自殺の霊的視点について
戦後日本の代表的作家であった三島由紀夫氏(1925年~1970年)が存命であれば89歳にもなろうか。
代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『憂国』、その他があり、唯美的な作風が特徴と知られています。
晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。
1970年11月25日、前年の憂国烈士・江藤小三郎の自決に触発され、楯の会隊員4名と共に、市ヶ谷の防衛省本省を訪れて総監を監禁した。
その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、その約5分後に割腹自殺を遂げた。享年45歳だった。
この一件は当時の社会に大きな衝撃を与え、新右翼が生れるなど、国内の政治運動に大きな影響を及ぼしたとまでいわれているようです。
もうひとり、川端康成氏(1899年(明治32年)6月14日 – 1972年)は、東京大学文学部国文学科卒業。新感覚派の代表的作家として活躍されました。
『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』などで、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品は有名です。
川端康成氏はノーベル文学賞を日本人で初めて受賞した。
しかし、1972年(昭和47年)4月16日夜、満72歳のときにガス自殺でこの世を去る。
三島由紀夫氏、川端康成氏の両氏の自殺が2年の間に相次ぎ、その当時は文学を愛好する者にとっては、悲しい知らせとなっている。
作家の死に至る心のなかまではわからない。
尊敬する作家の死は、愛読する人たちのなかに淋しい思いを感じさせ、無情の思いが襲ってくるものではなかっただろうか。
きょうは特に自殺ということについてこの世的な思考や価値観ではなく、霊的な視点から述べてみたいと思います。
病死も、事故死も、災害死も、また自殺も、肉体が朽ち果てこの世を去り異次元の世界に移動する死という結論は同じであっても、その動機は、人それぞれの立場や、環境、思想によって異なってくるであろう。
ここで申し上げたいこと。それは自殺は人生からの逃避であり、自己保存の現われだということです。
これは何も文学者に限ったことではなく、人間は誰でも、どのような状況にあっても寿命をまっとうして果たすことが本来の死に方ではなかろうか。
すなわち、死に方を人生で学ぶことは、生き方を学ぶことであり、また生き方を学ぶことはそのまま死に方を学ぶことになると思うのです。
死に際して、医療の現場においては課題がたくさんあります。
過度な医療によって本人の意思に関係なく延命処置をすることにも霊的な視点からすれば疑問をもちますが、自然な流れの寿命のなかに旅立つ心の準備がいかに大切であるかということに反するのが、自ら命を絶つということではないだろうか。
自らの人生を全うすることのなかにこそ、心の修行というステージアップの意味合いが含まれているのであり、その人生修行を放棄することは、たとえ世間で立派な人間だと言われている人であっても、どう事情があるにしてもそれは正しい理とはならないのである。
本来、死はあの世の実在を知ることや、肉体への執着を減らすための正しい心の学びをすることによって、怖いものではないと思えるようになるものです。
しかし、私達が自ら望んで両親から与えられた肉体を持って、その生命の続く限り、人間としてこの人生の困難を経験しながら果たしていくという心の修行を続けなくてはならないでしょう。
生ある限りこの肉体を大切にするということが、天から分霊という魂をいただいた人間としての掟だからだ。
特に作家の残したものは、多くの人々が眼をとおして、その心に与える影響が大きいため、人間としての責任は一層重大であろうと思うのです。
小説という作品の中には、人々の欲望をそそり、その心を狂わせてしまうような低俗なものもあるだろう。
しかし一方には読者の心に感動によって涙を誘い、安らぎを与え、知性を豊かにし、調和のとれた心に安らぎを与えるものもある。
その内容は、まちまちである。
