広い慈愛の精神
私の住んでいるところは雪の多いところで、道路に雪が積もり始める初冬になると決まって車スリップの事故が発生する。
ドライバーが雪の路面に慣れるまでのちょっとの間なのだが毎年のことだ。
私の家の前の県道はカーブが二か所ほどあるために余計にスピンしやすく、すべり事故が毎年数回と比較的多いのだが、なかには電柱を折る場合もある。
除雪用に所有する自家用のパワーショベルで、これまで路肩から外れて側溝に落ちた車を何台引っ張り上げてやったことだろうか。それぐらいスベリ事故が多い。
女性ドライバーに声を掛けると、「ジャフを呼んだからいいです」とはいったものの、到着まで2時間以上かかるといわれたということだったので、それでは雪のなか難儀だろうとパワーショベルを引っ張り出して、わずか15分で引きあげることができた。
朝一番の思わぬスリップ事故で大変だったろうが、「助かりました」と、笑顔で仕事に向かっていく見知らぬ人。
お互い人間というものは、他の人が困っているのを見たときに、思いの差はあっても「なにか手助けできることはしてあげよう」と考えるのが自然の情ではないかと思います。
勿論、他の人の難儀を見ても見ぬふりをする、というような姿もときにはあるでしょう。
しかし、そういう場合でも、なにか特別の事情がない限りは、やはり内心ではできれば助けてあげたいとか、だれか他の人が助けてあげればよいのになどと思っているのではないだろうか。
これはおもしろい、大いに難儀して苦しめばよい、などとはまず考えないのではないでしょうか。
やはり、基本的にはお互いに苦しむようなことがない方がいいし、みなが安らかに楽しく明るく生活すること。
だからこそ、他の人が困っていれば、これをできるかぎり助けてあげよう、というような思いやりの心が働くのでしょう。
もともと人間というものは、互いに心を結びあって、大切にしあい、生かしあい、許しあい、助けあって生きてゆこうというような心をもっているのではないかと思うのです。
そういうことをハッキリと示した例が、三年前の三陸津波の被災時に全国から無償の奉仕活動に参加してくださった方々の活躍です。
このことによってどれだけの人たちがたくさんの感動や、安らぎ、そして勇気を感じたことでしょう。
つまり、そういう広い愛の心、慈悲心というものを、本来人間は備えているものだと思うのです。
しかしながら、現実のお互い人間の姿というものをみると、必ずしも常にそういう愛の心、慈悲心が発揮されているとはいえないでしょう。
実際、お互いの身の回りにおいても、また世の中の各面においても、世界をみても、人と人とが、時折、互いに争いあったり、いがみあったり責めあったり、憎しみあったりします。
また作為的に敵対する意識を教育している国の事情というものもみられることもあります。
様々な理由から、人間にはせっかく広い愛の心、慈悲心を本来備えていると思われるにもかかわらず、それがスムーズにあらわれてこない場合が少なくないのです。
これはまことに残念なことではないだろうか。
もっと私たちは、人間として本来備えている人間らしい愛の心、慈悲心というものを、常日頃から十二分に発揮しあって生活し、様々な場での活動を進めてゆくことがのぞましいと思うのです。
ではなぜ、そういう愛の心が言葉や行動に十二分にあらわれてきにくいのでしょうか。
これについては人によってはいろいろな考え方があるでしょう。
しかし、やはり一つには、お互いの心がいろいろなものにとらわれている、だからその本来もっているあたたかい心があらわれてきにくいのではないかと思います。
たとえば、お互いの心が一つの利害にとらわれてしまうと、他のことは忘れて利害のみを争うようにもなり、自分の思うようにいかないとそこに憎しみが生まれて愛の心をかくしてしまう、ということもあると思います。
また自分の意見なり、主張に囚われてしまえば、それを無理して通そうとして他との間に争いを生じることもあるでしょう。
これも闘争心とか憎しみで愛の心を覆い隠しているわけですが、こういう心のことをエゴ(自我心)ともいうようです。
このように、お互いが自分の考えや利害や主張、偏った価値観、自我心などにとらわれてしまった場合には、憎しみであるとか、相手を否定する心であるとか、非難する心が生じて、それがせっかく本来備わっている広い愛の心というものを隠して表さないようにしてしまうわけです。
そういう私も全く過ちがないわけではなく、今でも自分の油断から間違いを犯すことが有ります。
しかし、私自身は自分の間違い、過ちと気づいたときはいつでも、誰にでも、素直に謙虚に謝るという姿勢だけは忘れないでいたいと思っています。
お互いが素直な心になったならば、そういった諸々のとらわれというものはなくなっていくと信じているからです。
誰もがこういう心を忘れなければ、自分の利害にも、立場にも、また自分の考えや主張にも、すべてにとらわれることがないという姿にもなってくるはずであります。
したがって、謙虚で素直な心が高まったならば、お互い人間が本来備えている広い愛の心、慈悲心というものがなにものにも妨げられることなく、そのまま十二分に発揮されるようになるのではないかと思うのです。
広い愛の心、慈悲心
とはいっても何も特別なこととしてあるものではなく、他の人が困っているのをみればこれを助けよう、苦しんでいる人があればなぐさめよ、そしてみんながともどもに楽しく明るく生きてゆくことができるように、互いに大切にし、生かしあってゆこう、というような思いが湧き出ること、またそういった考えをもつようになっていくことではないだろうか。
すなわち、素直な心になれば、人間本来の広い愛の心、慈悲心が働いて、みなが共々に明るく幸せに生きてゆくことができるような社会が生まれ、高まってゆくのではないかと思うのです。
掘り下げて行ってたどり着いてみると、素直な心というものは、そういう広い愛の心、慈悲心にもつながっていると思います。
一方、マスコミのニュースを聞くにつけ心が痛むのは、中国、ベトナム、日本、韓国、北朝鮮、アメリカ、関連する諸外国との摩擦です。
目先の利害に奔走する国の方針に国民は必ずしも納得しているとは限りません。
それは、それぞれの国内でのデモや暴動が物語っています。
政治を先導する立場にある人間も、そういう人たちを選ぶ国民も自分の立場だけを考え、囚われておこなっては、やがては我が身に諸問題が降りかかってくることになるのは避けられないでしょう。
愛や慈悲心というものは、何も個人だけの間で成り立つ心の働きではなく、あらゆる場面で人間の心に持たなければならない宝珠ではないだろうか。
5月26日(月曜日)は「自殺の霊的視点」について投稿致します。
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