アトランティス大陸からエジプトへの変遷

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メディアではいつも世界の戦争が報道されています。

国際政治の狭間で犠牲になるのはいつも一般民衆で、国民は誰も戦いを望んでいるのではないが、軍国思想や、一党独裁の国家が歩む道は、すべて権力者たちの意思によって国民に犠牲を強いている。

近年は日本海域を巡る日中間の領海問題、そして東、南シナ海においては、中国、台湾、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、インドネシア、ベトナムなどと摩擦を起こしている。

南シナ海の北部中国沿岸やタイランド湾を含む南西部には大陸棚が発達し、石油や天然ガスなどの資源が豊富だからだ。

近年になって、これらの資源や海洋資源の確保を巡って周辺各国の利害が錯綜(さくそう)しているが、日本海においても領有権を主張するなどの混乱が深まっている。

最近のウクライナ情勢における悲劇もまた世界の注目するところであろう。

そういったなかでも人類の進歩と調和をかかげる人の政治目標は、いつの時代にも、新鮮さを失うことはない。

なんとなれば「進歩と調和」は常に古くて新しい、革新とか保守といった思想を超えた、人類の願いがこめられているからではないだろうか。

ここで重視したい点は、調和ということ。

その調和も、一つの政治理念、経済理念を超えたところのそれ以前の調和、人間としてあるべき原点としての調和についてです。

人間としてのあるべき調和が実現すれば、人類の進歩は、現在のテンポ以上の速度をもって進むであろうし、世界の平和も期せずして達成されると思うからです。

そこで、人間としての調和はそれではどうあるべきか。

先ず、人間はこの地上の争いに我を失うことなく、大自然の姿に眼を向けなければならないでしょう。

その空間に点在する星雲、太陽、地球、そうして山川草木、空気、水……こういった自然の環境をぬきにして、人間の存在は考えられないことはこれまで何度も述べてきました。

大自然のなかに生きている人間。

大自然のほかの何に、調和するかであります。

大宇宙という空間、その空間以外は出られぬ人間。

こう考えると人間の在り方は、大自然の姿に合わせた生活、心の持ち方が人間としての調和の尺度にならなければならなないはずです。

すなわち大自然は、一糸乱れぬ法則のもとに、正しく運行されているのです。

不増不減

太陽の熱、光のエネルギーにしても、地上の生物が生存するのに必要な適温をもって放射しており、空気にしろ、水にしろ、いくら使っても減ることもなければ増えることもありません。

不増不減の姿です。

こうした大自然の姿を静かに眺めてみますと、そこには人智の及ばない、科学の及ばない大宇宙の意思というものの計らい、智慧、慈悲、愛が存在することに気づきます。

すなわち大宇宙は、その意思の胸の中で呼吸し、生きているということになります。

人間は、程度の差こそあれ、真・善・美を見分ける能力を持っています。

これを要約すれば、已自身にウソのつけぬ心を持っている、ということです。

それが良心であり、もっと深く説明するならば自身の心の内にある神仏の心です。

神仏の心とは、慈しみと愛の心です。

人間が五官や六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)にふりまわされてしまうために、本来の内にある神の子の已を失っているにすぎないのです。

闘争や破壊、血生臭い空気が地上を覆っている原因についても、人間が神仏の慈悲と愛の心を忘れ不調和であるからです。

この地上を平和にする、この地上を天国とする、この地上を楽園とするためには、神仏の子である一人一人の人間が、大自然という神仏の心、慈しみと愛に適う心を、素直に日常生活に現わしてゆく、行じてゆくことにあるのです。

したがって、人間の調和とはどういうことであるかといえば、慈しみと愛の心の芽を育てることにあるといえるでしょう。

そうして、進歩は、調和によって促されるものなのです。

なぜなら、調和は、神仏の無限の智慧が供給される光のパイプであるからです。

正しい教えの移り変わり

きょうは、この地上における人類の変遷(へんせん)を、過去一万年までさかのぼってみることにします。

今から約一万年ほど前、南大西洋にアトランティス大陸というのがあって、文明は非常に栄えていました。

信仰の対象は太陽にむけられ、人間の魂は、あの太陽のごとく、光輝くものであり、慈悲と愛の心こそ、人間としてのあるべき姿として、正しい生き方の法則が説かれていました。

その法を説いた一人の偉大な光の天使がいたのです。

その彼を中心として数多くの光りの天使が地上に降り、道を説きました。

現在、南太西洋には大陸はありません。

その当時の多くの天使たちを、時の為政者が葬ったからです。

天使たちを殺戮するほど彼らの心はすさんでいたのです。

その心根が非常に不調和な精神波動となって地球にまで悪影響を及ぼし、やがて大地震を起こし大陸を海に沈めるにまで至ったのである。

六千年の後、文化はエジプトに移ってきました。

そして今から約三千二百年ほど前、モーゼが現われ、人びとを救いました。

釈迦がインドに生まれるまでの約七百年間のある一時期は、地上界の意識は地獄と化していました。

略奪、強盗、殺人が幅をきかせていました。

釈迦が生まれる二、三百年前から、光の天使再誕による地上浄化の地ならしが行われ、やがてインドには釈迦が生まれました。

このときも、光の天使が数多く地上に生を得ているのです。

釈迦は、主として、慈悲を説きました。

このためイエスが約五百年の後に、イスラエルに生まれ、愛を説いたのです。

イエスが生まれたときも、その周囲に多くの天使たちが生まれています。

正しい教えは西から東に移りました。

すなわち、中国です。

イエスなきあとは、残念ながら信心信仰は他力にかわっていきました。

地上は闘争と破壊をくりかえしていたが、そんななかでも中国では天台智顎(ちぎ)が法華経を世に伝え、正しい法を、中国の地に復活させたのです。

ただこのときには、仏教もむずかしい哲学、学問とかわり、衆生を救うまでには至りませんでした。

天台智顎のあと、伝教が日本に帰化し、日本に仏教を樹立させました。

伝教の後は、やはり、他力が信仰の中心をなしています。

また、キリスト教においても、行いの教えではなく、祈りの宗教にかわってゆきました。

このようにして正しい法は現在に至っています。

正しい法は、過去一万年の間、このような変遷をたどり、イエス以降は、他力信仰が人類の生活に密着するようになってしまいました。

しかし、イエスも釈迦も、他力信仰を一度も説いてはいないのです。

また、地上人類の心が荒んで末法となると、ある時期を定めて、神の命をうけた光の天使が地上に生を得、道を説くのであります。

これまでの時代をみれば、このことは一目瞭然でありましょう。

また、正しい法の根を絶やさないためにも、こうした人びとが光をかかげ、人心を正しい方向に持ってゆかなければならないのです。

現代は、まさに、その時期に当たっているといえましょうが、先ずは、私たち一人一人が己の心を調えることからはじめていかなければならないと思うのであります。

次回は8月4日(月曜日)投稿の予定です。

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恋愛から結婚へ

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恋愛と婚前交渉

比較的倫理観のしっかりしていた日本でも、若者たちは出会ってすぐ挨拶代わりに交渉をもってしまうという感覚は、お湯を沸かしてインスタントラーメンをつくるに等しい簡単なことだという記事を目にしたことがあります。

