素直な心と私心
何のためらいもなく、してやったぞ、という心もなく、お年寄りに手を貸して立ち去ったご婦人の光景をみてこちらも心がホッコリとした。
素直な心というものの一つには、自分だけの利益や欲望に執着しない、私利私欲にとらわれることのない心、いわゆる私心にとらわれることのない心があげられる。
一般的にいって、私心とか、私利私欲を求める心というものは、程度の違いがあるものの人間が生きているからには当然あるものでもあり、慟くものでありましょう。
「私心」とは、 自分一人の利益を図る心。利己心。私的感情をいう
私心が全くない、というような人間は、いってみれば俗事を超越した神仏の如き聖人であって、私ごとき凡人がそう筒単に到達し得る境地ではないと思います。
やはり、一般的には、それなりの私心をもって日々の生活を営み、活動を続けているのが、人間の姿といえるのではないだろうか。
またそれはそれで否定するものでもありません。
けれども、問題は、その私心にとらわれ、私利私欲の奴隷になってはならないということです。
私心に囚われて物を考え、事を行なうということになると、やはりいろいろと好ましからざる諸問題ががおこってくるでしょう。
例えば、政治の交渉にあたる人が私心にとらわれて、自分にばかり都合のいい政治を行うとすればどうなるか、そういう姿勢からは国民の多くがいろいろな迷惑をうけ、多大の損害をこうむることにもなりかねません。
そしてその政治家自身にも、国民の支持が失われるなどの大きなマイナスとなってハネ返ってくることになります。
またなにか一つの商売をする場合でも、私心にとらわれて商売をしたならば、他に損害を与えても自分だけ儲けたらそれで良し、などといった悪質商売に陥り、世間に大きな迷惑を与えかねません。
それはやがて自分自身の信用を傷つけ、みずから墓穴を掘ることにもなりかねない。
やはり商売というものも、世の多くの人びとを相手に行なう利他業であって、私心を優先して行なってはならないものだと思います。
けれども実際には、私心にとらわれるという姿は、世の中のあらゆる場面でたくさんあるように思われます。
が、そういう姿はたいていの場合、自他ともにマイナスというか不幸につながることになるものです。
特に、力ある者の場合、諸々の権力、武力をもっている者が私心にとらわれて事を行なっうと、その弊害は測り知れないほど大きなものにもなりかねません。
だから、素直な心になることが大切なのです。
素直な心になったならば、私心は働いてもこれまでよりも小さく、小さくなり、それにとらわれることなく、他の人びとのことも十分に配慮する、というような気遣いの心が働くようになるでしょう。
私心という囚われの心がなくなると、商売をする場合でも、自分の利益と取引相手なり、お客の利益を同時に考え、よりよきサービスを心がけてゆくようになるものです。
そういうところにこそ、商売の発展というものももたらされ、本当に世の役に立つ商売といったものが営まれていくでしょう。
このように、素直な心になれば私心にとらわれることなく、つねに自他共に、よりよき姿を実現するためにという基準でものを考え、事を進めてゆくようになると思うのです。
こういうことは、もちろん政治や商売の上だけに限りません。
お互いの日々の生活、活動のあらゆる面において、対人関係においても、また社会のすべての分野の活動の上においても、私心にとらわれない態度、行動というものは、非常に好ましい姿をもたらし、好結果につながるのではないだろうか。
利益を得ることに執心してしまうと、接客もえげつないものになりやすく、客はその押し売り的な接客に引いてしまうことになってしまいます。
商売も個人的な人間関係も、自己主張になるのではなく、先ず、謙虚に、そして素直に相手のことを思いやること、それが利他につながり、結果的に自分が生かされる道へと拓けていくのです。
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