危険この上ない業と霊との関わり

生霊
霊障
三次元であるこの世と、四次元であるあの世が異なった世界として存在することを知識として理解する人は今日では少なくないだろう。
しかし、信仰を持つ者のなかにも発生することのある霊障という事実が、どれほど禍を招き、翻弄されることの原因となっているか、そのことがどれだけの人々に知られ、理解されているのだろうか。
これは人間の想念によって発生する心の波動や、声による波動に共鳴したり、引き寄せられたりするために起こる現象をいっているのである。
信仰を持つ者の読経や祈りによって発生する音声波動が、良くも悪くも次元の異なる世界とコンタクトされるからだ。
常識的な考えからすれば、「おかしいではないか。信仰を持っていたら良いことがあっても、悪いことが起こりようがないではないか。」と言われるのですが、必ずしもそうではありません。
信仰を持っているから心が調和されているとは限りませんし、むしろ信仰をもって盲信、狂信することによってエゴをつくりだしたり、執着がうまれたり、拘りが強くなり、排他的になったり、批判的になったりする信仰者がいるのである。
こうしてみると信仰をもつことと、心に執着がなく、偏りがなく、素直で調和され、慈愛に満ちた心であるか否かは別な問題だということだ。
そういう意味から、現実を客観的にみた場合、信仰をもつ者、持たざる者の違いというのは、心の調和度、慈愛の豊かさということをいうならば全くその差はないと言えるかもしれません。
宗教に属さない人々のなかにも信仰を持つ者以上に心の調和された方々、人間として心の器が大きく尊敬に値するような方も多くおられるのである。
逆に信仰をもつことによって組織内での競争意識をあおられ、無理な布教活動によって己の心に自我をつくりだしている者たちも多くいるのだ。
邪悪な霊の干渉は、無宗教者、宗教信仰者の別なく、要は、日頃の感情の乱れやすい人、その起伏が大きい人、心の執着、偏り過ぎた拘り、こういったエゴの部分に引かれて忍び寄ってくるのである。
相談者のなかにもトラブル続きで人生に疲れ、お先真っ暗で希望を見失い、右往左往して困り果てているいる人がいます。
このような場合、邪悪な霊の影響がゼロではないケースもあるのですが、これとて根本的には自分の心の隙間、歪んだ精神構造、すなわち生き方、人生の在り方に起因するものであるということだ。
人間のもつ個性は良くも悪くも、もって生まれた業によって翻弄される場合が多々あるから心して自分を調える習慣を身につけなくてはなりません。
地上の人間に関わってはいけないというのが霊世界の秩序ではあるのだが、しかし、このルールを守らずに自分の都合だけで地上の人間界に忍び寄ってくる心の次元が非常に低い霊達もいる。
地上を去り、然るべき次元の世界まで己の魂を昇華した霊は、決して地上の人間に忍び寄ることはしないのである。
だが、霊現象の根本的原因はとなると、地上で暮らす人間の心が不満や、愚痴、怒り、嫉み、憎しみのために不調和になり、心に歪みをつくることによって呼び込んでいるという真実を知らなくてはならない。
先ず、邪悪な霊の影響を受けると、完全に憑依されてはいない場合であっても、精神状態に乱れが生じ、イライラ、感情の起伏が激しくなる、怒りやすい、悲しみに沈みやすい、自分の感情がコントロールできなくなるということがある。
ただ、霊的に敏感な人の場合は、たとえ心が調和されている人であっても、直感的にこの場所が嫌だとか、この人の傍にいるのは嫌だとか感じたり、あるいは身体で感じることがある。
具体的に一例を述べると、そのような特定のスポットや特定の人間に会った場合に、身体の面では、肩が重くなる、頭重感、頭痛、吐き気、お腹のむかつき、背中が苦しくなる、目がショボショボする、いきなり耳鳴りがする、めまい、ふらつき、ふあふあ感、等々である。
完全に憑依された場合は、目が人間の目ではなく動物的であり、欲望丸出しで、多重人格、平気でウソをつく、人を陥れる、悪い意味での霊感が表出する、当てごとが得意となり自慢する、傲慢になるという言動が目についてくる。
このように霊という存在は、いろいろな事情で地上の人間と関わっているのですが、霊側としては祈りなどに感応してその人の身辺に来る場合がある。
しかし、それは低級霊の場合と高級霊の場合とがあることも知識として知っておかなくては危険この上ない。
だが、自分自身の心が調和されていれば、邪悪な低級霊とは心の波長が合わず、憑依されることはないから無闇に心配するものでもありません。
