男と女の愛・神聖な美の極致

自己主張男は愛されたいい生き物なのか、女は愛したいいきものなのか、いや逆じゃないのかという捉え方もあるかもしれません。

いずれにしても男は、男女問わず好かれるような素敵な男性であってほしいものだし、女は素直に受け入れるような人間であるほうがいいことはいうまでもない。

私はこれまで折に触れて「調和」という言葉を言ってきました。

日本最古の歴史書といわれています古事記では、調和することを「結び」「産(む)すび」と書いてあります。

男の子を「むすこ」女の子を「むすめ」と表現するのは、陰と陽と、男と女と、夫と妻というように、結ばれて産まれるから「むすんで産まれた子」ということで「むす子」「むすんで産まれた女の子」を「むす女」⇒というのであって、ただ単にそういう呼び方になったのでもなく、こじつけでもありません。

男女の肉体が、いまのような非常に完成された形を持っているのも、日本人の祖先は、初めから絶対的存在の意志であることを自覚していたということでしょう。

男が男の役目を果たし、女が女の役目を果たすことで男女の和合があり、夫婦があり、子孫の繁栄がある。

これが絶対的存在の意志による男女調和の原理であり、摂理だと思います。

人間は、みなこの原理によって、地上に肉体を持たれ、その原理に沿って人生を生きなくてはならないことは言うまでもないこと。

男性は男らしく勇気を持って積極的でありながらも決して傲慢ではなく、包容力をもっていることが正しいしことと思います。

女性はそれを受け入れるものですから、女性は女らしく男性をあたたかく受け入れる素直さ、やさしさ、包み込むような抱擁性、広さと柔軟さが、その本質ではないでしょうか。

こういった観点からすれば、愛の完成、結婚の完成についての男女の役割、為すべきことは決まっているといってもいいかもしれません。

「夫は与えて、妻は受ける」男女の肉体の違いもそのように創られています。

夫の愛、男の愛は、与えることによって完成されていきますが、妻の愛、女の愛は、ゆたかに「うけ入れる」ことによって完成されていくのではと思います。

但し、夫の愛、男の愛は、女が素直に受け入れられるものでなくてはならないことは言うまでもありません。

根本的には、女の愛、妻の愛が、ひたすら「うける」ことによって完成されていくという、この妙なる仕組み。

女が、妻が「愛する」ということは、実は、愛を「うける、うけ入れる」ということにあるという法則は人間のつくった法則ではなく、絶対的存在が人類の魂に仕組んだこと。

男女の愛は、ことさら何かをどうにかするというのではなく、男は与え、女はただひらいてうけること。

全身全霊を全開して与え、それを受けること。

男が与え尽くすことによってのみ、女は「うけつくすこと」が「与えつくすこと」であること、即ち、女にとって「愛を与える」ということは、実は「うける」ことであった、ということが、ここでわかるだろうと思うのです。

「うける愛」の方が、実は難しいということもわかります。

これは単に肉体だけのことではなく、心がそうならなければ意味を成さないというのが、本当の陰陽の原理であって「男と女の根本原理」だと思います。

世の中には男女、夫婦がうまくいかないというケースが多々あります。

男女、夫婦の間に問題が起こるのは、みなこの基本原理に反した心を持ち、行為をした時であって、例えば、男が男らしくなく消極的になって、男としての役割を果たすことをせず、女が女らしくなくなって我が強くなり、男をあたたかくうけ入れることなく拒否したとき夫婦の間は、精神的にも肉体的にも確実に不調和になっていきます。

男も女も、夫も妻もお互いの指摘をしていると結局、自己主張や傲慢さ、自我の奴隷でしかなく、決して和合することがなくうまくいくことはありません。

相手を指摘するより大切なのは、指摘している自分の心を客観的にみてよく知ることが先ですが、これがなかなかできないし、そこに気づけない人たちも多い。

男が男らしく、女が女らしくあることこそ、どちらもが幸せになる原理なのですが、男がいくら女のように振舞ったところで、また女がいくら男に負けまいとして対抗したところで、そこには無理もあり、男であって男でもなければ、女であって女でもないという人間がいます。

こういった状況になってしまうと、結局は調和して幸福になるという陰陽の完成から遠ざかるでしょう。

従ってここには平和もなく、心の安らぎや至福もなく幸せにも気づくことがない。

例えば、家庭の調和ということを考えてみると、残念ながら、子どもが病気がちであるとか、怪我したとか、火傷したとか、ノイローゼになったとか、非行に走ってしまったとか、子供の問題をひとつとってみても、夫婦の心の中に、不満や愚痴、軽蔑、傲慢というようなものが原因の一端であることも見逃がせないのです。

「いや、我が家はそんなことはない」とはいっても、見えない心の世界で思っている想念というものは、いくら表面上は取り繕った生活をしていても、現象化して現実のものとなってしまいます。

心の発するエネルギーというものは、私たちが想像する以上に強く働いているものであり、現象となって顕著に現れるし、また、これら子供の問題を、学校や文部省や警察や社会の対策として何とかしようと計っても、表面的なその場だけの解決だけで終わって根本解決になることは少ないようです。

