偽ることのできない心
自分には嘘をつけない
「お前、信心とか信仰はどういうものだと思う?」
「神様に手を合わせることじゃないか……」
「神社、仏閣などに行ってか?」
「まあ、そうだな」
「じゃ、神社仏閣へいって、なんのために手を合わせるんだ」
「そりゃ、家内安全、商売繁盛を頼むのさ」
「頼んでご利益あるか?俺の知人がこの正月に成田山に行って、その帰り道、車にはねられて死んだよ」
「そりゃ信心が足りないからだ。信心が厚ければそんなことねえさ」
「ところがその人は、常日頃、非常に信仰心の厚い人だったんだ。月に一度は必ずお参りに行く。布施もする。人柄だって悪くない。その人が、あっという間に死んだ。
これをみて俺は、いったい、この世の中に、神様とか仏様はあるんだろうかと思ったね。日本には随分と、いろいろな教団や教えがあるらしいが、サッパリよくならないじゃないか。悪くなる一方だ。
第一、神様や仏様が多すぎる。仏教一つとっても何百何千だろう。その何百何千が我こそはとやっている。おかしいと思わないか?
俺は思うんだが、信心とか、信仰というものは、そんなものじゃない。神様、仏様に手を合わせることじゃないと思うんだ」
「じゃあ、どうすりやいいんだ」
「俺にもよく分からないが、神様、仏様が頼りにならないってことになるなあ。ならないとすれば、頼りになるのは自分しかないってことになるなあ。」
「・・・・・。」
「人には嘘は言えても、自分には嘘はつけないもの。自分に嘘がつけないってことは、自分のなかにも、神様、仏様があるってことじゃないかなあ・・・。だから手を合わせるとすれば、嘘のつけない自分に、手を合わせるのが一番だと思うが、お前、どう思う?」
「・・・・・。」
電車内での会話、二人とも中年の労働者らしい雰囲気で、言葉はぞんざいですが、話の内容は、筋が通っています。
この会話にもある通り、家内安全、商売繁盛のご利益信仰は、今や世上をおおっています。
神社や仏閣でも時代の流れと共に祈願内容も変わり、かつてはなかった交通安全祈願や受験合格祈願など、その他多彩に対応するように願掛けの場所へと変化してきている。
科学万能といわれながらも、これと併行して神信心が流行するのも、人間は一寸先が闇であり、同時に、自己保存の念がますます強くなっているからでしょう。
こういったご利益信仰の目的が自己本位、自分が良くありたい、よければという考えに根ざしているからです。
しかし本来、信仰とはとてもシンプルなものであって、自分ではどれだけ神仏を信仰しているとはいっても、その信仰の中身、動機に人間のご都合主義、エゴがあるならば真の正しい信仰とはいえないであろう。
実は、神信心して交通事故に遭うのも、こうした考え方、利益追及、自己本位というエゴが原因になっている場合が多いのです。
信仰する人たちの心の隙ということだ。
こうしてみると人間は、信仰するしないにかかわらず、各人の運命そのものは、自分がつくり出していることを知らねばならないでしょう。
運命とは、文字通り、命を運ぶことであり、命とは、己自身でありますから、己自身が暗い想念や、不調和な思いに支配された場合は、暗い想念に運命をまかすことになってしまい、それが私たちの生活に現象となって暗い影を落としていきます。
お互いが都合よく関わりあっているときは良い関係でいられても、一旦、何か問題が発生してしまうと相手に対して心無い言葉を浴びせてしまうことはよくある話です。
人間の持つ影の部分は、順調なときには見えないが、窮地、試練、問題発生のときにこそその人の業(影の部分)としてはっきりと表面化するものである。
先の話にあるような、成田山にいって死に見舞われるのも、その人の信仰そのものに、どこか間違いがあり、暗い想念は、やがて、動物霊の支配下に自分をおいてしまったことによる場合もある。
人間は、肉眼の範囲でしか物を見ることができませんから、動物霊というものが、どういうものか分かりません。
ところが動物霊は、厳として存在しています。
動物は、もともと本能的であり、自己本位ですから、こういうものが人間に憑くと、その人は、やがて、動物本能に左右され、知性や理性に欠け、人間としての自覚が働けなくなってしまいます。
