ず、主観的な夢は、自己の想念がつくりだした単なる想像夢もあれば、日頃の想念のステージ、いわゆる心の調和度の高低によってその階層に通じて現象化する夢とがある。
次に、第三者の介入の夢は、自縛霊、地縛霊、動物霊などの影響によるものなどがあります。
主観的な夢の場合、例えば、美しい情景をみてくる、天女と語る楽しい夢、光の天使と会って語りあう、あるいは啓示的な内容として、守護霊や指導霊などの働きによる場合がある。
反対に、自分の日頃の想念に曇りが多い為に、暗く気持の悪い夢、奈落の底に落ちていく夢、あるいは死んだ人たちが大勢いる暗い世界まで下りて行った夢、呪われた世界、ヘビに追いかけられる、あるいは巻きつかれる、その他悪寒の走るような内容はさまざまです。
こうした夢は、あの世の階層を実際にみてくるのであり、そうしてそれは同時に、自分自身の、そのときどきの現実の想念の在り方が、そうした階層に通じ、またそのような日頃の想念が、夢という形で現象化されていることを意味します。
したがって、こうした夢は、天上界の夢ならともかく、いやな夢、ないしは正しい生き方に反した暗い夢の場合は、自分の想念のどこかに誤りがある場合が多いのですから、日頃の心の在り方を反省し、修正する必要があります。
ここで以前にも紹介したことのある内容ですが、参考のために今一度、私の夢の一例を紹介しておきます。
日本武尊(やまとたけるのみこと)
ある日、一人で岩手山(標高2038m)に登山しました。八合目あたりまで登った斜面で上から降りてくる人がいます。
近づくにつれて服装ははっきりとしますが、何故か顔がはっきりしません。
全身がダボダボの白装束で首には大きな数珠のような飾りが、腰は紐でしっかり結び、腰に剣が下げてあります。
足首もきちっと結んであり、今でいえば、とび職の人が着るような雰囲気というか、しかし洋服ではなく、明らかに日本の古来の5、6世紀頃の服装に思えます。
肩からは大きな白い袋が掛けてあります。まるで大和朝廷の時代そのままの服装のようです。とはいってもそれは後で気づいたことです。
こんな話をしたらおそらく何を馬鹿なことをというかもしれません。しかし、その時は何の疑問も不思議に思うこともなくすれ違ったのです。
言葉を発していないのに私の心に伝わる意思というかメッセージというか、よくわかりませんが、テレパシーのようなものでしょうか、『5年精進しろ。』と響いてきたのを鮮明に記憶しています。ここで目が覚めました。午前3時でした。
まったく嫌な感じはしなかったが、不思議な夢をみたものだという思いしかなかった。
これは28 年前の夢の話です。以後、夢のことはすっかり忘れていました。
何故5年なのか。
夢をみた翌年に300坪の原野を買い求め、自分の労力だけで樹齢30年くらいの木をチェンソーを使って間伐をし、パワーショベルをレンタルして抜根をし、整地をし、間伐した木材で小さな3坪のログハウスを建てた。
ここを拠点にして週末に泊りがけで家づくりのための基礎工事を始めた。
興味をもった人たちが立ち寄っては一緒に語らいながら一服するようになってた。
やがて一年かけて新築する準備ができ、翌年の春から大工さんを日給で雇って本体の加工に入ってもらい晩秋までかかって何とか完成にこぎつけた。
雪が降り始めるころ、完成した家の居間で薪ストーブの暖に心地よくくつろいでいるときだった。
岩手山に登山したときの夢を、新築した家の居間でふと思い出したのです。
ちょうど夢から5年後のことでした。「五年精進しろ」というキーワードの謎が解けた瞬間だった。
登山はまさに人生そのものを示唆していると理解した。
もう一つの夢は、
4年ほど前のことになるが、山が割れて水が吹き出し、海からは海水が溢れだし、ぐんぐん地上を覆っていき、人々は逃げ場を失っていた。
こういった夢が約一年の間に三度ほど続いた。
とても怖い夢で尋常ではなく、あまりにもリアルで、いまだかつてこんな恐ろしい夢は見たことがなかった。
ついに三陸津波によって多くの犠牲者が出てしまった。
夢は大抵、朝方
これは眠るという行為が、表面意識の休養を意味し、エネルギーの補給を行っているのですから、意識の休養中に夢をみるのではなく、エネルギーの補給を終えた朝方に、90%の潜在意識部分の働きで、夢をみる、夢を憶えているということになるからです。
つまり、睡眠によってエネルギー補給を終えた表面意識が、いつでも活動しやすい状態になったときに、夢という現実的な想念が働きだすということ。
また夢は、自己の想念と行為をごまかしなく再現するものですから、それだけに自分の心の状態の反省の材料としては、またとない資料となるわけです。
現実生活の私たちの想念は、形に表われないとわかりませんが、夢の場合は、日頃の想念がなんの抵抗もなく現象化されますので、夢の中の行為は、自己の内在する想念の、偽りのない姿だといえるでしょう。
一方、よろしくない第三者の介入による夢は、朝方よりも、真夜中にみる場合が多いものです。
眠りが浅く、なんとも寝つかれず、ウトウトしながら寝入りばなに重いものが足元から胸の方まで上がってくる、何者かに押さえつけられる夢で起き上ったら寝汗をびっしょりかいている、夢か現実かわからないような恐怖心を伴った悪夢をみる。
あるいは寝入りばなに体の自由が利かなくなり恐ろしさのあまり、助けを求めるがどうにもならないという夢ではないが金縛りにあった、目をさましたときは、自分の腕が胸の上におかれ、汗をかいている。