「見えない心の世界」の心の想念から直していかなければ根本的解決には到らないということです。

ですから結婚とは、心と心の調和の上に立っていかなければならないものだということです。

形だけの上に立っている結婚はいつかは崩れます。

籍は一緒でも家庭内離婚と同じ状態では、お互いが心の成長ものぞめず、逆に業の上塗りをしていくことにもなります。

基本的に離婚は反対であり、奨めるものではありませんが、努力をしてもそれが空回りをしたり、改善されることもなく悪化していくならば、離婚もやむなしということもあります。

家庭という形のなかにしっかりとした心の光が入っていなければ家庭は暗くなり、やがては崩れていくことになります。

結婚とは、男と女の心の光の輪の中で成長していくもの。

結婚の結合とは陰と陽との調和された光の結合とも言えるし、そのなかで営まれる夫婦生活は、心して行う神聖な美の極致です。

人は自分を受け入れてほしいとは思うが、往々にして相手を受け入れることには心がいき届かないものです。

しかし、ここが要です。

先ず、受け入れたら、自分を受け入れてもらえることに気づかなければならないし、気づいたらそれを生活の中に行動していかなければ好転などしません。

このような単純明快な道理に気づけないで自分だけの思いを主張する時、もしくは「わかっているけど」と言いながら実践できない自我心。

そこにはいつも自我心が強い分だけ反作用が働き、男女の関係が円滑を欠いてきます。

これは男女だけの問題に限らず、社会全体の問題でもあります。

私たちの心も、限りなく自然の営みを見習い、それに沿った生き方をすることで男女、夫婦の調和に近づいていけるでしょう。

何故なら、自然の営みはそにまま真理であり、私たちはこの自然の法則のなかでこそ生かされる存在であると思うからです。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとクリックして頂ければ有り難く思います。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

お金の使い方で生かせること

okane-fusigi生活していくためにお金は欠かせません。

しかし、人間にとって重要なのは金もうけにあるのではなく、お金をどのように使うかだろうと思います。

先日、私のところに遠く県外から訪ねてきたご家族がいます。

このご夫婦には可愛いお子さんが五人おられたのですが、末の子はまだ赤ちゃんです。

大変悲しい出来事でしたが、先月はじめに2歳になる前の女の可愛いお子さんを事故で亡くされたばかりです。

その悲しみを理解し、受け止めることはできても、変わってやることができません。

気が狂わんばかりのやり場のない悲しみと、苦しみと、悔しさと、申し訳なさと、淋しさと、自分への怒りと、そして懺悔とのなかでご夫婦が苦しんでおられました。

亡くなった「愛しい娘に会いたい」、そんなお母さんがメール相談をしてきたことがきっかけで遠く岩手まで新幹線でおいでになりました。

ラストの時間でもあり、わずか一時間だけでしたがお話しを聞かせていただきました。

ご主人の心にも悲しみが溢れているのがわかります。

奥さまの心にも深い悲しみとお子さんへの想い、深い愛が涙となって頬を伝わっています。

私自身も涙をこらえることだけで精いっぱいでした。

お互い話し足りませんでしたが時間もせまっておりましたので帰られました。

帰り際にご主人が封筒を差し出しました。

お金が入っていることはわかっています。

私はこれまで、どのようなご相談に応じても1円たりとも頂戴したことはなく、丁重にお断りしましたが、結局、ご夫婦のお気持ちを察し、謝意をもって心付けを受け取ることにしました。

家に帰って封筒を開きましたら高額の10万円というお金が入っていたのです。

私の驚きと、申し訳なさと、ご夫婦の想いを感じ取り、感謝の心を私一人の懐にしまいこむ訳にはいきません。

考えた末、最終的に、後日ご夫婦の快諾をいただき障害者支援の福祉課に全額寄付することになりました。

奥さまの支えがあり、ご主人がご苦労なさって働いた大切なお金ですが、可愛い娘さんを失うことでこのような寄付をして社会に貢献することになろうとは・・・・・・・・。

しかし、代償は大きすぎましたが、Mさんご夫婦の心ある、立派なお金の使い道になりました。

当分のあいだは愛娘への想いが心を占領して苦しいことが続くことでしょう。

私は、このご夫婦は必ずや今の苦悩を乗り越えてくださると信じております。

何故なら、ご夫婦の愛がこれ以上ないほどに真実の愛であることが観えるからです。

このご夫婦のご相談に関してのメールのやり取りを後日、折をみてアップしたいと思っております。

お金に使われる人間

さて、今朝はお金にまつわる私たちの未熟な心について述べてみたいと思います。

「あぶく銭」という言葉があるように、お金があり過ぎることで堕落する人間もいます。

金を儲けることがうまいからといっても、全くその人の自慢にはならないし、また自慢するものでもないでしょう。

持ち得た金を正しくよく生かすということは称賛に値します。

そしてお金を儲けができないことや蓄財できないことも恥にはなりません。

それは中身の問題だからです。

蓄財に奮闘せずに、お金を活かし、人を活かし、自分を生かしている人もいますが、こういう人はやはり尊敬に値する光る心をもっているものです。

世の中には、お金のために生きているような執着した生き方をしている人もいますが、そのために今の生活をまったく楽しめないようでは、これもまた、いかがなものかと思うのです。

