なぜ苦しみはあるのかⅠ
このブログを読んでくださる方が、ここに記すことを読むことによって楽な人生を送れるとしたら、それは私の意図とは違うことになります。
私は人生の悩み苦しみを避けて通る方法を述べたいのではありません。試練や逆境に敢然(かんぜん)と立ち向かい、それを克服し、そしていっそう力強い人間となってくださることがブログに書く真の目的です。
潜在的な心(魂)の宝は地上のいかなる宝にも優ります。それは一度発見し身につけたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。
それがどれほど素晴らしいことか、あなたの想像をはるかに超えたものです。そのために苦難から何かを学び取るように勤めることです。
天は耐え切れないほどの苦難をあなたに背負わせるようなことは絶対にありません。なんらかの荷を背負い、困難と取り組むということが旅する魂の本来の姿なのです。
それはもちろん楽なことではないでしょう。しかし、心(魂)の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。
もしも楽に手に入るものであれば、なにも、苦労する必要などないでしょう。また楽に手に入れば人間の心には驕(おご)りが生れます。
痛みと苦しみの最中(さなか)にある時はなかなか得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、心(魂)にとってはいちばんの薬なのです。
あなたの守護霊という存在は、いくらあなたのことを思ってはいても、あなたが重荷を背負い悩み苦しむ姿をあえて手を拱(こまね)いて傍観(ぼうかん)するほかない場合があります。
そこから教訓を学び取り霊的に成長してもらいたいと願い祈りながらです。
知り得たことには必ず責任が伴うものです。特に霊的な事を知り得た者は責任を持たなくてはなりません。
例えば霊的な能力には様々なものがあり、その力にも高低があります。本来どのような能力であろうが、それを使用することで金銭的な利益を得ることは邪道です。
その能力は一個人の能力ではなく天のエネルギーであり守護指導霊の協力においてのみ発揮されるものです。
心(魂)はいったん視野が開かれれば、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔やむことはないはずです。
燦々(さんさん)と太陽の輝く穏やかな日和(ひより)には人生の深さや教訓はなかなか身に沁みません。
魂が目を覚まし、それまで気づかなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲垂れこめる暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。
地上の人生は所詮(しょせん)一つの長い闘いであり試練です。魂に秘められた可能性を試される戦場に身を置いていると言ってもよいでしょう。
魂にはありとあらゆる種類の長所と欠点が秘められております。
本能と感情と理性と知性のバランスが基本となって個性が表面化します。
本能が過ぎた個性は異性に執着し物に、金に、食に貪欲(どんよく)になります。
感情に過ぎた個性は怒りやすく、沈みやすく起伏の激しい性格となります。
理性が過ぎた個性は冷たく他を批判し排他的な言動があらわれます。
知性が過ぎた個性は何かと自己主張の虚栄心と言動から反感を買います。
すなわち人間は最初から人間として地上に誕生してはいますが進化の段階で動物的な下等な本能的欲望や感情もあれば、あなたの個性的存在の源泉である神性も秘められております。
そのどちらが勝るのか、その闘いが人生です。地上に生まれてくるのはその試練に身をさらすためなのです。
人間は完全なる絶対的存在の分霊を受けて生まれてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには、是非とも厳しい試練が必要なのです。
人生のなかでは運命の十字路にさしかかるごとに右か左かの選択を迫られます。
つまり苦難に厳然と立ち向かうか、それとも回避するかの選択を迫られるわけですが、その判断はあなたの自由意志に任されています。
しかし、回避すればそのことがクリアできていない宿題として生涯にわたってあなたの心(魂)についてまわるでしょう。
もっとも、自由といっても完全なる自由ではありません。その時点においてあなたの置かれる環境という制約があり、これに反応する個性と気根の違いによっても選択の仕方が違ってくるでしょう。
物事に対して客観的に判断すれば正しい選択ができるのに、欲心をもって目先の利益やプライドや自己都合で判断すれば誤った選択をして迷路の人生に苦悩することになります。
地上生活という巡礼(じゅんれい)の旅において、内在する神性を開発するためのチャンスは実は誰にでもあらかじめ用意されているのです。
そのチャンスを前にして積極姿勢を取るか消極姿勢を取るか、滅私(めっし)の態度に出るか自己中心の態度に出るかは、あなた自身の判断によって決まるということです。
地上生活はその選択の連続と言ってもよいでしょう。
選択とその結果、つまり作用と反作用が人生を織りなしていくのであり、同時にまた、寿命つきて霊界へ入った時に待ち受けている生活、新しい仕事に対する準備が十分に出来ているか否か、能力的に十分か不十分か、霊的に成熟しているか否か、といったことも地上の成果それによって決まります。
単純なようで実に複雑なのです。作用と反作用は物理的な道理ですがしかし、心にも作用と反作用は厳然として働いています。
自己中心で他に接すれば相手からそれと同じような扱いを受けるでしょうし、心穏やかな慈愛をもって接すれば、やはりそのような慈愛に触れるでしょう。
地上生活に関連して忘れてならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなるということです。
霊界から地上へ再生するに際して各自は、地上で使用する才能についてあらかじめ認識しております。
才能がありながらそれを使用しない者は、才能の無い人より大きい責任を取らされます。当然のことでしょう。
またその才能を自己の欲心のために使用した者は霊界に還ってからそれだけの軌道修正を図るための非常に厳しい反省と心(魂)の調和の修練をすることになるでしょう。それが才と能力を持てるものの責任を取るということです。
一方、悲しみは魂の悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚(しんじん)なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線(きんせん)にふれた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。
魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。
もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それはたいした価値のないものということになります。
悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。
繰り返し述べてきたことですが、宇宙の真理、心の法則は魂がそれを悟る準備の出来た時に初めて学べます。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはないでしょう。
こちらからいくら手を差し伸べても、それを受け入れる心の準備が出来ていない人の場合は霊的覚醒が叶うことはないでしょう。霊的知識を理解する時機(とき)を決するのは魂の進化程度です。
肉体に包まれているあなたが物質的見地から宇宙を眺め、日常の出来事を物的モノサシで測り、考え、評価するのは無理もないことですが、それは長い物語の中のほんの些細なエピソード(小話)にすぎません。
言い方を変えると3次元的思考で4次元世界の広大さを推し量るのは無理があるということです。
心(魂)の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂のこやしです。
魂がその秘められた力を発揮するにはいかなるこやしを摂取すればよいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。
地上生活の目的を幸せになるためとかいう方もいますが、それは単なる魂の向上をはかるためのファクターでしかありません。地上生活における幸せの条件はとても不確実なものです。
失意のどん底にある時は、もう全てが終わったかの感じを抱くものですが、実はそこから始まるのです。
私たちにはまだまだ発揮されていない力・・・それまで発揮されたものより遥かに大きな力が宿されているのです。
それは楽な人生の中では決して発揮されません。苦痛と困難の中にあってこそ発揮されるのです。
金塊(きんかい)もハンマーで砕かないと、その純金の姿を拝むことができないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出てこないのです。
それ以外に方法がないのです。人間の生活には過(あやま)ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。
苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。
何かにすがり真言を唱えて御利益があるとする教えは危険この上ありませんし、邪道です。
何もかもがうまくいき、日なたばかりを歩み、何一つ思い患うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。
何かに挑戦し、苦しみ、天の一部であるところの地上という名の場において、魂の扉を開き、天の器を持ち出すこと、それが悟りを開くということでしょう。
困難にグチをこぼしてはいけません。困難こそ魂のこやしです。むろん困難の最中(さなか)にある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。辛いのですから。
しかし、あとでその時を振り返った時、それが私たちの魂の目を開かせるこのうえない肥やしであったことを知って天に感謝するに相違ありません。
この世に生まれてくる霊魂がみな楽な暮らしを送っていては、そこに進歩も開発も個性も成就(じょうじゅ)もありません。
これは酷(きび)しい辛い教訓ではありますが、何ごとも価値あるものほど、成就には困難がつきまとうのです。魂の懸賞はそうやすやすと手に入れるものではありません。
宇宙は一瞬たりとも休むことなく働き、全存在のすみずみまで完全に通じております。
天は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日も天の働きです。
有限なる人間に宇宙を裁く資格はありません。
天を裁く資格もありません。
地球を裁く資格もありません。
あなた自身さえも裁く資格もありません。
物的尺度が小さくしてはいけません。
物的尺度で見るかぎり世の中は不公平と不正と邪道と力の支配しか見えないでしょう。
当然かもしれません。しかしそれは極めて偏った、誤った判断です。
地上では必ずしも正義が勝つとはかぎりません。
なぜなら地上は肉体と物質の世界であって原因と結果の法則は必ずしも地上生活中に成就されるとはかぎらないからです。時間がかかるのです。
ですが地上生活を超えた長い目で見れば、原因と結果の法則は一分の狂いもなく働き、天秤は必ず平衡を取り戻します。
霊的に見て、あなたにとって何が望ましいかは、あなた自身には分からないでしょう。
もしかしたら、あなたにとっていちばん嫌なことが実は、あなたの祈りに対する最適の回答であることもあり得るのです。
ですから、なかなか難しいことではありますが、物事は物的尺度ではなく霊的尺度(中道の心)で判断するように勤めることです。
というのは、あなたにとって悲劇と思えることが、天から見れば幸運だと思えることがあり、あなたにとって幸福と思えることが、天から見れば不幸だと思えることもあるのです。
それは霊的判断によるちがいです。
また祈りというものにはそれなりの回答が与えられます。しかしそれは必ずしもあなたが望んでいるとおりの形ではなく、その時あなたの心的成長にとっていちばん望ましい形で与えられるでしょう。
天は決して我が子を見捨てるようなことは致しません。
しかし宇宙が施されることを我々人類が地上的なモノサシで批判することはやめなくてはいけません。
きょうの最後に絶対に誤ることのない霊的成長と真実が幾つかありますが、そのうちから二つだけ紹介してみましょう。
一つは、動機が純粋であれば、どんなことをしても決して魂は被害をこうむることはないということ。
もう一つは、人のためという熱意に燃える者には必ずそのチャンスが与えられるということ。
この二つです。焦(あせ)ってはいけません。何ごとも気長に構えることです。
なにしろこの地上に意識をもった生命が誕生するのに想像を絶するだけの長い歳月を要したのですから。
次回は『なぜ苦しみはあるのかⅡ』を述べてみようと思います。
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