火の玉現象

まもなく80歳になる一人暮らしのお婆さんが目眩と吐き気で食欲がなく、元気のない声で遠く離れている娘と電話で話した。
「夜ふとんに入った後も誰かが家の中に居て騒がしくてゆっくり眠れないし、寝不足で体調がすぐれない」と。
実際は誰もいないのだが、誰かいるのかなと思って起きて確認しても誰もいない。
そんなことがちょくちょくあるからゆっくり休めないのでしょう。
娘さんから事の経緯を聞いた私は、そのお婆さんのO家に直接出向くことにした。
高速道路でちょうど一時間、農村部の静かな村の家にたどり着いて中に入らせていただいた。
居間に通されて先ず私の霊覚にはいってきたのは神棚に祀られてある神々の存在「武雷之神(たけみかづちのかみ)、大国主之神(おおくにぬしのかみ)、年神(としがみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)」から流れる霊波動と、亡くなった過去の古い縁者たちの霊波動だった。
神棚から流れる霊波動は神道に登場する神々とはいっても決して心地よい波動ではなく、これまで祀られてはいても必ずしも行き届いてはいないことによる荒んだ状態の霊流だった。
私は真っ先にお婆さんと娘さんに話しました。
「先ずは、ここの神棚に祭ってある神々様への礼を尽くしましょう。」と。
そして私が祝詞を奉唱し終わったと同時に家がドンと揺れ、家の中の空気が清浄に変わって軽くなった。
この揺れは地震かと思えるほどのものでしたが、それは娘さんも認識していた。
その後、家の裏山に祀ってある金毘羅様(こんぴらさま)のお宮まで足を運んで参拝することにした。
金刀比羅宮(ことひらぐう)は、通称こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、まれに琴平宮とも書かれ、全国の金刀比羅宮の多くは大国主之神や武雷之神を祭神として祀っているようです
明治維新の神仏分離・廃仏毀釈が実施される以前は真言宗の寺院ということですが、その後に神仏習合で金毘羅大権現と呼ばれた。
ここのO家の先祖は古い歴史があり、造り酒屋として栄華を極め、住み込みの使用人も数十人もいたという立派な豪商であった。
時代が変わり、敗戦となり、マッカーサー来日以来、大地主でもあった土地を小作の人たちや親せき、縁者たちに分配することとなった。
見渡すかぎり視界に入っていた土地が全部そのO家の所有ですというほどの大地主だった。
あろうことか、詐欺まがいのうまい話をしてたくさんの土地を自分の名義にした村長もいたというが、O家は争いを好まぬ人柄ゆえに現在もそのままになっているという。
今は裏山のお宮が立っているところだけが唯一残っている土地だと聞いた。
百年近い栗の木や楢木がたくさん立ち並ぶ価値ある雑木林なのだが、手入れをする人がいないから山も荒れ放題であった。
元来が山好きな私ですが、若ければこの山の手入れをしながら、木々の成長をみれたらどんなにか楽しいだろうかとも思った。
なだらかな傾斜の山道をゆっくりと落ち葉を踏みながら、足裏で大地の柔らかさを感じて歩を進めること十数分、間もなくで山の上のお宮に着いた。
お宮の立つ姿を見て寂しさを感じた。
建物が古いだけではない。
手入れが為されていないのはみればわかるし、間口一間半四方の小さなお宮全体が傾いていた。
この家では昔は何かにつけては金毘羅様の祭神である「大国主之神」「武雷之神」を中心にして祭りごとをし、全ての恵に対する感謝の意を忘れることなく暮らしてきたのであろう。
子孫代々に受け継がれてくるにしたがって造り酒屋も廃業となり、財産も無くなり、子どもたちも塵々となり、祭りごと事をする者もなくなって今はお婆さんの一人暮らしとなった。
この家の裏山の祭神は近くにある村の氏神神社の御祭神と同じようだ。
私はこのお宮の古く傷んだ扉をあけて祭神に一礼して深く心で念じた。
「先祖代々の祭り事に際して、これまでの御加護と御神徳に感謝申し上げます。そして数々の不行き届きのことお許しください。代(子孫)にかわって心よりお詫びを申し上げます。」と。
そのときだった、先ほどまでは少しの風もなく穏やかであったのにいきなり木が揺れだし、ギギーッ、ギギーッと木々の摩擦する音が聞こえてきた。
「お聞き届けありがとうございます。」
一礼してお宮をあとにしたが、荒れ放題の木々も、お宮の傾いた姿も、一抹の寂しさを感じるものだった。
この日はこれで帰路についたが、翌日に娘さんからいただいた報告では、母の家は久しぶりに何の騒ぎもなく、目眩もなく昨夜は熟睡できたということでした。
少しの時間だけお婆さんの背中と首をマッサージしてはきたが、熟睡できたのはそれだけの理由ではない。
このお婆さんのO家では、かつて先祖たちが栄華を極めていた頃の人間模様の善悪がそのままエネルギーとなって残留していることにも騒がしい原因がある。
今回のようなケースでは、神々がなぜ騒がしくなるのか、神様が災いをするはずがないだろうと思われる方もいるかもしれません。
実は、この家の裏山に祀ってある神様を、「今後は誰も祀りきれないから氏神さまに引き取ってもらいましょう。」という話しが過去にあって、村内の氏神神社の神官を頼んでその儀式をしていただいたとのことですが、その日から裏山を中心に火の玉が飛んで村中の大騒ぎになってしまったとのこと。
 