お金を貯めるため、何かを買うために、働き・節約することはいいことだと思いますし、働くことを楽しみ、節約しつつ生活を楽しめれば、なおいいでしょう。

でもいつしか、お金を中心の損得勘定が先立つような考え方になって、自分の心を大切にすることを忘れてしまうのは、何かしら人間として偏った観があって違和感を禁じえないところがあります。

そのようなときの人間の目には穏やかさがなく、燃えたぎるようなギラギラしたものがあります

物質的に豊かになることも恵まれた環境ではあるがイコール幸せなこととも言い切れない。

物はある程度あればよく、それ以上あると逆に心の豊かさは増えないような気がします。

むしろ、お金や物に拘りすぎる人と話をすると、いろんな場面で、その考え方に疑問を持つことが多く、心が豊かとは思えないし、何かしら寂しく思えて致し方がありません。

「お金がたくさんあれば幸せ」、「お金がないと不幸」という価値観こそが不幸の元ではなかろうか。

しかし、実際にはそういう風に思っている人もいるのですが、やはり幸せそうではない。

幸せを感じるためには、先ず、お金の使い方が大事だということでしょう。

自分の為にお金を使っての満足感はその瞬間だけ。

自分と家族が幸せになれるようなお金の使い方ができたら言うことなしだと思います。

立場によっては社員のためにお金を使う人もいるでしょうし、社会に貢献する人もいることでしょう。

ところが、お金が自由に使えないと不機嫌な夫や妻がいたら、それは未成熟な心だといえる。

そこには甘えの精神構造と、わがままがあるからだし、お金の面でも辛抱をする時期がなければ人間の心は育たないでしょう。

お金の使い方はいろいろあります。

私は今まで、やりたいことをやるための時間をたくさん買った、と思っています。

成功・高収入も有り難いことですが、その前に「いい仕事、幸せな仕事」、「喜んでもらえる仕事」にすることを心がけるのが大事だと強く思います。

そのためにも、業種ではなく仕事への情熱という取り組み姿勢が大事だし、その姿勢が自身を成長させ、やがて大きな成長へと導くことになると思うのです。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとクリックして頂ければ有り難く思います。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

ヒーリングと魂の医師

img世の中には、ヒーラーといわれる人、スピリチュアルカウンセラーという人、霊能者と名乗る人、気功師という人、スピ系のワークショップを開いている人、心理カウンセラー、こういったジャンルにおいて活動している人たちがどれほどの人数いるのかはわかりませんが、相当数いると思われます。

ビジネスとして行っている人たちも多いかと思いますが、なかには無償で多くの人々の心や体を癒し、無条件の愛を示し続けている人もいることでしょう。

ヒーリングはさまざまな手法があり、メンタル(精神面)部分をメインにアプローチする方もいれば、身体にアプローチする方もおり、そのレベルもまた幾重にも段階があり、決して一様ではありません。

ヒーリングを行う場合は、その人の魂のステージによって次元の異なった世界から協力してくれるガイド(指導霊)もまたステージが異なってきます。

このことは世界のヒーラーといわれるような人ほど「自分がやっているのではない。背後の協力者がいるからだ」という言葉を聞けることでも分かります。

つまり、癒しの現象は、自分の力によって成されるものではなく、自分は協力者のチャンネルにすぎないとしているところに注目したい。

巷ではヒーリングという言葉が独り歩きをして、その効果を期待するあまりに、何でもヒーリングを受ければ良くなるという拡大解釈をする人もいます。

気をつけなければならないことは、依存してしまうこと、させてしまうことです。

ヒーリングを受けると確かにエネルギーを感じるという人もいますが、このエネルギーが必ずしもクリーンなエネルギーとばかりもいえないところもあります。

その違いは何かというと、ヒーリングをしてくれる方の心の状態、つまり、精神波動がどういう波長(波動)なのかということに関係してきます。

なかにはヒーリングを受けた後から体調が悪くなったという人もいます。

こういう場合は、おこなう人の心のステージが低いということに加えて、邪悪なものが関わってきているという場合もあります。

もうひとつは、人を癒すという行為をしていくなかで、自分自身が汚染されたままでマイナスエネルギーを蓄積している人もいます。

自分自身をクリーンにできていないということでしょう。

ヒーリングをしていくなかで、少しでも名が知れてきますと有頂天になり、心に隙ができてしまい、油断がうまれる、こういった心の魔が波動を下げていきます。

ヒーリング、カウンセラー、霊能者、気功家、宗教家にというような真理の探究者?にとって、名声や、地位や、お金のためという気持ちが先立つことは心のあり方としては順番が逆です。

