一貫した人の美しさ

瞑想「石の上にも三年」
知人の娘さんが専門学校を終えて4月から親元を離れて、一人他県でアパート暮らしを始め就職することになった。
その娘さんが就職に際して、知り合いのおばさんに「石の上にも三年」と言われたらしく、その意味をお母さんに質問した。
「どうして石なの?どうして三年なの?」と、その質問にお母さんが返答に困ったらしい。
後日そのお母さんから今度は私に質問が振られた。
昔、修行僧が洞窟の中や岩場の上で乾燥した草を敷いて座禅三昧になって悟りを得ようと命がけで取り組んでいた。
「面壁九年」という言葉は、ダルマ大師が洞窟のなかで九年間も岩壁にむかって心というものを見つめ、黙々と座禅三昧に精進していたことを表現した言葉で有名である。
冷たい石も三年座り続ければ、暖かくなるという意味が語源由来になっているが、それぐらい辛抱すれば何かしら得るものがあるということのようだ。
何も三年座らなくても、と思うが、基本的に三年と言う数字に含まれる意味合いとしては、長いと言う意味が含まれるようです。
決して片寄った頑固ではなく、大事な局面で一貫して変わることのない人、もう少し言葉を変えるなら「ブレナイ人」といったわかりやすいだろうか。
一筋に生きていても敵をつくることもなく、ごく自然体で周りとの協調性をも忘れない、そして一つの道を歩んでいる人が美しく見えるのは、私のなかにそういったことへの憧れがあるからかもしれない。
ところが人間はともすれば右往左往するようにできている。
それではいけない、というので、昔の人は、「石の上にも三年」といった諺(ことわざ)で辛抱というを教えた。

