孤独のもつ二面性
ひとりの時間
病気で先立たれた御主人の葬儀を済ませて一周忌が過ぎた頃、A子さん45歳は所用があって薄暗くなった街へ出かけていった。
まばゆいばかりのネオンで輝く商店街は、行き通う人々の幸せそうにみえる家族の姿をみてふと立ち止まった。
淋しさが心に溢れてくるのだった。
ハッと我に帰り、振り切るように買い物を済ませて駐車場の車にもどった。
車内は冷え切っていた。
A子さんの心にふたたび淋しさが込み上げてきて溢れる涙を抑えることができなかった。
押し殺した嗚咽とともにとめどなく流れる大粒の涙が膝を濡らす。
賑やかな光景であればある程、対象にある自分の心の空虚感がはっきりと実感できるのだった。
まさに孤独という言葉を発していないだけで、その孤独を思い知らされていると実感したであろうことは容易に察しがつく。
当たり前のことですが私たちは「ひとり」では生きられません。
たとえどれほど好きで深山渓谷にこもったとしても、完全な自給自足をしなければ一人で生きたことにはならないし、それは社会的でもない。
自分の身にまとう衣類、日用品、食料品、これらの全てを手作りというわけにはいきません。このことをみても人のお世話になっていることがわかります。
有形、無形、意識、無意識の支え合いのなかでその恩恵を享受しながら生かされているのが人間ではないだろうか。
その点についてはまさに、「人」という字が示すとおりです。
かといって、一人で居たい人が決して「協調性がない」ということではありません。
何故なら、自分の心のバランスを保てる自律性というものは「ひとりの時間」の中からこそ育まれていく能力だからです。
反対に、「群れ」て協調性だけに気配りをしているようでは、自律性が細く弱くなってしまうでしょうし、周りに気を配りしすぎることで、人の顔色をうかがいながら生きることになっては心を病むことになりかねません。
一方、すべてが順調であるとき、その人は「孤独」に気づくことがないかもしれない。
人間はどのような時に「孤独」ということを実感するのだろうか。
孤独には、それに近い、もしくはそれに含まれる概念が多数存在するようです。
例えば、
他人から強いられた場合において発生する「隔離」、これは犯罪によって刑務所に収監されたり、法定伝染病によって隔離病棟に入院することになったりした場合などに感じる孤独であるかもしれません。
社会的に周囲から避けられているのであれば「疎外」、これは子供たちの社会において発生する「意図的な無視」などによっても感じる感情としてみられるが、大人社会においても同じような事例は少なくない。
単に一人になっている状態であれば「孤立」、これは自分の意思で他を避けることによって一人になっているといえる。
一人でいて、それがただ寂しい(他人との交流を求めているのに、その欲求が満たされない状態)という場合もある。
他には、
他を寄せ付けず気高い様子は「孤高」、これは当人の主観はどうあれ、その優れた性質にも拠り、他が近づき難い状況を指す。気高いとは、高貴、気品、上品ともいえる。
このように、孤独の『孤』という字の持つ意味合いにも二面性があることがよくわかります。
もう少し詳細にひも解いてみましょう。
例えば、どこの家族にでもあることですが、愛する家族を失って感じる感情は、悲しみがあり、淋しさがあり、悔しさが残る場合もあるでしょう。
また、「辛さ」、「ひとりぼっち」、「社会から見捨てられた」という、関係性を断たれたところからくる感情としての「孤独」もあるだろう。
人それぞれに立場が違い、環境の違いによって孤独の感じ方も違ってくるもののようです。
病気をして不安感が募り、孤独を感じる人もいます。
人に無視をされて孤独に苛(さいな)まれている人もいます。
対人関係がうまくいかなくて孤独を感じている人もいます。
「孤独」というこの言葉からあなたはどのような事を想像されるでしょうか。
おそらく言葉の持つイメージはネガティブな要素が多いのだろうと思います。
これまで孤独とどう向き合ってきたのか、つき合ってきたのか。
♪積極的に友達をつくってきたから孤独ではない。
♪仕事が忙しくて孤独なんて考えたことがない。
♪孤独は年をとってから感じるものではないの?
