仏心


母と子の二人は仕事先のホテルで一緒に温泉に浸かりながら外の景色に見入ってくつろいでいた。                                                            子『お母さん、幸せ?』と問いかける。                                       母『しあわせよ。』                                                   子『うれしい?』                                                     母『とっても嬉しいよ。』                                                子『楽しい?』                                                      母『うん 楽しいよ。』この言葉を返す時、母の眼には幸せな涙が溢れていて声にならなかった。外の景色も涙で見えなかったと母の泰子さんは述べた。
金沢翔子さん26歳ダウン症の書家 5歳から母の泰子さん9段に師事して人並み以上の努力の末に花開いた素敵な女性。彼女の努力をみるならばメディアでいう奇跡の天才ダウン症書家とは言いたくないのだが、しかし、やはり非凡で天才的な才能には脱帽のかぎりです。
彼女の作品を評価する専門的知識も判断力も私は持ち合わせていないが、ただ彼女の作品は優しく力強いオーラで満ち溢れているのが観える。
               金沢翔子さんの『仏心』
中国、唐の時代(約1300年前)の高僧、道吾禅師とその弟子の漸源(ぜんげん)は一緒に葬式に行った。弟子の漸源が棺桶を軽く叩いて中の遺体を指して『生か死か?』と師に質問した。師は『死とも言わじ、生とも言わじ』と答えた。
このように応えた師に、弟子は『師よ何故はっきり答えてくれないのですか?』と迫ります。すると師は『やはり言わじ、言わじだ』としか答えません。
この話は生死の問題を問うた場面を示しています。
師は遺体を示し『死んでるとも言えないし、生きてるとも言えない』と言いたかったのです。何故なのでしょうか。
一方2500有余年前のインドで釈尊が亡くなるときに、息子のラーフラは悲しみにくれ、竹やぶのなかで一人で泣いていました。ラーフラがいない事に気づいた釈尊はラーフラを呼びにいかせます。
そばに来たラーフラに釈尊は『今まではそなたと離れて暮らさなければならないことも多かった。しかし、肉体を失い宇宙と一体になれば、心は常にそなたと一緒にあって、もう永遠に離れることはないのだ。決して悲しむにはあたらない』と言われた。
宇宙即我の悟りを開かれた釈尊ですが、現在この宇宙観については様々な名前で呼ばれています。宇宙、神、心、仏心などです。
先の師と弟子の問答で死か生かという話もこの宇宙観を示した公案(問題)です。
肉体をみればただの亡骸ですが、しかし当人の心(魂)は生きていることを解っているから死とも生とも言えないとの意味で老師は答えたのです。
私たちは肉体を意識するあまりその場の別れがこの世の終わりの如く受け止めてしまう傾向にありますが、実際は本人は死んでなどいないのです。
生きているのです。肉体はあくまでもこの世で生きるための肉体船に過ぎず、人生航路の船長は自分の心であるということです。
何をもって死とするか、生とするか。
見方を変えるなら、この世での死はあの世の誕生でもあり、あの世での死は、この世への誕生でもある。死と誕生は永遠に続く春夏秋冬と同じで宇宙の法則に沿った循環を繰り返す。
人間の心は本来清らかなもので過ぎた欲や妄想が雲のように心に覆いかぶさるから自分の素晴らしさに気づかないのだ、人間の心は仏心に満ちた宇宙とつながっており、その心は肉体が滅びても永遠に続くのだと釈尊は臨終の際に息子ラーフラに言いたかったのです。
私の父も母も、いつも私の心にいます。生きています。
単なる思い込みや観念論ではない。

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Posted by kansindo