知識は道標・智慧は心に集積された生きた経験
知識と智慧(ちえ)について、これを同一にみる人はいないだろうが、この知識と智慧の確たる違いはとなると、なかなか答えきれないところもあるだろう。
つまり、ここからここまでが知識であり、そのほかは智慧だとはなかなか区別がつけ難いからだ。
智慧とは、心に内在された生きた経験の集積である。
生きた経験というのは応用がききますから、どのような問題であっても工夫が湧き出て解決へと展開されるのである。
知識は、この世で学んだ諸々の知識それをいう。
大学で学んだ知識が実生活にどれほど応用が可能か。まず通常は十の知識のうち、一つか二つではないだろうか。
学んだ知識が実際に活かされてどのような問題に対しても応用が利くまでには幾多の経験があって初めて智慧となり得るのである。
学者や特殊な職業の人ならいざ知らず、社会に出た人々にとって、知識の応用範囲は、本当に微々たるものにすぎない。
知識を応用してそのまま実生活に活かそうとすると、大抵は失敗をする。
更に、知識に偏りすぎて事を為そうとすると、暖かみのない冷たい人間となりがちで、対人関係において反発を招き、相手は口にこそ出さないが避けられる人となってしまうものだ。
知識に偏るということは、体験をふまえて調和された言動とは違い、押し付けになりかねない。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい(夏目漱石の草枕から)
私が若いころお世話になった上司のご主人が大学時代には経済学を専攻して学んだ経営コンサルタントであり、会社経営の指導者として働いていた。
さまざまな会社に招かれて講師をしていたが、やがて自らも会社を立ち上げたが失敗をし、負債を抱えこみ、倒産して終わってしまった。
世の中の大学教授や学者が、政治や事業をやったのをみればわかる。成功した例はきわめて少ない。
これは、知識は人一倍あるにもかかわらず、これまでの業界の流れを把握する、現状をみる、先を読む、ということに加えて、客のニーズに応えるための工夫と智慧が足らず、消費者の心をつかんでいないという意味では展開に甘さがあるといえるのではないか。
何事も知識や技術だけで事が成されるのではなく、人間はすべて対人関係のうえに生かされているということを忘れず、謙虚さと素直さを失ってはならないだろう。
ほんとうの智慧というものは、対人関係においても、お互いを円滑に運び、自分の中には安らぎをもたらすものである。
処世術に関心をもち、正しさを意識し、知識豊かな者がなぜ他に対して敵対する心を持つのだろうか。なぜ批判をし、裁くのだろか。
間違った人たちを批判し、裁くほどに自分が苦しくなることの道理は、人間の心に備わった神性仏性がそうさせるのである。
その神性仏性である人間の心は、自分がどれほど正しいと思っていても、敵対心や、批判心を持った時点で己の心を蝕むのであり、肉体の健康さえも脅かされるものだ。
生活の場は勿論のこと、経済の動きは生き物と同じであり、時々刻々変化している。
昨日の知識は今日には役立たないことの方が多い。
変わりゆく知識だけで企業が成り立つものでもないし、その知識だけで人間を動かせるものでもない。それは企業に限らず、個人同士の関係でも何ら変わるものではない。
知識が豊かな人ほど陥りやすく、気を付けなければならないのは、あまりにも理論的に過ぎて分別臭くなり、他人に避けられたり、最悪は嫌われる場合もあるということである。
人間が人間を動かすのですから、人間の心というものを十分に理解しておく必要があるし、常に変わる状況に対しても知識を超えた智慧をもって臨むことが要求されてくるものだ。
今日の医学は百年前より長足の進歩を遂げている。しかし医学の進歩と共に、新しい病気がふえている。
次々と新種の病気が現われ、医学がそれについて行けぬというのが現状のようだ。
これについてある人はいう。
医学の進歩があったから、これまで未発見の病気が発見されたのだ。もともとそうした病気があったけれども、医学が幼稚だったから分らなかったのだと。
またこれまでの医学は治療医学で予防医学は未開拓である。そのために病人が後を絶たない、ともいう。
私は現代医学を否定するものではない。
医学の分野で治せる病気も多いし、そうした治療をした方が良いという場合もあるからだ。
ただ病気の八割近くは、物理的治療では治らぬことが多いという現実を見逃してはならない。
なぜかというと心が病気をつくっているからである。
新種の病気が医学の進歩と並行して現われてくるのは人間の心が、モノを生み出し、時代と共に欲望の方向へと変化しているからであり、それが肉体に現れているということなのである。
つまり、精神の不調和が肉体に与える影響は甚大なものがあるということだ。
これまでの西洋医学は、物質科学で、物理的治療のみにウェイトが置かれてきているところもあり、その意味では、人間の心に ついての理解が欠けていたといえるだろう。
だから、物質科学としての医学は進んできたが、病気の間口は、時代の変化とともにひろがっていくため、医学と病気は絶え間のない競争関係におかれているということだ。
私がここでいいたいことは、知識と現実である。
医学という、いわば科学知識の頂点をゆく学問すらも、病気という現実の前には多くの問題をかかえているという事実である。
学問、知識にはある一定の限界がある。
私達の生活の場は、知識や学問によって支えられているのではない。
といって、学問、知識の必要は今更述べるまでもないが、要は、私達の毎日の経験が、私達の実生活を活かしているということである。
