執着&進歩

怨み

Yお婆さん90歳と、Sお爺さん90歳の心にはいつも怒りがあり、こちらが具合悪くなるほど心の波動が荒く重い。

いつも些細なことで夫婦の争いが絶えず、口げんかしていた。

このお爺さん、若いときは地位もあり、給料も人一倍もらっていただけに裕福な暮らしをしていたのではあるが、おばさん同様、非常にワンマンで感情的になりやすく、起伏があり、お金を支払うような相手に対しては不必要なクレームを言い、非常に厳しく当たり、時には罵倒さえする。

人が成長するということ、またはそれにともなって良い方向に変わっていくということ。そのことについて、あなたはどのように理解しているのでしょうか。

右肩上がりにグングン成長していくことと理解しているのだろうか。

それとも、成長しては停滞し、時として下り坂を繰り返しながらいくつもの勾配を繰り返す山登りのような状態と理解しているだろうか。

人間の体は、生まれて一定の年齢まではグングンと成長の一途をたどっていくのですが、ある年齢を境に、体力も身体的な機能も緩やかに低下をしてきます。

いっぽう、私たちのというのは、必ずしも年齢に比例して成長するとは限りません。

それ故に、「なんだか成長が止まっている」「思うように変わっていない」と感じてしまうことも多いものです。

「何年も取り組んできたのに、何も変わらない」と自信をなくしてしまいそうなときはないだろうか。

そんな時、実は、私たちの心が変わっていないのではなくて、変わり始めている証拠でもある。

物事を冷静に観れる客観的視点を持っている人は心の成長が着実に進む傾向がみられますが、その出来事に対して感情移入が過ぎてしまい、そのことを引きずる傾向にある人は、物事の実態や真意というものを観ることができにくい。

感情の起伏によって自分を見失いやすい人は、年齢を重ねてはいても心の成長が遅いし、成長そのものがみられない場合が多いものだ。

心が成長している人とはいえないだろう。

それでは心の成長というものどのようなものだろうか。

心の成長は、身長や体重のように、可視化できるものではありませんが、人間にというものがある以上、常に変化していくものであることはお分かりいただけると思います。

 心は本当に成長するものなのか。

成長もすれば、退行する事もするし、止まってしまう事もありますが、これは本人の器質的ものもあり、これまでの得た知識や経験による価値観というものが左右してきます。

つまり、その方々の人生経験・心の軌跡によるでしょう。

「“亀の甲より年の甲”」という言葉がありますが、これはただ単に年を重ねた物知りを意味するのではなく、経験も豊富で心が豊かに成長した大人を称えて表現した言葉と思う。

その意味において、人間は人生を終える瞬間のその時まで成長するものであるということです。

辛抱

辛抱する事も、心の成長に欠かせないひとつの条件です。

辛抱しなければ、仕事も覚えませんし、技術も身に付きません。

社会的なルールも辛抱がなければ成立しませんし、調和も取れません。

欲望に振り回され、我を通す事だけに固執したら、仏教でいう“餓鬼”状態で、社会は機能しません。

しかし、心に不満を持った我慢のし過ぎで、自分に負荷をかけすぎて、心を壊しては、元も子もありません。

辛抱する時はする、だが必要な時は自分の意見をなるべく穏やかにきちんと伝える、といったバランス感覚・融通をきかせる事も、重要になってくる。

心の成長は、柔軟性、寛容性、肯定感というかたちの心の有無、高低によっても推し量ることができるものです。

時間より、深さ

 とても難しい問題ですが、私たちの心が変化をするにはどのくらいの時間が必要か、ということを考えてみましょう。

私自身が体験した心の変化でご紹介するならば、心の勉強を始めて、「変わったかも」と実感するまでに1年ほどかかったように思います。

そして新しい心の環境に慣れるまでには、おおよそ3年くらいかかった気がしますが、これはあくまでも、私のケースですから、もっと早い時期に変われて成長できる人もいるかもしれませので、あまり参考にはならないかもしれません。