今の時代は、それほど心が伴わなくても簡単にセックスに走る若者が多いというが、そうではない若者たちもいるだろう。

私のブログには若い人たちの訪問者も、そして独身の男女もおられることと思いますので、特にそういった若者たちには、今回の記載内容の真意を考慮いただきながら読んでもらえれば有り難く思います。

また、十代、二十代の子どもたちをもつ親御さんたちにも他人事にせず読んでいただければと願うところです。

今回とりあげた内容はそう簡単には掲載できないような課題やその内容となっているために、どうしても使わざるを得ないような言葉も表現、描写のために使いました。

その辺の意図を汲み取っていただき読み進んでいただければと思いますが、団塊世代の戯言かもしれません。

以下本文。

キリストは、夫婦とは神の合わせ給うものであるといわれました。

当然のことではありますが、男と女とは一対となって家庭を持ちます。

霊的な視点からすれば、「夫婦の縁」はあの世(天上界)で決まる。

がしかし、目先のことに目がくらんだり、その場だけの感情や欲望に翻弄されて本来の縁ではない、自分があの世で約束をしてきた相手とではない人と結婚するケースもあります。

結婚はとても深縁なものであり、どれほど遠くにいる相手であっても赤い糸によって引き寄せられ、巡り会い結ばれます。その意味では国際結婚も然りです。

この世での結婚は、天上界で約束して別々の所に生まれた二人が相寄って結婚するのですが、それまでに多くの人々が経験するのが恋愛である。

男と女とが、お互いを好きだと思うことも恋愛だとすれば、その最初の好きだという感情即ち初恋は保育園や幼稚園時代だといえないこともないが、結婚、性行為を含めて異性を意識する恋愛はやはり思春期になってからであって幼少期のそれとは違う。

フロイトが、人間のすべての感情は性が根底にあるが如きに結びつけようとしたことは賛成できない論ですが、しかしフロイトが発見した精神分析は、人間の意識の深層にある心理即ち潜在意識を解明し、その潜在意識を現在意識の表面に浮び上がらせることによって、それまで誰も気づかなかった 人々の悩みを解決するのに大いに役立っているのだと思います。

そのことは大きく評価し、学ばなければならないでしょう。

自分たちがこの世に生まれる前に、あの世で約束した二人が、この地上界で、誰が自分の半身であるかを互いに呼び 求め合って発する魂と魂が互いに呼び合い、同調する結合の感情、それが恋愛感情であろうと思うのです。

純粋な恋愛感情の中には、常に相手と一体となって幸福になりたいという願いが秘められているものではないだろうか。

思春期の人々の感情の中には、その人と結婚した場合にはどうなるか、その相手は、自分にふさわしい結婚の相手であるかどうかと意識する心と、遊び相手としてはよいが、結婚はしたくないという意識の両方があるようだが、またこのような思いを全くもたず、思い遣るという感情すらなく、ただ単に肉欲を満たすだけに暴走する男女もいるだろう。

こういった感情を、自分ではっきり意識して交際をしている人もあるが、自分でもその区別がはっきりせず、肉欲だけによる感情がそのまま暴走して性関係を持つという場合もある。

悲劇はそういう場合に起こる。

あるいは、肉体を求めて性関係を持ちたいという欲望が先走ってしまい、心に「愛」が無くても都合のいい言葉でごまかして性行為を求める者もいる。

その結果泣くのは女性側なのであって、女性は、自分にいい寄る男性の、愛だとか、好きだという言葉にごまかされないで、それは自分の肉体を求めているだけで、結婚は考えていないのではないのかと、鋭く見抜く知恵を持たないと、肉体を求められた結果、破たんして終わりということにもなりかねない。

婦人雑誌などには、婚前交渉は当然だの如く記事が多いようですが、これなどもあまりにも短絡的で偏りすぎの観があるように思われます。

結婚の約束をして、どうせ結婚するからいいじやないかといわれて身体を許した結果、とたんに結婚しないといわれて泣いたという女の人もいる。

少々硬い表現になりますが、恋愛と性欲は関連するものだが、性欲とは、性的快感を得んがために、お互いに抱擁し、身体を接触して、肉体的官能的興奮を得んとするもの。

だから性行為は、相手が異性でありさえすれば、相手の人格など全く無視して行なえる。ということも事実いえるのだが、これではあまりにも心虚しい限りでしかない。

これに反して、純粋な恋愛は、相手との性行為を考えない、もし肉体的な接触による性行為を考えると、そのことだけで自分を卑しい存在だと考えるほどに純化された「美的感情」であると思うのだが、読者の皆さんはどのようにお考えだろうか。

純粋な恋愛は、自分の魂と相手の魂とが完全に融合して一体となった神秘的な感情。

だから相手の肉体を見ても性欲の対象と考えることはしない。

相手の顔が、眼が、鼻が、口元が、身体全体が「美」そのものとなる。

他の人からは欠点と見られるようなものであっても、純粋な恋愛感情を持つ人にはすべてが美しく見えるのである。

いわゆる「あばたもえくぼ」となるのである。

恋愛の感情を持つと、その人を遠くから見ているだけで、相手のそばにいれば尚のこと、まして、互いに会釈し合い、ちょっと言葉を交わすことができればそれだけで無限の喜びを感ずるようになる。

正しい恋愛は、二人が結婚することが世界が幸福になるという感情を持つものといったら言い過ぎだろうか。

理想の感情移入としての恋愛をする人は、自分自身の理想を相手に移入する。

青年は処女の中に自分白身の理想化された美を見、処女は青年において自分白身の理想化された美を見て熱中する。

青年は相手の処女を理想の女性と見て、その理想の女性から、「この全世界の男性の中で、わたしがいちばん愛するのはあなたです」といわれたいと思い、また、「他のどの男性よりもあなたと一緒になることが幸せです」といわれたいと思う。

