捨てると湧き出る勇気

勇気 男の子

社会は自分の都合でどうにもならないことが多々ある。

いろんな局面で二者択一の選択に迫られたとき、簡単に答えを出せないことは誰でも経験しておられるであろうが、迷いが生じるときの理由のひとつにがあります。

勇気をもって決断しなさいとか、自分を信じなさいとか、先ずはやってみなさいとか言われるものの勇気も決断も持てないから悩んでしまうというところだろう。

生には苦楽がつきものです。

仕事で悩む人、夫婦関係に苦悩する人、人間関係に悩む人、経済的なことで苦労する人、子育てに悩む若いお母さん、就職できなくて苦悩する人、精神を病んで社会に出ていけない人など、誰にでも大なり小なりの苦悩はある。

反対に営利主義に徹して膨大な利益を得て贅沢三昧に歓喜する者、人を欺き自己の利益に奔走する者、人を押しのけて自分だけの都合で他の迷惑を考えない者、いつも何事にも批判的で争い事が絶えない人など、生き方は様々だ。

古くから言われている言葉に「生老病死」という言葉がある。

生まれることの苦しみ、老いることの苦しみ、病気をすることの苦しみ、死ぬことの苦しみの四つの事をいうのだが、これを四苦というようです。

この四苦のなかにありながらも、心安らかに生きるためにはどうすればよいのかということで、これまで相談者には心の学習として、正しく見る、正しく思う、正しく語る、この三つを基本として「正しく仕事をなす」「正しく生活をする」「正しく道に精進する」「正しく念ずる」というこの五つの実践をするよう奨めてきた。

だが、心の学習をしていくなかでよく言われることに、心の学習と実践は難しい、反省すると自分の醜悪さが浮び出て、我ながら自分に愛想がつきる、自分は偏りのない正しい生き方なんて一つも実行出来ないし、挫折感のみが襲って来る、といわれることがあります。

私も最初はそうでした。人の事より自分を中心にものを考え、行動してきました。

しかし私は、これまでの過ぎた自我というものを減らし、あるいは捨てることによって苦楽の淵から離れることが出来ました。

まり、偏りすぎた価値観を捨てる努力をすることで自分が解放されてきたということです。

難しいとか、挫折感は、性急な心がそうさせるものであって、それは自我というものが心の中にドカッと腰をすえているためであり、そうした自我が少しでも無くなってくると、次第に心が軽くなるものです。

偽我の自分を少しでも無くすためには、正しい道ということの中身を理解し、実践してみることです。

そうすると、ものの見方、考え方、行動が、先に述べた正しく見る、思う、語る、働く、生活する、精進する、念ずる(反省と禅定)という基本に適ったそれになってきます。

人生の正しい道はまず反省から始まるが、反省の仕方は客観的立場から自分をながめ、相手を見ることであり、周りの事象をみることです。

そうして自分の欠点が浮き彫りされるようでなければ用を成しません。

自分に愛想がつきて、そこで自分(自我)を捨てたときに、四次元の光が心に入ってきます。

ところがここで、なかなか自分(自我)が捨てられません。

眼、耳、鼻、舌、身、意という五官六根による囚われから抜けられないのです。

しかし、ここで必要なのは知識ではなく、人生経験ではなく、財力でもなく、行動する、実践するという不動心、そして、勇気以外のなにものでもありません。

それでは、勇気はどうすれば出るのでしょうか。

人間は好きな遊びや好きな仕事なら、夢中になっているときは疲れを覚えないものですが、用が済んで、ヤレヤレと思ったときに疲れが押し寄せます。

「火事場の馬鹿力」という言葉があります。

火事のときに、自分にはあると思えない大きな力を出して重い物を持ち出したりすることから、切迫した状況に置かれると、人間は普段には想像できないような力を無意識に出すことをいったものである。

火事や地震の時に、寝たきりの人が自力で脱出したとか、重いタンス を持ち出したなどの話もあります。

例えば、ふだんは弱い女性が、火事で子供が家に閉じ込められたとき、その女性は我を忘れて火炎の中に飛びこみ焼死寸前の我が子を救ったといいます。

夫は家の外でオロオロするばかりで肝心かなめなときに何も出来なかったというのです。

この話はいろいろな意味を含んでいますが、こうした勇気はどこから生まれたのでしょう。

このときのこの女性は、アレコレ考える余裕はありません。

ただ、我が子を救おうという一念だけでした。

子供を救って自分の為した行為に自分でも仰天したというわけですが、真性の自分に返ったときは誰しもこうした勇気行為が出るものです。

勇気は虚勢見栄外見を気にしているときは出ません。

つまり自分の中にある小さな分別、自我(エゴ)が心を不自由にさせ、勇気、決断、行動力を削いでしまうのである。

自分の信念を貫き、向かっていく積極的で強い心意気、勇気というものは、偽我のない裸の自分に立ち返ったときに、自然に湧き出るものです。

いつまで、心のエネルギーを眠らせていてはならない。
心に潜在する無限の力を忘れてはならない。

いつまでも争いの中で時を無駄にしてはなりません。
 いつまでも疑念の中で時を失ってはなりません。
今の瞬間は二度と再び戻すことができないからだ。

もし機会を逃したら、次のチャンスが来るまでに、
 私たちはこれから幾つもの人生をやり直さなければいけない。

勇気をもつことは自分(エゴ)を捨てることでもある。

一瞬の勇気のなさが生涯の後悔にもなり得る。

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ドキュメント夫婦愛の葛藤・渇いた心

夫婦喧嘩

2014年4月17日(美子さん仮名)から受信。

この方が最初に相談を寄せたのは2012年11月8日です。過去の記事は文末にリンクしてありますから参考にしていただければと思います。

以下、相談内容と返信

先生ご無沙汰しています。 家族皆元気にしています。

お蔭様で、長男は本人の希望した大学進学となり〇〇県でで新生活をスタートしました。 寂しい気持ちもありますが、長男を家から解放したいと思ってきたので、これから様々な経験を積んで自立していってくれればと願っています。

先生ご相談なのですが、実は主人はビールを半年前からまた呑むようになりました。 ちょっとのつもりが、すっかり元に戻って今ではビールや清酒、チュウハイと呑まなければ寝れないのです。