自分に危害を与える者には、徹底した憎悪を持ち、敵対意識が常に自分を支配する。
ところが、この世は、自分一人で成り立っているわけではないし、人と人とが和合し、助け合うようにできていますから、調和を乱す想念は、やがて、その運命にも影響を与え、悪い想いは悪い結果を招くことになるわけです。
類は類をもって集まる
これは法則です。
従って、神社仏閣に行って、各人が利益追及のみを願ったりすると、その想念は、やがてその神社、仏閣を包み、動物霊の住家となり、そこにきた参拝者、信者が、もしも自己本位で手を合わせれば、そこにいる動物霊を呼びこむことになるのです。
このような問題は、何も神社仏閣に出入りする場合だけの問題ではなく、霊能者と関わることでも同じような現象が起きてくるのである。
禍、それは、多少の当て事や、占いなどに翻弄されることによって発生してくる、相談者の依存心がそうさせるのであり、不安と恐怖心が招く現象だと言えるだろう。
能力と人間、この関係は、能力を持つ者の人格、人間性、智性、理性、品格、徳性というものによって駆使される能力でなくてはならない。
自称霊能者といわれる者が一番優先しなければならないことは、能力や当て事ではなく、相談者への受け導きではなかろうか。
類は類をもって集まるという法則によって起きた事件の実例を参考にしてください。『死後の世界』
信心は厚いが、年がら年中病気が絶えない。商売がうまくいかない。お参りにいって交通事故に遭った、というのは、大抵はこうした動物霊信仰に身をおく場合が多いのであります。
仏教もキリスト教も心と生き方を説く
「人には嘘はいえても、自分には嘘はつけない」とする考え方は、真実そのままであり、人間の姿を、本来のありのままに見つめた正しい生き方(信心)といえるでしょう。
人間、神の子・仏の子といわれる理由も、また、万物の霊長といわれる所以も、ここにあります。
人間には、心があり、心は神仏に通じています。
なればこそ、自分の心には嘘がいえないのです。
ですから、信心とは、形式的な因習による神社仏閣に詣でることではなく、己の心を信ずることです、と申し上げたい。
特に信仰を持たなくても人間関係に潤いを以って生き、人々からも信頼を得て人生を全うする人もいます。
この潤いとは他でもない、他を思いやる慈しみの心であり、他を否定せず、愛を以って接する素直な心の事である。
嘘のいえない己の心を信じ、その心の命ずるままに、日々の生活を送るようにすれば、間違いはないということになります。
しかし、そうはいっても、偏った自分の心を信じてはならないし、その価値観は改めなくてはならない。
信仰とは、『嘘のいえない己の心に問う』、『己の心に聞く生活』であるといえるでしょう。
信仰をもつ者にありがちなこういうことが、これまでおろそかになっていました。
何度も言うようですが、神社仏閣にいって、手を合わせることが信心であり信仰であるとしたり、あるいは、ある集団に所属するということが信仰というものではありません。
拝む対象を求め、形に拘ることによって発生してきた偶像崇拝という、神仏と人間を切り離した考え方に、大きな間違いがあったと思います。
何故なら、神仏は私たちが意識することで心の内に拡がるものだからである。
人間神の子・仏の子であり、嘘のつけない心を誰もが備わっているとすれば、その心を、しっかりとつかむことが必要ではないだろうか。
難解な哲学宗教
釈迦の教えである慈悲、そしてイエスの説いた愛は、こうした正しい信心、信仰を、求めています。
時代の流れの中で人間の知と意で組み立てられた仏教や愛の在り方について、その誤ちを訂正する時期にきているのです。
それはどういうことかといいますと、釈迦の慈悲、イエスの愛は、今日では、すっかり哲学化され、お経はあげるもの、信仰は祈るものと変わったために、神理の光が、影をひそめてしまったといえるでしょう。
私が言う、信仰はとてもシンプルなものという意味はここにあるのです。
仏教もキリスト教も、その根本は、心の教えであり、人間は心であり、自分の心こそ、信心・信仰の対象でなければならないとするところにあります。
