夫婦は男女同権?

どこの家庭にも大なり小なりの諸問題はあるようだが、何事においても拘(こだわ)りを持ってしまうと心が苦しくなるというのが人間の姿であろう。

若い子の場合は容姿に拘る余りに食事を拒否してやせ過ぎて体調を崩し、リバウンドで大食いして過食症だと騒いでみたりと、老若男女ともに様々な苦悩は尽きないものである。

さて、きょうは夫婦の愛のあり方について述べさせていただきます。

キリストは「天に在しますわれらの父よ」と祈れと、教えられたのであって、「キリスト自身だけを、神の独り子として拝め」とはいってはおられない。

そういうように教えてしまったのは弟子パウロである。その意味で現在のキリスト教は、キリスト教ではなくてパウロ教だといわれるのである。

このことに気づいておられる宗教学者もいる。

人間は皆、神の子である。イエスは偉大な魂の聖者ではあるが、イエスだけが神の独り子ではない。後の人たちが『神の独り子イエス』と説いてしまっただけである。

相談者の話しを聞いていて痛感させられるのだが、日本の宗教界がそうであるように、アメリカやヨーロッパの教会においても、夫婦の在り方をもっと重要視して正しく説かれているとしたら、今日、日本やアメリカやヨーロッパに見られるような家庭の崩壊は起こらなかったであろうと思われてならない。

特に日本の宗教界においては家庭を崩壊させてまで浄財、寄進を求めて暴利を貪る不浄な教団が多いことは明白な事実であり、被害に泣く人たちが後を絶たない。

まことに遺憾ではあるが、宗教を利用したカルト詐欺集団まで存在する。

キリスト教を学ぶ人々は今一度、キリストは男女、夫婦のあり方についてどのように教えていられるのか、改めて反省してみる必要があるのではないだろうか。

キリスト教を信仰する人が自分の親兄弟を批判し言葉を荒げて見下す発言をする光景は人間の驕りであって、とてもじゃないが信仰を持つ者の生き方ではなく、生きて自ら地獄を演じて阿修羅界に生きる哀れな心の人でしかないが、実際にこういう人間もいるのだ。

元を辿ればキリストの教えを正しく説かなかった聖職者の責任を問うべきである。正しく導くことは簡単ではなく難しいものです。

神道や仏教が、男女、夫婦のあり方について、それぞれの使命と役割について説いているように、キリスト教でもはっきり説かれているのであって、女は女らしさをかなぐり捨てて、男と力を競えとはどこにも教えていない。

『詩と讃美と霊の歌とをもって語り合ひ、また空に向ひて心より且つ、うたひ、讃美せよ。

凡ての事に就きて常に我らの主イエス・キリストの名によりて父なる神に感謝し、キリストを畏(かしこ)みて互ひに服(したが)へ。

妻たる者よ、主(イエス)に服うごとく己の夫に服へ 。

教会のキリストに服うがごとく妻も几てのこと夫に服へ。

夫たる者よ、キリ ストの教会を愛し、之(これ)がために己を捨て給ひしごとく、汝らも妻を愛せよ。

夫はその妻を己の身体のごとく愛すべし。妻を愛するは己を愛するなり。』

解釈・真心よりほとばしる心の詩、神と、神がつくられた自然の美を讃える歌、霊の向上の歌をもって語り合って、人間を卑劣にし、神を無視し、人間を堕落させるような歌を歌わず、顔を上にあげて、心明るく歌い、すべてのことについて、われらの主イエス・キリストによって神の道を明らかに知らされた、そのことに感謝し、且つ、天なるいっさいの創造主なる神に感謝し、キリス卜を敬い、キリストが説かれたその道に従いなさい。

妻たる者は、すべての人々がキリストの教えにすなおに従うと同じように、自分の夫を尊敬し、夫のいうことに従いなさい。

教会は、キリストが説かれた道を間違わないように、キリストの教えに従うのですが、キリストに従うことは同時に神に従うことであり、それと同じような心で夫に従いなさい。

夫たる者もまた、それと同じように、自分の我欲を捨てて妻を愛しなさい。

夫は自分の身体を大事にすると同じように、妻を愛しなさい。

妻を愛することは、実際は、自分自身を愛していることになるのだ。(以上)

日本では昔から、夫婦は「一心同体」であるといわれてきた。

キリストもそのように説いておられるのである。東洋と西洋で、夫婦のあり方について同じことが教えられているのです。

真の男女平等とは、このように、相手を愛することは実際は自分自身を愛することであると同時に、お互いの人間性を尊敬し礼拝することでなければならないのだということ。

キリストの教えの中には、女が男を敵視して男と対抗するという教えは全くないのです。

『妻たる者よ、その夫に服(したが)へ、これ主にある者のなすべき事なり。夫たる者よ、その妻を愛せよ、苦(にが)きをもって之(これ)をあしらうな。』

解釈・つまり、妻が夫に従うことは、キリストを信じ、キリストに従わんとする者が当然なさなければなら ない ことである。キリストに従うとは、キリストは、天なる神の子である ことを教えられたのですか ら夫に従うということは、それがそのまま神の道を行なうことであり、神を信じ、神を敬い、且つ、礼拝することにもなるというのである。

信仰を持っている者が「神よ、神よ」といいながら、夫に従わないということは、実際は、神を信じていないこと になるのです。

夫もまた、妻を愛することがそのまま神を信じ愛することになるのだということです。

特に夫は、妻の心を悩ませたり、苦しみを与えたりしないようにしなければならない。

『夫はその分を妻に尽し、妻もまた夫に然(しか)すべし。妻は己が身を支配する権をもたず、之(これ)をもつ者は夫なり。斯(か)くの如く、夫も己れが身を支配する権をもたず、之をもつものは妻なり。』