以前のように、無呼吸症候群の症状がでてイビキもかなりうるさく私も睡眠不足が続き浅い眠りです。

主人にはせめて休肝日を作ってほしいと夫婦生活をするときは休んでほしいという事と、あなたが呑まないとわかれば私も心の準備ができるからと約束してもらいました。

私は性欲が薄いのだと思いますが、突発的に誘われると受け入れられないのです。

それでも、先生のブログで学ぶようになり、行為に対して拒否反応もなくなり主人を一番に信頼しています。

先日、末の子が早く寝たのを見て主人が誘ってきました。 私は戸惑い「今日はもう呑んでいるし、心の準備ができていない」と断りました。 夜22時の事です。

主人は逆切れして「お前とはsexなんかしてやらん。上から目線で物を言いやがって偉そうに、何様のつもりや!!」と子供が寝ている側で大声で怒鳴り私が寝ていた布団を剥ぎ取りました。

以前なら、ビクビクしていましたが今では恐れる気持ちもなくなりました。

これまで、「お前はこの家の人間じゃない。関係ない」「出て行け」など言われてきましたが(すべて酒を呑んだ時です)今回はさすがに心が折れてしまいました。

私が厳しいのでしょうか・・・ 先生からいただいたメールをもう一度読み直すと心が落ち着き涙してしまいます。

そしてなかなか成長できていないなとも思います。

2日間口も利きませんでしたが、私自身が両親の不調和のなかで育ちましたので同じことを子供にさせてたいけないと、主人と話し合いをしました。

小さい時から性的ないたずらされて来たことをはじめて話しました。

「男性は性欲の塊でやることしか考えていないと思ってきたこと。 でもあなたは誠実でまじめで嘘が嫌いで一番信頼できること。言葉がきついから人から誤解されるけど心根はとても優しい人だと知っているから」と、また夫婦生活は私が疲れると思っていたことも謝りました。

最近主人は「何のために生まれてきたのだろう」といいます。

厳しかった両親、野球の挫折、大学生活は友達が遊んでも自分は遊ばなかった、今は家族のために働き楽しみがない。仕事仲間は出張のたび女遊びをしているけど、俺はそんなことやりたくてもできる性分じゃない。まじめにやってきて好きなことができなかった。」と嘆きます。

私も側で聞いていて複雑な思いになります。

結婚してからずっと後悔の念がとても強く感じられる主人で、これはもともと持っている気質なのでしょうか。

私が夫婦の調和に努力すれば、主人は解放されるのでしょうか・・・ 急ぎませんので先生のお手すきの時アドバイスいただければと思います。 宜しくお願いします。

お体に気をつけて、今日もお仕事頑張ってください。

先生、私はお酒は呑みすぎると体に悪いと思っていますが、主人はきっとこれからも呑み続けると思います。

私が、体に悪いという想念を送り続けていると余計に具合を悪くするでしょうか?

 

2014年4月17日 返信

美子さん。こんにちは。お久しぶりです。

ご長男の新生活スタート、とても良い事です。

自立への第一歩です。よかったですね。

息子というのは離れていてもお母さんのことを思っているものですよ。

成長を見守っていきましょう。

御主人のお酒は明らかに度がすぎています。

どうしてこういうことになるのでしょうか。

これは「心の渇き」がそうさせているのです。

御主人の満たされない心は現代宗教(お母さんの信仰)では救い難いと思います。

生まれ育った家庭環境に大きな原因があることは否定できない事実と私は捉えております。

しかし、今のご主人は当初のご主人にくらべたら随分と話せる存在になったと思いませんか?

そうなれたのも、美子さんの愛によるものです。

あなたの愛がなければ家族はもっと悲惨な状況に陥っていたはずです。

弱い立場であるはずのあなたが武器とするもの、それは怒りでもなく銃でもありません。

家族に対する慈しみであり、愛しかないのです。

美子さんはそれを信じてこれまで家族に対応してくれました。

いまの家族があるのはあなたのお陰です。

ありがとうm(__)m心から感謝します。

私はあなたの努力が胸に響いてとても嬉しく思います。

あなたは妻でありますが、同時に子どもたちの母でもあります。

ご主人は年こそ重ねていますが、正しい愛のない家庭環境に育ったために今でも心が満たされていないのです。

そういう意味では、まだ心が成長しきれていないのです。

人を支えるだけの大きな愛を心に持てないだけなのです。

責任だけで生きなければならない人生に疑問をもっているのはご主人の立場であれば至極当然のことでしょう。

「上から目線で物を言いやがって、偉そうに、何様のつもりや!」

これはご主人が幼少の頃から抑圧されてきたものへの初めての自己主張であり、それをあなたに向けた結果の言葉です。

ご主人はあなたにしか本音を吐けないのです。

身体の大きい、年を重ねた、心の渇いた子ども。

これがご主人の姿です。

親のエゴの犠牲者という意味で可哀想な人なのですよ。

あなたがご主人に話したことは良かったと思います。

あなたが話すことで心開いていることを示すことにもなるからです。

あなたの愛だけが全てのご主人です。

いつかあなたからご主人を抱きしめて声をかけてあげてください。

「あなたが幼少の頃から味わった苦しみは私が受け止めます」と。

「結婚してからずっと後悔の念がとても強く感じられる主人」

これはご主人が心の休まるところを見いだせなかったことのだと思います。

でも今は違います。あなたが大切なことに気づいて接してくれています。

何も案ずることはありません。

無理にお酒をやめさせようと考えず、ご主人への愛を示すことでいいのです。

それだけがご主人を奈落の淵から救い出す命綱です。

愛を信じてください。

あなたの愛を信じてください。

いまは福寿草がひっそりと花開いています。

どれほど厳しい冬でも必ず春がやってきます。

やがてご主人の凍った心もあなたの愛によってすっかり溶ける時がきます。

愛則光 行則光 光則愛です。観童

 

2014年4月17日 木曜日受信

先生ありがとうございます。

まさかこんなに早くお返事がいただけるとは思わず、嬉しかったです。

メールを読ませていただいて、主人のことが理解できうまく表現できなかったモヤモヤがスーっと消えていきました。

主人は小学生の頃から高二まで、毎朝野球の自主練をしていたそうです。

母親が朝起き会から6時半には帰ってくるのでそれまでに起きて自主練していないと叱られていたそうです。

ギリギリに起きていた時は「今起きたんでしょ。寝癖を見ればわかる」と責められて来たといいます。

結婚当初も姑中心で主人は我慢して合わせていました。今は自覚があるかわかりませんが、姑をすごく意識した生活だと思います。

良くも悪くも母親の存在は子供にとって大きな存在だと思うと、私は姑を反面教師として学ばないといけないと思います。

先生のおっしゃるとおり、主人とは随分話せるようになりました。

前は冗談が通じないほどにガチガチでしたが子供4人に恵まれて個性の違う子供達を通して主人も少しは柔軟になってきました。

主人は偉そうな人がとても嫌いです。

お客様でも態度が大きい人や図々しいと思う人には接し方が淡々としていて、謙虚に対応してくるお客様には丁寧に接しています。

でも、そこにも幼少の頃からの抑圧に原因があるのだと知りました。

お互い目的を持って生まれてきたのですから、生きているあいだに主人が解放されるよう私も主人への愛を示していけるよう心を正して生活したいと思います。

先生いつもありがとうございます。

元気が出ました!! おやすみなさい。

 