そういった意味ではお金や、地位や、名声などは罠だともいえます。

また、脚光を浴びることにも、心を乱し、波動を下げる危険性がはらんでいます。

人間は名声を得ることで、驕りや傲慢が心にできるということを知って、自らを律していかなければならないと思うのです。

特に、ヒーリングを行う人たちは魂の医師でなくてはなりません。

人々の痛みを和らげることと、自己発見の旅に関心を持っていて、旅立つ準備の心がある人々の手助けをすることでなくてはならないでしょう。

霊的な力だとか、高次なエネルギーだとかいう言葉ばかりを誇張してしまい、素直、謙虚、寛容ということをないがしろにしてはならないと思います。

人の心に関与し、自らは霊的知識や能力について学び、修養を重ねることには、常に大きな責任と危険がつきまとうものであると同時に、お金や名声や、地位が最大の障壁となることも悟らなくてはならないでしょう。

私も過去には霊的な危険に身を傷めた経験があります。

心身ともに無理は禁物です。

どれほど霊的に成長しようと、人間には最後まで欲望、慢心といったエゴイズムの誘惑がつきまといます。

そして知識や能力を持つほどに自他への影響力は高まり、間違って悪用した場合の自他へのダメージや負債はいっそう大きくなってしまいます。

現代は、色濃く物質文明の闇が影を落とす時代になりました。

そこに気づいた者から物質偏重主義の酔いから覚め、周囲を照らし、人々に手を差し伸べる、愛の実践者となっていかなくてはと思います。

暖かな心の炎を静かに燃やし、まわりを明るく照らせる、一つの灯台でありたいものです。

そのことがヒーリングではないだろうか。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとクリックして頂ければ有り難く思います。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

愛と怒り

コスモス『愛 闇夜の月のごとく 憎しみ 稲妻の 木を裂くが如し』観童

仲良く、睦まじく、そして楽しくしていた男女がお互いを知り、何かしら自分の価値観とのギャップを感じ始めると心が通えなくなることはよくある。

「愛情」が一瞬にして「憎しみ」に変ったりするというが、それは何も大人だけではない。

老いも若きも年齢にかかわりなく愛もあれば怒りもある。

子供たちのあいだでも、友情から怒りに変貌することがあるし、憎しみにまで至る場合もあります。

何故そういうふうに変わってしまうのだろうか。

いろいろな意味で「愛」と「憎しみ」は隣り合わせといえる。

愛することと、憎むこととどっちが苦しいのか。

それは人によって、おかれた状況によって違いがあるでしょう。

「好き」なだけの状況なら楽しくいられ、「憎む」だけなら、簡単だという考え方もあります。

色々な感情を一度に持つのが人間というものなのでしょう。

「愛している」から「憎い」ということもいわれます。

自分が愛する分だけ、相手からも愛して欲しいという感情はごく当たり前の欲求かもしれません。

しかし、実際は必ずしもそうはいかないから、苦しいということもあります。

「あなたにこれをあげる」ということをいいながら「あなたは何もくれないの?」では、もらうことを期待しながらあげていたことになるわけで、こうなると、交換条件といえなくもない。

私がしてやったのに」、「俺が働いた金で生活できるだろうが」ではあまりにも寂しくないだろうか。

ここに苦しみの原因が生じてきます。

愛する人を憎む自分と葛藤しながら苦しみの渦中にいる人もいるでしょう。

憎しみの気持ちはないが嫌気がさしたり、悲しみのなかに悶々とする日々の人もいるでしょう。

自分の愛する人が自分の思い通りにいかないことに悶々としている人もいます。

夫に対して憎しみを持っていた人が、逆に夫から去られる結果になった人もいます。

妻が夫に対してもっていた感情はそのまま自分に返ってきたケースです。

また、まれには憎しみから愛を取り戻すこともあります。

これは、憎しみによってお互いが傷つき、苦しい思いをすることの愚かさに気づき、和解しあえた場合のみです。

こうしてみると、愛も憎しみも一つの心から生まれる働きという意味においては、裏表の関係であって、別物ではないということもいえるかもしれません。

「愛」は相手があって育むものという意味では時間がかかりますが、しかし、それとは反対に「憎しみ」は、一瞬の怒りという自我感情で起こりうるので、与える影響は計り知れないものがあります。

別れるものあり、悲しみの淵に沈むものあり、奈落の底に突き落とされるものありです。

愛が相手に受け入れられない時、その愛が憎しみに変わるといいますが、これはその愛のあり方にも原因があり、身勝手な押し付けの想いであってはならないと思うのです。

愛と思っても、自己都合による押し付けや欲求は、冷めることはあっても、相手からすれば心が安らぐことはない。

こうしてみると、争いや憎しみは個々の持つ愛の違いから発生するもので、厳密にいえば愛に行き違いがあってはならない。

そして、本当の愛は、このような行き違いを超えたところに信愛寛容として在るものでありたい。

日々、いろいろな事情をかかえてくる人たちと向き合っていくなかで、教わることがたくさんあります。

生きるには、老いてゆくこと、病をすること、避けられない死があることは承知のとおりです。

そのなかでびがあり、りもあり、しみがあり、しみがありです。

宮沢賢治さんがいいます。                                      『悲しみは力に、欲ばりは慈しみに、怒りは智慧に導かれるべし。』