人間は、偏りのないバランスのとれた智情意が揃って、はじめて、円融無碍(えんゆうむげ・事物が完全に溶けあって何の障害もないこと)な人柄となり、神仏の光を、体全体にうけることになります。
智とは智慧。情は心。意とは、意思であります。
この三つの中心が、情、心です。
情は心の現われであり、それがあまり表面的になりますと感情になり、過ぎた感情は、己を失う結果になり、怒りにもなり得ます。
しかし、情が心となり、神仏の光を大きくうけるようになりますと、智は智慧となり、意は、大我心(エゴ執着のない心)の発動となるのです。
それ故、情は、智と意の間に入って、両者を支えています。
もしも、情がなく、智だけの人間になりますと、自分を見失うばかりか、人と人との交流が阻害され、暖かみのない人間となりましょう。
夏目漱石は言いました。「智(ち)に働けば角が立つ 情に棹(さお)させば流される 意地を通せば窮屈」と。
こういう教えにも示されるように、意の過ぎた人間は自我が露骨となり、自らして、自分の首を締める結果となりましょう。
それですから、情、心がいかに大事であるか、自分の心を整えることこそ、信心、信仰の対象としなければならないのです。
そこでいったい古来の正しい法則とはどういうものかといいますと、それは「心」です。
心そのもの、人間それ自身、宇宙全体でもあります。
その正しい法則はとなると、かつてインドで説いた釈迦の教えが、そのまま、日常の言葉として現代に再現されなければならないでしょう。
何故なら、万古不滅の神理は、そして、その光は、己の心を開かせ、これまで考えてきた、小さく、みじめな人間観から自分の心を解放することができるからであります。
そうして、そうした解放感から、一歩も二歩も先に自分を進めることができたとすれば、智情意の三体は、自然と整ってくるのであります。
霊能というと、いかにも、特殊な人間、特別な修行を連想させますが、人間誰しも、そのような能力を持っており、各人の心は、本来、すでに神仏に通じているのです。
しかし、神理の光、正しい法則の光を頂かなければ、その能力は開けません。
それは神仏のエネルギーによる光であり、正しい法則に沿った神理にふれなければ、各人の心の外壁をおおっている想念帯(様々な想念、。カルマ、あるいは原罪ともいいます)をうち崩すことができないからです。
これは理屈ではないのです。
心の眼が開かれてきますと、自と、その信憑性に一驚(いっきょう・おどろく、びっくいすること)されます。
神仏の光はもともと各人に内在します。
しかし、その内在する光を表に現わすには、それを現わすだけの心の準備が必要であります。
「求めよ、さらば与えられん」これはイエス様の言葉です。
この意味は、うちなる己の心の準備と、それを迎えてくださる神仏の慈悲、愛、より大きな心による愛の光の相叶う姿をいったものでしょう。
霊能といっても、各人の心の在り方が非常に重要であり、私利私欲、自己本位になりますと、動物霊や悪霊がその人を支配してしまいます。
霊能は、天才にも、狂人にも通じることになります。
自らがこの世の修行によって開いた霊能は勿論ですが、神理の法則に沿って心の扉が開かれ、結果として光を得られた場合には、その者は、普通の人以上に自戒、自重しなければならないわけであります。
この世的な贅沢を欲する心には必ず魔が入り込み、甚だしく人格障害を引き起こす可能性が大きいからだ。
光の天使は菩提心の求道者
人間の病気は肉体的な理由によるものばかりではなく、むしろ逆に精神的原因に端を発する病気の方が多いといえるかもしれません。
その事実は、人間の心に内在する豊かな心、つまり、宇宙の神理を理解すること、行ずることによって、病気が癒えていくということが証明されてきております。
実際に相談にみえた人たちのなかでも、これまでの心に溜め込んだ不調和な想念を改め、エゴを捨て、偏りのない生活をすることで精神疾患から解放されていく人たちがいる。
病気回復、事業の好転、不和だった家庭内が明るくなったなど、その数は枚挙にいとまがありません。
本来、こうした現世利益は、神理に適えば、一つの随伴現象として、具体化されるものであります。
なぜかといいますと、過去における偉大な指導者たちが説いた正法神理は、正しい法、正しい法則にそっているからです。