2014年4月20日(日曜日受信)

先生おはようございます。いつも相談に乗ってくださりありがとうございます。

あれから主人のために何がしてあげられるのだろうかと考えるようになりました。

そして今までは「親だからこれくらいは我慢してくれるだろう」とか「もう大人なんだから・・・」と言う私の先入観を捨てて子供たちと同じように接するようにしています。

言葉がけ一つでも主人と長男とでは私の気持ちが違っていました。

イメージ的には冷たい気持ちと暖かい気持ちと言いましょうか・・・。

この落差を私自身が埋めていかないといけないと思っています。

主人が私からの愛情を求めているのもこれまでの先生とのやり取りの中で、今回改めて実感しました。

私は子供の頃、甘えられなかったという気持ちがありましたが、母親になり子供を育てる喜びの中で子供からの愛情で、その寂しさを清算できた気がしますが、主人の場合、母親に甘えられなかったことがこんなにも尾を引くとは思ってもみませんでした。

三日前のことですが、私の実家の隣家の長男さんが自殺しました。51歳でした。

三年前に離婚をし、実家に戻ってきましたが、仕事をしながら父親の病院の送迎や世話をしていたそうです。

朝方、救急車や消防車、パトカーと騒がしくて何事かと思ったら大変なことになっていたと聞きました。

今は身近にこのようなことが起きる世の中なのでしょうか。

ショックな出来事ですが、私は主人を孤独にさせてはいけないと感じました。

未熟な妻ですが、主人が少しでも解放されるよう努力していきたいと思っています。

そのためにも、これからも先生のブログで学ばせいただきます。これからもよろしくお願いします。

2014年4月20日 日曜日返信

美子こさんがこれまでの先入観を捨てて新たな気持ちでご主人に接してくださる決心を聞き安堵しております。

ご長男とご主人に対する接し方に自分の気持ちの違いがあったという話はもっともな事だと思います。

しかし、個人を超えた家族愛、人類愛という観点からすれば、愛の原点は変わろうはずがないのではないかと思うのです。

そのことにあなたは気づかれたのではありませんか。

実家のお隣のご長男さんの自殺。

疲れたのですね。気の毒な事件です。

離婚を機に運命が狂い始めたのでしょうか。

冥福を祈るしかありません。

こういったことは社会全体の問題でもあります。

孤独から学ぶことは多々ありますが、しかし、孤独に勝てないのも人間です。

社会の影の部分です。合掌

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成仏できていない被災者の魂

地獄霊

自然災害とはいえ、2011年3月11日の被災で亡くなられた方々には心からのご冥福をお祈り致します。

さて、今朝は、今でも被災地で幽霊がでるという話しについてふれてみます。

つい先日のこと、「来週は沿岸に行って一週間ばかり現場で仕事をしてくるよ」日常会話のなかでそういって釜石の被災地へ出かけて行った友人の工務店社長。

数日後、出張で家にいるはずのない社長がいたから声を掛けた。

「現場に入ったら急にめまいと、動悸、血圧の急激な低下、で救急車を呼ぶしかないかなと思ったが、我慢して自分で運転して家に帰ってきた」ということだった。

社長は目いっぱい邪気を被っていた。

私はすぐにその場で浄化することにした。

数分後に彼の身体に血の気がもどって胸の苦しさが取れたといって安堵していた。

正に霊的邪気の被災である。

霊的な事は何もわからないという一般の人たちのなかにも、被災地に出向いて具合が悪くなったという声はたくさんあります。

ストレスという言葉だけでは片づけられない霊的な背景が関連していることは否定できない事実であるが、これは経験した当事者自身だけが認めるところです。

私の経営する院に来院する人たちのなかには、霊的な影響を受けることで体調を崩し、さまざまな療法を試みて改善できず、たまたま縁があっておいでになったことで浄化をして急激に症状が好転する事例が時々あります。

本人が気づいていない場合が多い霊的な背景など、その悪影響に関しては、来院した本人には必ずしも伝えることはしないのだが、本人が知らぬ間に施術のなかで浄化してクリーンにすることは時々あることです。

何故そうするか、霊的な悪影響を来院者に知らせるには、その事実を受け入れられる状態にあるか否かを見極めなくてはならず、余程慎重にしないと問題がある。

精神的動揺を考えると必ずしも事実を知らせればよいということにはならないからだ。

来院者はあくまでも身体の不調を改善したいという思いでみえるのであって、霊的な相談にみえる訳ではないからである。

しかし、現実には霊的な背景を背負って見える方は多い。

さて、話しを三陸沿岸の被災地に戻します。

通常、霊は日中よりも日が落ちてからのほうが見えやすいのですが、これまでも昼夜の別なく人(霊体)の姿を見たという被災地の情報は後を絶ちません。

そして、霊の存在を感じて体調が悪く、ご飯を食べれない、痩せていく、体が異常に重い、めまいがする、胸が苦しい、頭痛がするようになった、いつも人の気配を感じて眠れない、等々、心療内科で向精神薬を処方してもらっても一向に改善されないで苦しんでいる人もいます。

当然、被災によって亡くなられた方については、遺族の人たち、親族の人たち、あるいは僧侶や民間人、公的な機関によっても命日や祥月命日には追善供養をしているのであるが、亡くなられた全ての故人が成仏しているわけではない。

成仏とは、ると書く。

仏とは、一般的には亡くなった方を称して「仏さん」と呼んできたのですが、真の仏といおう言葉の意味は、「悟った人」のことを言うのであり、最も心が調和された人、すなわち右にも左にも上にも下にも決して偏らず、心に一切の執着、拘りがなく、他に対しても慈しみと愛をもって関わることのできることをいう。

仏教でいえばお釈迦様のような如来やその下の菩薩のような境地まで達した人のことでしょう。

そういうことで、被災によって亡くなられた方も本当に成仏しているのであれば被災地の霊波動がもっとクリーンになってもよいはずですが、実際の現地の霊波動はそうではない。

とすればこれは何故であろうか。

この世の被災者に救済の手が施されるように、実は、あの世でも自然災害によって亡くなられた人々に対しては何もしないのではなく、天上界の光りの天使たちによって魂救済の手が差し伸べられるのである。