人間としての自覚に目覚め、心が調和されている作家の作品は、読者の心の糧となり人生に生きる喜びを与えるものです。
だが、いかに名声の高い作家の作品であっても、心を忘れてしまった作品は、やがて人々から忘れ去られてしまうだろう。
そのような作品が果たして読者の心を豊かにできるのか、疑問が投げかけられるところです。
また、心狭い読者と、心広い読者によっても、作品の受け取り方は異なる。
このことは私自身もブログの読者のみなさんからいただいたコメントの内容を理解することで経験しております。
同じ文章に、気づきと表現する方、批判的にお叱りのコメントをくださる方、その受け取り方の違いはとなると、すべてその方の心如何だと思うのです。
つまり、その作品内容は、読者の正しい心の物差しで判断するしかないということがいえるだろうし、それぞれの気根の違いかと思います。
しかし、作品の内容によっては、多くの読者に大きな影響を与えるし、それによる結果としての現象もまた大きい。
低俗作品の場合は特にそれが強い。
一時期テレビに出てもてはやされていた有名な女性霊能者の著書を読んだことがある。
その内容は霊的な諸問題と人生訓の内容だったが、文中のなかで自身のことを語る「苦労して生きてきた甲斐があって今ではベンツを買えるまでになった・・・・・云々」とあったのを読んで私は愕然とし、そこから先を読む気にはなれなかった。
著書全般にいえることであるが、その内容によって読者の心に不調和を与えたその責任は作者の側にもちろんあるが、しかし、その内容にある毒を食べた場合は読者自身にもあるということではないだろうか。
テレビを見てヒントを得て犯罪を犯す人間の場合もまた悪い毒を食べたことになる。
その罪の償いは、天の子である人間に課せられた掟なのである。
こうしてみると作家の責任は大きいと言わねばならないだろう。
心の働きというものは、ノンフィクションであれフィクションであれ、そのストーリーの主人公の心になりきって筆を進めているうちに、作家の心の中に造り出されていく想念が、それぞれの作中人物の心に同化し埋没してしまうのである。
作者が、正しい心の物差しを忘れて、創作中の不調和な人物に陶酔してしまうと、作者の心は、やがてストーリーの主人公にすり替えられてしまうことにもなる。
それだけに低俗な内容や争いの内容、殺戮な内容には特に心を調えるという一日の終わりに反省が必要である。
このように執筆活動の終わりに心の調和を図ることをしない場合、不眠からノイローゼという不安定な心の状態を造り出してしまいかねないのである。
いかに名作を書き残した作家であっても、その心の状態は常に変化しているということにおいて我々と何ら変わるものではないということを知らなくてはならない。
いつの間にか、その心の状態が、創作の中から生まれてくる不調和な心に応じた地獄霊に憑依されて、ついには正しい判断を失ってしまうということだ。
川端家に出入りしている人の後日談で残されているお話しがありますが、『川端さんは始終、霊に憑依されて不眠症で悩んでいられた』ということです。
また、ある川端康成氏の最も近い人で、その人がいわく川端家には氏の存命中にも幽霊が出てきたと言われておられるようです。
では何故このようなことが起こるのかと言いますと、晩年の作品は暗くその作品を書くときの心の暗さが未成仏の霊を引き寄せたということでしかない。
その地獄の霊達に憑依されることによって心を支配されて発作的に自殺をしてしまったものと考えられます。
一方、三島由紀夫氏のことですが、この話しはある方のお話しであり実話です。
三島由紀夫氏のお母さんが、『由紀夫さんがしよっ中出てきてその姿がはっきり見えてねむれない。幻覚症ではと診察にいったら、これは現代医学では治しようがないとことわられた』と。ある人が書いていたという。
三島由紀夫氏のお父さんの霊もいっしょに出るのだそうである。
自衛隊本部に斬り込んで人を斬り、自分も割腹して果てた三島由紀夫氏は一部の人たちのあいだでは愛国心の権化だと讃えられているが、その当時の霊は浮かばれていなかったわけである。
さて、日本人として初めて昭和四十三年にノーベル文学賞を受賞された川端氏は、新感覚派として『伊豆の踊子』、『雪国』などの代表作があります。
しかし、晩年の氏は暗い作風が多く、そのことを指摘した書籍が出されていました。