女性はまた男性に対して、男性からそのようにいわれ、そのように思われたいと思う。

お互いにそう思うがゆえに、純粋な恋愛をしている人々は、そのように理想の男性、あるいは理想の女性であるべく、自分の人格を高め、教養知識を深めることに努力する。

理想の人物、理想の生活のあり方を求めて文学を愛し、理想の美的感覚を求めて音楽を愛し、絵を愛するというようになる。

そのようにして、自分の人間性の向上を自覚し、その向上をお互いに認め合えるような恋愛は正しい恋愛であるが、恋愛という言葉によって、それがすぐ性欲に結びつき、お互いの人間性の向上が認められず、むしろその反対に低下、低卑の感情が伴うならばそれは正しい恋愛とはいえず、恋愛という言葉によって偽装された単なる野合にしか過ぎない。

こうした理想の感情移入は、本来は人間は神の子であるとの自覚から起こってくるものなのである が、心理学者達は神と霊魂の存在を否定しているのでそれを単なる潜在意識からといっている。

人間が理想を求めるのは、人間の霊(魂)そのものが神の意識を持つ神の子だからであると私は。信じている。

このような受け止め方、言い回しは私が団塊世代の古い人間だからということだけではないような気がしますし、男と女の純化された究極の恋愛感情だと思うのです。

プラトニックニフブ(片思い)

正しい恋愛には、はっきりした愛の対象があり、お互いにその愛を認識し合っているが、プラトニックニフブには、愛の対象とする相手はあっても、お互いに愛を語らうことはない。

ひそかに一方的にそういう感情を自分か持つだけで、相手が自分をどう思っているかはわからない。

そういう時は、相手をますます高く、清く、尊く理想化し、自分自身は、その前にいよいよ低く、卑しく、謙遜し、相手の前に自分を奴隷の如く見なし、相手の前に跪いて、相手のためにはどんな犠牲をも惜しまないというような感情を持ってくる。

こういう感情を持つ人が、結婚すると、妻をお姫様のようになんにもさせずに床の間に飾って置いて、自分はどんな苦労をしてもかまわないという感情を持ってくる人もいるのである。

「愛を惜しみなく捧げる」ということになるが、一方からいえば、「愛は惜しみなく奪う」ということになる。しかし愛は一方通行ではいけない。

プラトニックニフブ(片思い)は純粋で理想的な感情であっても、愛は与えるものであると同時に受けるものであって、豊かに与え、豊かに受けた時に愛は満足させられるのであり、プラトニックーラブは、自分が相手に思いを寄せるだけで、相手から受けることはできないということからすれば、最後は悲しみに終ることになる。

こういった経験もまた素晴らしいものです。

「悲恋」「失恋」の中にそれがある。

プラトニックラブも、正しい恋愛と同じように、自分の人間性を向上することには役立つが、相手からの反応が得られないことを悲しみと受け取らないだけの心の準備が必要でありましょう。

このプラトニック・ラブが他の異性と正式に結婚した後にも心の中に固着していると、現実の夫婦生活がうまくゆかなくなることもあります。

理想を追うことは必ずしも悪いことではないが、夢を追っている人が往々にして結婚生活が破綻する原因は、このプラトニック・ラブにあることも一因としてある。

心の中で理想的な結婚生活を夢見ていて、現実の相手をそのままに好きになり愛するということができないのである。

文学趣味の女性が、現実に徹しきれず、甘美な結婚生活を夢見て失望するのは、こういう心理状態を抜けきれないからでもある。

何ごとも極端から極端はいけない。

人生の意義は現実生活の中にあることを知らなければいけない。

宗教と恋愛

宗教の根源は、自分の生命の源である「無限に大いなるもの」に帰りたいという己の内なる意識にあるといっていいだろう。

これを「神との一体感を深める」という。

その延長上にあるのが、お釈迦様の大悟された「宇宙即我」だろうと思います。

一方、フロイトは敬虔な宗教的感情を持つ知識階級の人々に毛嫌いされた。

それは、フロイトが神・霊魂の存在を認めなかったために、人間の意識は母親の胎内で羊水に浮かんでいた時の意識以前には遡り得ないとして、人間の無限に大いなるもの、即ち神に帰りたいという意識を、人間は母親の子宮に帰りたいという願望を持っているといったからである。

生命は、そこ を通って出現しますから、人間の出世(この世に生まれてくる)の神秘を考える場合、当然そのことも考えないわけにいかないが、しかし、人間の意識を、母親の子宮の中にだけとどめて置いてはいけないでしょう。

宗教は、人間の心が神と一体となりたいという願望を満足させるためにあり、恋愛は、相手と一体となりたいという願望にあるのですから、宗教と恋愛は、一体となりたいという願望を持っているという点においては似ているといえる。

しかし、恋愛の場合やがては性的満足を通して肉体的にも一体となりたいという願望を持つようになるのに比して、宗教は肉体欲望を超えて、小なる魂と大なる魂とが、小さな生命と大なる生命とが、じかに一体となることを願望する点で違っている。

キリストも釈尊も、生命の本源である神仏に帰一することを忘れて、肉体的、物質的欲望のみを求める人間を、親の存在を忘れてさ迷う放蕩息子に譬(たと)えられました。

そうであるが故に、豊かな恋愛感情を持つ者は宗教を信じやすい傾向を持ち、そうでない現実主義者は宗教など信じない場合が多いものです。

しかし、現実には、生命の本源に帰一したいという願望を持たない現実主義者こそが、現世利益主義の誤まった新興宗教を信ずることになってとんでもない迷路に人生を翻弄させることになっている。

正しい宗教を求める者と、現世利益のみを求める者、或いはご利益主義の宗教との間には、霊(魂)の次元という気根の違いがあるのです。

調和した結婚生活

夢精、自慰行為に対するそれとなき罪悪感の影響

思春期になると、ある日突然甘美な夢を見て、夢精することがある。

この初めての経験に驚かない者はない。

この自然の生理作用に罪悪感を感ずる必要はない。

多くの場合、これは秘密として人が語らないために、夢精を経験した者は、それが自分だけのものであるかのように感じて、人に知られたら恥ずかしいという羞恥心と同時にそれとなく罪悪感を持ってしまう。