この短い言葉には、私たち人間が社会のなかで生きていくにあたって、忘れてはならないもの、気づかなくてはならないもの、学んでいかなくてはならないもの、そういったとても大切な根本的なことを示しておられます。

2011年の震災で失われた2万人近い命は、生存できた人たちにとっても、また全国民の悲しみを誘ったが、悲しみで終わることなく、その悲しみを力にして生き抜こうと決心して深い絆がうまれました。

人間は平和で豊かなときには手に余るほどに欲張ってはいても、崖っぷちの瀬戸際までくると他を思い、手を差し伸べるものです。

そんな光景にみえるものは、正に、人間がいただいた本性であり、誰の心にもある慈しみそのものを感じて心が温かい。

半面、火事場の泥棒、ということばがありますが、残念ながら人の災難に乗じて盗みを働くような一部の人間はどこにでもいますが、本当に心貧しい者たちです。

心がこのような人たちも、いつかは慈しみ、愛の心を持てる時が来ることを願うしかない。

欲張りが慈しみに変わることを。

人間関係は、どんなに怒ってみても、憎しみを以ってしても、それで事態が好転することはないでしょう。

憎しみによってお互いが傷つく前に智慧をもって気づかなければならないと思うのです。

『許すこと』も愛であろうし、如何にすれば事態が好転するのか、理性と智慧を以ってすれば必ずや妙案も出てくるし、お互いが心地よく生きて働けて暮らせることになります。

怒りは破壊のエネルギーでしかないということをこれまで何度も述べてきました。

「愛」には様々な形態がありますが、最終的には「他者を受け入れて慈しむ」、「押し付けは愛ではない」、「赦し」ということだろうと思います。

大事なのは、このような他者への愛の投射によって、自らも愛で成立している存在であるということが確認できるということでしょう。

「憎しみ」は「怒り」と「攻撃」の感情です。

これも是非は別にして、本来の愛とは、あらゆる点で反対の作用をする感情だと思います。

なぜ憎しみがうまれるのだろうか。

ひとつは、憎しみは、自分に「愛」が注がれていないことに気づいたいた時に発生する感情でもあります。

「憎しみ」は他者を破壊する感情であって、自らの存在を維持する為の他者に対する防御的攻撃ということができます。

しかし、この憎しみは相手のみならず、自分をも破壊していることに気づかなくてはなりません。

憎しみが本能的感情であるのは明白でしょう。

「憎しみ」は自己保存に原点があります。

憎しみは互いに憎しみを呼び連鎖するものです。

結果的にわが身に返ってくるということです。

愛が憎しみを生ずるというのは、執着心にほかならず、自己愛を本質とするからではないだろうか。

人間の心のなかにある愛、そして憎しみという煩悩、それらは武器を持ってわたしたち自身に襲いかかってくるわけではない。

それなのに、私たちはそれらのものを制御できず、知らず知らずのうちにその虜となり、憎しみの召使いとなって煩悩の命ずるままに動かされています。

いったいなぜだろうか?

これが自我感情の姿であり、執着以外のなにものでもないからです。

心に執着という重いものを持っていると、冒頭に述べた、闇夜の月明りの如く、目立たず静かに足元を照らしてくれる月の光にさえ気づけなくなってしまう。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとクリックして頂ければ有り難く思います。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

人類の理想的テーマ

愛これまで書いてきた記事は相当数ありますが、過去の記事をあらためて読み直してみると、訂正したいところもずいぶんあります。

今回はそういう記事の中からピックアップして部分的に訂正しながら、また付け加えながらアップしてみることにしました。

今後はこういう試みもときどき行っていきたいと思います。

大切な幸せ観

何のために生きるの?「幸せになるため」

それじゃあ幸せってどんなこと?「ん・・・・・わからない」となってくる。

本当はその人なりの価値観はもっているのですが、相談においでになった人に質問すると、こういう返事が返ってくることはよくあります。

同じ環境のなかでも幸せに思う人、そう思わない人の違いがあります。

持ち家、経済的余裕、欲しいものが買える、好きなものが食べられる、様々な贅沢ができる、等々、物の多寡によって幸不幸を感じる人たちもいます。

また、他から見て「あなたは恵まれているよね」といわれる人でも、当の本人は幸せに思えないという人もいます。

他人から見ると豊かにみえる生活をしているのですが、当事者にすれば悩みが多く、物の多寡の問題では済まされない状況にあるから、幸せなんか感じられないということでしょう。

幸せの定義はとなると、これといって決まっているわけではなく、尺度があるわけでもなく、それぞれが自分の心のなかで感じることであって、その感じ方は様々な条件のなかで千差万別だと思うのです。