ところが、故人の生前の土地や家、自分の身内、物、金などに未練、執着をもつ度合いは人それぞれで、みな一様ではない。

生前に自我の強い人、つまり、不満、愚痴、怒り、激しい感情の起伏、拘り、執着心の強い人の場合は、死ぬ瞬間の心の状態に応じて霊界にスムーズに入れるかどうかが決まってくる。

死因が病死、事故死、自然災害とどのような原因であろうが、成仏できるか否かはまったく関係ない。

つまり日頃の心の状態がどれほど調和されているか否かで決まるということだ。

あれだけ大勢の人たちが同じ瞬間に亡くなられたのですから全ての人が日頃から心が調和されているとは限らないということがいえるでしょう。

これは私たちの普段の社会生活をみても理解できるかと思います。

震災後に霊界に入れず、未だにその地域で出没している霊の場合は明らかに成仏できていない霊であり、かつての地上生活から離れられないでいる人だといえるでしょう。

何故なら、成仏できている霊は、地上の人々に関わってくることはしないし、してはいけないことを悟っているからである。

死者の霊は、執着心が強ければ強いほど天上界から光の天使たちによって救済の教え、導きが為されても受け入れられず、その教えを学ぼうとせず、生前の心の不調和を反省するように促しても反対に拒否さえする者もいるのである。

このことは、この地上社会にも同じようなことがいえる。

人生の苦悩においてせっかく相談にきていながら、あまりにも囚われが強くて、悩み苦しみのない生き方、その為の方法を提案しても、それが受け入れられず、あるいは拒否して相変わらず苦悩する人がいるのである。

どうしてこのようなことが起こるのかというと、「自我心」である。

この場合の自我心とは正しい意味での自我ではなく、偏った不調和な心のことをいう。

地上社会においては、気づき、悟り、反対に、偏った価値観の心、不調和な想念と表現できますが、あの世に行った人の場合は、成仏という言葉で表現できるし、反対に、自縛、あるいは未成仏とも表現されます。

字の如く、自らを縛るということですが、これが自我心である。

きょうはここで「自我」についてもう一度詳しくふれておきたい。

私たちは両親を縁として、この地上に生れてきたのですが、成長と共にやがて自我が芽生えてきます。

この場合の自我とは具体的にどのような状態をいうのか。

自我という言葉は、非常に抽象的で誤解を招きやすいのですが、取りあえずここでは個性の魂という意味で広く捉えていただきたい。

したがって、この自我を偽我善我真我の三つに区分して考えた方が理解が早いでしょう。

ただ、その前に、通常、私たちは、他人と自分の関係のなかで、はじめて自分が意識されるものであることを理解しなければならない。

対象があり、相互関係のなかで自分の存在が意識できるということを。

その意味で、生れたばかりの赤ん坊は、まだ自我の意識に目覚めていません。

3ヵ月、半年、一年と経って、はじめて親と自分、つまり周囲の対象のなかで、自分の存在を自覚するわけです。

さて、そこで、自我のなかの偽我についてですが、これは対象のなかの自分をより強く意識し、このため「あの人は自分をどう思っているか、周りは自分をどう評価しているか」などという意識が過剰に働くことで自己本位に流れ、自分中心に思考してしまう自分である。

自意識過剰であり、俗にエゴともいい、やたらに人の目を意識し過ぎる、あるいは他人の心を考えず、自分だけのことしか思わない、小さな自分です。

こういった小さな自分しかわからない人の場合、いつも不安動揺が絶えず、恐怖心を持つようになり、心の中に平安がなく、いつも苦しみに満ちてきます。

相談者には執着を解き放すための心の学びをさせるのですが、素直に謙虚にそれを実践して自らを解放していく人もいれば、一時的、つまりその場だけの知識で理解したつもりに終始し、学んだことを生活に実践することもなく、生活を改めることをしないで同じことを繰り返している人もいるのである。

その一方では、遠く県外にいて面識がなくてもブログで学び、メールでのアドバイスを謙虚に受け止めて実践し、夫婦が和合し、子どもたちにも良い結果が現れて、家庭調和の大切さに気付いた人たちもいるのである。

心の苦しみの本質は、心が小さければ小さいほど、ものが良く見えず、ものの判断が自由にできないから、人生の岐路に立った時にいつも問題にぶち当たり、自分で判断することもできずに悩みます。

煩悩という言葉がそれです。

煩悩という迷いの原因は、すべての事象に対する拘り過ぎ、執着、とらわれ、自由のない小さな心だといっているわけです。

何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」ということであろうか。

次の善我というのは、この世の中は自分一人では生きていけない、皆と手を取り合い、愛に生きなければならない、各人めいめいが、勝手なことをいって生活しているが、ものの裏側を覗くと、実は各人は、人々の相互作用という関係のなかで生きており、自分本位に生きることは、結局は自分の首をしめてしまうということがわかっているという心をいうのである。

助け合い、補い合い、話し合うという愛のある生き方こそ、自分を生かし、他をを生かす精神だと理解できていることが善我である。

すべからく人は、こうした愛にめざめ、相互関係のなかで、他を生かしてゆくことが使命と言えるだろう。

人間の心は、愛や慈しみ、赦し、寛容、の精神から遠ざかったり、これから外れると、その外れた分量だけ自分が苦しむようになっています。

これが心の仕組みであり、慈愛こそが、唯一、神仏と連なる心である。

次の真我は、こうした相対の関係から離れて、人と自分は本来一つのもので、別々ではない、現れの世界(物質的この世)では別々でも、天の子として分霊した心は本来一つであり、そうして、すべての万物は、天の意識(神)の中で生かされ、生きている、という自覚の心です。

相対観とは、自分と他、他と他、というように比較をすることで存在を認識すること、あるいは比較をすることで優越感や、劣等感という感情をもつものである。

真我の心は、大我ともいえるものであり、慈悲と愛一筋に生きる精神といってよいでしょう。

自分の心が拡大していき、やがて宇宙大の広さにまで至り、存在する全てが我が子という思いに溢れる瞬間、宇宙は我が心にあり、我が心こそ宇宙であるという境地、宇宙即我、それこそが、真我の現れといえるでしょう。