人の一念は岩をも通すで、その一念が正しく使われれば、その一念力は、正しくその人に還ってきます。
もしも、正しくない一念力を燃せばそれはその人に還り、その人の心身、環境を悪くすることになります。
正しいか、正しくないかは、嘘のつけない自分の心に問うてみることです。
またそのような偏りのない心、ウソのつけない心を己の信じるべき心として日頃から学び育てて実践していきたいものである。
自分の心は中正であり、公平ですから、いい悪いは、すぐ答えが出る筈のものです。
動物霊信仰でも、奇蹟はつきもの、といわれます。
確かにそうです。
ところが、動物霊は、前にも述べたように、動物は所詮は動物であり、神理は説けないのです。
ヘビの獰猛(どうもう)さ、キッネのずる賢さを想像してみて下さい。
ヘビやキッネに人間が持ちえるような慈悲とか愛が分かるでしょうか。
まことしやかに人間をだましますが、元々、本能のままに生かされているものですから、こうしたものが、人間に憑くと、一時は、利益を与えても、ある時間が経つと、その本性を現わし、人間を食いものにしてしまいます。
熱心な信者ほど病気をしたり、家の中がうまくゆかなかったりするのも、そのためです。
一般的にいって、教団の教祖、熱心な信者の状態をよく観察することです。
動物霊が憑いている場合は、顔色が悪い、病気が絶えない、人を批難する、人をおどかす、自己本位、エリート意識が強い、比較の観念にとらわれる、我が強い、感情的、金銭欲、物欲が強い、暖かい愛がない、計算高い、無理をいう、などです。
また、教団によっては動物霊以外に、悪霊と化した阿修羅が憑く場合もあります。
この時は、戦闘的、排他的、一本調子、他を顧みないなどです。
けれども、日々のその人達の行動、言葉を観察すれば、おのずとはっきり認識されてまいります。
また、霊能者といわれ、いろいろなものを当てたり、予言をしますが、実際はこういうものも動物霊が背後に憑いている場合が多いのですが本人の自覚がありません。
動物霊は、人間の世界に非常に興味を持っていますから、憑依される者が説いた神理があいまいだったり、あるいは全然説けず、八卦に集中している場合は、全て、動物霊とみて差支えないであろう。
実際に霊能者と称して易、八卦を利用している有名な教団がある。
また、何々の神、何々の命(みこと)というようなことを喋るようならば、これは間違いなく動物霊であります。
神仏そのものは、人間の体に、乗り移ることはありません。
なぜなら、神仏は、法そのものであり、慈悲と愛だからです。
如来、菩薩といわれる方々は、そうした神仏の法を説くために、この地上に神の使者として生をうけたのであり、光の天使ではあっても、神仏ではありません。
この辺のことが、これまで混同されていたようです。こ
うした動物霊、阿修羅でも、奇蹟や病気治しをやるといわれますが、これと、神理に適った生活の随伴現象として起こってくる奇蹟とは、自とその内容を異にしております。
第一、その永続性、心身の安らぎという点で、まったく、異質であることを知っていただきたいと思います。
自然現象の循環も宇宙の神理
それではいったい、過去における釈迦の正しい教え、すなわち正法神理とはどういうものか、どういう内容を伴なったものかを述べてみましょう。
正法とは、読んで字の如く、正しい法、法則、自然の摂理、変わりない宇宙の循環をいうのであります。
変わりない宇宙の循環とは、太陽の周りを自転公転する地球そのものの変わりない運行。
そして、その運行の過程において発生する春夏秋冬の循環。
生と死の絶え問ない循環、これです。
こうした変わりない循環が続けられるということは、その循環を循環たらしめているところの意思、エネルギーがなければなりません。
この意思、意識、エネルギーこそ、大宇宙生命本体であります。
これこそが神仏の実体ではないだろうか。
そうして、その意識、エネルギーは、法則そのものであると同時に、慈悲と愛に満ち満ちたものであります。
もしも、この世に、太陽がないとすれば、私共は生きてゆけません。
太陽の熱と光のお蔭で生きて肉体生命を保てるのです。
