夫婦生活の心理的根拠と調和

夫婦愛
夫の好きなところをいくつあげられるか。
「ご主人の素敵なところ・好きなところを5個あげてください」と言われたら、あなたはいくつあげられますか?「優しいところ」「まじめに働いてくれるところ」「子煩悩なところ」など、2~3個はすぐに出てきても、5個となると難しいのではありませんか。
まして10個もとなると、正直、かなり大変かもしれません。
実際、2~5個で「もうありません」とギブアップする方も少なくないかもしれませんし、1個という方がいました。
では逆に「旦那様のいやなところ・嫌いなところを5個あげてください」と言われたらどうだろうか。 今度はあっという間に出てくる人もいるのではないだろうか……?
人は無意識のうちにパートナーにいろいろ期待していて、それが自分の思惑と違うことに、実は頻繁にがっかりしている場合がある。
だから「好きなところ」より「嫌いのところ」のほうが見つけやすいという結果につながっていますが、これは、別に夫婦仲の悪い方に限らず、夫婦仲の良い方でも同じような傾向があります。
別に口にして非難はしなくても、心の中で相手に不満を持ち、がっかりして、愛情が冷えたりしている可能性、ケースもあります。
自分ができないことを棚にあげて、面と向かって妻に指摘することはないけれど、不満に思ったり、がっかりしたり、軽蔑したりしている点……。男性諸氏、思い当たる点はないだろうか。
結婚式を出発点として、われわれは夫婦生活を理想のものとするように、お互いに協力してゆかねばなりません。

夫婦はお互いが協力関係にあるのであって、男女の役割が違うからとはいっても、必ずしも、男性が主であり、女性が従であるという考え方は誤りである。

「俺が働いているから生活できているだろ」と自分の妻に向かって言い放った人がいたが、あまりにもエゴイスティックで未熟な心の夫である。

役割の違いは役割の違いだけであって、決してどちらが偉くてどちらが偉くないというものではない。

男性中心の封建主義的考え方は、儒教と武士道が結びついてつくられた古来の道徳からきているもので、道徳の規範というものは、時代背景による社会的価値観、社会習慣、個人の価値観などによっての示されたものですが、それが絶対ということはなく、改めなければいけない。

しかし、役割の違いを差別だと考えて、男女の役割の違いまでなくそうとすることもまた、自然の法則を人間の力で変えようとするもので、それはまた正しいものではない。

役割は違っていても人間は平等である。

男女の役割までなくそうとすると人間は手痛いしっぺ返しを食うことになる。

自然を破壊すると公害が起こるように、男女の役割を無視すると、片寄った生活や行動となり、そして調和が取れなくなり、やがて家庭破壊が起こるのである。

このことは、これまで相談してきた方々の内情をみるにつけ、あまりにも男女の役割、夫婦の役割ということを考えず、自分勝手な思いを優先させた夫婦が取り返しのつかない事態にまで陥っている姿をみてきたことでもわかるのである。

夫婦愛を完全なものにしてゆくには智慧が必要である。

知るべきことは知らなければいけない。

そのもっとも知らなければならないことのいくつかを挙げてみることにしよう。

1・愛は光なり」

人類愛も自然愛も動植物愛も、親子、夫婦、兄弟姉妹、親戚間の愛も、職場愛も、朋友愛も、すべては大自然の営みと同じすべてを生かす光り、すなわち、愛の実現である。

とある宗教に入信している女性が、夫婦の営みを卑(いや)しいもの、不純なもの、心を堕落させる欲望だと思って夫婦生活ができないという。まったく歪んだ論理である。

愛はすべて善であるが、性生活を伴う夫婦愛だけは悪であるということはない。

性生活がなかったら、魂の乗りものである肉体をつくることはできないし、人類は破滅してしまうことになる。

人類が死滅することは天の心ではないはずである。

夫婦愛を完成してゆくのに夫婦の営みに対して後ろめたい思いを持つ必要はなく、いかにすればよりよく愛を実現できるかであろう。

そのためにはまず身体が健康でなければならず、その愛の実現の方法について夫婦でよく話し合い、お互いを理解することから始め、そのための豊かな知識を持つ必要がある。

2・すべてに対して常に感謝の気持を持つ

「つぶやく者の恋は成就しない」という諺(ことわざ)がある。

これは不健康をつぶやく人が健康になれないのが真理であると同様に、恋の不成就をつぶやく人の恋も成就しないことをいっているのですが、要は過去の失敗を嘆いてばかりいたり、不要な不安を言葉にしたり、思ったりしていては何事も成就しないということです。

常に不平の心を持って幸福を求めていても絶対に幸福にはなり得ないということだ。

十のうち九つ幸福で、一つ不幸だという人が、その一つの不幸を不幸だとして常に「自分は不幸だ」「自分は不幸だ」とつぶやいていると、九つの幸福も消えてみんな不幸となる。