しかし、夢精は、ほとんどの男性が体験する生理的現象であり、オーガズムである。

夢精を経験すると、性器が衣服にふれて快感を感じたり、あるいは友達から教えられたりして自慰を覚えるようになる人が多い。

自慰を覚えるようになると睡眠不足になり、朝の目覚めが悪く、精神集中ができにくくなり、学校の成績が低下する者もおり、ひどく顔を気にするようになり、鏡を見る回数が多くなり、異性から注目されたいと思って服装にも気を使うようになる。

自慰は種族としての本能的自然な射出作用であり、決して罪悪ではない。

しかし、若さに任せて過度になると肉体的ダメージにもなりやすいので節制が必要となる。とはいっても若者にはこのような話しも効を奏するというものでもないだろう。

次回は7月31日(木曜日)に投稿を予定しております。

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生命を育む地球の科学と宇宙の神秘

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アフリカ大陸から大西洋におよそ500キロ、洋上では海からの恵みをいただく漁師たちの姿ある。

そこには雷雲がにわかに姿を現し、波のうねりが大きくなりだす。

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漁師は一刻も早く岸に戻らなくてはならない。

一年で最も暖かい時期に途方もない事が洋上で起きようとしていた。

海の水温が上昇し、表面海水温の臨界点の26度に達しようとする。

そうなると海水は急速に蒸発し始める。

太陽の熱光線によって暖められた海水は水蒸気となり大気中に上昇します。

水の力で形を変えたこのエネルギーが、アメリカ南部の人たちに大きな被害をもたらし、ハリケーンとなって地上の建造物を雨や風の力でいとも簡単に破壊してしまう

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地球は様々な条件が絡み合うスーパーシステムだ。

地球と言う仕組みのなかに大きく関わる太陽と海と大気の相互関係。

上空千メートルで水蒸気は雲となり熱を放出します。

周辺の大気の温度は、数度上昇する。

気温が上昇すると空気はさらに上空に運ばれ、強力な上昇気流が生れます。

雲は上空1万5000メートルまで運ばれる。

積乱雲は大きくなりながら、地球の自転によって渦を巻くようになる。

正に、大自然が創る巨大な発電所でもある。

やがて複数の積乱雲が集まる。そして誕生するハリケーン。

ハリケーンは大西洋を渡り、メキシコ湾に進入していきます。

そのエネルギー源は水温が上昇した海水だ。

太陽が海水を温めることでおきた現象が地上の人間に襲いかかります。

猛威をふるうハリケーン。時速200キロの風が吹けば鉄構造の建物でも紙のように簡単に捻じ曲げられる。

破壊が続く。家屋もバラバラになる。

熱を吸収し、放出することで起こす水の性質が為す人間にとっての災害という現象。

2005年8月29日、わずか12時間で5メートルの堤防を越えてきた高塩によって家屋の殆どが3メートルも水没し、ルイジアナ州の街は壊滅状態に陥り、数10万人の人たちが家を失った。

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被害にあった人たちは運命を呪うかもしれません。

ですが、この嵐をつくりだしたシステムによって全生命が守られているのも事実です。

自然界における気象の変化は常に一定のバランスを保つように仕組まれているのである。

ハリケーンは海水温が上昇し過ぎたときに熱を放出する働きをしています。

熱を地球上で再配分し、バランスをとる仕組みなのです。

この働きがなければ地球は破壊され滅びて生命活動が困難となるというより不可能となるであろう。

人間の身体も風邪のウイルスが侵入することで熱をだし、ウイルスを死滅させる働きがある。

したがって、人間の身体にも熱の臨界点があり、その範囲内であれば必ずしも抗ウイルス剤を服用することがよしとはいえない。

ハリケーンによって大西洋の温度は4度以上さがるとされています。

再び海は元の静けさと均衡を保ちます。

しかし、最大級のハリケーンでさえも地球の壮大なシステムのほんの一部にすぎない。

宇宙から地球を見下ろす人工衛星によって確認できる地球の壮大なシステムが地球規模でつながっていることが明らかになってきた。

目に見えない仕組みにこそ私たちが生きていられる秘密があるのです。

気温、気圧、電気量、大陸のわずかな移動までも人工衛星によって確認できる。

地球には肥沃な土地と痩せた土地があります。

09-message70-026月、インドでは集中豪雨が発生。

雨は一瞬にして道路を川に変えてしまう。

aufcbushfires-164q4ijその頃オーストラリア北部では、山火事が発生。

2934349b033b5bb564eebc8d36d3d539b600bc8c雲の下の上海では氷が降っていた。

このような現象が実はすべてつながっていることが宇宙からの観察で明らかになりました。

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地球を包みこんでいる大気の存在が大きく影響していることもわかってきた。