さて、それでは、これらの心は、心のどの領域にあたるのでしょうか。

心の領域である本能感情理性知性の機能が、単独で意思につながる時、偽我となって現れます。

例えば、本能が単独で意思につながれば、食べ物に貪欲であったり、物に執着したり、奇怪な行動をとるようになってくる。

感情が単独で意思につながれば、例えば、心の起伏が大きくなり、他愛のないことで怒りに燃えた感情が爆発し、行動となって現れるため、破壊につながっていきます。

感情に翻弄されると、人の心を傷つけるだけではなく、やがては自らを破壊することになっていくのである。

知性が単独で意思につながると知識に翻弄されやすく、人との関わりにおいて角が立ちやすく、理屈っぽく冷酷な人間になりがちであるために人に避けられる傾向にある。

理性が単独で意思につながれば、いつも冷静沈着に過ぎて、物事を見る目には暖かさが失われ、人からは冷めた人と見られるようになり、無表情、無感情の人間と映ってくる。

心の働きとしてある、本能、感情、知性、理性、これらは相互に程よくバランスよく働き、意思につながってこそ豊かな心となり得るのである。

どれひとつが突出して働いても偏った心の人間となって人間関係に支障をきたしてくることになるものです。

先に述べた善我の心は、反省によって成長するものであり、自覚もされます。

そうなりますと各人の想念の働きは、感情から単独で意思につながる行動とはならず、想念は、本能、感情、知性、理性の各領域に万遍なく作用し、愛の行為として現れてきます。

先に述べた宇宙大の広い心とは、これらのそれぞれの心の領域がバランスよく働くことで可能となる。

ですから、先ず、私たちの心は、反省によって調えられ、偽我から善我に移行すれば、正しい生活が約束されて運命も好転してきます。

すなわち安らぎある生活ができてくるのである。

三陸の震災によって亡くなられた人たちの魂が本当に解放されるにはまだまだ時間を要するであろうが、自らを調えて天上界に上がることを祈りたい。

次回は24日(木曜日)人間ドキュメント「夫婦の葛藤と愛」をアップ予定でおります。

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夢が示すもの

夢

フロイト(1856年に生まれ、ウィーン大学で医学を学んだ脳解剖の専門医)の「夢の解釈」は有名ですが、はたして夢とは何でしょうか。

いったい夢は何を意味しているのだろうか。

夢に生活上の重要性はあるのかないのか。

ふつう夢には主観的なものと、第三者の介入による夢がありますが、きょうはこの辺の状況を霊的な背景も含めて分析してみたいと思います。

先ず、主観的な夢は、自己の想念がつくりだした単なる想像夢もあれば、日頃の想念のステージ、いわゆる心の調和度の高低によってその階層に通じて現象化する夢とがある。

次に、第三者の介入の夢は、自縛霊、地縛霊、動物霊などの影響によるものなどがあります。

主観的な夢の場合、例えば、美しい情景をみてくる、天女と語る楽しい夢、光の天使と会って語りあう、あるいは啓示的な内容として、守護霊や指導霊などの働きによる場合がある。

反対に、自分の日頃の想念に曇りが多い為に、暗く気持の悪い夢、奈落の底に落ちていく夢、あるいは死んだ人たちが大勢いる暗い世界まで下りて行った夢、呪われた世界、ヘビに追いかけられる、あるいは巻きつかれる、その他悪寒の走るような内容はさまざまです。

こうした夢は、あの世の階層を実際にみてくるのであり、そうしてそれは同時に、自分自身の、そのときどきの現実の想念の在り方が、そうした階層に通じ、またそのような日頃の想念が、夢という形で現象化されていることを意味します。

したがって、こうした夢は、天上界の夢ならともかく、いやな夢、ないしは正しい生き方に反した暗い夢の場合は、自分の想念のどこかに誤りがある場合が多いのですから、日頃の心の在り方を反省し、修正する必要があります。

ここで以前にも紹介したことのある内容ですが、参考のために今一度、私の夢の一例を紹介しておきます。

日本武尊(やまとたけるのみこと)

ある日、一人で岩手山(標高2038m)に登山しました。八合目あたりまで登った斜面で上から降りてくる人がいます。

近づくにつれて服装ははっきりとしますが、何故か顔がはっきりしません。

全身がダボダボの白装束で首には大きな数珠のような飾りが、腰は紐でしっかり結び、腰に剣が下げてあります。

足首もきちっと結んであり、今でいえば、とび職の人が着るような雰囲気というか、しかし洋服ではなく、明らかに日本の古来の5、6世紀頃の服装に思えます。

肩からは大きな白い袋が掛けてあります。まるで大和朝廷の時代そのままの服装のようです。とはいってもそれは後で気づいたことです。

こんな話をしたらおそらく何を馬鹿なことをというかもしれません。しかし、その時は何の疑問も不思議に思うこともなくすれ違ったのです。

言葉を発していないのに私の心に伝わる意思というかメッセージというか、よくわかりませんが、テレパシーのようなものでしょうか、『5年精進しろ。』と響いてきたのを鮮明に記憶しています。ここで目が覚めました。午前3時でした。

まったく嫌な感じはしなかったが、不思議な夢をみたものだという思いしかなかった。

これは28 年前の夢の話です。以後、夢のことはすっかり忘れていました。

何故5年なのか。

夢をみた翌年に300坪の原野を買い求め、自分の労力だけで樹齢30年くらいの木をチェンソーを使って間伐をし、パワーショベルをレンタルして抜根をし、整地をし、間伐した木材で小さな3坪のログハウスを建てた。

ここを拠点にして週末に泊りがけで家づくりのための基礎工事を始めた。

興味をもった人たちが立ち寄っては一緒に語らいながら一服するようになってた。

やがて一年かけて新築する準備ができ、翌年の春から大工さんを日給で雇って本体の加工に入ってもらい晩秋までかかって何とか完成にこぎつけた。

雪が降り始めるころ、完成した家の居間で薪ストーブの暖に心地よくくつろいでいるときだった。

岩手山に登山したときの夢を、新築した家の居間でふと思い出したのです。

ちょうど夢から5年後のことでした。「五年精進しろ」というキーワードの謎が解けた瞬間だった。

登山はまさに人生そのものを示唆していると理解した。

もう一つの夢は、

4年ほど前のことになるが、山が割れて水が吹き出し、海からは海水が溢れだし、ぐんぐん地上を覆っていき、人々は逃げ場を失っていた。

こういった夢が約一年の間に三度ほど続いた。

とても怖い夢で尋常ではなく、あまりにもリアルで、いまだかつてこんな恐ろしい夢は見たことがなかった。

ついに三陸津波によって多くの犠牲者が出てしまった。

夢は大抵、朝方

これは眠るという行為が、表面意識の休養を意味し、エネルギーの補給を行っているのですから、意識の休養中に夢をみるのではなく、エネルギーの補給を終えた朝方に、90%の潜在意識部分の働きで、夢をみる、夢を憶えているということになるからです。