昭和四十七年に自ら命を絶たれたのですが、人間の心の世界というものは、「一念三千」と言って、心の針は悪にも善にも自由に向けられますし、それがまた現実となります。
例えば、役者が暗い役ばかりを演じたり、作家が暗い文章ばかりを書いていると、心根が暗く不調和な人の場合、あの世の暗い霊と同通し正しい自覚を忘れ、支配された結果として自ら命を絶つということが起こりえるのである。
最近はホラー(恐怖)、サスペンス、残酷、妖気などの暗い本が多くなりました。
売れるからという理由で、際限もなくそのような本が出版されることを私は憂います。
三島由紀夫氏に関しては、だいぶ前にいくつかの三島由紀夫の「霊界通信」なるものが出版されていましたが、私は次のように考えています。
あの世は心のままの世界と言います。
三島氏は自らの信ずるところを訴えて陸上自衛隊に斬り込まれたのでしょう。
そして計画を完遂することなく切腹自殺をされたのですが、その扇動の心は、そのままの心の世界、つまり右を向いても左を向いても、自分の考えを主張する者達ばかりの世界で、誰も聞いてくれない自論を延々と続けるという苦しい世界です。
そして、自らの死をも自覚していないのです。
そのために、三島氏のお母さんに救いを求めるというか、幻覚症ではないかと思われるほどに傍に寄ってきて姿を見せるということになるのです。
死の直前、死後に悟った人は一時間もこの世にはいないし、この世の人間に関わって姿を見せるようなことはしない。
そして、肉体や遺骨に、あるいは生前の出来事、物に執着することなく天上界へ帰って行く。
このことから考えると、三島氏の霊魂は、この世に思いを残していたようです。
また、自害後一年くらいして氏の遺骨が霊園から盗まれるという事件がありましたが、このような事件を含めて、いよいよこの世に執着し、天上の世界には帰ってはおられなかったと思います。
そして、この世の同通した人に霊界通信を送って、自らの思いを遂げようとしているのです。
暗い世界の霊にとって、同じくこの世の暗い人間の心がエネルギー源となることは当然の理であります。
特に、自殺者の場合、神の光を閉ざしているために神より光りのエネルギー補給ができないのです。
そのようなことからも分かるように、反省が神の慈悲といえるならば、生前の一つひとつを反省、修正することによってのみ、神の光、神のエネルギーを受けることができ、光の世界、天上の世界に帰ることができるのである。
ところが、自分の罪業を悔い改めることなく、神に詫びることなく、反省、修正のできない霊魂は、反省ができるまで地獄の暗い世界に定住することになるのです。
以上のような理由によって、三島氏が霊界通信を送ったという考え方と、もう一つは、あの世の困った動物霊や地獄霊が三島氏の名をかたって霊界通信をしているかもしれないという考えかたもできるということです。
困った霊は、人があっと驚くような名をかたって出てくるからです。
ここに「偏らず正しく見る」ことがいかに大事かということと、いかに地位、名誉があっても、心の針の向け方いかんによっては、正道を誤ることになるのだということをわかっていただきたと願うものです。
我が心の師は言い残しました。
「人間の価値は、その人から地位や名誉を差し引いたものだ」と。このことばを大切にしたい。
川端・三島の両氏について長々と述べましたが、いつの日かそれも早いうちに天上の世界に帰って行かれることを願うものである。
自殺についてもう一度考えをまとめておきたい。
人間の目的は、己の魂の向上とそれによって成されなくてはならないユートピアの建設ではなかろうか。
あの世からこの世に生まれる時は百人が百人、今度こそ自分の業(カルマ)、心の傾向性を修正し、善を為し、この世を調和すると決意して出生します。
ところが地上の大気にふれ、この世の環境に染まってゆくうちに、こうした目的を忘れ、自己保存の想念に支配されてゆきます。
自殺の心理は、その極点に近いものと思っております。
いうなれば自己保存の自意識が過剰なために為された、自らそうした行為であり、結果的に神に対する冒涜、反逆であって人間否定を意味することになるだろう。
ですが、心やさしく、真面目で悪を犯さず、自分に厳しく遠慮がちで、純粋な個性をもって一生懸命に生きてきた人間の自殺。