水蒸気が大気のなかで移動しながら変化していく。

世界の気候は一つの要素が引き起こしている。

殆どの水蒸気が生成されているのが赤道付近。

それは最も多くの太陽光が降り注ぐからです。

水蒸気

輪のように地球を取り巻く水蒸気。

この水蒸気は必ず北極と南極に向かって流れます。

その流れを引き起こしているのが季節風と地球の自転です。

水蒸気は北半球では時計回りに流れます。

巨大な水蒸気の渦が3000キロにわたって広がっていきます。

南半球では反時計回りに流れます。

地球は実現不可能な均衡状態を常に求めているかのように動いています。

水蒸気をふんだんに含んだ風が大地に触れる時、その土地特有の現象を引き起こします。

例えば、インド西部で毎年7月下旬に起きる現象。

暖かく湿った空気がガーツ山脈を噴き上がります。

そして巨大な雲が発生して起きるのがモンスーン。

空から降りそそぐ数10億トンの雨、干上がった土地を肥沃な大地へと変えます。

その雨が中国大陸の水田を満たします。

モンスーンの恩恵を受けるのは35億人。

世界の人口のおよそ半分です。

16-31対象的に世界の反対側では、チリ中部に向かって吹く季節風がアンデス山脈を越えようとしています。

ここは標高が高い事もあり、地上で最も乾燥した場所のひとつです。

20140221035401写真のアタカマ砂漠。

一度も雨が観測されていない場所もあります。

蒸気は命を育むために必要不可欠な要素。

しかし、これもまた複雑に絡み合った要素を構成する一つでしかありません。

大陸全体をも覆う旋風が吹き荒れる南極。

宇宙から見る地球には様々な極限状況が存在会います。

灼熱の赤道と極寒の極致の気温は70度以上の温度差があります。

この気温の差によって、空気と水が地球を巡ります。そして生命を育む目に見えないシステムを推進しているのです。

南極の冷たく暗い海の中、絶叫する南緯60度、そう呼ばれる地球で最も荒れた海です。ここでは嵐や吹き荒れる風によって絶え間なく海水がかき回されています。

これを引き起こしているのが赤道から南極への熱移動。荒波の下には地球全体に影響を与える秘密が隠されています。

アメリカの国土の1,5倍の広さがある南極。半年近く日が昇らない時が続き、冬場には気温が-80度にまで下がることもある。

地球上で最後の未開の地、南極は非常に過酷な環境にありますが、しかし、人間も住んでいます。それは南極の秘密を探っている科学者たちです。

人工衛星からのデーターに加えて、地球環境における南極の役割を解明するため現地で観測を続けているのです。

その結果、南極には特に寒くなる条件がそろっていることがわかってきました。

この極めて低い気温が全ての生命を育む仕組みの一端を担っているのです。

ジャングルれは数千キロ離れたジャングルにも影響を与えます。

地球の神秘と宇宙の意思

こういった地球の営みを観察すると、私達の住んでいる地球、大宇宙は、あらゆる生命物質を生み出しているところの源であることに気づかされるでしょう。

もしも地球や宇宙がないとすればどうなるだろう。今現在の私達の存在はないはずです。

大宇宙があって私達肉体人間が地球という場で生活しているのですが、しかしその大宇宙も、よくよく調べてみると、私達人間同様に物質と、それを支配する意識によって成り立っている。

光という粒子がさまざまに結合したり、離れたりすることによって空間や固体をつくっていますが、科学的には集合と分散の繰り返しです。

ここでも循環の法則が働いていますが、この事実は、今日の科学で証明されています。

では、その光の粒子はなんでできているか。偶然か、それとも何かの意思によって動いているのか、という極微の働きということになると科学の分野ではまだ未解決である。

未解決ではありますが、自然科学者のなかには、これは偶然でなく、何かの意思が働いているようだと説明する人もいる。

この大自然界は、そうした目に見えない何かの意思の下に動いており、そしてその作用は相互に働きかけながら共存するように仕組まれている、ということです。

身近な事例ですが、私達は空気を吸って生きています。大気中の酸素の量は21%、それが10%に減ったり逆に50%に増えると体は維持できない。

吸収された21%の酸素O2は、肺から摂取されて体内の諸器官を通って体外に吐き出されるが、その時、二酸化炭素に変わっています。

自動車の排気ガスも同じように二酸化炭素その他の化合物となって排出されます。

人間や燃焼して排出して空気中に戻った二酸化炭素CO2は、こんどは植物が吸収する。

植物は、二酸化炭素を栄養源として、太陽の熱、光の合成によって澱粉や蛋白質、脂肪、糖分をつくる。

私達人間の血や肉は、こうした植物から得られ、動物も植物を餌にし、さらに魚介類や動物が私たちの肉体を支えてくれています。

こうしてみるとO2もCO2もあらゆる生命体の肉体保存に必要なエネルギー源だと理解できます。

人間と植物は、空気を媒体として、このように相互依存の関係をつくっています。

空気については、人間と植物の間をいったりきたりすることによって空気の生命を保持しているのですが、このことを循環といいます。

こうした相互依存の関係は、私達の人間社会についてもいえるのであり、すべてのものが、そうした関係において成立し、一方において、そうした関係を成立させているものは循環という法則であるといえるでしょう。

私がこれまで述べてきた「人間は大自然に学び、その法則に沿った生き方をしなければならない」という意味はここにあります。

先にもふれたように、こうした循環というものは、偶然に存在しているのではない。

科学も進歩して解明できることが増えてきたのですが、しかし、科学が発見できるのは結果からそのプロセスを探ることによって成されてきました。

生命を動かしえるものの存在はとなると現代の科学では究明できていない。

それは何故かとなると、見えないエネルギーである意思、即ち大宇宙を統べる意思であるものの存在を理解していないからだといえるだろう。

空気にしろ、植物にしろ、水にしても、何千年、何万年経っても、減りもしなければ増えもしないし、ある一定量の質量は常に保持されている事実を知るならば、なおさらのこと、循環の奥にかくされた何者かの意思を認めざるを得ないのではないか。

こうしてみると大宇宙、大自然界には、それを支配しているところの唯一なる意識というものがある。

通常、意識とは物事を認知する力、あるいはそれを支配しているものと解すが、大宇宙にも、すべての物の根本である「仕事を為し得る能力であるエネルギー」が同居している。

エネルギーは目には見えないが、しかし、存在しているのは事実である。

それは異なった次元の世界に存在しているから、理解はできても見ることはできない。

物質的次元は、もっとも固体的で不安定な世界ですが、しかし、ここにも3次元的エネルギーが遍満している。

そして無機物質のエネルギーより、有機物質と同居しているエネルギーの次元ははるかに高次元である。

仏教で説く、色心不二の世界について考えれば、″色″とは、私達の眼でとらえることのできる世界ということです。

その意味で、私達の肉体も(物質)であり、大自然もといえる。

そしてとは、次元の異なった世界に存在するものの意味であり、一般的に私達の眼では確認することができない状態のことを差す。

不二とは二つではない、つまり一つだということですから、物質と見えない働きは相互関係にあり、循環しているものだということになります。

現代のような科学の進んでいない2500有余年前に仏陀は『宇宙即我』の境地に大悟されて現代科学を超える宇宙の真理を会得していたといえます。

このように、大宇宙という物質の世界を支配している高次元の意識、心こそ、godそのものだといえないだろうか。

私達の住んでいる地球も、太陽系の小さな惑星で、他の惑星群と三万数予個からなる衛星や小天体と、秩序を保ちながら自転、公転しています。

人類は、通常太陽暦を使って、年令や時間、月日を定めているが、こうした年月日、時間というものは、周知のように、太陽と地球、地球と月の自転や公転から割り出されたものです。

驚くべきことに、この時間の運行は、百年間に千分の一秒の誤差しかないといいます。

人間の科学と知恵によって、打ち上げられた宇宙船は、やっと月の世界まで到達することができたが、地球の営みを人工衛星からみるにつけ、太陽系のこうした神秘と科学的現象からみると、いかにも小さいという感じがぬぐえないだろう。

