恋愛から結婚へ

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恋愛と婚前交渉
比較的倫理観のしっかりしていた日本でも、若者たちは出会ってすぐ挨拶代わりに交渉をもってしまうという感覚は、お湯を沸かしてインスタントラーメンをつくるに等しい簡単なことだという記事を目にしたことがあります。
今の時代は、それほど心が伴わなくても簡単にセックスに走る若者が多いというが、そうではない若者たちもいるだろう。
私のブログには若い人たちの訪問者も、そして独身の男女もおられることと思いますので、特にそういった若者たちには、今回の記載内容の真意を考慮いただきながら読んでもらえれば有り難く思います。
また、十代、二十代の子どもたちをもつ親御さんたちにも他人事にせず読んでいただければと願うところです。
今回とりあげた内容はそう簡単には掲載できないような課題やその内容となっているために、どうしても使わざるを得ないような言葉も表現、描写のために使いました。
その辺の意図を汲み取っていただき読み進んでいただければと思いますが、団塊世代の戯言かもしれません。
以下本文。
キリストは、夫婦とは神の合わせ給うものであるといわれました。
当然のことではありますが、男と女とは一対となって家庭を持ちます。
霊的な視点からすれば、「夫婦の縁」はあの世(天上界)で決まる。
がしかし、目先のことに目がくらんだり、その場だけの感情や欲望に翻弄されて本来の縁ではない、自分があの世で約束をしてきた相手とではない人と結婚するケースもあります。
結婚はとても深縁なものであり、どれほど遠くにいる相手であっても赤い糸によって引き寄せられ、巡り会い結ばれます。その意味では国際結婚も然りです。
この世での結婚は、天上界で約束して別々の所に生まれた二人が相寄って結婚するのですが、それまでに多くの人々が経験するのが恋愛である。
男と女とが、お互いを好きだと思うことも恋愛だとすれば、その最初の好きだという感情即ち初恋は保育園や幼稚園時代だといえないこともないが、結婚、性行為を含めて異性を意識する恋愛はやはり思春期になってからであって幼少期のそれとは違う。
フロイトが、人間のすべての感情は性が根底にあるが如きに結びつけようとしたことは賛成できない論ですが、しかしフロイトが発見した精神分析は、人間の意識の深層にある心理即ち潜在意識を解明し、その潜在意識を現在意識の表面に浮び上がらせることによって、それまで誰も気づかなかった 人々の悩みを解決するのに大いに役立っているのだと思います。
そのことは大きく評価し、学ばなければならないでしょう。
自分たちがこの世に生まれる前に、あの世で約束した二人が、この地上界で、誰が自分の半身であるかを互いに呼び 求め合って発する魂と魂が互いに呼び合い、同調する結合の感情、それが恋愛感情であろうと思うのです。
純粋な恋愛感情の中には、常に相手と一体となって幸福になりたいという願いが秘められているものではないだろうか。
思春期の人々の感情の中には、その人と結婚した場合にはどうなるか、その相手は、自分にふさわしい結婚の相手であるかどうかと意識する心と、遊び相手としてはよいが、結婚はしたくないという意識の両方があるようだが、またこのような思いを全くもたず、思い遣るという感情すらなく、ただ単に肉欲を満たすだけに暴走する男女もいるだろう。
こういった感情を、自分ではっきり意識して交際をしている人もあるが、自分でもその区別がはっきりせず、肉欲だけによる感情がそのまま暴走して性関係を持つという場合もある。
悲劇はそういう場合に起こる。
あるいは、肉体を求めて性関係を持ちたいという欲望が先走ってしまい、心に「愛」が無くても都合のいい言葉でごまかして性行為を求める者もいる。
その結果泣くのは女性側なのであって、女性は、自分にいい寄る男性の、愛だとか、好きだという言葉にごまかされないで、それは自分の肉体を求めているだけで、結婚は考えていないのではないのかと、鋭く見抜く知恵を持たないと、肉体を求められた結果、破たんして終わりということにもなりかねない。
婦人雑誌などには、婚前交渉は当然だの如く記事が多いようですが、これなどもあまりにも短絡的で偏りすぎの観があるように思われます。
結婚の約束をして、どうせ結婚するからいいじやないかといわれて身体を許した結果、とたんに結婚しないといわれて泣いたという女の人もいる。