さて、キリスト教には「死者の霊は最後の審判の日まで墓地で眠っている」という教えがありますが、このような教えは全く事実に反している。
眠っている死者の霊を最後の審判まで無理やり呼び起こしてはいけないとの信仰だ。
ここがキリスト教の間違いであることは、現代のスピリチュアリズムを学んでいる方なら容易にわかることでありましょう。
死者の霊が墓地で眠っているようなら非常に困ったことであるし、墓場が死者の霊で溢れて収集がつかなくなり、ひいては問題が発生することになる。
しかし、その信仰が間違っていることが明らかになった今日では、西洋でもよく降霊が行われるようになり、ウィックランドの『迷える霊との対話』に見られるような地縛霊の救済活動の一環として、霊界側の主導のもとに行われているものもある。
一方、安直に霊を呼び出してお告げを聞いたり自動書記などを受け取っているサークルが、日本でも西洋でもずいぶんあるようである。
が、真理の法則に沿った降霊や救済は稀であり、スピリチュアリズム活動の一環として高級霊団の守護と指揮のもとに行われているもの以外は極めて危険であることを、これまで述べてきた内容をふまえて理解していただきたい。
死について
葬儀会場においてよく見かける光景ですが、親しい人たちからの弔辞が述べられる際に、弔文の内容として、 安らかに眠ってくれ』『ゆっくり休んでくれ』『深い眠りについているだろうな』などの言葉がでてきます。
それでは亡くなってこの世の生命が終わり肉体を去った後の魂は、実際は眠っているのだろうか。
既におわかりでしょう。眠ってはいません。
人間が死に際して、一時的に人事不詳に陥ることはあっても、やがて時間的が経過することで意識がハッキリし、自分の肉体が横たわっていることを目にすることや、家族の慌ただしい光景、親せき縁者の弔問などをみることで自分の肉体生命の死を認識するようになるのである。
私たちは夢の中で「これは夢だ」と思うことがありますが、ちょうどあのような光景とと、死の認識が似通っていると思えばわかりやすいかと思います。
自分の思い通りにならない夢の世界、それはその人の魂の次元の高低という問題が背景にある。
死者もまた自分の思い通りにならないのはやはりそれぞれの魂の次元の相違によるものであるということだ。
例えば、心の自由を得ている人の場合、執着がなく、自由自在であるために死後の行動範囲が広くなってくる。
逆に日頃から執着、我欲、傲慢、驕り、怒り、恨み、妬み、などの不調和な心があれば、死後は非常に行動範囲が狭いものにしかならず、人によってその場に自分を縛ってしまっている者さえいるが、このような霊を自縛霊、地縛霊というのである。
心の垢
死後に然るべき天上の世界に進むにはクリアしなければならない問題がひとつある。
それは、私たちがこの地上に生まれてからその生命を終えるまでの期間に心に積もらせた心の垢、つまり、先にあげたような不調和な想念ために自分が為したこと(他に対して発した乱暴な言葉、相手の都合を考えない行動、自己中心的言動)、人に為した事の数々を省みて原因を究明し、調えるという作業である。
いざ旅立ちというときに、これまで為してきたことに執着したり、未練に心を動揺させたりしていては決して天上の世界に生まれることはできないのである。
心不調和な者ほどあの世では毎日毎日が、霊魂にとって、自分で自分の心を反省し修正しなければならない厳しい日々なのです。
あるとき、相談に見えた方に関わる霊をその人の身体に降霊させましたら、自分が借金を苦に首つり自殺したという霊が、己の所業も省みず、恨み、つらみを語りだした事例があります。
先に述べたように、人間が死んであの世で眠っているのが事実とするなら、降霊しても人の身体を借りて語りだすという現象など起こりえることではないでしょう。
ですから死んだ後に、何もしなくても良い、極楽で休息と恩恵の世界に入る、というのも間違いであれば、永遠に呪いの世界に入るというのも間違いなのです。
自分の行いを反省して改め、心を調和させることができたなら天上界にいけるし、自我我欲のままに業を重ねたなら間違いなく低い奈落の底に行くのである。
一つの事例を話しましょう。
うつ病患者の業
私の所にきて心の勉強をしていた、うつ病を患っていた女性が順調に回復してとても元気になっていきました。