「とてもじゃないが、このように火の玉が飛んだのでは穏やかではいられないし、大きな災いでもおきたら取り返しのつかないことになる」ということで再び祭祀していた神様を元のお宮に戻すことになった。
そしてようやく火の玉が飛ばなくなったという経緯があり、今日に至っているということでした。
今回の一連の出来事によって感じたことは、人間の都合によって神様を勧請したものの、やがて年月が経ち、子孫へと継承していくなかで祭りごとへの意識が希薄になっていったこと。
そのことによってお宮も、祭神も人々の心からは忘れ去られていき、荒んでいくことになる事例が全国のどこにでもあるということでしょう。
この世は諸行無常の世界です。
形あるものは時代とともに崩れ去り、人間の心さえも無常な理(ことわり)のなかで存在しているものです。
であるだけに神祭りのような、形式と人間の心に深く関わってくるような信仰は、よくよく注意して取り扱わなくてはならないことだろうと思うところです。
日本の伝統であり文化ではありますが、一度想いを発したもの、形を成したものというのは、そこにエネルギーが発生するものだし、形がなくなって後もエネルギーは残留するということ。
人間は古来より狩猟生活から農耕生活へと進展していくなかで、自然現象という人智の及ばないことについて畏怖心をもち、敬ってきましたが、どうしても心のなかだけで為すにとどまらず、形をもって敬うような信仰形態に変わってきました。
神さまをお祀りする所は古代からあったようです。
しかし、最初から現在のような社殿があったわけではなく、 古代は、大木や巨岩あるいは山、滝場、川、海、池などは、神さまが降りられる場所、鎮座される場所と考えられていました。
そして、それらの周辺は神聖なる場所とされました。
いわゆる古神道の思想です。
やがて、そこには敬う場としての臨時の祭場を設けるようになり、さらに風雨をしのぐためといった理由などから、建物が設けられていきました。
そして、中国の寺院建築文化や技法などの影響も受けながら、今日のような神社の形態になったわけです
神社の起源というと伊勢神宮の場合、紀元前43年頃ですから約2050年前の創建ということになりすが、島根県の出雲大社の場合はさらに古く、創建年は不明で、いちおう、創建年は神代とされているようです。
時代の変化とともに神道は神社という形態をとるようになり今日にいたったわけです。
今回の訪問先での祭神については、お婆さんとその子どもたちが相談して、元々の御霊分(みたまわけ)けして勧請していただいた氏神神社に後々はお帰りいただくことになろうかと思いますが、私もまた何かしら関わることがあるように思われます。
その際には再び火の玉が飛び回ることのないように願うところです。
いずれにしても人間の都合で社殿や小さなお宮を建立したとしても、物や形を用意するだけではなく、後々のことを考えて整理することも子孫に迷惑をかけないという意味で心構えをしておかなくてならないと思い知らされる事案でした。

※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。