少々硬い表現になりますが、恋愛と性欲は関連するものだが、性欲とは、性的快感を得んがために、お互いに抱擁し、身体を接触して、肉体的官能的興奮を得んとするもの。
だから性行為は、相手が異性でありさえすれば、相手の人格など全く無視して行なえる。ということも事実いえるのだが、これではあまりにも心虚しい限りでしかない。
これに反して、純粋な恋愛は、相手との性行為を考えない、もし肉体的な接触による性行為を考えると、そのことだけで自分を卑しい存在だと考えるほどに純化された「美的感情」であると思うのだが、読者の皆さんはどのようにお考えだろうか。
純粋な恋愛は、自分の魂と相手の魂とが完全に融合して一体となった神秘的な感情。
だから相手の肉体を見ても性欲の対象と考えることはしない。
相手の顔が、眼が、鼻が、口元が、身体全体が「美」そのものとなる。
他の人からは欠点と見られるようなものであっても、純粋な恋愛感情を持つ人にはすべてが美しく見えるのである。
いわゆる「あばたもえくぼ」となるのである。
恋愛の感情を持つと、その人を遠くから見ているだけで、相手のそばにいれば尚のこと、まして、互いに会釈し合い、ちょっと言葉を交わすことができればそれだけで無限の喜びを感ずるようになる。
正しい恋愛は、二人が結婚することが世界が幸福になるという感情を持つものといったら言い過ぎだろうか。
理想の感情移入としての恋愛をする人は、自分自身の理想を相手に移入する。
青年は処女の中に自分白身の理想化された美を見、処女は青年において自分白身の理想化された美を見て熱中する。
青年は相手の処女を理想の女性と見て、その理想の女性から、「この全世界の男性の中で、わたしがいちばん愛するのはあなたです」といわれたいと思い、また、「他のどの男性よりもあなたと一緒になることが幸せです」といわれたいと思う。
女性はまた男性に対して、男性からそのようにいわれ、そのように思われたいと思う。
お互いにそう思うがゆえに、純粋な恋愛をしている人々は、そのように理想の男性、あるいは理想の女性であるべく、自分の人格を高め、教養知識を深めることに努力する。
理想の人物、理想の生活のあり方を求めて文学を愛し、理想の美的感覚を求めて音楽を愛し、絵を愛するというようになる。
そのようにして、自分の人間性の向上を自覚し、その向上をお互いに認め合えるような恋愛は正しい恋愛であるが、恋愛という言葉によって、それがすぐ性欲に結びつき、お互いの人間性の向上が認められず、むしろその反対に低下、低卑の感情が伴うならばそれは正しい恋愛とはいえず、恋愛という言葉によって偽装された単なる野合にしか過ぎない。
こうした理想の感情移入は、本来は人間は神の子であるとの自覚から起こってくるものなのである が、心理学者達は神と霊魂の存在を否定しているのでそれを単なる潜在意識からといっている。
人間が理想を求めるのは、人間の霊(魂)そのものが神の意識を持つ神の子だからであると私は。信じている。
このような受け止め方、言い回しは私が団塊世代の古い人間だからということだけではないような気がしますし、男と女の純化された究極の恋愛感情だと思うのです。
プラトニックニフブ(片思い)
正しい恋愛には、はっきりした愛の対象があり、お互いにその愛を認識し合っているが、プラトニックニフブには、愛の対象とする相手はあっても、お互いに愛を語らうことはない。
ひそかに一方的にそういう感情を自分か持つだけで、相手が自分をどう思っているかはわからない。
そういう時は、相手をますます高く、清く、尊く理想化し、自分自身は、その前にいよいよ低く、卑しく、謙遜し、相手の前に自分を奴隷の如く見なし、相手の前に跪いて、相手のためにはどんな犠牲をも惜しまないというような感情を持ってくる。
こういう感情を持つ人が、結婚すると、妻をお姫様のようになんにもさせずに床の間に飾って置いて、自分はどんな苦労をしてもかまわないという感情を持ってくる人もいるのである。
「愛を惜しみなく捧げる」ということになるが、一方からいえば、「愛は惜しみなく奪う」ということになる。しかし愛は一方通行ではいけない。
プラトニックニフブ(片思い)は純粋で理想的な感情であっても、愛は与えるものであると同時に受けるものであって、豊かに与え、豊かに受けた時に愛は満足させられるのであり、プラトニックーラブは、自分が相手に思いを寄せるだけで、相手から受けることはできないということからすれば、最後は悲しみに終ることになる。
こういった経験もまた素晴らしいものです。
「悲恋」「失恋」の中にそれがある。