その反対に、十のうち九つ不幸で、一つしか幸福がないという人が、その一つの幸福を幸福だとして「わたしは幸福だ」「わたしは幸福だ」といっていると、そのうちに十とも幸福になる。これは心の大切さと、その仕組みをいっているものです。

お互いに相手のよい点を認めてほめ合うことである。

感謝すべき時に感謝しないと、そのうちに感謝すべきことがなくなる。

3・真の自尊心は人間が神の子であるという自覚から来る。

相手からいただく尊敬は、まず自分白身が自尊心を持つことである。これは驕(おご)りや傲慢(ごうまん)となれということではない。

自分を卑下したりあまり不必要に遠慮すると、そのうちに相手の愛を受け入れられなくなってしまう。

4・愛する人の自尊心を傷つけてはならない。

何気ない言葉のやり取りで相手の心を矢で射るようなことをしてはならず、このような人は自分自身の言葉い気づくことがないままに、同じことを繰り返している傾向にある。

特に寝室に入ってから、かねての不平をいい、相手の欠点をいい立ててはならないし、寝る前は、心を満たして休むことが大事であって、ネガティブなことを思ってもいけないし、言葉にしてもいけない。

5・性行為は、愛を実現する神聖な営み。

必要欠くべからざる大自然の法則、これが性生活である。したがって、相手に細心のいたわりをもって接し、かつ大胆にすればよく、不必要なためらいは一つになることを妨げる。

6・愛とは奪うものではなく与えるものである。

与えたのちに与えられるもの、これが愛の姿であり、性生活は、いかに完全に自分を相手に与えきるかを学ぶ最良のチャンスでもある。

その相手に与える方法についても紋切型にならずに、いろいろ工夫することが大事で、そこからまた楽しみも生まれるであろう。

7・性行為に臨んで、何か悪いことでもするようにおどおどする必要はない。

性を罪悪だと教えられたクリスチャンの中にはまるで罪人のように謝罪するような気持でいる人もいるのだが、それでは心からの愛、幸福は得られるはずがない。

夫が性的に臆病であり、あまりにもはにかみやであると、妻の愛はひらかなくなる。何故なら、妻の愛は夫の思いやりある積極的な行為によってひらかれるからだ。

8・女性は男性よりもロマンティックである。

ぶしつけに接触されることを好まないのが女性ということを男性諸氏は忘れてはならないし、やさしくいたわらなければいけない。

9・大胆でなければならないといっても羞恥心がなくなってはいけない。

妻は夫の愛を誘うほどほどの羞恥心は必要である。夫が強すぎて週に5日ではもう体がもちません、離婚を考えていますという40代後半の奥さまがいたが、夫は妻に過度の性行為を求めることはよくない。節度が必要である。性生活のルールが必要である。食欲をコントロールするように、性生活もコントロールする必要がある。

10・あり余るほどの性的欲求をもって、あたかも火山が噴火するように、自分だけ満足して妻を失望させる夫がいる。

夫から愛されても、その喜びを表現するのは罪であるかのように、唖のように最後まで黙している妻がいるようだが、こういう妻もまた夫を失望させる。

無用なためらい

男性は、自分の与える行為がどれだけ妻を満足させることができたか、その妻の喜びがかえってきた時はじめて満足するものであるから、夫の愛に応えてその喜びを表現することに無用なためらいは考えものであろう。

夫から見た妻への不満、希望、逆に妻からみた夫への不満、希望をまとめてみたが、その他それぞれに、夫婦で一番よい方法を工夫し、話し合い思いやることである。

家庭の不調和はどうして起こるか

家庭の問題として相談者が多いのは夫婦の問題、嫁姑の問題、親子の関係ですが、一言でいうならば、男性が男性としての役割を、女性が女性としての役割を果たそうとしないところから起こるといってよいだろう

この辺の事情を霊的な視点からみれば、男であって女らしい男というのは、過去からの輪廻転生の中で、女としての役割の勉強はよくしたが、男としての役割の勉強はまだ充分でないという人といえるだろう。

だからこういう男性は、男であるけれども女のように細々としたところにはよく気がつくが、男としてやらなければならないことがよくできないのである。

また女であって男らしいという人は、男としての勉強はよくやっているが、女として勉強がまだ充分でないという人であるから、男のような考え方、やり方はすぐやれても、ほんとうに女らしい心遣いが充分にできないということである。

自分は男らしい男か、男らしい女か、そして、自分は女らしい女か、男らしい女か、自分の個性を照らし合わせてみてみるのもいいでしょう。

だから男女は、過去世からの傾向性(業)に流されずに、男に生まれたら男らしくあることに、女として生まれたら女らしくあることに徹底する努力をしなければならない。

そのことを勉強して、自分の内にある神性仏性を自覚し、人間性を完成することになっているのですか、男は女らしさから脱却する努力をし、女は男女同権、男女平等の掛け声に釣られて、ますます女らしさを捨てて男性化し、男に負けまいとしてはいけない。

男女の役割をともに、生かしきったところに真の男女の幸福があるということです。

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