心磨き

何のために生きるのか?                                                  このような質問をいただきました。
よく人生80年といいます。その過程として平たくいえば人それぞれにいろいろな答えがあっていいと思います。
例えば、夢のために生きる。、目標達成のために生きる、生きがいのために生きる、仕事のために、会社を起こすために、経済的豊かさを達成するために、何かを手に入れるために、家族のために、誰かのために、人の役に立つために、社会に貢献するために、いろいろな経験をするために、生活をエンジョイするために、等々です。
これは一部ですがこれまで私が問いかけた方々からいただいた返事です。しかしこれらはみな人生のなかにおける過程なのであって対外的でもあり対象があっての自分の生き方になります。
何のために生きるのか?となると一人ひとりの違うテーマを超えた万民共通の人類共通のテーマがあると思うのです。
万民の共通課題として生きる意義となりますと大分様子が違ってくるのではないでしょうか。「何かのために生きる」と思える“何か”があればそれはそれでいいのですが、生きる気力がないという人の場合は事態も深刻です。
実は人間はみな心に支えが欲しいのです。
それが無いと、心がポッキリと折れてしまいそうだから。だから、そんな弱い心の支えになる何かが欲しい。そんな気持ちでもあると思うのです。
しかし、自分の外側に支えを見つけたとしても何かの拍子にそれが支えにはならなくなってしまう。それを絶望と表現できるかもしれません。
自分の外側に見つけておいた支えは、どんなことで失ってしまうかわからないのです。
それは人であったり、家であったり、お金であったり、資産であったり、地位であったり、名声であったりです。
しかしこれらはみな不安、恐れ、恐怖、絶望へとつながる最大の要素でもあります。
自分の外側に見つけた支えは、実はとても儚(はかな)いものです。外側の支えが失われても失われない支え、それが何かというと自分の内側に、自分の心の中に築かれた無私無偏の気づきです。
無私とは私心が無い事、つまり自我我欲のないこと囚われない執着しない心です。
無偏とは決して右にも左にも偏らない心のこと。無偏も無私も同義語です。
是非自分の心の中に支えを育ててください。その支えは自分自身の「魂」に刻まれて永遠に生きるでしょう。どのような逆境や災難に逢おうとも自分を見失わない心として。
但し無私無偏の気づきを魂に刻むには三つの実践がなされなければなりません。
知足つまり足ることを知って生活すること。
愚痴つまり不平不満を言わず生活すること。
怒りつまり自分の心に怒りの心を持たないこと。
人間は足ることを忘れると不満の心が出てくるから愚痴を言い、思うようにいかないと怒りだします。しかし、怒りは自分の心身も相手の心身も全てをぶち壊す破壊エネルギーです。
対外的に自分の外にだけ目標をもって生活をすることの危険性は自他をかえりみず突っ走ってしまうときがあるからです。
私たちはこの世に生をいただけた瞬間から自分の中に少しずつ、少しずつアコヤ貝が真珠を育てていくように、自分の魂を育てていかなければならないでしょう。
魂は、自分を取り巻く環境と人との関わりあいを通し、一生涯をかけて育まれ磨かれていくもの。この宇宙に存在していると言うだけで、その機会を得たのです。
その意味で人生における全ての事象は選択肢のひとつであり手段にすぎないでしょう。
とするならば自分は何のために生きるのか。生きねばならないのか。
            〝魂の向上の為〝
これは一個人の問題ではなく人類共通の最深の課題と受け止めたい。
80歳の老人が臨終の際にまで愚痴を言い死んでいく様は真に人生の生きる意味を深く考えさせられる。
『人の道の真を得ず よわい百まで生きるも 悟りて束の間生きるに値せず』観童         人生どれほど長く生きても心が平和でなければ本分を心得た短い人生にも及ばない。