悩み苦しむあまりに、自分は何のために生きているのかと自問自答することもあるでしょう。

個人個人が「何かのために生きたい」、「誰かのために生きたい」と思える何かがあるのは素晴らしいことで、そこに幸せを感じる人たちもいます。

相手の喜びを自分の喜びとできたら、これはまた素晴らしい「幸せ観」でしょう。

きょうは個人の幸せ感や、個人の生きる目的ということから更に一歩踏み込んで、人類の生きる目的というところまで考えてみたいと思います。

世界全人類共通の目的とでも言いましょうか。

個人の感情や価値観を超えた人類共通の理想的テーマと位置付けてもいいように思います。

ということで『自分は何のために生きるのか』から「人類は何のために地上で生きるのか」まで昇華して考えられたらと思うところです。

夢、目標達成、生きがい、仕事、何かを手に入れる、愛、家族、誰かのために、人の役に立つ、社会に貢献する、いろいろな経験をする、生活を楽しむ、等々。

こういうことを通して「幸せを感じる」という考え方もあり、生きる目的とする人もいますが、実はこれらは生きるというプロセスのなかで生じてくる手段であり価値観ではないだろうか。

人類が何の為に生きるのかという大きな共通目的を考えますと、しあわせの基本にある『心の成長』が生きる最大のテーマのように思うのです。

人は幸せを感じた時に、「幸せだなぁ。生きててよかった。生きているかいがある。これからも幸せを感じるために生きていこう」と思うこともあるでしょう。

幸福感、生きる価値・生きがい・喜び、こういったことは生きる励みになりますが、逆に辛いことがあるとき、試練のとき、悩み苦しみのなかにあるときも、生きる目的を見失ってはならないと思うのです。

ですから健やかな時も、病めるときも、そのことを通じながら、人生の大きな目的を心にもっていなければ、小さなことで気持ちが萎えたり、ものの考え方にブレが生じやすくなると思います。

私がこれまで話題にしてきたことでもありますが、人間は何のために生きるのか?

となると、それは『心の成長』魂のステージアップこそが人類のテーマとして、変わらぬバックボーンでなければならないということです。

人によって見方や感じ方が違うのは価値観の違いもあり、学びの違いもあり、育った家庭環境の違いもあり、習慣の違いでもあったりと、それぞれだと思います。

それぞれの立場で幸せを感じ、或いは苦悩し、その中で学ぶことも、気づかされることもたくさんあります。

それが心の成長つまりthe spirit(魂)の向上への要素でもあると思う。

働くこと、お金、学習と知識、遊び、夢、愛、悩み、仕事、全ての思いや行動が魂向上の糧になります。

物事に対するときの心のもっていき方は、随分と自分自身の行動や結果に影響を与えてきます。

働くために生きるとなると苦しくなりますが、願わくば働く為に生きるというよりは、幸せに生きる為に働きたいものです。

そして、お金の為に働く人が殆んどの世の中でしょうが、お金のために生きるとなると執着で潤いがなくなります。

ですから心構えとして、幸せに暮らすためにお金を得て使うという考えではどうだろうか。

ときどき子どもたちと話す機会もありますが、勉強するために必死になりながらも、親に叱られながら、そして自分自身も好きではない勉強を仕方なくやっている子もいます。

そういう子に伝えたい。

勉強するために生きるとなると殺伐として人情味も薄れてしまいますから、勉強するために生きるのではなく幸せに生きるために学べ。と。

若くて将来のある青小年たちの場合、大いに遊び、学んでほしいのだが、その遊びも遊びのために生きるのではなく、幸せに生きるために遊んでほしいと願うところです。

夢には老いも若きもないのですが、この夢をとっても然りです。

夢を実現するために生きるというよりは、幸せに生きるために夢をもってはどうかと。

人生には必ずついてまわるのが愛です。

しかし、愛を望むと自分が苦しくなるだけではなく、相手を追い詰めることになります。

ですから、愛されることを願って生きるより、自分の心が幸せを感じて生きるために人を愛したらどうだろうか。

愛されるために生きるとなると自分の我になるが、愛することで幸せに満たされ自分でありたいもの。

愛には押しつけもなければ、要求もなく、あるのは、ただ愛すること。

求めることが先にたつと男も女も、やがて心が離れるときがきます。

人生には艱難辛苦がつきものです。

悩みのなかに自らが没入してしまって日々を悶々として生きている人もいますが、悩むことに生きるのではなく、幸せに生きるためによく考えて生きたいものです。

ただ惰性のなかで生きるのは、生きるために生きているようなものですが、そうではなく、やはり幸せに生きるために日々を生きよと言いたい。

こういった人生のなかでおこる出来事は、幸不幸のすべてが目的ではなくプロセスではと思います。

何のプロセス?