ここでいう新しい心の環境というのは、一言でいうと価値観の変化といってもよいでしょう。

例えば、

今まではお金に対する欲求が限りなく強かったものが、「贅沢をできなくても生活ができているからそれだけでありがたい」

人に何かしてあげたら、感謝の言葉であったり、何かを期待したり、見返りとしてのしるしを望む気持ちがあったものが、「何も望まず、求めず、期待せず、考えもせず、したことを忘れている」

人から厳しいことを言われたり、批判されたりすると、感情的な気持ちがこみあげて怒りになっていたことが、「忠告をありがとう、自分の何がまずかったか省みる、心磨きのチャンスだ」

以上のように、足ることを忘れない、見返りを求めない、自分を省みる、たったこれだけのことですが、毎日の生活の中で、いつもこのことを心に置き、実践してきました。

しかし、この簡単な三つの事柄と思われるかも知れませんが、頭で理解することは簡単でも、それを日々の生活の中で行うということは容易くはないのです。

聞くと見るとの違い、理解と行いの違い、理解と悟りの違い、これらが自分の思考、価値観、言動となって、いざというときに表れてくるからごまかしようがありません。

足ることを忘れない、

見返りを求めない、

自分を省みる、

この三つの行いが心に落ちている人は、いつも心が穏やかで、安らかで、物事に対して執着しなくなり、多少の事ではぶれなくなって、冷静な判断ができ、失敗することもなくなってくるものです。

ここで投稿日: 930日、 『人間のエゴ』で述べました9項を再び下記に引用します。

1・自分の名前や家柄に傷がつくなどと、常に考えている人。

2・人から称賛されることを望み、満足して、それを期待する人。

3・忠告に対しては感情的になり、怨みの念を持ち、報復を考える人。

4・経済力で人々から尊敬されようとし、過信し、その心の行為に調和がない人。

5・いつも誰かに愚痴をこぼし、誰彼の区別なく批判の口調で他人を裁いている人。

6・言葉に優しさがなく、家族や他人に対しても、言葉でグサッと刺しても気づけない人。

7・常に自己中心的にものを考え、目先のことにとらわれて物質経済がすべてだと、物と金に固執する人。

8・他人を信じることなく、自分を信じさせようと金品を使ってつなぎ止めようとする人。

9・他人に裏切られると恨みを持つが、自分は他人を詮索し、裏切りを平然と行なう人。

このような人は、心に安らぎがなく、いつか近親者からも不信の念を持たれるようになり、最後は孤立してしまう。

足ることを知らない心貧しき者、とはこのような人々をいうのである。

と、ここまでが引用です。

私たちの生活の時間は肉体寿命という意味において有限のものですが、心には時間軸がありません。つまり無限の継続ということです。

身体というのは年齢に比例して成長し、やがて加齢と共に緩やかに下降しますが、心の成長には年齢制限が無いばかりか、成長に必要な時間にも定量というのがないのです。

心は器であって、無限大に深く、広く拡大する機能が備わった光であります。

その心の成長にもっとも関わりが深いのは、時間ではなく深さです。

一つのテーマでも、どれだけ深く自分の心と向き合うかによって、心の変化のスピードにも、その度合いにも大きな違いがあります。

そういう意味では、確かに「一瞬で変わる」こともできるのかもしれませんが、変化が大きいほど、「慣れた環境に戻ろう」とする反作用という心の働きも強くなります。

正しく調和された変化であるなら、それが持続しなくては成長したとはいえません。

ですから、たとえ瞬間的な変化を経験することができたとしても、それを何度か繰り返しながら、私たちの心は新しい環境に馴染んでいくのです。

相者と対面したりメールでやり取りをして観えてくることは、進歩する人はアドバイスを受け止めることに真摯に向き合い、それを深堀りしますが、堂々巡りの人は、アドバイスに耳を傾けず、深く思考することもなく、素通りして心に残すことも、行いもありません。

心に深く向き合う、ということは時として大きな負担となることもあります。

焦らず、弛まず、少しずつでも向き合っていくことが大切。

あきらめて途中で降りることをしなければ、着実に登っていくラセン階段なのですから。

※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝いたします。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