この美しい地球の上で領土問題や領空侵犯で他国に強引に侵入する政治姿勢などは正に愚かとしか言いようがない人間の業である。

そして、人知のおよばない宇宙の運行を見るときに、私達はそこに、想像も及ばない宇宙の意識、物理的エネルギーの存在を認めなくてはならないはずである。

この宇宙の意識という存在がなければ地球など、どこへ飛んで行くかわからない。

これらの星は、大宇宙の意識、意思(意志)にもとづいて調和しているから安全であり、こうした秩序をみるときに、私達はそこに、偉大な宇宙の中心的存在を無視することができない。

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※太陽系でいうと太陽が恒星、そして太陽の周りを回ってている水星・金星・地球・土星などが惑星になります。

このように星そのものがエネルギーを持ち光っているのが恒星というのに対し、惑星は恒星に比べて非常に小さいために惑星そのものが光る事はありません。

ただ恒星の光を反射するので同じ太陽系にある金星や木星などは見えますが、太陽系以外の惑星は一部の望遠鏡でしか見る事は出来ません。

ですから夜空でキラキラと光っている星は全て、恒星と考えていいでしょう。

次回は24日(木曜日)投稿予定しております。

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真法

太陽系

真のとは大自然の法則をいう。

私たちはこの大自然の法則に学び、倣(なら)って生きなければならない。

春夏秋冬の四季、昼夜の別、陰と陽、+と-、光と影、男と女、あの世とこの世、生者必滅、因果応報。

これらすべて、ことごとく、自然界の法に適わぬものはない。

自然の姿が変わらぬ限り、法もまた変わらない。

法は永遠である。

人が永遠の生命を得ようとするならば、真の法に学び実践しなければならない。

自然は常に、地上の人間に生きる方法を教え、恵という姿をもって慈しみを与えている。人間はこの法に沿わない生き方をするときに苦悩する。

故に、人間のつくった法もまた大宇宙自然界の法という天の意思に沿ったものでなくてはならないだろう。

次回は21日(月曜日)『生命を育む地球の科学と宇宙の神秘』投稿予定

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霊現象・独り言

1

霊的現象

家にいても、車を運転中にもひとりでブツブツとつぶやいているKHさん女性37歳。精神病院に2か月入院したが全く改善がみられずそのまま退院した。

頭痛、肩こり、腰痛、倦怠感があるということに加えて、独り言が深夜まで延々と続く様子をご両親が心配して私のところに連れてきた。整体を数回して肉体的な症状は改善できた。

しかし、施術中も小声で独り言をブツブツ言っているし、時にはニャッとした表情をするからスタッフが薄気味悪いという。

身体の症状も改善できたことだし、KHさんにカウンセリングをすることを親御さんに提案したら是非お願いしたいとのことだった。

一通り、独り言についてやり取りをしてから私はKHさんに光を入れた。

ほどなく彼女の表情と様子が変わった。これまでの彼女の表情ではない。

『この女性の心を支配している者よ、あなたはどなたですか?何故この女性に憑いているのか?訳を言いなさい。』

『・・・・・・・・・・・・・・。』

『なぜ黙っているのですか?この女性の身体を借りて語りなさい。』

『話を聞いてくれますか?話をしたら信じてくれますか?』

『あなたの話しを聞きましょう。事と次第によってはあなたの話しを信じましょう。だからちゃんと憑いている訳を話しなさい。』

『私はこの女がとんでもない危険な人であることを知っています。だからこの人に憑いて守ってきました』

『この女性にいつから憑いていたのか?』

『子供のころから一緒にいました。』

『子供の頃からというのは何歳のときなのか?』

『中学生の頃から一緒にいて守ってきました。私が守らなければこの人は死にます。』

『あなたはこの人を守るために憑いていたというが、それは違います。あなたが憑依することによってこの女性はあなたと会話をし、自分の心を乱してきたのです。話しかけられて心が乱れたこの女性は本当の自分では居られないのです。あなたのように既に亡くなった人間がこの世の人間に語りかけたり、心に憑依することは決して許されることではないのです。』

『私は神様の許しを得てこの人と一緒にいます。この人を守っています。』

『それは違います。嘘をいうのはやめなさい。あなたはこの女性を守っているのではなく混乱させているのです。そのことがわかりませんか?全くあなたの都合です。』

『私が一緒にいなければこの人はとんでもないことをします。自殺します。』

『自殺をしたのはあなた自身でしょ。そのあなたが憑いていることでこの人は心が乱れること、自分でいられなくなること、この人が自分でいるためにはあなたのような亡くなった人が憑いてはならないこと、このことを理解しなさい。そしてこの人から抜け出しなさい。』

『・・・・・・・・・・・・・・・・。離れることはできません』

『死者がこの世の人に日常的に憑依して心を支配したり、語りかけることは絶対にしてはいけないことです。神様はそのようにこの世とあなたのいるあの世を創ってはいません。あなたはこの世とあの世の規律を完全に破ってこの人に憑依しているのです。神の許しを得て一緒にいるなどといいかげんなことをいうのはもうやめて離れなさい。そもそもあなた自身が自ら命を絶った人ではありませんか。そのような心不調和なあなたがこの世の人間憑いて守るなどとできようはずがありません。まして、地上の人間に憑いて自分の思いを遂げようとするなど許されることではない。このことだけでも重大な罪を重ねているのです。』

『・・・・・・・・・・・・・・。』

『どうしても離れないというなら強引にあなたを引き離してして然るべき施設に強制的に送り込みます。それでもいいですか?』

『それは勘弁してください・・・・・・・』

『ならばこの女性から抜けなさい。そして自らを反省して神に心から詫びなさい。そのことによってあなた自身もやがては然るべき世界に帰ることができるでしょう。あなたが今この場で悔い改めて自分の犯した罪を詫びるならば、あなたも然るべき霊界に入れるように協力をします。どうですか?』

『・・・・・・嗚咽の涙・・・・・。』

女性の目から涙がひとすじ流れた。自分の為した過ちと、かつての人生での悔いから流れた憑依霊の涙である。

私は神に祈り、且つ、守護霊の協力を願い、この憑依霊の帰幽を願って体から抜けるべく処置を施した。

やがて正気に戻ったKHさんに忠告した。

自身が日頃の不調和な心の改善を図らない限り次の霊に憑依されること。

心のバランスを保つために学習をしなければならないこと。

しかし、この女性は自我心が強く、自分の思いのままにならないことがあるといつもイライラして自分を見失い、拘り、その不調和な心の隙間に同調した不調和な霊が憑依したのである。