♪いつもポジティブな考え方だから孤独の実感がない。
などと様々な声が聞こえてきます。そしていずれもなんとなくうなずける意見です。
しかし、孤独を味わうことで心の充足を感じることができるのも人間です。
例えば、人、物、情報の洪水から解き放たれ、ひとり山を散策して自然に身を委ねるときに味わえる時間、早朝に外の景色に視線を移しながらいただく一杯のお茶、こんな孤独は動によって疲れた心を開放できる最良の静寂であります。
しかし、あまりにも長い間ネガティブな時間を生きてくると、孤独を良いものとして受け入れられなくなるようだ。
孤独は心のバランスを取り戻す「ひとりの時間」
余白の時間に生まれること
ところで、現在の子どもたちはどうなのでしょうか?昨日は中学一年生の男の子が不登校だということでお母さんと一緒にみえた。
顔はうつむき目には覇気がなく、子供らしい元気がまったくみなかった。
しかし、一時間のカウンセリングを終えた後の彼の顔には赤みが差し、目には笑顔がみえた。
帰りには礼儀正しく挨拶をして帰った。「ありがとうございました。」と。私はたまらずその子を抱きしめてしまった。
「ゆとりの教育」「個性重視の教育」との指針が声高にいわれていますが、塾やお稽古通いに費やされる時間は減っているのでしょうか?
学力の低下も危惧されているようです。
よって、塾の存在意義はますます注目され、その経営手腕、受験の合格率などから公立学校でも塾教師を招いての研究会が開かれている時代です。
低学年から携帯電話を持たされ、忙しいスケジュールを子ども自ら切り盛りする環境のなか、「個性」といわれても、自分の意見を「わがまま」ではなくきちんと表現することすら難しいのではないだろうか?
たしかに子ども部屋にパソコンがあるのはめずらしくない時代です。
それをツールとして使いこなす限り、ITは画期的な利便性があります。
一見パソコンを使いこなしているように見える子どももいます。
ただその膨大な情報を自分の軸でスクリーニング(選別)し、それに踊らされずに使いこなしているかどうかはわかりません。
そのためには、何よりも「考える力」が必要だからです。
私が思うに、「考える力」とは知識、体験、智慧の三つの要素が、何もしない一見ぼんやりとした余白時間において相乗効果を発揮し、高められる能力ではないかと思います。
「ひとりの時間を持つことができない」
自分の時間を持てない、こういった背景には「社会的な関係をたちきった」
こういった否定的な「孤独」だけにからめとられていると考えている人たちからは生まれてこない力なのではないかと思うのです。
必要と無駄
言い換えるならば、静けさの中で生まれる聡明観、ひらめき、発想、インスピレーション、などは「無駄の効用」とも表現できます。
何もしないことが無駄なのであれば、睡眠が一番無駄といってよいかもしれません。
しかし、誰も睡眠を「必要」とは思っても、「無駄」とは理解していないでしょう。
孤独をネガティブなもの、不要なもの、と捉えるかどうか、これは一考の値があるでしょう。
このように必要も無駄も視点を変えることでその意味合いがまったく違ったものになったり、逆転する場合もあります。
その時は無駄な事だと思っていたことが、時が過ぎて環境が変わったり、条件が変わったり、自身の価値観がかわることで「あの無駄があったから今の自分がある」と受け止め方にも大きな変化が生じるものです。
思えば、団塊世代の私は、親にレールを敷いてもらったことがないだけに、中学の頃から自分で考え、夢を持ち、身を立てることを考えていたのでした。
勉強などまったくやる気がなく、生きることと、働くことを考えていたのです。
幼い頃の恵まれない逆境と試練が自分の自律性を育んでいたのでしょう。
小学生の当時は、劣悪な家庭環境と孤独に耐えきれず、布団の中で声を殺して泣いていた記憶は今でも映像となって心の中に残っています。
しかし、この孤独こそが私を人間にしてくれたと解しています。
(次回は10日の月曜日投稿を予定しております。またの訪問をお待ちしております。)
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