元気になったのはいいのですが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の如く、かつて自分が分からないほど精神状態が錯乱し、邪悪な霊達に憑依され生きる屍となって地獄の底で苦しんでいたことさえ忘れて遊びほうけてしまったのである。
彼女の将来を考えてきつく忠告をしたのだが、元からもっていた魂の傾向性が悪い癖として出てしまった結果、仕事もせずに親から金をせびりながらギャンブルに狂い始めた。
彼女が再び奈落の底に落ちることになるであろうことは忠告のときに話してあったのだが、その通りになってしまった。
自殺未遂で救急搬送されたのである。
これが自我我欲の結果であり、業という己の造りだした魔物の姿だ。
憑依霊は何度外しても自分自身が勇気と不動の決断をもって臨まない限りは根本的解決にはならないことをこの女性は心に落しきれなかった。
人間は、死ねば直ちに仏になって、天地の秘密の全てを知り尽くすのでもなく、あの世とこの世のあらゆる問題を全て解決出来る力を持つのでもないのである。
死んで解決とはならないのが人間の業でもあります。
生きて減らさなくてはならないのが業というものだ。
地上で生活しているときの環境がどれほど経済的、物質的に恵まれて優雅なものであったとしても、あの世での生活は、その人の心の次元に沿った世界で生きることになり、全くこの地上生活とは違うものとなるのです。
それが3次元世界と4次元世界の相違点であり、地上のように偽りのできない仕組み、物質世界と非物質世界の違いということです。
このような法則は大宇宙の摂理であると同時に、神の真理として存在するものである。
この世では目が見えない盲目な人であっても、心が善良で執着がなければ、あの世に行ったときにとてもよく目が見えるのです。
あの世はこの世と違って、霊体エネルギーと心(魂)エネルギーの世界だからです。
反対にこの世で目が見えても、心に自我我欲、執着が強ければあの世に行った途端に光のない無明の世界、闇のなかに身を置くことになる。
だからこの世で無智(自我、執着、欲得)であった人は、あの世でも無智であり、この世で賢明(調和、愛、慈悲心)であった人はあの世でも賢明であるということだ。
あの世において、この世にいた時と同じような精神状態にあり、天国また地獄といっても、それはその人が心の中に造った天国と地獄の反映に外ならない。
つまり自らの想念と行為が心の中に天国も地獄も作り出すことになるのです。
しかし、地獄にも光明をもって手を差し伸べる人たちもいる。
光の使者である霊格の高いものは、奈落の底に下りて来て光を与え、その人が新しい意識の境涯へ進歩するように導き、霊感づける。
だが、相も変わらず自我心のままに慈愛に反発し、差し伸べられた手に対しても素直になれない霊達は救われることがない。
その点についてはこの世の人たちも同じことがいえることで、いくら手を差し伸べても、重ねた己の業ゆえに、悪に引かれて自らを貶めていく者たちもいるからだ。
死んで仏になるというように、死んでしまえば、一切の罪、一切の苦しみから逃れるのではないのである。
如何にこれまでの宗教家である僧侶や牧師はじめ、多くの新興宗教の教祖たちが間違った事を説いてきたか、相も変わらず今なおそのような相談が後を絶たない
間違った宗教家の言うことを正しいと信じてみても、あの世で救われる事にはならないし、逆に想念を曇らせて身についた心の垢を落すのに相当の年月を要することになる。
生きている時に、間違ったことを正しいと信じて死んだ人達は、正しい信仰をして来たという意識だけが強いから、あの世の光の指導霊に反省を促されても、正しい信仰をして来たという意識に邪魔されて、正しく反省することが出来ないのです。
気の毒ではあるが、素直に反省できるようになるまでには時間と年月がかかるのである。
必要に応じて相談者にいつも言うのですが、この世とあの世は、別な世界ではなく、一枚の紙のようなものであり、裏表一体の関係にあると。
だからこの世で生きる「今を大事に」心の成長のために努力しなければならないと。

昨年は多くの方々に訪問していただき心から感謝を申し上げる次第です。

今年からは周一のペースで毎週月曜日にアップしていく予定でおります。
今後とも宜しくお願い申し上げます。
感謝。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になるものがありましたら下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