万物を育む太陽そのものは、法則そのままに何万年、何千万年と熱光を放射しています。しかも、その太陽が、法則の通りに熱光を地上に与えてくれているから、万物は生きてゆかれます。
ですから、法則は、そのまま慈悲と愛でもあるわけです。
人間を称して、小宇宙といいます、なぜ、小宇宙かといえば、人間そのものは大宇宙とつながっており、大宇宙の縮図であるからです。
まず、人体についてみますと、人体は、約六十兆からの細胞から成り立っていることは医科学の証明するところであります。
そうして、心臓、肝臓などの諸器官は、それぞれ特有な細胞集団によって形成されています。
特有な細胞とは心臓が肝臓になったり、肝臓が心臓になることはできないためです。
宇宙に目を向けてみますと、地球は地球であり、火星は火星としての特質を持って、太陽系に依存しているのと同じです。
そうして、各諸器官が、よく調和統一されることによって、人間それ自身の生活を可能にしているのです。
ですから、各器官一つでも欠けたり、痛めば、人間の五体は、全体的に、その機能を弱めることになります。
しかも、人間の五体は、血液の万遍ない循環によって保たれています。
心臓から出された新しい血液は、体のすみずみまでゆきわたり、各諸器官を動かし、再び、心臓に還ってきます。そうして、また、大気中の酸素を取り込みながら心臓から排出されてゆきます。
太陽の周囲を、九つの惑星が、円を描きながら、廻っています。
これもまた循環の法則に従って廻っています。
そうしてその法則を続けることによって、各惑星そのものは、惑星としての役目を果たし、太陽系を形成しています。
太陽系を人体にみたてると、人体と太陽系は、実に、よく似ていることが分かります。
地球や火星の円運動が可能なのも、太陽があるからであり、太陽の熱、光がなければ、こうした円運動、生命の躍動は停正してしまうでありましょう。
人体各部の諸器官が、その機能を果たせるのも、変わりない心臓の働き、血液の循環によってあり、心臓が停止すれば、各諸器官も、その機能を停めてしまいます。
しかし、人間の心そのものは、宇宙の意識につながっていますから太陽系よりも大きく、大宇宙に広がっていることを忘れてはならないだろう。
いずれにしましても、太陽系にしろ、人体にしろ、その機能を調和させているものは何かといえば、大宇宙を支配しているところの意識、エネルギーであり、人間にあっては、生命エネルギーであります。
その生命エネルギーは、大宇宙意識に同通しており、神の子・仏の子といわれる所以も、ここからくるのであります。
そうして、その生命エネルギー、意識の中心が、心であり嘘のつけない、心であります。
その心が、人体各部を調和統一させ、五体を維持させています。
血液の流れも、胃腸の働きも、全て、人間の意識、生命エネルギーである心が指令していることを忘れてはなりません。
ですから、人間が感情的になったり、怒ったり、悲観したりしますと、体のどこかに、支障をきたします。
胃腸などはとりわけ敏感ですから、その働きを弱めることになります。
病は気からとは、この辺の事情、人間の心のあり方を伝えたものでしょう。
特に、怒りの心は相手に向けると相手を傷つけるだけはなく、必ず自分自身をも傷つけることになるものです。
怒りは破壊のエネルギー以外のなにものでもない。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
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コメント一覧
先生、いつも娘がお世話になっておりますAです。
ブログは欠かさず拝見しております。とても目からウロコな事が多く、先生のおっしゃる通り、普段は自身の中に宗教ともいえるよりどころを持っていましたが、最近は先生のお話の中に人生の指針をいただいております。
震災や、先日の高速バス事故で犠牲になられた教師の方など、何も悪人でもなく、必死に生きていた方が理不尽に急死されるたびに、悲しい想いをいだくのですが
すべてには命運があり、死後の命にも意味があるのだと、切ないながらも納得ができるように感じます。これからも拝見させてください。また水曜に治療に伺います。よろしくお願いいたします