プラトニックラブも、正しい恋愛と同じように、自分の人間性を向上することには役立つが、相手からの反応が得られないことを悲しみと受け取らないだけの心の準備が必要でありましょう。
このプラトニック・ラブが他の異性と正式に結婚した後にも心の中に固着していると、現実の夫婦生活がうまくゆかなくなることもあります。
理想を追うことは必ずしも悪いことではないが、夢を追っている人が往々にして結婚生活が破綻する原因は、このプラトニック・ラブにあることも一因としてある。
心の中で理想的な結婚生活を夢見ていて、現実の相手をそのままに好きになり愛するということができないのである。
文学趣味の女性が、現実に徹しきれず、甘美な結婚生活を夢見て失望するのは、こういう心理状態を抜けきれないからでもある。
何ごとも極端から極端はいけない。
人生の意義は現実生活の中にあることを知らなければいけない。
宗教と恋愛
宗教の根源は、自分の生命の源である「無限に大いなるもの」に帰りたいという己の内なる意識にあるといっていいだろう。
これを「神との一体感を深める」という。
その延長上にあるのが、お釈迦様の大悟された「宇宙即我」だろうと思います。
一方、フロイトは敬虔な宗教的感情を持つ知識階級の人々に毛嫌いされた。
それは、フロイトが神・霊魂の存在を認めなかったために、人間の意識は母親の胎内で羊水に浮かんでいた時の意識以前には遡り得ないとして、人間の無限に大いなるもの、即ち神に帰りたいという意識を、人間は母親の子宮に帰りたいという願望を持っているといったからである。
生命は、そこ を通って出現しますから、人間の出世(この世に生まれてくる)の神秘を考える場合、当然そのことも考えないわけにいかないが、しかし、人間の意識を、母親の子宮の中にだけとどめて置いてはいけないでしょう。
宗教は、人間の心が神と一体となりたいという願望を満足させるためにあり、恋愛は、相手と一体となりたいという願望にあるのですから、宗教と恋愛は、一体となりたいという願望を持っているという点においては似ているといえる。
しかし、恋愛の場合やがては性的満足を通して肉体的にも一体となりたいという願望を持つようになるのに比して、宗教は肉体欲望を超えて、小なる魂と大なる魂とが、小さな生命と大なる生命とが、じかに一体となることを願望する点で違っている。
キリストも釈尊も、生命の本源である神仏に帰一することを忘れて、肉体的、物質的欲望のみを求める人間を、親の存在を忘れてさ迷う放蕩息子に譬(たと)えられました。
そうであるが故に、豊かな恋愛感情を持つ者は宗教を信じやすい傾向を持ち、そうでない現実主義者は宗教など信じない場合が多いものです。
しかし、現実には、生命の本源に帰一したいという願望を持たない現実主義者こそが、現世利益主義の誤まった新興宗教を信ずることになってとんでもない迷路に人生を翻弄させることになっている。
正しい宗教を求める者と、現世利益のみを求める者、或いはご利益主義の宗教との間には、霊(魂)の次元という気根の違いがあるのです。
調和した結婚生活
夢精、自慰行為に対するそれとなき罪悪感の影響
思春期になると、ある日突然甘美な夢を見て、夢精することがある。
この初めての経験に驚かない者はない。
この自然の生理作用に罪悪感を感ずる必要はない。
多くの場合、これは秘密として人が語らないために、夢精を経験した者は、それが自分だけのものであるかのように感じて、人に知られたら恥ずかしいという羞恥心と同時にそれとなく罪悪感を持ってしまう。
しかし、夢精は、ほとんどの男性が体験する生理的現象であり、オーガズムである。
夢精を経験すると、性器が衣服にふれて快感を感じたり、あるいは友達から教えられたりして自慰を覚えるようになる人が多い。
自慰を覚えるようになると睡眠不足になり、朝の目覚めが悪く、精神集中ができにくくなり、学校の成績が低下する者もおり、ひどく顔を気にするようになり、鏡を見る回数が多くなり、異性から注目されたいと思って服装にも気を使うようになる。
自慰は種族としての本能的自然な射出作用であり、決して罪悪ではない。
しかし、若さに任せて過度になると肉体的ダメージにもなりやすいので節制が必要となる。とはいっても若者にはこのような話しも効を奏するというものでもないだろう。
次回は7月31日(木曜日)に投稿を予定しております。
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