しかし、純粋過ぎるという言葉では片づけられない。
純粋さもバランスを失い、そのことに偏り過ぎると傷つくことになる。
この世の中は善と悪が混在する世界である。
それは物質世界であるからだ。
肉体、物、金、知識、名誉、地位、職業、何一つとっても偏ると、心のバランスを失う原因と成り得る事ばかりである。
この世は悪がはびこってはいるが、心やさしい人々もいる。
そして善を為している人たちもいる。
決して悪ばかりではない。
上司によるパワハラの職場において、気の毒なほどいつまでも心に残してはいけない相手の言葉に傷つき、心から離せないで引きずっているときは、心が重く苦しく、そして負担になっていることにさえ気づけないほど自分を見失っている。
できない自分にいら立ち、自分を奮い立たせようとするが、心は晴れない。
完全にやり遂げようとすればするほどできない自分とのギャップに苦しむことになる。
できない自分を認めることができない自分が自分を苦しめていることに気づけないでいるケースもある。
苦しみは自分の心の視点を変えてやることで負担が軽くなるものですが、渦中の人にとってはそのようなことに思いが至ることは難しいだろう。
子どもでも大人の場合でも、優しい子だったとか、真面目な人だったとか、素直な子だったと追憶するのだが、それだけでは済まされない心の闇の実態を知っておく必要がある。
亡くなった方にムチ打つつもりはないが、自ら命を絶った人の場合、死んで楽になることはない。
死の瞬間の心は自責の念や、他への恨み、生きることへの諦め、悔しさ、悲しみ、地上への未練などで不調和の極みである。
いずれにしても死は、現世のままの連続体だといえよう。
その意味で、死の瞬間の心の状態がいかに重要であるかということなのですが、この世で不調和な人は、あの世に逝っても、当分は心が調和できるまで時間を要することになる。
時間というより年数といえる。数十年、数百年は瞬きの瞬間といえるでしょう。
ただ、あの世の場合は、心的変化がこの世よりも遥かに精妙な世界なので、肉体がないが故に、思うことがそのまま現象化する世界だから、不調和な心もまたそのまま現象化するということだ。
逆に気づき、あの世の場合、悟ればいっきに天上の世界まで上昇していくことになる。
自殺は、他を傷つけて殺人を犯すことより罪が重いという表現をする考え方もあるようですが、しかし、それは自殺がどれほど心の罪として深刻な状態であるかということのために殺人という言葉を借りたのかもしれません。
だが本来は殺人と自殺を比較して云々というような軽んじた観念遊戯の問題であってはならないだろう。
一人の人間が複数の人間を殺人する事件まであるのですが、これでも比較して自殺より心の罪は軽いといえるであろうか。
自殺も、殺人もさまざまな内容を伴い、各種にわかれていて同情を禁じ得ないようなことがおこっています。
たとえば家族の迷惑を考え、ひと思いに生命を絶っていく療養生活の長い老人。
老いた息子が母親を世話しきれず首を絞めて殺すという困難な介護の悲しい結末。
形はどうであれ、いちばん問題なのは、本人のその時の想念のあり方にありますが、しかし客観的に、私ならこうするという余地のある自殺は、もっとも悪い結果になるでしょう。
自殺と殺人の罪を比べて云々ということではないが自殺者の死後の世界は暗黒地獄です。
一寸先はわからぬ真暗な穴倉のようなところに閉じこめられての苦しみの連続です。
鼓膜が破裂しそうな轟音が鳴り響くどころとか、得体の知れぬ生物が意識のなかに入り込んでかきむしるのです。
頭痛や幻想に襲われても、この世では麻酔や疲労が救いになって眠ることができますが、暗黒地獄ではそれができません。
意識だけはハッキリしており、それでいて真暗ですから自分の体がどこにあるのかもわかりませんが、これは自殺した霊を降霊した際に語った言葉の内容からもわかることです。
自殺は「光」を否定した想念ですから、こうした暗黒界に自らを引き込み、客観的に説明のできない自殺は、その苦しみが長期にわたります。
ゆめゆめ、こうした想念に支配されないようにしたいものです。
次回は29日(木曜日)に『安楽死について』投稿の予定です。
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