つまり、睡眠によってエネルギー補給を終えた表面意識が、いつでも活動しやすい状態になったときに、夢という現実的な想念が働きだすということ。

また夢は、自己の想念と行為をごまかしなく再現するものですから、それだけに自分の心の状態の反省の材料としては、またとない資料となるわけです。

現実生活の私たちの想念は、形に表われないとわかりませんが、夢の場合は、日頃の想念がなんの抵抗もなく現象化されますので、夢の中の行為は、自己の内在する想念の、偽りのない姿だといえるでしょう。

一方、よろしくない第三者の介入による夢は、朝方よりも、真夜中にみる場合が多いものです。

眠りが浅く、なんとも寝つかれず、ウトウトしながら寝入りばなに重いものが足元から胸の方まで上がってくる、何者かに押さえつけられる夢で起き上ったら寝汗をびっしょりかいている、夢か現実かわからないような恐怖心を伴った悪夢をみる。

あるいは寝入りばなに体の自由が利かなくなり恐ろしさのあまり、助けを求めるがどうにもならないという夢ではないが金縛りにあった、目をさましたときは、自分の腕が胸の上におかれ、汗をかいている。

こうした際は、光の天使、または守護霊、あるいは神を心に念じて加護を求めることです。「神よ。私に光をお与えください。心に安らぎをお与えください。守護霊よ。私の心を正しくお導きください。一切の魔よりお守りください。」というようにである。

また、こうした悪夢をたびたびみたり、夜眠られぬことが続いている場合は、未浄化な霊の干渉を受けているか、あるいは憑依されていることがありますから、強い自己反省が必要ですし、正しい想念の生活にかえるよう努力されることが肝要です。

正しく調和された心になれば、憑依する霊との波長が合いませんから、やがて憑依霊は離れ、立ち去ることになるであろう。

こういった第三者の介入による悪夢についても、元をたどれば自己の日頃の想念に無関係ではありませんので、偏りのいない正しい生き方にそった生活が大事になってきます。

このほかに、正夢があります。

これは自身の守護霊の働きかけと、動物霊などが作用している場合とがありますが、動物霊の場合は、その内容にどこか常識的でなく、一貫性もなく、理解できないものが多いのです。

また戯画化されたもの、筋道のないもの、意味のつかめない夢などがありますが、これらは想念に断層がある、つまり心が不安定なためにおきる夢が多いと捉えてよいでしょう。

いずれにせよ夢は、日頃の想念(心)行為と密接不可分ですから、嫌な夢をみた場合は、その夢について、反省することが大切です。

夢を覚えていない

睡眠中の魂は次元の異なった世界に移動しているのですが、夢をみている間は意識が働いていることになります。

がしかし、朝になって自分の体にもどり、夢の中での体験を思い出そうとしても、思い出すことができません。

何故なら、私たちの魂の仕組みは、肉体を持った地上生活では90%が潜在意識であり、10%が表面意識として機能しているからです。

氷山

つまり、潜在意識のほうがはるかに表面意識より大きいのがお分かりになるでしょう。

わずか10%の表面意識では90%の潜在意識を受け入れることが困難であるのが理論的にも理解できるかと思います。

大きいものは小さいものを収めることはできますが、小さいものが大きいものを収めることができないのできないのも道理でしょう。

夢から覚めてわずか10%の表面意識で90%の潜在意識の出来事を受容しきれないという理由、ご理解いただけましたでしょうか。

魂(心)は器と捉えていただきたい。

この器は大小様々です。

人生のなかであらゆる出来事を学びと心得て生きれば心が広く大きく育つでしょう。

そこに人間の大きさの違いが生じてくるのでしょう。

しかし、ある程度まで魂が進化し、霊的にある一定以上の段階までの意識が育ち芽生えた人は、夢の世界での出来事、すなわち霊界での体験を意識できるようになってくる。

夢は役立つのか

私のこれまでの経験から言えることですが、夢を見たことを記憶していて朝に目覚めた場合は、その夢のストーリーを客観的にみてみることで何かを示唆していることに気づかされることが多々あります。

「ただの夢じゃないか」といってしまえばその通りですが、夢一つといえども良くも悪くも何らかのメッセージ性があると受け止めれば、それなりに意味もあり参考になるものである。

そういった意味からすれば、夢には日常生活での想念が造りだした想像夢もありますが、守護霊や指導霊からのアプローチもあり、それが私たちにとって大切なメッセージ性を含んだものの場合は夢だと流してはいけないものだということがいえるでしょう。

夢は忠告と死後の学習

睡眠状態において夢の活動は心のステージが高い人の場合、大抵は、死後への心の訓練といってよいでしょう。

霊界のガイドによって様々な場に案内されて経験するのであるが、そのような経験を重ねることで死後において次元の異なった世界へ移動しても戸惑うことなく馴染んでいけるのである。

こういった霊的な経験のない人の場合は、その環境に対して適応力がつくまでに長期間の時間が必要となる。

日頃の私たちの生活もそうであるが、霊的な部分でも知識と経験があれば、死後は比較的スムーズに霊界入に入ることができ、しかも意識がしっかりとしている。

具体的説明をするなら、死後の目覚めは暗い睡眠から目覚めて太陽の光りが燦々と輝き照る外へ出た時と似ていると思えばよい。

また、長いトンネルから抜けてまぶしい太陽光線に目が鳴れるまで時間を要することを思えば分かりやすいだろう。

霊的なことを否定する人や、何も知識のない人は、死という現象のなかで覚醒できない期間が長びいて、なかなか意識がもどらない場合があるようだ。

降霊しても反応がなく、自分が誰であるのかもわからない状態で判然としない霊もいるからである。

例え話であるが、まだ成長していない幼児が自分のことを説明できないことに似ているといえばわかるだろうか。

生前の記憶は断片的に一応思い出すのですが、それがちょうど夢を思い出すのと同じように、おぼろげなのです。

しかし、夢を無視してはいけません。

夢は私たちの希望の原点であります。

人生での夢、就寝での夢。

いずれにしても夢は霊的成長への出発点でもあります。

次回は21日 月曜日の投稿予定です。「成仏できていない被災者の魂」

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神と罰

言霊

信仰をもつ者のなかに時折きかれる「神罰・仏罰」という言葉がある。

教祖や教団に対して、祭っている神を粗末にしたからとか、あるいはその信仰に対して疑問を発したり、不敬があったから「罰が」あたったんだとささやかれてきたところがあるようです。