一時的に憑依を外しても慢性的な頭痛に鎮痛剤を服用するようなもので、根本的には何の解決にもならないのである。

おそらくこの女性は明日には新たな霊によって憑依をされるであろうことは容易に判断がつくし、再び私のところに来れないだろうと思われる。

何故なら、憑依する霊自身が外されることを事前に察知するために、行かせまいとしてあの手この手で邪魔をし、行く手を遮るものだからである。

こういった霊的現象に対して、ある人は催眠術だという人もいるようだが、しかし催眠術であるとしたら、被術者と術者との間に、暗示という交渉があるはずである。

また自己催眠術だとするならば、やはり己白身に暗示をかけなくてはならない。

しかし、このようなパフォーマンスをしている時間は私にはない。

霊的現象というものは、経済や物理的な考えから離れた心の中のできごとで、目的に対して自分の意志が働いたとき現象化されるものである。

また憑依されている人の体調や言動とは違って、守護霊や指導霊の働きの場合は個性もはっきりと認められ、そういった善なる光りの指導霊が協力をしてくれる時というのは、自分自身の心に大きな安堵感やゆとりが感じられるものだ。

しかし、現世の幸福のみを、我欲のままに追求する者には、霊の守護も困難である。

しかし、自分の犯した罪の種は自分でいずれは刈りとらなくてはならない。

これが神仏の子としての掟であり、私たちの魂がそのように仕組まれている。

上記の現象のように、あの世もこの世も、厳然と存在していることを私達は悟らなくてはならない。

そんな世界があるはずがないという人々は、睡眠中の夢の世界を何と解くのであろうか。なぜ、という問いに答え得るであろうか。

人間は、もともとそうした霊的能力(潜在意識の能力)を持っている。

ただ肉体的な煩悩に支配され、想念が調和されないために、潜在意識の90%と、表面意識の10%のダイヤルが同調できないだけなのである。

正しい心を持って日々の生活をしているならば、その能力に個人差や高低、種類の違いはあっても、誰でもある程度の能力を発揮できるのである。

人間は、正しい想念と行為にもとづいて、各自の目的に専念することが大切です。

そうすれば、その人間の目的に相応した指導霊が、私達の意識の中で協力してくれ、良く人々のいうカンを与えてくれることを知るべきである。

催眠術は、白分の意識の中心である心の王国を、自分以外の支配者の暗示によって明け渡す行為といえるだろう。

これがもし、不調和な暗い世界の霊に支配されてしまうと、狂人になってしまう場合だって有り得る。

私達はしっかりと、自分自身を失わないように心がけた生活をしなくてはならない。

真の理は、私達の智と意と情の三体、それに実践行為が伴って調和されるものだ。

私達はその調和によって安らぎの人生を送ることができるのである。

肉体的な六根煩悩(眼、耳、鼻、舌、身、意)に振り回されることなく、正しい想念と行為の積み重ねによって、私達の心は調和されて神仏の光に同調し、霊域が浄化されて、心の安らぎか生まれてくる。

このときに、次元の異なった4次元以上の世界から、肉体を持っている人間の心に比例した、すなわち後光(オーラ)と調和した守護霊や指導霊が、魂の修行者である私達をその人の魂のステージに見合った段階へと導いてくれる。

また、必要とあれば試練も与えよう。

だが、煩悩にほんろうされている不調和な心の窓に動物霊辛地獄霊が入りこみ、自分を失ってしまった人々も多いのである。

このような人々は、己の心の王国を不調和な霊に占領されて、自分自身の心のコントロールができない人々である。

霊的な現象も、このように調和のとれた光の天使によって協力して貰えるものと、不調和な暗い想念によって、地獄の霊や動物霊に支配され、狂人同様になってしまっているものとに分かれてしまう。

地獄の霊や、動物霊に支配されている人々の多くは、自我が強く、心に安らぎを失い、我欲のままに言行一致しない貪欲な生活をしている。

このような人や宗教指導者は、怒り、そしり、妬み、怨み、増上慢、偶像崇拝、祖霊を祀って祈らせ、不幸になると言い、信仰が足らぬ、布施が足りぬ、さらに罰が当たるなどと、弱い心の人々に恐怖を与えるようなことをする。

このような人々は、その予言にも心なく、易学的であったり、己の心も分かっていない人々が多い。

本人が迷い、常に疑問を持って暮らしている人々が多いのである。

祀る神と称するもののための人間か、人間のための神か、正しい信仰への道を迷っている。

こうした人々は、己を客観的に見て反省し、不調和な霊に憑依されていることを悟り、一日も早く正しい心の法則を身につけなくてはならない。

一方、調和されている者は、安らぎの霊域に包まれて、自在な能力が与えられ、霊的な力を開花するようにもなる。

距離の遠近を超越し、この地上界の諸現象を見ようと望めばそれも可能となり、それに対してアプローチすることもできるようになるものだ。

さらに、高いステージまで魂を進化させた人の場合は、将来起こり得る現象を、未然に見る能力も備わってくる。

天上界の光りの天使のついている人々の心は、やはり綺麗で、必ず神仏の光によって覆われているものだ。

反対に霊的能力者の中にも、動物霊に支配されている人があり、そういう人の波動は非常に荒く突き刺すように伝わってくるし、その場の霊域が生臭い動物的な臭いを発することがある。

現代社会では、こうした動物霊に支配されている人間が、神だ、仏だ、菩薩だといって、多数の人々を迷わせている実例が少なくない。

信者達は、動物に手を合わせて崇拝しているようなもので、分からないこととはいえ、愚かしくも虚しいことである。

私達は、天の子、即ち神の子たることを自覚し、こうした飾り付けた神ならぬ″紙”に祈らせるような偽善者に心を売ってはならない。

彼らもまた救われざる人間であることを、良く知らなくてはならないのである。

動物霊であっても、予言が当たったり、病いを一時治すようなことはある。

しかし、真の法則である調和された教えの心がないため、自らを救うことができないものであることを、私達は悟らなくてはならない。

邪法に迷ってはならないのである。

次回は7月17日(木曜日)投稿の予定でおります。

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死を急ぐなかれ

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スズメに鳩、シジュウカラなど、朝の四時過ぎには野鳥たちが我が家の庭で餌をついばんでいる。

