あの世の地獄は今の生きかたで決まる
心のあり方
私たちが住んでいるこの世は苦しみもあれば、楽しみや喜びをも得ることができる世界です。
そして善もあれば悪もあるという善悪混在の世界でもあります。
したがって、この世で暮らすには、自分の生き方によってどのような状況にもなっていくし、どのような境涯にも身を置くことになり、そのなかで苦しんだり、楽しんだりすることになります。
地獄絵
人を陥れたり、自分が気づいてはいなくても人を傷つけたり、傲慢な生き方をする人、自己中心的な生き方をする人、人を批判や中傷する生き方をする人、いつも怒りをあらわす人、不満や愚痴ばかりを言っている者人。
こういった人たちの場合は、その生き方そのものが地獄絵といえるでしょう。
その境涯は、死後もそのままの延長で地獄世界に身を置くことになります。
餓鬼
自分の身の丈以上に背伸びをし、足ることを知らず、ただただ際限なく欲望のままに物を欲しがる、お金に執着する、食べ物に執着する、こういったことは餓鬼そのままの姿だと思わなくてなりません。
陰徳
正しく働いて相応のお金を儲けることはよいことです。
しっかり働き、商売をし、お金を儲けたら、そのお金の一部を社会に還元するということも心の成長につながります。
何も改まって何かをしなくてはでなく、お金で社会に貢献できない人は、自分ができることを行うことが間接的にも直接的にも人々への貢献につながります。
世に言う陰徳ということです。
畜生界
動物本能丸出しで、愛のない性を貪る者は畜生にも劣る生き方そのものです。
そして人間であることを忘れ、弱肉強食のように弱い者いじめをして、自分が利する生き方も畜生といわれます。
地獄界、餓鬼道、畜生界の三つが三悪道といわれる所以です。
阿修羅
人といつも争い、戦っている人間は心の休まるときもなければ、安らぐこともなく、これが修羅の生き方です。
こういう人生を終えた人は、あの世に行ってもそのままに戦いの延長をするのです。
修羅界の住人となって再び輪廻していくのである。
他人のことをひどく傷つけ、苦しめてきたような人は、地獄の苦しみを味わうことでその罪を償わなければなりません。
自分の欲望のままに貪って生き、他人を陥れれば、餓鬼界に落ちることになるでしょう。
暴力的な生き方をすれば修羅界に行くしかありません。
もっとも、「そんな世界があるわけはない。死んでしまえば何もなくなってしまうのだから、どう生きようと関係ない」そう考える人がいるかもしれません。
しかし、私たちは神性仏性を頂いている人間であることを忘れてはいけませんね。
好むと好まざるとにかかわらず、この世での生を終えれば、誰もが魂のふるさとに立ち帰ることになります。
そのとき携えていけるのは、生きているあいだに為した言動や、心のあり方だけです。
どれほど財を集めようと、権力を欲しいままにしようと、そんなものは何の役にも立ちません。
簡単なことではないが、神仏の子として恥ずかしくない言動をし、神仏の子にふさわしい心を持ちつづける。
それが自分のなかの神性仏性という光を磨くことであり、この世で唯一やるべきことではないだろうか。
明治天皇の和歌に感動する一文がありましたからご紹介いたします。
明治天皇御製
目に見えぬ 神にむかいて はぢざるは 人の心の まことなりけり
めにみえぬ かみの心に通ふこそ ひとの心の まことなりけれ
目に見えぬ神という存在に心を向けることは恥ではなく、人間としての本当の姿だ、即ち、まことだ。
目に見えぬ神の心に己の心を通わせることこそ、人間としての真の生きかただ。
と私は解釈しました。
「まこと」は真とも、誠ともかけるでしょうが、敢えてひらかなでまことと歌ったところに、読み手に委ねるこの歌の奥深さを感じるところです。
この短い和歌のなかに、人間の心と神の存在をお示しになるのですから、素晴らしいの一言であります。
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