いうなれば毎日の経験から生み出された生活の智恵が、私達を支えているのである。
どんな職業にしろ、あるいは家庭にあっても、知識だけでは計り得ない何かがある。
その何かとは経験である。
経験によって習得し、はじめてものの用に役立ってくる。
昔から、覚えるより慣れろ、という諺があるが、どんな職業でも、一人前になるには三年、五年の歳月を必要としよう。
大学を出て、就職してもスグには役立たない。
大学を出たからといって、十人が十人、指導的地位に立つとはかぎらない。
私の中学のときのクラスメートが家庭の貧しさのために高校にいけなかったが、彼は建設会社に就職して毎日現場で泥だらけになって働き、やがて認められて独立した。
彼は今、社員を抱えて建設会社の社長として立派に社会に貢献している。彼は中卒である。
小学校だけでも立派な社会人として、大会社の社長をこなして行く者もある。
こうした例は、その人の経験と努力によって智慧を出し得られたものだ。
実社会での生活の智慧が、それをさせたといえるだろう。
本来、智慧とは何か。
智慧とは生きた経験の集積である。
その集積が、縁にふれ、おりにふれて、時々刻々変化する事象に対して、通常はひらめきとなって、人によってはもっと具体的に、適切な判断となって現われてくるものだ。
智慧は、知識や頭脳の働きからは生まれてこない。
智慧は、心から、生じてくる。
頭にいっぱい知識が詰まっていてそれにこだわると、智慧は生じ難い。
智慧は心に苦悩や執着があると出てこない。
知識が智慧の湧現を押さえてしまうからだ。
智慧の宝庫は、潜在意識にある。
潜在意識が開くと、智慧が流れ出してくる。
知識は頭脳への蓄積であり、それはわずか10%の表面意識の領域でしかない。
仏智という言葉があるが、仏智とは潜在意識の奥底から泉となって、表面意識に流れ出した偉大な波動であり光である。
見えない世界が見え、五官で判断がつかない問題が解けてきて、日常生活をより豊かにしてくれるものだ。
私の仕事は整体師である。体のバランスのことなら大抵のことはわかる。
ところが宗教的な知識や精神科や心療内科の医療現場で駆使するような知識はプロからみたら全くゼロに等しい。
だが、私には悩める人々の心にある闇の部分がわかるのである。
心療内科に通院している人たちが受けてきたカウンセリングや投薬治療の内容で回復に向かえない人たちの多いのには驚くばかりですが、それでも縁あって私の所にきた方々は改善されて薬から卒業していく。
相談者の中には他県からの方もいます。電話やメールで顔を見たこともなく話したこともない人から突然相談をうける。
するとその人の心の状態を波動として理解できてしまう。
但し、そのことをすべて話すことはできない。人によっては指摘されたと感情的になることもあるために段階を踏んで話す必要があるからだ。
こうしたことは知識からは決して生じてこないだろう。この世での知識以前の生きた経験がそれを教えてくれるのである。
人には皆、過去世がある。
転生輪廻の生きた経験が、人それぞれの潜在意識に内在されている。
その内在意識が、心の窓をひらくことによって、流れ出てくるのだ。
既に述べたように、心の窓は、正道(偏りのない生き方)に適った生活をすることによって開く。
すると、その人の過去世(潜在意識)の経験されたものが、表面意識に流れ出て、人生の水先案内をしてくれるのだ。
もちろん、人の過去世はまちまちである。
正道(偏りのない人生)を学んだものもおれば、欲望の中で一生を終えた者もいよう。
したがって、心の窓がひらいたからといって、なんでもわかるとはいえない。
都会人に米をつくれといっても、田植え一つできないのと同じだ。
過去で経験しないものはわからない。
しかし、こういうことは、いえるのだ。毎日の生活が、正道に適っており、そうして常に努力を惜しまない人であれば、守護霊のほかに指導霊がついて、その人の努力に応じたメッセージを直感として与えてくれる。
だから、過去世で経験がないからといっても、心配するには及ばない。
その人の毎日の生活が正道にそった生活をしていれば想像以上に智慧が働きインスピレーションとなって表出してくるのである。
その一方では、残念ながら智慧のほかに、悪知恵というのがある。
世間には悪知恵を働かす者が非常に多く、そのためにいつの世も常に不安と混迷から抜け出せない。
個人のみならず、公人、地位あるもの、権力者にも悪知恵を働かせる者がいるのだが、悪知恵を霊的にみると、邪悪な霊や、動物霊(狐、蛇、下層階の龍など)などが人の意識を支配すると悪知恵が働いてくる。
自己保存、我欲、人のことはどうでもよい、という考え方が強くなると、こうしたものが憑依してきやすくなる。
また、悪霊や動物霊が憑くと、病気にもなりやすく、医者に行っても、なかなか治らないが、そうした病気という現象のほかに、人の心をあやつり、威張りたがる、人のものを横取りする、独占したがる、人情酷薄(にんじょうこくはく)、ということにもなるだろう。
人も十人十色ならば、地獄霊、悪霊や動物霊もさまざまである。
しかし、仏智とか、守護・指導霊から湧いてくる智慧は、調和である。
人を生かす智慧である。他を生かす智慧である。
人を陥れる悪知恵ではないのだ。
私達はこの点をよく知って、正道(偏りのない中道の生き方)に適った生活を送らなければならない。
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