勿論、魂のステージアップのためです。

輪廻転生然りです。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとクリックして頂ければ有り難く思います。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

気づかいと信頼

会話「信頼」という言葉があります。

文字通り、信じて頼ると読めますが、しかし、一方的に頼るだけでは、信頼には成りえない。

自分が頼られるだけの人間性や人格というものを相手にも認めてもらわなければそれはないと思うのです。

つまり、お互いが相手の身になって、頼る気持ちや、相手に対する心づかいを示さなければ信頼は生まれてこない。

心づかい、つまり、相手をいかに気づかうか、その気づかい方の深浅が信頼関係の度合いにもなってくる。

基本的には、相手を気づかえば気づかうほど信頼は深まるということかと思います。

但し、ここで気をつけなくてはならないこと、それは気づかいと、余計なお世話とをちゃんと分別することです。

勿論、タイミングということもあります。

相手が忙しくしているさ中に全く場違いな気づかいをしてしまうと、余計なお世話にもなりかねないからだ。

本当に嬉しかった気づかいというのは案外あとでわかる場合もあります。

それは押しつけでもなく、余計なお世話でもなく、さりげなくおこなわれたことだからでしょう。

うまくいってない時に、ちょうっとだけ横から流れをつくってあげるようないたわりもいいですね。

自信を失っているときに場を和らげたり、少しだけ優しい言葉をかけてやるとか。

人から受ける気遣いは、本当に小さな何気ないものでも、してもらったほうにすれば、嬉しくなるものでしょう。

職場でも、学校でも、電車の中でも、家庭のなかでも、いつでも、どこでもです。

気遣いは、相手にとって望まれるもの、そして、負担とならないものというのがポイントになるでしょう。

相手を褒めること、笑顔を忘れぬこと、周囲の観察、こういったことから気づかいが生まれてくるものです。

但し、無理な気づかいはかえって場を気まずくしたり、自分が疲れることにもなりますからその点は気をつけなくてはなりません。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとクリックして頂ければ有り難く思います。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

魂は試練のなかでこそ大きな光となる

201507291800001a8

苦しみを超えるために

人は皆、自分の人生を開いていきたいと思っていることでしょう。

このブログを訪問してくださっているあなたの願いがあるとするならどんなことだろうか。

人によってそれぞれの思い、願望があると思います。

病んでいる人にとっては何よりも健康になりたいと願うでしょうし、お金に困窮していればなんとかして今の暮らしを楽にしたいと願うでしょう。

私の治療院においでになる人たちは皆、体の痛みや凝り、シビレ、頭痛、片頭痛、めまい、病気の早期改善を願い、健康を取り戻すことを願いながらおいでになります。

加えて精神的に苦境にある人、人間関係につまずいて悩み苦悩する人、子どもの不登校、家族のことで悩む人、鬱状態に陥っている人、人それぞれに誰もが悩みを抱えて相談にみえます。

こういった問題は当事者にとってはとても辛いものであることは間違いありません。

苦しい思いをしている人に鞭を打つつもりはありません。

しかし、生きることのなかで特別解決しなければならない問題もなく、チャレンジするような目標もなく、また超えていかなければならない課題もない生活には、人間の心の深奥に秘められた神性が目覚める機会は少ないでしょう。

誰も好き好んで悲しみを求め、苦しみを求める者はいませんが、しかしこの悲しみも苦しみも、私たちが内在している神性を目覚めさせるためにはむしろ最大のチャンスであります。

言い換えるなら、苦況が進歩のチャンスということです。

私自身のこれまでの人生も然り、何一つとして偶然というものが無く、すべてが自分が為した通りの結果がついてまわるという、大自然の法則と変わることのない不変絶対の法則によって生かされてきたことに気づかされます。

人間は内面的なことを大切にし、その内面に目覚めた時、これまでに理解できなかったことが徐々に理解できるようになります。

私たちは何を恐れ、また何故に天の意識を信じようとしないのでしょうか。

人間は小宇宙ともいいますが、宇宙の一部なのにその宇宙を支配する絶対的存在になぜ心を向けようとしないのか。

あらゆる不安感、恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って絶対的な大宇宙の意識に連なる法則に沿って生きるとき、様々な問題が解決されていきます。

