闇の灯台となる魂


1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、日本の広島市に原子爆弾が投下された。
広島市の人口35万人(推定)のうち9万~16万6千人が被爆から2~4カ月以内に死亡したとされる。
1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、日本の長崎市に投下した原子爆弾これは実戦で使われた二発目の核兵器である。
この一発の兵器により当時の長崎市の人口24万人のうち約14万9千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した。
広島の原爆投下で16万6千人、長崎の原爆投下で14万9千人、わずか四日で31万人以上の人間が核兵器の犠牲になったのである。
戦争は民族の宗教や思想、イデオロギー、国家の利益が発端で争い起こる。
大きな戦争も小さな争いも暴力には変わりがないし、聖戦などあってはならない。
電車のなかで嫌がる若い女性客にからむ少年に注意したら逆切れされて暴行を受けた事件があった。
そういう時はやり返すべきだろうか。やり返したとしたらどうなるのだろうか。
悪を多めに見たり暴力を援助することになってもよいということは絶対にない。
しかし、『剣を取る者は剣にて滅ぶ』と申します。
私たちの身体は、魂がこの地上で自己を表現する唯一の手段であり道具ですから、それを守るのは私たちの義務です。
が、地上生活に関わることはすべて自分の理性によって判断しなくてはならない。
ですから、ご自分で正当だと思う手段によって身を守ってよいことは言うまでもありませんが、同時にそうした愚かな若者、自分のしていることの善悪もわきまえないほど道を間違えている若者のことを可哀そうに思う心も忘れてはならないだろう。
それは一種の群集心理、劣等感から生まれるヒステリー症状です。
残念ながら中年のおじさん、おばさんにも感情むき出しの争いを公衆の面前で行う人もいる。
つまり自己中心的ではあるが、自分たちの存在を認めさせる唯一の手段としてそういう態度に出て関心を引こうとする、幼稚な自己主張の情です。
正しい霊的エネルギーというものは暴力という形では決して表現されません。
正しい霊的なエネルギーは常に冷静・平穏・安らぎ・落着いた自信の中で表現されるものです。
そうした心理状態が調和をかもし出し、物質の世界と霊の世界、つまり4次元との間の障壁を取り除くのです。
それとは別に暴力は調和を乱します。
激情を噴出させます。
挙げ句にその反動が自分に戻ってきます。
本人にとって何一つ良いことはありません。
これも物に偏った利己性による価値観から起こる物質編重思想の副産物である。
暴力的になっているのは若者だけではありません。
若者はその元気さゆえに衆目(しゅうもく)にさらされやすくて非難の的とされているだけです。
暴力的傾向は私利私欲の追求に目がくらんで人間としての道を見失っている悩める地上社会の一症状といえる。
無明の中で、他人の幸福にまったく無とん着に、ますます暴力的になっていく、しかもそれは人間同士だけでなくて、可愛そうにも、何の罪もない動物にも向けられているのである。
昨日のニュースからの引用。ミニチュアダックスフントなど犬161頭の世話をしなかったなどとして、大阪府警生活環境課などは5日、元ブリーダーで無職、○○典子容疑者(43)=同府和泉市東阪本町=を動物愛護法違反(虐待)と狂犬病予防法違反(予防注射未接種など)の疑いで逮捕した。延べ100平方メートル2階建て民家で飼っていた犬の大半が衰弱していた。
逮捕容疑は先月7~21日、ミニチュアダックスフントやチワワなどに餌や水を与えず、うち1頭に狂犬病の予防注射をさせなかったなどとしている。○○容疑者は、「餌を与えなかったことはない」と容疑の一部を否認している。
府警などによると、○○容疑者は07年5月、ブリーダー業を始めた。当初は約20頭を飼育していた。鳴き声や異臭の苦情を受けた府が何度も改善指導し、今年2月に業務停止命令。3月に廃業した。府警が先月に家宅捜索した際、17頭が死んでいた。
犬は現在、府犬管理指導所などで保護されているが、○○容疑者は犬の所有権を放棄していない。府は新たな飼い主を探すため、放棄するよう求めている。
このニュースも自分の利益だけに執着した人間が生命の重さを軽んじた愚行としかいえない。やがて自らを裁くときがくるであろう。
さて、話しを戻そう。私たちは、全体としての調和ということを考える必要があります。
他の存在へ慈善の心を発揮するには貧乏人の存在が必要だという意見がありますが、そういうものではない。
どのような人に対しても仁愛の心があってはじめて慈善が施せるのであって、哀れな人の姿を見ないと慈善の心が生まれないというものではないのだ。
若者がその持てる強烈なエネルギーを社会のために活用する分野はたくさんあるのだが、不幸なことに、正しい指導を受けていない若者が多すぎるのです。
若者が正しい指導を受けた場合、そして又、霊的な動機づけから行動した場合は、大人が心を洗われる思いをさせられるようなことをやってのけます。
若者が若者としてのベストを見せた時は、敬服に値するものを発揮しますが、道を誤ると手の施しようのないほど惨めなことになる場合が多々あるものだ。
それだけに若者たちを正しく、偏りのない価値判断のなかで育てることが重要でしょう。
私たちは暴力やテロ行為が生み出す陰惨さに巻き込まれないようにしないといけません。
超然とした態度、俗世にあって俗世に染まらない生き方を心掛け、自分の霊的本性、天から授かった潜在的可能性を自覚して、私たちは小さいながらもこの世の灯台となり、自らが光を照らさなければならない。
見よ
飾られし
この世間を見よ
おろかびとは
この世間に溺れるど
心あるものには
いかなる迷いもあることなし
※気づけよ。嘘、偽善、利己主義、自己保存、不満、愚痴、怒り、傲慢、驕り、暴力、虐待、いじめ、争い、これらは全て、足ることを忘れた欲望から発生している。
飾られたこの世の中とは、物や自己の利益に偏った生き方をいうのです。
愚かな人間とは、心のバランスを崩し自分の神性、仏性を見失って溺れた生き方をしている人のことだ。
いつも偏りがなく、執着せず、自分を知る者こそ心ある者といえよう。
きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。またの訪問をお待ちしております。ランキング参加しております。、下のバナーをポチッとクリックして頂ければありがたいです。^_^;