苦悩する人間の業

苦悩
『死んだら楽になれるかもしれない』そう思った時もあると告白する相談者。
人間の苦悩というものについて相談者と向き合うと、必ずでてくる問題が、悩み苦しみの元となっている心の使い方、その人の癖が表面化してきます。
うつ病と診断されて向精神薬を服用している人。
時々パニック症状に陥る人。
対人関係において問題を抱えやすい人。
何かと新たな問題が発生しやすい人。
抱える問題は異なっていても、その問題の原因を深く探っていってたどり着くところが、その人の人生観、心の在り方、生きかたということになってくるケースが多くあります。
相談者と向き合うときにいつも思うのですが、心の仕組みについて、心の偉大さについて、尊厳というものについて知っていただき、これまでの生き方を少しだけ変えていければ随分と安らぎのある生活ができるのにと。
人間は心の安らぎがあってこそ平和も実感できるものであろうし、幸せと思えるものではないでしょうか。
初夏に、我が家のまわりで子育てをしているスズメたちをみていると、微笑ましいほどに一生懸命にヒナを育てている姿に感動します。
本能のままに生きている姿は、知恵ある人間であるはずの不調和な生きかたよりも、ときとして純粋にさえ思えることがあります。
人間は知恵のある動物という意味において他の動物とは異なった存在ですが、しかし、万物の霊長ともいわれる人間でありながら、その人生には苦楽があるのは何故だろうか。
苦楽の原点は、私たち自身の心の在り方、この一点にかかっています。
あの人が悪い、あの人のせいだ、霊のせいだ、あのことを切っ掛けにこうなってしまったといって他に責任転嫁をしているうちは心の安らぎが生まれることはない。
どうしてこうまで人間は他を許せないのだろうか。
他を許せないということは、そのまま自分を自縛していることに気づかなくてはならないと思うのです。
実際に相談にくる方々の内情を確認すると、決して他人のせいばかりではなく、多少なりとも自分自身にも原因があることも浮き彫りになってきます。
真剣に事態を改善することを考えるならば、たとえ相手に少しの落ち度、多くの落ち度があったにしても、そのことを理由にしたり、相手のせいにしたり、責めていては決して自分自身の心が苦楽からの解放はないということです。
人間は、往々にして自分自身の対応を変えるということで事態改善の最も有効な方法であることには気づけず、相手が変わることを望んでいる場合があるものですが、しかし、これでは事態の好転はのぞめないことのほうが多い。
それでは自分の何を変えるのかということですが、「私は間違っていない」「相手が間違っている」というこの気持ちを主張するほどに距離感がうまれてくるというリスクを考えますと、先ずは自分が正しいという気持ちがあっても謙虚に相手を受け入れるという姿勢をみせること。
ここから事態が変わってきます。
しかし、これができないのも自我心をもった人間ゆえの愚かさなのでしょうか。
仏教の教えにある「五蘊ごうんという言葉、般若心経にもでてくるこの五蘊という言葉。
これは、人間は肉体五官に心が傾き、形あるものに囚われ、心が外にのみ関心が移ってきますと、ものの本質を知ることもなく、やがては争いや、足ることを忘れた欲望がつのってくるようにできているということを教えています。
私たちの身の回り、現実社会にはそういった場面が数え切れないほどに存在します。
物質至上の考えが人々の心を支配し、かつては高度経済成長の名の下に、物と金の渦の中に巻き込まれていきました。
結果、公害、インフレ、物不足、そして、人びとの心は荒み、エゴと争いが巷にあふれ出ることになりました。
それは今でも世界のあちこちで見られる現象であり変わりません。
歴史は繰り返すといいますが、人が物にとらわれ、五官六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)に心が片寄り、自分を失って来ますと、残るものは争いと、苦しみ、悲しみだけとなります。
こういった人間の欲望は個人の問題だけではなく、国レベルでも行われ世論の反発をかっています。
中国が海を埋め立てて軍事拠点をつくるという既成事実を元に、我が国の領海だと主張する強引な行動が近隣諸国との摩擦を生みだしていることがそれです。
いつまでも過去に拘り、いつまでも相手を責め立てる手法は、自分の利益を目論んでの策略である場合が少なくありません。
何かのせいにすれば都合がよいという自己保存の心理と策略です。
こうしてみると人類の歴史は、五官におぼれた苦楽の歴史といっていいかも知れません。
人が苦楽の中におぼれるかぎり、人も社会も、世界も安らぎあるものとはなりません。
このことを根本的な心の仕組みとしてよく理解していかなければなならないと思うのです。
心の不安は、心を外に向け、その出来事、すなわち事象にとらわれ執着すると起こり、自分の肉体感覚に執着すると起こります。
苦しいからとそのことの一つ一つに心を向けていては苦しみから脱するどころか、更に不安や恐怖心の中に埋没することになります。
こういう心の使い方を私は「心の傾向性・癖」といっていってきました。
安らぎは、心を内に向け、自分の心の状況をどういった傾向性があるのか把握し、偏りがあれば、それを正しい心の法則に適った反省と実践の積み重ね生活から生まれてきます。
自分を変えることができるのは他人ではなく、最後は自分自身であるということ。
学んでも学んでも同じところをグルグルと回って、自分の悪しき癖から脱出できないでいる、不要な拘りのある生き方はいつも苦しみしかなく、それは学びそのものが知識でしかないということでもあり、何ら生活の中に実践されていない結果でしかないということ。
結果がでてこないと嘆いている人の生活ぶりを見聞きしますと、やはり学んだことを知識としては知っているから理屈はたつのですが、行いが伴っていない場合が多いものです。
そして、でも、しかし、だって、と言葉のまえに言い訳が先に口をついて出てくる。
これを称して「業・カルマ」ともいえる。
人間は誰もが未完成のままなのかもしれませんが、せめて、さまざまな人との巡り会いのなかでたくさんの経験をして、そして自分に気づいて、自分自身のパーソナリティを築いていきたいものです。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。