養生
今年の3月11日東日本大震災が発生して以降、被災地の人々はもとより、日本国民全体が共感し、自らの精神も疲れ果てていったことでしょう。『こんな時期にこんなことをしていてよいのだろうか。被災地の人は食べるものも不自由しているのに自分はこんな贅沢な食事をしていていいのだろうか。』と。
心根の優しい人ほど心が折れてくる。そんな『心の津波』というものが全国に広がっていった。
国や行政は個人の暮らしの全てを守ってくれるわけではありません。学者や専門家の言葉も必ずしも信頼しきれるものでもない。もはや何かに頼って生きられるという時代ではなくなってしまった。
ならば自分の身は自分で守る。これまでの依存的な生き方はやめて自分の足で立って歩いていくことが迫られる。本当の意味で自立して生きていかなければならない。与えられた今日一日を生きること。今日を如何に生きるか。
生き方を考えると『養生』という言葉に行きつく。病の体を大事に養う事を養生と解釈するだろうが、私は人の生き方と解釈したい。その意味では世間でいうところの健康法とは意を異にするもので自らの身体と心からの声を聞くということです。生きる姿勢だと捉えます。
私は少し風邪気味かなと感じれば体を温めることと、温かい食べ物で回復を待つ方法をして風邪薬は飲まない。温かい飲み物で汗を流し翌日には体が軽くなる。これで十分です。体温計で計ることもまずない。
自分の身体の事は自分でよくわかります。心地よい方法を取り入れることが大事だ。自分自身の実感を大切に生きること。これが『養生』というものです。
人間には自浄作用としての本能というものが備わっているのです。
賞味期限が云々ではない。口にしてみて味がおかしかったら食べることをやめればよい。自分の感覚を信じることが大事でしょう。ここにも感性を磨くことの大切さがある。
数値や科学のデーターだけを盲信するのではなく、自らの感じることと、心に目を向けることです。
もはや頂上から眺望する時代ではなく山を降りる時
常に上昇志向できた社会風潮が日本のこれまでの営みであったことは周知のとおりです。 しかし、そんな時代は終わりました。悲しみを隠し、ただ笑っていることがいいことだと、そういう欺(あざむ)きはもうやめたほうがいい。
思わず涙が出た時『これじゃ駄目だ』と自分を奮い立たせる必要はないのです。
悲しみや苦しみと向き合い、それを受け入れながら体も心も調えていくことを考える時代でしょう。
常に希望に満ちあふれた社会や人生などというのは幻想であることを知らねばならない。 希望の裏側には絶望というものが潜んでいます。夜があるから昼がある。光があるから影がある。
希望と絶望は裏返しで存在するものです。延々と光に照らされた時間だけという人生などあるはずがない。同じように希望ばかりの人生もこの世界にはないのです。
高度経済成長という幻想の世界はすっかり消え去ってしまいました。頂上を目指して登っていくときは希望に向って歩を進めます。ひたすら登りつめるほどに周りの景色など見る余裕は無くなる。
しかし、登りつめた頂上にいつまでも留まることもできず、やがて下山しなければならない。頂上という希望に別れを告げて。
下山することは負けではない。そこには登るときに気づかなかった風景が眼下に広がっています。人生にも降りてみなければ見えない景色があるものです。
希望はこの世の現実世界のみにあるのではない。目に見える世界や手にとることのできる世界はそれができない世界の存在に比べたら地球と手のひらの土ほどの差があるだろう。
つまり体を養うに限らず心を養うことが『人間として本来の養生』ではないかと思う。
欲にまみれた人間の生き方は、そらごと、たわごとばかりで、そこに真実はひとつもない。と親鸞は言い残した。
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