こうした際は、光の天使、または守護霊、あるいは神を心に念じて加護を求めることです。「神よ。私に光をお与えください。心に安らぎをお与えください。守護霊よ。私の心を正しくお導きください。一切の魔よりお守りください。」というようにである。
また、こうした悪夢をたびたびみたり、夜眠られぬことが続いている場合は、未浄化な霊の干渉を受けているか、あるいは憑依されていることがありますから、強い自己反省が必要ですし、正しい想念の生活にかえるよう努力されることが肝要です。
正しく調和された心になれば、憑依する霊との波長が合いませんから、やがて憑依霊は離れ、立ち去ることになるであろう。
こういった第三者の介入による悪夢についても、元をたどれば自己の日頃の想念に無関係ではありませんので、偏りのいない正しい生き方にそった生活が大事になってきます。
このほかに、正夢があります。
これは自身の守護霊の働きかけと、動物霊などが作用している場合とがありますが、動物霊の場合は、その内容にどこか常識的でなく、一貫性もなく、理解できないものが多いのです。
また戯画化されたもの、筋道のないもの、意味のつかめない夢などがありますが、これらは想念に断層がある、つまり心が不安定なためにおきる夢が多いと捉えてよいでしょう。
いずれにせよ夢は、日頃の想念(心)行為と密接不可分ですから、嫌な夢をみた場合は、その夢について、反省することが大切です。
夢を覚えていない
睡眠中の魂は次元の異なった世界に移動しているのですが、夢をみている間は意識が働いていることになります。
がしかし、朝になって自分の体にもどり、夢の中での体験を思い出そうとしても、思い出すことができません。
何故なら、私たちの魂の仕組みは、肉体を持った地上生活では90%が潜在意識であり、10%が表面意識として機能しているからです。
氷山
つまり、潜在意識のほうがはるかに表面意識より大きいのがお分かりになるでしょう。
わずか10%の表面意識では90%の潜在意識を受け入れることが困難であるのが理論的にも理解できるかと思います。
大きいものは小さいものを収めることはできますが、小さいものが大きいものを収めることができないのできないのも道理でしょう。
夢から覚めてわずか10%の表面意識で90%の潜在意識の出来事を受容しきれないという理由、ご理解いただけましたでしょうか。
魂(心)は器と捉えていただきたい。
この器は大小様々です。
人生のなかであらゆる出来事を学びと心得て生きれば心が広く大きく育つでしょう。
そこに人間の大きさの違いが生じてくるのでしょう。
しかし、ある程度まで魂が進化し、霊的にある一定以上の段階までの意識が育ち芽生えた人は、夢の世界での出来事、すなわち霊界での体験を意識できるようになってくる。
夢は役立つのか
私のこれまでの経験から言えることですが、夢を見たことを記憶していて朝に目覚めた場合は、その夢のストーリーを客観的にみてみることで何かを示唆していることに気づかされることが多々あります。
「ただの夢じゃないか」といってしまえばその通りですが、夢一つといえども良くも悪くも何らかのメッセージ性があると受け止めれば、それなりに意味もあり参考になるものである。
そういった意味からすれば、夢には日常生活での想念が造りだした想像夢もありますが、守護霊や指導霊からのアプローチもあり、それが私たちにとって大切なメッセージ性を含んだものの場合は夢だと流してはいけないものだということがいえるでしょう。
夢は忠告と死後の学習
睡眠状態において夢の活動は心のステージが高い人の場合、大抵は、死後への心の訓練といってよいでしょう。
霊界のガイドによって様々な場に案内されて経験するのであるが、そのような経験を重ねることで死後において次元の異なった世界へ移動しても戸惑うことなく馴染んでいけるのである。
こういった霊的な経験のない人の場合は、その環境に対して適応力がつくまでに長期間の時間が必要となる。
日頃の私たちの生活もそうであるが、霊的な部分でも知識と経験があれば、死後は比較的スムーズに霊界入に入ることができ、しかも意識がしっかりとしている。
具体的説明をするなら、死後の目覚めは暗い睡眠から目覚めて太陽の光りが燦々と輝き照る外へ出た時と似ていると思えばよい。
また、長いトンネルから抜けてまぶしい太陽光線に目が鳴れるまで時間を要することを思えば分かりやすいだろう。
霊的なことを否定する人や、何も知識のない人は、死という現象のなかで覚醒できない期間が長びいて、なかなか意識がもどらない場合があるようだ。
降霊しても反応がなく、自分が誰であるのかもわからない状態で判然としない霊もいるからである。
例え話であるが、まだ成長していない幼児が自分のことを説明できないことに似ているといえばわかるだろうか。
生前の記憶は断片的に一応思い出すのですが、それがちょうど夢を思い出すのと同じように、おぼろげなのです。
しかし、夢を無視してはいけません。
夢は私たちの希望の原点であります。
人生での夢、就寝での夢。
いずれにしても夢は霊的成長への出発点でもあります。
次回は21日 月曜日の投稿予定です。「成仏できていない被災者の魂」
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