人間は万物の霊長ともいわれ、神の子ともいわれます。

何故そのようにいわれるのであろうか。

古来より、人間は自らを律し、自ら創造し、未来永劫、自らこの地上を調和させてゆくものであるはずです。

春夏秋冬、四季折々の大自然がそのまま調和された姿であるように、人間もまた調和された存在者であります。

神仏の子といわれることの唯一の証明、それは己自身にウソがいえないこと。この一点だけが神仏に通ずる想念の働きといえる。

人間の意識は宇宙大の広がりを持つことは、「宇宙即我」という境地を以ってお釈迦様が悟られました。

そして身体をみてみると、人間の肉体構造が宇宙と同様につくられており、人間が小宇宙といわれる理由もここにある。

太陽を中心に幾多の惑星が自転公転して太陽系を成しているように、人間の肉体もまた、心臓を太陽に置き換えることができるでしょう。

心臓すなわち太陽から送り出されれた血液という太陽光線のエネルギーは各臓器という惑星に送られ細胞を生かし、機能させて人間の肉体を形成しております。

星の数と人間の肉体細胞の数についても、遠くない将来にやがて、新しい発見がなされるでありましょう。

神の子といわれる存在者であるはずの人間、この地上の社会集団がなぜ混乱を招いているのだろうか。

神の子と言われるならばもう少しましな社会がつくられてもいいはずではないか、この言葉に異論をもつ人はいないのではないだろうか。

まさにその通りです。神の子の社会が、不善の社会をつくる道理はありません。

だが、ここで大事なことを忘れてはならない。

神の子は、自ら律し、自ら創造してゆくようにつくられているということ。

大自然を神が創造したように、人間もまたこの地上を創造してゆくのです。

しかも人間は、神と同様に、自由な意思が与えられ、いうなればその自由な意思で、どう自分が創造しようと、それは神の子に許された権能(ある事柄について権利を主張し、行使 できる能力)といえるでしょう。

ところが、人間が肉体を持ち、個々の生活環境を形づくってゆくと、本来の神の子と言われる真理から離れた創造行為に移りやすくなってゆきます。

ここに肉体を持った人間の過ちがあり、肉体の五官に翻弄され不幸の原因が生じてくるのです。

自分と他を比較する相対観念は、あらゆる悪を生み出し、罪を生み出してゆきます。

しかし、逆も真なり、天があり、地があり、男女の区別のある相対する世界であるからこそ、より進化した調和を生み出すことも可能なのです。

要は相対観のなかで何を学び得るのかである。

これまでの人類史は、調和されていた期聞か短かく、不調和を創造してきた期間の方が長く、罪をいろいろ重ねてきました。

小さくは隣人との確執にはじまり、他民族との戦い、人種差別、他国との戦い、宗教や思想による戦いと殺戮は限りなく繰り返されてきた。

神の子のあるまじき罪を、悪を、生み出してきたのです。

人間は、自由な意思と、自由な創造力を与えられ、それが神の子としての当然の権能として行使できる立場にあったのであるが、反面、その権能を行使する人間の不調和な想念行為こそが今日の悪をつくってきたのです。

本来、人間の本質は神仏の子です。

神仏の子であるがゆえに、その罰は己が償わなければなりません。

しかし、神仏が神仏(神の子)を罰することはできません。

神仏の子(人間)は、神仏そのものであるからです。

これは人間の心に神の意識が宿るという意味である。

神を祭り、仏をあがめ、手を合わせることを拒めば罰が当るとする考えや思想、掟がもしあるとすれば、それはまったく、人間を知らぬためにおこった、いわばある目的をもった団体維持のための自己保存にしかすぎない。

神は人間に罰を与えるどころか、不幸な者ほど思いわずらうのが親の情というものであり、神仏の心は人間の心と少しもかわりないのである。

間違っても、神仏が人間に罰を与えると考えてはならない。

蒔かぬ種は生えぬ、蒔いた種は刈りとることが真理であり神理であり、法則であり、摂理であり人間に課せられた天命といえるのではなかろうか。

(次回は17日、木曜日に投稿予定しております)タイトル「夢の意味するもの」

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一貫した人の美しさ

瞑想「石の上にも三年」

知人の娘さんが専門学校を終えて4月から親元を離れて、一人他県でアパート暮らしを始め就職することになった。

その娘さんが就職に際して、知り合いのおばさんに「石の上にも三年」と言われたらしく、その意味をお母さんに質問した。

「どうして石なの?どうして三年なの?」と、その質問にお母さんが返答に困ったらしい。

後日そのお母さんから今度は私に質問が振られた。

昔、修行僧が洞窟の中や岩場の上で乾燥した草を敷いて座禅三昧になって悟りを得ようと命がけで取り組んでいた。

「面壁九年」という言葉は、ダルマ大師が洞窟のなかで九年間も岩壁にむかって心というものを見つめ、黙々と座禅三昧に精進していたことを表現した言葉で有名である。

冷たい石も三年座り続ければ、暖かくなるという意味が語源由来になっているが、それぐらい辛抱すれば何かしら得るものがあるということのようだ。

何も三年座らなくても、と思うが、基本的に三年と言う数字に含まれる意味合いとしては、長いと言う意味が含まれるようです。

決して片寄った頑固ではなく、大事な局面で一貫して変わることのない人、もう少し言葉を変えるなら「ブレナイ人」といったわかりやすいだろうか。

一筋に生きていても敵をつくることもなく、ごく自然体で周りとの協調性をも忘れない、そして一つの道を歩んでいる人が美しく見えるのは、私のなかにそういったことへの憧れがあるからかもしれない。

ところが人間はともすれば右往左往するようにできている。

それではいけない、というので、昔の人は、「石の上にも三年」といった諺(ことわざ)で辛抱というを教えた。

修養によって得た心の器、調和度、自らを高め、他を感化する精神的能力をいうのだが、「 徳を積む」 「 徳を養う」というこの言葉はそのまま「心を積む」「心を養う」という言葉に置き換えることができる。

精神的・道徳的にすぐれた品性・人格。 「先生の徳を慕う」 「 徳の高い人」ということは身に備わっている器の能力ともいえるでしょう。

修養、「知識を高め、品性を磨き、自己の人格形成につとめること」といわれておりますが、しかし、「知識を高める」ことに偏ると自己の人間形成は愚か、人間のエゴとなりかねないから気を付けなければならない。