本能のままに子育ての真っ最中の姿は美しく、

気づきをあたえてくれる。

野鳥たちは地上に倉をつくることをしない。

地上の動物たちもその日の生活に満足している。

明日の糧を求めて相争うのは人間だけだ。

鳥や動物たちはその日の糧で生き永らえている。

人は明日の糧とエネルギーを求めて死を急ぐ。

尖閣諸島海域の主張争い

南シナ海の海域支配による強硬姿勢

強引な防空識別圏

人間よ眼をひらけ。

次回は7月14日(月曜日)『霊現象・独り言』を投稿予定

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執着

蓮の花

心の執われ

傲慢、逃避、誹謗、中傷、妬み、愚痴、怒り、争い、独善、排斥、差別、自己顕示、自意識過剰、自己満足、自己否定、卑下、良く思われたい、悪く思われたくない、高いプライド、過剰な不安感と恐怖心、物偏重主義、これらは人の心を毒す。

何故なら、その想念と行為は執着に根があるからです。

執着の想念は、大宇宙大自然の営みに最も反する思いであり、神仏の心に最も遠い距離にある。

正直

自然界は正直です。

冬に雪を降らせ、氷が張り、春に花を咲かせる。

人の心もまた正直である。

心は自分自身の偽りの証を述べることを拒む。

自然も人間も、大宇宙の意思である神という大心によって強く結ばれているからだ。

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中道(偏らない心)

瞑想

お互いが両極端なものの見方から離れて冷静で素直な心になったならば、何が正しいか正しくないかという区別がはっきりし、家庭でも社会でも共同生活の秩序が高まってくる。

ハッキリさせないと嫌だということで白黒つけるのではなく、一方的な考えを押し通すのではなく、お互いが謙虚で素直な姿勢で臨むならば、いわゆる正邪の区別というものが自ずとハッキリしてくるのではないだろうか。

互いの利害や感情にとらわれず、偏見から離れることによって冷静に客観的に物事の正邪を判定することができるようになるからである。

しかし、お互い人間というものは、ややもすると、自分の立場であるとか、利害、感情といったものにとらわれて物事の是非を考え、判断するという姿に陥りやすい。

例えば、人に親切にすることの是非を問われれば、誰もが『親切にすべきだ』つまり、是と答えるでしょう。

ところが、それでは日頃から仲のよろしくない相手に対しても親切にするかというと、それはちょっとできにくいところであろう。

むしろ不親切にしているという気持ちに陥りやすいのではないでしょうか。

そしてそれが誰もが陥りやすい姿であるだけに、ふつうはその非を指摘する人はほとんどいないのではないかと思われます。

つまり、正邪の区別がアイマイにされがちになってしまうわけです。

けれども、お互いが偏った考えをやめ、冷静で素直な心になったならば、人に親切にすることの正しさが深く心に落ち、仲のよろしくない人に対しても同様に親切にすることが正しい、という判断が生まれ、それが実際の姿、行動にもあらわれやすいだろうと思います

すなわち、仲の良し悪しといった、いわば個人的な感情などにとらわれることなく、正しいことは正しい、と素直に判断でき、行動できるわけです。

そして同時に、正しくないことは正しくないこと、不正なことは不正なこと、というように偏りがなく、正しく判断できるのです。

ところが、この正しくないことを正しくないことと判断するということも、お互いが偏りのない素直な心をもっていない場合には、なかなかできにくい場合が多いと思います。

たとえば、お互い人間は、肉親に対する愛情、友人に対する友情といった好ましい心の働きをもっていますが、しかし、それにあまりとらわれるということになると、肉親や友人の不正を不正として判別できにくくなる場合もあるのです。

ある事例ですが、自分の子が犯罪を犯した場合でもそれをみとめようとせず、むしろ『それは他人や社会がわるいからで、責められるべきは社会だ』などと一方的に主張する親がいたケースがあります。

これなども、まことに気の毒な同情すべき姿ではありますが、しかし、情愛に偏りすぎたために冷静さを失った結果として、正邪の区別がつかなくなってしまった一つの姿といえるのではないだろうか。

そして、このように正邪の区別がアイマイになってしまった場合、どのような状態が起きてくるのかというと、それはお互いみんなが、何が正しくて何が正しくないかという点について迷いをもつようになり、その結果、改めるべき姿も改められにくくなるとか、また、為すべきでないことも抵抗なく為されるようになったりもしかねないわけです。

しかし、そうなれば、お互いの共同生活というものは非常な混乱に陥るとともに、さまざまの好ましからざる状況が生じ、自他ともに不幸な姿を招くことになってきます。

したがって、やはり正邪の区別というものをはっきりさせるということが非常に大切なことだと思うのですが、正邪の区別というものは、お互いが偏りのない素直な心になったならば、おのずとはっきりしてくるものであります。

たとえば、今の親の例にしても、もしも仮にこの親に素直な心が働いていたとするならば、わが子の罪はみとめたくはないし、他人や社会に悪い面もあるとは思うけれども、しかしわが子に対する愛情で目がくらんではいけない。

身を切られるほどつらいけれども、罪は罪としてみとめよう。

そして深く反省を重ねて、よりよき今後のための対策を考えよう″といったような態度をあらわすのではないかと思うのです。

なぜなら、素直な心になれば、みずからの感情にとらわれて事を判断するのでなく、何が正しいかをしずかに見つめて判断するようになると思われるからです。

こういうことを中道(偏りのない心)というのです。

したがって、世のお互いがともどもに素直な心というものを養い高めていったならば、もちろん互いに相手をゆるしいれるという寛容さは保ちつつも、みんなが正しいことと正しくないことの区別を、とらわれのない心で判断するようになっていくでしょうから、世の中のあらゆる面において、正邪の区別がはっきりし、それぞれが責任ある行動をとるようになるだろうと思います。

そうすれば、お互いに、なすべきことは大いに行ない、なすべきでないことは極力行なわないといったような姿もおし進められ、共同生活の営みというものがきわめて高い秩序のもとに、好ましい姿において進み、日に新たに向上していくことにもなるのではないでしょうか。

このように、お互いが素直な心になったならば、正邪の区別がはっきりするといった、まことに好ましい姿が生まれ、高まってくるだだろうと思のです。

次回は10日 木曜日に小さな記事をアップいたします。

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