お布施の真意

御霊前
交差点で停止した私の前の乗用車の男性、助手席に手を伸ばし何やらバックから取り出した仏前用の、のし袋、中からお金を取り出し、黒の財布に入れ替えている様子が、後続でワゴン車の私からよく見えていた。
きれいに剃った坊主頭で袈裟を羽織った僧侶、青信号に変わるまでのわずかな時間の光景であるが、複雑な気持ちで苦笑しながら見ていた私の印象である。
布施という言葉は、葬式や宗教界のこととして、いかにも抹香くさい響きを与えますが、本来の布施の意義は、感謝の心を報恩として形に表わしてゆくことでしょう。
物を献ずる、お金を上げることもその一つですが、人にはそれぞれ得手、不得手や、事情もありましょうし、自分のもっともしやすい方法で人々に奉仕すること、これが立派な布施になるのです。
布施は何も宗教界や葬儀のことに限定された行為ではないといえます。
その意味で、正しい生き方の法則である正法から布施を抜いたら正法でなくなります。
なぜかというと、布施は、その法則(偏りのない調和された生き方)を信じ、真理を日々の生活に行ずる者の証しであるからです。
正しい生き方の法則には三つの柱があります。
その一つは大宇宙を支配する大意識であり、
その二は転生輪廻であり、
三番目は慈しみの心と愛の心です。
布施の行為は慈悲の現われなのです。
慈悲は宇宙を統(す)べる意識と同調する私たちの心から生まれます。
心に無理がなく
過去の理不尽にも縛られず
過去に心を奪われず
きょうの時間を
足ることを知り
愚痴らず
怒らず
何事も怖れず、悲しまず
また、先を憂えず
気負わずに
ゆっくりと歩み
自分を信じて諦めず
正直、親切
そして、愉快に勇気をもち。
自己の人生に対して
常に調和と慈愛を失わぬ
おだやかな
生き方をしたい。
自然体でありたいということです。
それはちょうど、万生万物に熱と光を惜しみなく与え、生きとし生ける者に、エネルギーを供給し続けている太陽の姿です。
このような天の法則を行ずる者は、当然このような立場に立って、人びとに接して行くものでなければなりません。
天の法則を信じながら行為として布施ができないようでは、その人はまだ本当に天の法則というものを理解していないということになりましょう。
私たちは、現実に生かされています。これを否定する者は何人もいないはずです。
米一つ作るにも、自然の環境、自然の恵みと、人びとの協力があってはじめて可能なのであり、洋服にしろ、靴にしろ、そのほか諸々の生活用品は、すべて自然の条件と人びとの協力の賜です。
こうした現実を見るならば、感謝の心が芽生えてくるのは当然なことです。
今日の我が国は、物資の洪水といってもよいほど物が豊富に出回っていますし、金さえ出せば何でも手にはいります。
そのため、ややもすれば、辛い立場で働いている人々の陰の協力に対する感謝の心が失われ、なんとはなしに過ごしてしまいます。
人間は自分を過信したり、感謝の心が失われてくると、動物以下になりさがってしまいます。
どんなにうまいことを百万言しゃべっても、行為のない人が行くべきあの世の姿というものは、想像以上の苦界であることを知るべきです。
多くの場合、その事実を知る手がかりがつかめないために、人は逃避的になったり、世をうらんだり、親を憎んだりしてしまいます。
よくよく心しなければなりません。
どのような厳しい環境、理不尽な環境に生まれようと、心無い言葉を親や周りの人々に浴びせられようと、そのことを捨てないと自分自身が安らかにはなれないのです。
人はまず素直に、今ある生活環境に目を向け、生かされている現実に感謝しなければなりません。
正しく生きたいと願う者は、このような現実を素直に認め、感謝の心を報恩として、形に現わして行くものです。
慈悲の心は宇宙を統べる意識の心であり、その心は布施となって、無理なく、自然に行えるようになることが大事です。
魂の前進、向上は、布施という慈悲の菩薩行を通して、はっきりと自分の心のなかに約束されましょう。

下は昨年6月の読売新聞に載った記事ですが、

葬儀で僧侶に渡す「お布施」を巡り、東京国税局などの一斉調査で判明した僧侶派遣会社や葬儀会社約10社による計約5億円の所得隠し。

複数各地の派遣会社に登録して働く僧侶たちは、「5割以上をピンハネされた」などと、お布施を業者に還流させる仕組みの詳細を明かす。

なかには「他宗派の僧侶を装って法事をさせられた」などの証言もあり、僧侶派遣ビジネスの不透明な実態が浮かび上がった。

「実家の寺の副住職としての収入だけでは食べていけない」。埼玉県内の僧侶(46歳)は約10年前、複数の派遣業者に登録して最近まで仕事を続けていた。

派遣業者に支払う仲介手数料は「お布施の半額」が基本だったが、時には、お布施35万円のうち、25万円のキックバックを求められたこともあった。

交通費や宿泊費、食費などは基本的に自腹。「5割以上のピンハネはつらかった」と振り返る。節約のため、格安のビジネスホテルかカプセルホテルを選び、食事はコンビニで済ませた。

派遣業者への支払いは振り込みが多かったが、現金書留を指定されることもあった。「裏金にするのだろう」と感じた。

こうして僧侶から派遣業者にバックされたお布施の一部は、多くの場合、派遣業者に僧侶派遣を依頼した葬儀会社に対して紹介手数料やリベートとして流れる。

お布施は数万~数十万円で、葬儀会社の取り分は3割程度。所得隠しが指摘された僧侶派遣会社「〇〇・〇リ〇オ〇」は、僧侶から受け取った紹介料の一部を収入から除外し、葬儀会社への手数料やリベートに充当。

葬儀会社もリベートを簿外で受け取るなどしていた。要するに裏金として表に出さない金となる。

ある葬儀会社幹部は、リベートの一部の使途について「患者が亡くなった時に紹介してもらえるよう、病院関係者らを接待するのに使った」と明かした。

こうした仕組みが施主側(遺族)に伝えられることはまれだ。〇〇社から葬儀に派遣された僧侶の一人は「施主は読経の対価としてお布施を払っている。施主に実態は知られたくない」と語る。

僧侶の宗派をごまかして派遣するケースもある。

ある派遣会社から法事の仕事を受けていた関東地方の僧侶の場合、いつも知らない寺院の僧侶を名乗るよう求められていた。宗派も異なり、法事会場で「~~寺の副住職さんです」などと施主(遺族)に紹介されるのが後ろめたかったという。

他宗派の四十九日の法要で、重要な「位牌入魂」までやらされ、その宗派の作法が分からず、自分の宗派のやり方でごまかしたこともある。「とんでもないとをしてしまった」と、良心の呵責に耐えかねた。

以上、上記の記事は全て、「布施」というお金にまつわる葬儀会社と、僧侶の派遣会社、そして僧侶の関わりのなかで発生している利益追求の問題である。

資本主義の中では経済が重要であることは否めない事実ではあるが、ただ単に利益を追求するあまり、他を泣かせてまで儲けようとする営利主義は悲しみさえおぼえる。

それは、一般企業のみならず、宗教の世界でも全く変わることはなく、寄進する浄財もその多寡によって教祖の顔つきが変わるなどは論外であるが、その論外があるから困り者である。

そのようなところには、真の教えも導きもあろうはずがなく、必ずあとで泣きをみることになるであろうから、即刻離れるべきである。

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