男と女の愛・神聖な美の極致

2020年3月7日

男は愛されたいい生き物なのか、女は愛したいいきものなのか、いや逆じゃないのかという捉え方もあるかもしれません。
いずれにしても男は、男女問わず好かれるような素敵な男性であってほしいものだし、女は素直に受け入れるような人間であるほうがいいことはいうまでもない。
私はこれまで折に触れて「調和」という言葉を言ってきました。
日本最古の歴史書といわれています古事記では、調和することを「結び」「産(む)すび」と書いてあります。
男の子を「むすこ」女の子を「むすめ」と表現するのは、陰と陽と、男と女と、夫と妻というように、結ばれて産まれるから「むすんで産まれた子」ということで「むす子」「むすんで産まれた女の子」を「むす女」⇒というのであって、ただ単にそういう呼び方になったのでもなく、こじつけでもありません。

男女の肉体が、いまのような非常に完成された形を持っているのも、日本人の祖先は、初めから絶対的存在の意志であることを自覚していたということでしょう。
男が男の役目を果たし、女が女の役目を果たすことで男女の和合があり、夫婦があり、子孫の繁栄がある。
これが絶対的存在の意志による男女調和の原理であり、摂理だと思います。
人間は、みなこの原理によって、地上に肉体を持たれ、その原理に沿って人生を生きなくてはならないことは言うまでもないこと。
男性は男らしく勇気を持って積極的でありながらも決して傲慢ではなく、包容力をもっていることが正しいしことと思います。
女性はそれを受け入れるものですから、女性は女らしく男性をあたたかく受け入れる素直さ、やさしさ、包み込むような抱擁性、広さと柔軟さが、その本質ではないでしょうか。
こういった観点からすれば、愛の完成、結婚の完成についての男女の役割、為すべきことは決まっているといってもいいかもしれません。
「夫は与えて、妻は受ける」男女の肉体の違いもそのように創られています。
夫の愛、男の愛は、与えることによって完成されていきますが、妻の愛、女の愛は、ゆたかに「うけ入れる」ことによって完成されていくのではと思います。
但し、夫の愛、男の愛は、女が素直に受け入れられるものでなくてはならないことは言うまでもありません。
根本的には、女の愛、妻の愛が、ひたすら「うける」ことによって完成されていくという、この妙なる仕組み。
女が、妻が「愛する」ということは、実は、愛を「うける、うけ入れる」ということにあるという法則は人間のつくった法則ではなく、絶対的存在が人類の魂に仕組んだこと。
男女の愛は、ことさら何かをどうにかするというのではなく、男は与え、女はただひらいてうけること。
全身全霊を全開して与え、それを受けること。
男が与え尽くすことによってのみ、女は「うけつくすこと」が「与えつくすこと」であること、即ち、女にとって「愛を与える」ということは、実は「うける」ことであった、ということが、ここでわかるだろうと思うのです。
「うける愛」の方が、実は難しいということもわかります。
これは単に肉体だけのことではなく、心がそうならなければ意味を成さないというのが、本当の陰陽の原理であって「男と女の根本原理」だと思います。
世の中には男女、夫婦がうまくいかないというケースが多々あります。
男女、夫婦の間に問題が起こるのは、みなこの基本原理に反した心を持ち、行為をした時であって、例えば、男が男らしくなく消極的になって、男としての役割を果たすことをせず、女が女らしくなくなって我が強くなり、男をあたたかくうけ入れることなく拒否したとき夫婦の間は、精神的にも肉体的にも確実に不調和になっていきます。
男も女も、夫も妻もお互いの指摘をしていると結局、自己主張や傲慢さ、自我の奴隷でしかなく、決して和合することがなくうまくいくことはありません。
相手を指摘するより大切なのは、指摘している自分の心を客観的にみてよく知ることが先ですが、これがなかなかできないし、そこに気づけない人たちも多い。
男が男らしく、女が女らしくあることこそ、どちらもが幸せになる原理なのですが、男がいくら女のように振舞ったところで、また女がいくら男に負けまいとして対抗したところで、そこには無理もあり、男であって男でもなければ、女であって女でもないという人間がいます。
こういった状況になってしまうと、結局は調和して幸福になるという陰陽の完成から遠ざかるでしょう。
従ってここには平和もなく、心の安らぎや至福もなく幸せにも気づくことがない。
例えば、家庭の調和ということを考えてみると、残念ながら、子どもが病気がちであるとか、怪我したとか、火傷したとか、ノイローゼになったとか、非行に走ってしまったとか、子供の問題をひとつとってみても、夫婦の心の中に、不満や愚痴、軽蔑、傲慢というようなものが原因の一端であることも見逃がせないのです。
「いや、我が家はそんなことはない」とはいっても、見えない心の世界で思っている想念というものは、いくら表面上は取り繕った生活をしていても、現象化して現実のものとなってしまいます。
心の発するエネルギーというものは、私たちが想像する以上に強く働いているものであり、現象となって顕著に現れるし、また、これら子供の問題を、学校や文部省や警察や社会の対策として何とかしようと計っても、表面的なその場だけの解決だけで終わって根本解決になることは少ないようです。
「見えない心の世界」の心の想念から直していかなければ根本的解決には到らないということです。
ですから結婚とは、心と心の調和の上に立っていかなければならないものだということです。
形だけの上に立っている結婚はいつかは崩れます。
籍は一緒でも家庭内離婚と同じ状態では、お互いが心の成長ものぞめず、逆に業の上塗りをしていくことにもなります。
基本的に離婚は反対であり、奨めるものではありませんが、努力をしてもそれが空回りをしたり、改善されることもなく悪化していくならば、離婚もやむなしということもあります。
家庭という形のなかにしっかりとした心の光が入っていなければ家庭は暗くなり、やがては崩れていくことになります。
結婚とは、男と女の心の光の輪の中で成長していくもの。
結婚の結合とは陰と陽との調和された光の結合とも言えるし、そのなかで営まれる夫婦生活は、心して行う神聖な美の極致です。
人は自分を受け入れてほしいとは思うが、往々にして相手を受け入れることには心がいき届かないものです。
しかし、ここが要です。
先ず、受け入れたら、自分を受け入れてもらえることに気づかなければならないし、気づいたらそれを生活の中に行動していかなければ好転などしません。
このような単純明快な道理に気づけないで自分だけの思いを主張する時、もしくは「わかっているけど」と言いながら実践できない自我心。
そこにはいつも自我心が強い分だけ反作用が働き、男女の関係が円滑を欠いてきます。
これは男女だけの問題に限らず、社会全体の問題でもあります。
私たちの心も、限りなく自然の営みを見習い、それに沿った生き方をすることで男女、夫婦の調和に近づいていけるでしょう。
何故なら、自然の営みはそにまま真理であり、私たちはこの自然の法則のなかでこそ生かされる存在であると思うからです。
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