業・カルマの真実

怒り

人間の欲望は向上発展の原動力ともなりますが、ともすると自分だけの欲望を満たそうとして他と争い、対立しがちになります。

しかし、争いや対立はお互いの心を傷つけ、怒りを増幅させ、悲しみを持たせ、不幸にするだけである。

私たちは、常に、心に協調性をもって、偏ることのない生き方をすれば、欲望は適切に制御され、個人に対しても、共同生活の上にも、社会のなかにも、より好ましい姿が生み出されてくるでしょう。

自分の心の中に、拘りがある為に、自分が為さなければならない事柄を見失って、別な事を考え、いま自分は何をしなければならないのかという優先順位に気づけないでいる、或いは、自分だけの欲望の為に、別な事を優先した間違った行動をしてしまうのも人間である。

これらはその人間の業(カルマ)に引かれた弱い心といえるだろう。

人間の業はどうしてつくられ、そして、どういうものを業というのだろうか。

きょうは 業想念について述べてみます。

業を称してカルマともいっています。

カルマとは強い力でグルグル回り続ける性質をいい、これに足をすくわれると人間はなかなかここから解脱(げだつ)できなくなります。

業のとりこになると、その人の人生は灰色になります。

人間の業はどうして生じたかと言えば、それは転生輪廻の過程において生じたものです。

『最初の人類は、神の意を体していましたからこうした業は身についていませんでした』と、我が心の師は話しています。

ところが、この世に生まれては死に、生まれては死んでゆくにしたがって、人間は心に黒い想念を上塗りする人たちもいたのです。

そのために人生は、まずその黒い想念を払うことが課題となり、その目的を果たすことが地上の平和をつくるための大きな前提になってきたのです。

では黒い想念とはどういうものかといえば、それは執着です。

五官六根(文末に解説)に左右された自己保存の執着が、それぞれの業をつくっていったのです。

したがって業とは、人々の心による想いと行為における執着が、それぞれの業であるといえるでしょう。

業というと悪が連想されます。ところが業は必ずしも悪だけではないのです。

善も実は業となり得るのです。それを解りやすく説明してみましょう。

例えば、教育者の家庭に想像もつかないような悪が芽生えるのも、善の意識が強く働き過ぎ、家庭を縛りつけてしまうからです。(実際に教育者の相談があった)

「ああしてはいけない」、「こうしなければならない」、「ああしなさい」、「こうしなさい」というように良いことへの執着、つまり善への執着も業をつくります。

善にとらわれると四角四面な心になってきます。

悪にとらわれれば、人から嫌われます。

また、正義感を前面に押し出し過ぎた言葉や行動も、心に優しさがない正義感の言動は反感を買いやすく、敵をつくることになる。

要するに業とは、五官六根にもとづく執着の念がつくり出した黒い循環の想念、観念であり、換言すれば、とらわれた心、これを業というのです。

このために、善にしろ、悪にしろ、業をつくってゆきますと、それに引きまわされます。

悪いと知りつつ悪を犯してしまう。

人の意見が正しいと思っても、その意見にあえて逆らい、逆な方向に自分を持っていってしまう人。

奇癖、頑固、優柔不断、すぐに人を批判したがる、自分を正当化すために言い訳の多弁をする、いつも自分が正しい、善に拘り、人を裁くなど、すべて、業の作用であります。

業想念というのは、 地上の相対観念に自分の意識、魂がふりまわされている状態をいいます。

お金は絶対であり、生命の次に大事なもの、地位が高ければ尊敬される、あいつより俺の方が優秀だ、結局お金が一番じゃないか、まじめに働くのはバカバカしい、 人生は面白おかしく過ごすほうが得だ……、といったようにです。

したがって業想念は、やがて業をつくってゆき、来世に生まれてもその業にひきずられる要因を生み出してゆきます。

業にしろ、業想念にしろ、私たちは、大なり小なりその影響をうけながら生活しており、転生輪廻を続けているというのが現実の姿です。

そこでこうした業からぬけ出すにはどうすればよいでしょうか。

中道にそった心で想い、念じて行為をすれば、多くのとらわれから離れることができます。

とらわれが多ければ悩みも多いはずです。

悩みが多ければ人生は灰色になってくるでしょう。

そのような状態では心に安らぎは出てきません。

真の安らぎは執着心から離れたときに生まれてくるものだからです。

いっさいの執着を去った姿を、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)ともいい、これは、釈迦の解脱の境涯をいうのであります。

相対的な業想念にふりまわされず、中道に沿う生活に心をそそぎ、安らぎのある自分をつくってゆきたいものです。

※五官六根(眼、耳、鼻、舌、身、意識)肉体の感覚で知り得ることは外の世界のことであって、原因と結果でいえば、結果の部分にあたります。事の実態、真実を知るには結果である外界をみるのではなく、自分の内なる心、つまり、意識をみることです。すべての現象、結果はは自分の意識に端を発しているということです。

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