解釈・夫は、夫のなすべき分を尽すということが、同時に妻を愛するということになるのであり、妻はまた、妻に与えられた役割を充分に果たすということが、夫を愛することになるのです。

夫が夫の役割を放棄することは、同時に妻を愛さないことであるし、妻が妻の役割を充分に
果たさないということは、夫を愛していないということになるのです。

妻は妻らしくあることであり、夫は夫らしくあることであり、それが同時に神を愛することなのである。

「妻は己が身を支配する権をもたず、これをもつ者は夫なり」ということは、妻は、妻自身の身体を自分のものだと思って、夫の心を無視して自分の勝手気ままにふるまってはならない。

妻の身体をどのように支配し動かすか、その権利を持っているのは夫なのであるから、妻は自分の身体を働かす時に、夫の心に添うように、夫の心を満足させるように働かさなければならない。

妻自身の行動が、夫の心を苦しめるようであってはいけないし、妻の身体を支配する権利を持つのは夫である、というこの言葉が、一方通行ではなく、夫婦の間で実践されないと夫婦は不調和になる。

つまり、支配とか権利とは表現しているが、その真意は相互理解と協力をしなさいと教えているのである。

このことを知らない妻は、自分の身体は自分のものだと考えている。自分の身体だから自分の自由にすればいいのであって、夫のいうことに一々自分の身体を使うべきではない、夫のいうままにこの身体を働かしてはならないと考える。

いわゆる我が強くて素直でない。

離婚の理由で一番多いのは「性格の不一致」とはいうが、これは要するに「性生活の不一致」ということをも内在している。夫の要求に対して妻が応じないのである。

しかし妻の側からいわせると、それは夫の暴力であったり、生活費を与えなかったり、妻の立場に理解を示さない、一人で姑との関係に苦しんでいるというようなことになる。

夫がなぜ暴力を振うのであろうか。それは妻が夫のいうことに素直でない場合が多い。夫は
暴力を振うことがよくないことは充分に知っている。それでいて暴力を振うのは、他の手段では、妻の我の強さと達者な口には対抗できないと考えた揚句のことでもある。

フランスの古い諺に、「昼は賢婦であっても、夜は娼婦であれ」という諺がある。

娼婦だと思う必要はないが、夫の求めに対しては素直に従うことである。

「妻の身体を支配する権利を持つのは夫である」という言葉は、夫の要求に応えるべく妻は身体を委せるのである。夫婦が真に愛情を確かめ合うのは、夜の性生活である。

性生活を拒否されたら夫はその妻を愛情がないと見るのである。

妻に愛情がないと見るから金銭も与えなくなるのである。金銭を与えなくなる理由には二つある。

一つは、素直でない妻は愛おしくなく、金銭を与えなかったら困って夫のいうことに素直になってくれるであろう、即ち我をなくすであろうという考え。

もう一つは、夫は心の中では密かに離婚を考えている。しかし、夫の側から離婚をいい出せば慰謝料をたくさん支払わなければならない。妻の側からいい出せば少なくてすむ、という打算で生活費を与えない。これらは実際の話である。

そうすれば、これではとても生活してゆけないというので、妻の側から離婚をいい出す。それを待っているという場合である。

夫のいやがらせは、それに対して妻がどう反応してくるかという「愛情テスト」である場合もある。

我の強い女は夫に嫌われる。夫が悪いという前に妻は自分はどうあるかを反省しなければならない。 こういうと女性からは反発をいただくかも知れませんが、何も女性を見下していっているのではない。

これまで夫婦関係の相談をいただいたなかで、多くの女性たちが訴える夫への不満は自分がつくり出した原因である場合が半分はあるからである。

失意の時ほど夫は慰めを求めて妻に性を求めることがある。これも実例です。また、そうすることによって夫は自信を回復するものである。

妻が夫の愛を受け入れず、夫を拒否することが多いと、夫は妻すら愛することができない自分に自分で失望する。

すると仕事の上にも自信を持てなくなってくる。夫婦が不調和であると、すべてのことについてうまくゆかなくなるのは、妻によって夫が失望させられているケースがあるものだ。

最近のように、働く妻が増えてくると、妻は自分自身の疲れだけを気にして夫の愛を拒否することのないように「妻の身を支配する権利を持つ者は夫である」ことを考えて、夫婦の調和を考えなければいけないのである。

男女同権のもとに妻が仕事優先で夫に心を向けなくなると間違いなく家庭は崩壊の一途をたどることになるだろう。

「斯くの如く、夫もまた己が身を支配する権利をもたず、之をもつ者は妻なり」そうであると同じように、夫もまた自分の身体を動かして行動する時には、妻の心の満足の行くように、妻の心を安ませるようにして、妻の心を傷つけ悩ませるようなことをしてはならないというのである。

キリストは独身であった。しかし独身で、夫婦生活の経験のないキリストが、夫婦のあり方について、このようにきびしく優しく、そうあることが、正しく神を信ずる者のあるべき姿であると、説いていられることに、私たちは驚かなければならない。

このように偉大な魂が覚醒(悟った)されると、物事の本質を正しく見通すものなのである。

キリストはこのように説いていられるのである。「男女平等」「男女同権」ということによって、これまでには起こらなかったような、いろいろな社会問題が起こってきたということは、男女平等、男女同権という考え方の中に、どこか欠点があるということを考えなければならない。

そういった点において、西洋では、もう一度キリストの教えを見直すという、真のキリスト教を洗い出し偏りのない調和された教えに復興しなくてはならないだろう。

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