自然の姿のなかにある営みを我が心とすること。

自然な営みとは大宇宙の心です。

混乱のなかに自分を見失いそうになったとき、山野に身を置くと心が洗われます。

山野には営みが溢れており、流れがあり、囚われがなく、執着がなく、ありのままで滞りがありません。

人間の心もそうありたいものですね。

そうすればごく自然に宇宙の意識が私たちの心を通して偉大な力となって発揮されます。

Pleiades_s

地上の星

大自然に沿った意識を大切にしてくると、やがて心はこの世的な価値観が薄れ、精神的な充足感を大切にするようになってくるものです。

そして、不安感が薄れ、恐怖心もなく日々の生活ができ、悲しみ、苦難にも必ずや天の協力があることを実感できるようになってきます。

私たちは苦難にも悲しみにもくじけてはなりません。

何故なら、心の力はどのような物の力にも勝るからです。

心の力、尊さを知った者を何人なりとも傷つけて侵すことはできないでしょう。

ですが、不安感や恐怖心こそ人間が健康に暮らす為、心安らかに生活する人類最大の敵であることは忘れてはなりません。

いつも感じることですが、相談者の心には常に不安感や恐怖心があります。

恐怖心は人の心を蝕(むしば)みます。

恐怖心は理性をくじき、人間を弱くしてしまいます。

恐怖心は苦難を克服させるための力を打ちひしぎ、無力にします。

心を乱し、感情が不安定になり、理性を欠き、調和を破壊し、動揺と疑念を呼びおこします。

恐怖心は無知と肉体的安全への執着と、未知未来への不安などから発生しますが、つとめて恐れの念を打ち消すための心の調和を学ばなければなりません。

心が調和されてきますと私たちの魂は地上に光る星となってお互いを照らすでしょう。

心の力

それは宇宙大自然の意識とつながるものであり、絶対的な叡智であり、絶対的な愛でもあります。

私たち背後には宇宙大自然の絶対的意識があり、この意識は人間のみならず全ての存在の背後に絶対的影響力をもって存在せしめています。

何度も言ってきましたが、魂が鍛えられ、内在する無限の可能性に目覚めるのは、苦難の中においてこそです。

夜明け前に暗黒の闇夜があるように、心が輝くときも暗闇の体験がなくてはならないでしょう。

自分がいま心身共に苦況にあるとするならば、このような状況下で重要な事は、自分の為すべきことを忠実に、無駄を省きシンプルに、知識に翻弄されず、そして最善を尽くし、自分の心につながる宇宙意識と同調し、その意識に全幅の信頼を置くことです。

内なる覚醒を手にした者は、挫折も失敗も、試練も逆境も天の配材の一部であることを受け容れるでしょう。

陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、不二一体のもの、いわば硬貨の表と裏のような存在として働いています。

裏表一体であるということは、片方は欲しいがもう一方は要らない、というわけにはいかないのと同じように、人生の禍福も選りわけて手にすることができません。

人間の場合は、魂の進化向上のために、表と裏の体験、つまり成功と挫折、試練と順境の双方を体験するように仕組まれた法則の中で社会生活があります。

私たちにはいかなる時も学びが基盤です。

恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、せっかくの調和された自分の内なる霊性、神性を粗雑で荒い波動に降下させてしまいます。

私たちの守護・指導霊たちは、私たちの信念と平静の霊域の中において初めてコンタクトすることが可能となります。

反対に、恐れ、疑惑、不安、こうした邪念は正しき霊界の住者が地上人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。

太陽が燦々と輝き、やることなすことが順調で、お金にも不自由がないときなら天に感謝するのは容易かもしれません。

しかし真の意味で天に感謝すべき時は、辺りが真っ暗闇の時であり、逆境にいるときであり、大切な気付きをいただいたその時こそではないだろうか。

私の知人には、ガンを患いながらも自分はガンと共生しながら、ガン友たちの求めに応じて自身の身を粉にしてヨガを指導している立派な女性がいます。

自分の拘りや執着によって精神を患い、体調まで悪くして社会に出られなくなる人もいれば、ガンを患いながらも自分の命を削ってその日を悔いのない生き方をする人もいます。

夜空を見上げれば月明かりが神々しく、満天の星も光り輝いています。

雨の日も、晴天の日も私たちの心を潤してくれるのは私たちの受け取り方にあります。

人間は上ばかりをみつめ、目指し、探すのですが、光り輝く星は空にばかりあるのではなく、私たちの足元、地上にもあります。

あなたが光り輝き、一人ひとりが光り輝いたなら地上もまた満天の星で満たされることになるでしょう。

きれいな花が咲くにしても、養分がそろっていても太陽と水がなくてはなりません。

人間にとってのその光り輝く条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、試練であり、逆境であり、暗闇の体験です。

だが何も心配することはありません。

この暗闇さえも一点の光によって消え去るからです。

一点の光とは、あなた自身の心の内にある光のことであり、その光はあなた自身が一切の執着、不安、恐怖心、驕りから離れたときに自ら発する魂の波動エネルギーそのものです。

何もかもがうまくいき、鼻歌まじりののんきな暮らしの連続では、心に潜在する神性の開発は望むべくもありません。

だが、試練、逆境のなかにおいても決して諦めてもならないし、卑屈になってはいけない。

困難と努力の末にいったん霊的智慧に目が覚めると、その時からあなたはこの宇宙を統べる意識と一体となり、その美しさ、優しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮しはじめることになるでしょう。

それこそが愛であり、慈悲であろうか。

このように目覚めた霊的な智慧と能力はもう二度と失うことはありません。

それを機に4次元世界との強力なつながりが生じ、必要に応じて4次元世界から力なり影響なり、インスピレーションなり、真理なり、光を引き出せるようになります。

これは自分の魂が進化向上したその分だけ自由意志と権能が与えられます。

だが忘れてはならないことが一つだけあります。

それは責任です。

愛をもって成すか。

邪心をもって成すか。

因果は巡るという真理を胸におかなければならないということです。

霊という言葉の本質である意識エネルギーは物質に勝ります。

意識エネルギーこそ全てを造り出す源泉です。

なぜなら、意識エネルギーは生命そのものであり、生命は意識エネルギーそのものだからです。

光すなわち生命

光すなわち愛

光すなわち力

光すなわち勇気

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとクリックして頂ければ有り難く思います。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ にほんブログ村 哲学・思想ブログへ