知識偏重主義になってはいけないということだ。

真の修養は、学びえた知識を生活の中で実践することによって身についたときにこそその本質が成されたことになる。

先に述べたように、いくら石の意上にも三年といったところで、いつまでも同じことだけをしていたのでは進歩を遅らせてカビが生えてしまうことにもなりかねない。

変えた方がよいのか、それとも十年一日、不変でいくのがいいのか、それが選択である。

一つを貫くも人生、変えるも人生、いずれも無駄もあれば得ることもある。

年月がたち、後になって考えてみると、「やはりあの時の無駄と思える時間が自分には必要だった」と思える私である。

鯉の滝登り

魚は流れにさからって泳ぐ

川の流れに流されるように泳ぐのは弱っているか死にかけている魚だ。

流れに向かって動くのが生きている証でもある。

私の子どもの頃の川遊びは上流に向かって泳ぐか、流れを横断しながら泳いで遊んだり、カニやウナギをとって食料にした。

社会人になって流れに乗っていれば楽ではあるが、自分を出していない気がして強く生きている実感がない。

そんな気質が私の生き方の随所に見え隠れしてきたように思う。

社会に出てもとくに流れにさからう理由がなくても、生きがいとして、あえて自然に抵抗するということのあるのが人間の奥底には潜在しているところがあるのではないか。

自然と言えば、きのうしたことを今日して、明日もそれを続けているのがいちばん自然なのかもしれません。

私たちの日々の生活、すくなくとも無事平穏な生活はこういう延長線の原理によっても支えられている。

未来は過去の延長線上に展開する

安定した、恵まれた人生、安全ではあるけれども、それではあまりにも単調でおもしろくない、と感じるのも人間の情である。

未知には不安や恐ろしさもあるだろうが、しかし、先の先まで予測ができるのもまた味気ないことおびただしい。

わかっている答えの問題を解くようなものだ。

そして、安全と見えるものに案外落とし穴がある。

一直線の高速道路はいかにも安全のように思われるが、実際にはかえって事故が多発するという。

運転者が気を許してしまうからで、そういうことから起こる事故をへらすために、たいていはゆるやかなSラインにもなっている。

つまり、ハンドルを動かさずに直進していると、いつしか倦怠の毒素ともいうべき眠気や集中力の切れが生じ、蓄積する。

これが事故や失敗の引き金になるようである。

何故こんな直線道路で事故が起きるのだ、と思えるような高速道路で大きな事故が起きているのも実は油断からだという。

まっすぐにしようと思えばできる高速自動車道をあえて曲線に設計するのはこの毒素という油断のエネルギーを発散させるための工夫にほかならない。

石の上にも三年、十年一日の生き方をして大過なくするには、平和による倦怠の毒素をいかに処理するかの知恵がなくてはならない。

人間が変わる理由のひとつは、外発的事情によって、自分では変わるつもりがないのに、変わるのを余儀なくされるとき。

もうひとつは、内的理由という自分の意志によって変わる場合である。

前者の変化は、人生の節目節目に見られるもので、それまでの生活の延長が許されなくなる場合にみられる。

学校を卒業したとか、転勤とかの身分の変化にともなうもので、自分でもこれをはっきり自分が変わったと思っていないことが多い。

同じ変わるのでも、失敗、挫折、病気などという事情によるときは、変化は苦渋にみちたものになる。

しかし、苦渋に満ちた実情も人間は何らかの手段を講じたり、人の助けを借りたりしながら超えていかなくては成長はない。

他人事だから言うのではないが、逆境に立ち向かっている生きざまは美しくあり、感動を与える。

人生は必ずしも心機一転をはかれることばかりではない。

逆境や試練の渦中にある人にとっては、ルネッサンス(再生)の好機が訪れたと考えることは至難であるが、もし、そう思うことができれば、外的要因の厳しい状況が、向上のための内的動機の変化にもなりうる。

つまり、外の刺激が自分の心に変化をもたらすということをいう。

自分の内発的な自己変革はどうしておこるのか。

先ず、このままではいけないという反省がきっかけになる。

スランプという環境の中で起こる自律的な心の変化によって状況を見極めようとする心理が働くことが現状打開につながっていくことになる。

スランプを克服しようと努力しているのも自己変革の一種であるが、それを乗り越えたときは多少とも前とは違った自分になっているはずだ。

時には、自分のしている仕事、信じてきた価値に疑いをいだく場合もあるだろう。

こんなことをしていて何の役に立つのか、なんとも空しい、と世をはかなむ気持ちをいだく場合もある。

実際にサラリーマンをやめて出家した人がいた。

現代においてはまさか頭を丸めて出家ともいかないから、会社をやめる脱サラという形をとる人もいます。

また、実際の脱サラという行動に移すまでには至らなくとも、ときどき会社や仕事を「やめたい」と言わないと落ち着かないという人が案外すくなくない。

囗には出さなくともそういう気持ちをいだくことで生活にアクセントをつけている人もなかなか多いし、酒を飲んで憂さを晴らした気分でいる人たちも多い。

順風に帆をあげているようなときに別な道を選択したり、自分を変えようと考えるのはよほどの大人物か、変人かもしれない。

私の場合、決して順風漫歩ということではなかったが、やめなくても良い自営をやめて今の仕事を新たな道として決めたときは家族の猛反対にあった。

妻は守りに入るし、その立場だから当然のことであろう。

そのときの自分の中にあったものは、思いたってから年月が経ってもどうしてもやりたい仕事」という内的変化が消えなかったからである。

だが、私の場合はサラリーマン時代において会社の処遇に失望し、ある種の挫折感がきっかけになっている。

失望が燃える人生の転機となったことは確かである。

自信を失いがちなとき、決意をもって自分のコースの方向転換するのは容易ではないが、一般的にはそこで変わるより、流される方が多くなるのも致し方がないことであろう。

しかし、私はその場にとどまる事のほうがもっと辛いことだった。

結果論であるが方向転換したことを良かったと思っている。

後悔先にたたず

隣の花をみてわが花にしようと思って転職してみると、さっぱりおもしろくないという場合もあるだろう。

捨てしまったかつてのわが家の花が、こんどは隣の花になって美しく見え出す。

やめなければよかったと思ってももう後の祭りである。

よその仕事が良さそうだと一途に思い込んでいる人には、そんなことは頭に入らない。

要は、選択をしなければならない状況下で、その時だけをみれば好判断となってもそうならない現実あり、迷いながらも首尾一貫して進めることで結果がついてきて先が見えだす現実もあることからすれば、物事は時を経てこそ道がつくられるものだというではなかろうか。

やはり一事を貫く姿はやはり美しい。

沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり

悪いことがあってもそれだけということはない。後にはよいことがあるということ。人生には色々なことがあるといった意味合いで使わえることばです。

辛抱することの大切さはここにもある。

「鹿を逐う者は山を見ず」

鹿を捕らえることに夢中になって山全体を見ず、その深さを忘れてしまうことから言うのだが、利益のみを追うことに夢中になっている人は周囲の情勢に気づかず道理を見失ってしまうということ。

木の幹はしっかりした根っこに支えられて風雪雨に耐えて立っていられるように、人生に紆余曲折はあっても軸のブレナイ生き方をしたい。

そのためにも心の修養をと考えて生きている。

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