修養によって得た心の器、調和度、自らを高め、他を感化する精神的能力をいうのだが、「 徳を積む」 「 徳を養う」というこの言葉はそのまま「心を積む」「心を養う」という言葉に置き換えることができる。
精神的・道徳的にすぐれた品性・人格。 「先生の徳を慕う」 「 徳の高い人」ということは身に備わっている器の能力ともいえるでしょう。
修養、「知識を高め、品性を磨き、自己の人格形成につとめること」といわれておりますが、しかし、「知識を高める」ことに偏ると自己の人間形成は愚か、人間のエゴとなりかねないから気を付けなければならない。
知識偏重主義になってはいけないということだ。
真の修養は、学びえた知識を生活の中で実践することによって身についたときにこそその本質が成されたことになる。
先に述べたように、いくら石の意上にも三年といったところで、いつまでも同じことだけをしていたのでは進歩を遅らせてカビが生えてしまうことにもなりかねない。
変えた方がよいのか、それとも十年一日、不変でいくのがいいのか、それが選択である。
一つを貫くも人生、変えるも人生、いずれも無駄もあれば得ることもある。
年月がたち、後になって考えてみると、「やはりあの時の無駄と思える時間が自分には必要だった」と思える私である。
鯉の滝登り
魚は流れにさからって泳ぐ
川の流れに流されるように泳ぐのは弱っているか死にかけている魚だ。
流れに向かって動くのが生きている証でもある。
私の子どもの頃の川遊びは上流に向かって泳ぐか、流れを横断しながら泳いで遊んだり、カニやウナギをとって食料にした。
社会人になって流れに乗っていれば楽ではあるが、自分を出していない気がして強く生きている実感がない。
そんな気質が私の生き方の随所に見え隠れしてきたように思う。
社会に出てもとくに流れにさからう理由がなくても、生きがいとして、あえて自然に抵抗するということのあるのが人間の奥底には潜在しているところがあるのではないか。
自然と言えば、きのうしたことを今日して、明日もそれを続けているのがいちばん自然なのかもしれません。
私たちの日々の生活、すくなくとも無事平穏な生活はこういう延長線の原理によっても支えられている。
未来は過去の延長線上に展開する
安定した、恵まれた人生、安全ではあるけれども、それではあまりにも単調でおもしろくない、と感じるのも人間の情である。
未知には不安や恐ろしさもあるだろうが、しかし、先の先まで予測ができるのもまた味気ないことおびただしい。
わかっている答えの問題を解くようなものだ。
そして、安全と見えるものに案外落とし穴がある。
一直線の高速道路はいかにも安全のように思われるが、実際にはかえって事故が多発するという。
運転者が気を許してしまうからで、そういうことから起こる事故をへらすために、たいていはゆるやかなSラインにもなっている。
つまり、ハンドルを動かさずに直進していると、いつしか倦怠の毒素ともいうべき眠気や集中力の切れが生じ、蓄積する。
これが事故や失敗の引き金になるようである。
何故こんな直線道路で事故が起きるのだ、と思えるような高速道路で大きな事故が起きているのも実は油断からだという。
まっすぐにしようと思えばできる高速自動車道をあえて曲線に設計するのはこの毒素という油断のエネルギーを発散させるための工夫にほかならない。
石の上にも三年、十年一日の生き方をして大過なくするには、平和による倦怠の毒素をいかに処理するかの知恵がなくてはならない。
人間が変わる理由のひとつは、外発的事情によって、自分では変わるつもりがないのに、変わるのを余儀なくされるとき。
もうひとつは、内的理由という自分の意志によって変わる場合である。
前者の変化は、人生の節目節目に見られるもので、それまでの生活の延長が許されなくなる場合にみられる。
学校を卒業したとか、転勤とかの身分の変化にともなうもので、自分でもこれをはっきり自分が変わったと思っていないことが多い。
同じ変わるのでも、失敗、挫折、病気などという事情によるときは、変化は苦渋にみちたものになる。
しかし、苦渋に満ちた実情も人間は何らかの手段を講じたり、人の助けを借りたりしながら超えていかなくては成長はない。
他人事だから言うのではないが、逆境に立ち向かっている生きざまは美しくあり、感動を与える。
人生は必ずしも心機一転をはかれることばかりではない。
逆境や試練の渦中にある人にとっては、ルネッサンス(再生)の好機が訪れたと考えることは至難であるが、もし、そう思うことができれば、外的要因の厳しい状況が、向上のための内的動機の変化にもなりうる。
つまり、外の刺激が自分の心に変化をもたらすということをいう。
自分の内発的な自己変革はどうしておこるのか。
先ず、このままではいけないという反省がきっかけになる。
スランプという環境の中で起こる自律的な心の変化によって状況を見極めようとする心理が働くことが現状打開につながっていくことになる。
スランプを克服しようと努力しているのも自己変革の一種であるが、それを乗り越えたときは多少とも前とは違った自分になっているはずだ。
時には、自分のしている仕事、信じてきた価値に疑いをいだく場合もあるだろう。
こんなことをしていて何の役に立つのか、なんとも空しい、と世をはかなむ気持ちをいだく場合もある。
実際にサラリーマンをやめて出家した人がいた。
現代においてはまさか頭を丸めて出家ともいかないから、会社をやめる脱サラという形をとる人もいます。
また、実際の脱サラという行動に移すまでには至らなくとも、ときどき会社や仕事を「やめたい」と言わないと落ち着かないという人が案外すくなくない。
囗には出さなくともそういう気持ちをいだくことで生活にアクセントをつけている人もなかなか多いし、酒を飲んで憂さを晴らした気分でいる人たちも多い。
順風に帆をあげているようなときに別な道を選択したり、自分を変えようと考えるのはよほどの大人物か、変人かもしれない。
私の場合、決して順風漫歩ということではなかったが、やめなくても良い自営をやめて今の仕事を新たな道として決めたときは家族の猛反対にあった。
妻は守りに入るし、その立場だから当然のことであろう。
そのときの自分の中にあったものは、思いたってから年月が経ってもどうしてもやりたい仕事」という内的変化が消えなかったからである。
だが、私の場合はサラリーマン時代において会社の処遇に失望し、ある種の挫折感がきっかけになっている。
失望が燃える人生の転機となったことは確かである。
自信を失いがちなとき、決意をもって自分のコースの方向転換するのは容易ではないが、一般的にはそこで変わるより、流される方が多くなるのも致し方がないことであろう。
しかし、私はその場にとどまる事のほうがもっと辛いことだった。
結果論であるが方向転換したことを良かったと思っている。
後悔先にたたず
隣の花をみてわが花にしようと思って転職してみると、さっぱりおもしろくないという場合もあるだろう。
捨てしまったかつてのわが家の花が、こんどは隣の花になって美しく見え出す。
やめなければよかったと思ってももう後の祭りである。
よその仕事が良さそうだと一途に思い込んでいる人には、そんなことは頭に入らない。
要は、選択をしなければならない状況下で、その時だけをみれば好判断となってもそうならない現実あり、迷いながらも首尾一貫して進めることで結果がついてきて先が見えだす現実もあることからすれば、物事は時を経てこそ道がつくられるものだというではなかろうか。
やはり一事を貫く姿はやはり美しい。
沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり

悪いことがあってもそれだけということはない。後にはよいことがあるということ。人生には色々なことがあるといった意味合いで使わえることばです。
辛抱することの大切さはここにもある。
「鹿を逐う者は山を見ず」
鹿を捕らえることに夢中になって山全体を見ず、その深さを忘れてしまうことから言うのだが、利益のみを追うことに夢中になっている人は周囲の情勢に気づかず道理を見失ってしまうということ。
木の幹はしっかりした根っこに支えられて風雪雨に耐えて立っていられるように、人生に紆余曲折はあっても軸のブレナイ生き方をしたい。
そのためにも心の修養をと考えて生きている。
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