家の神の祟り

 
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伝統芸能などでも表現されることもありますが、神社のお祭りの時に演じられるなかにも天狗が出てきたり、狐や鴉天狗がでてきたりするのは子供の頃によくみたものでした
神社のお祭りには信仰の内面的なところが表現されているものですが、そのお祭りの様子を見ていると、過去の人々の信仰がどんなものであったかうかがい知ることができます。
しかし、神社の中に真の神がいるのかというと、決してそうではありません。
神社も色々の都合があって人間が作ったものです。
間違った信仰というものは人間の心の中まで蝕んでしまうので、これは麻薬より恐ろしい。
毒物は人間の肉体は滅ぼすことができても、魂まで滅ぼすことはできないでしょう。
だが、間違った思想や宗教、信仰は、人間の心の奥底まで腐らせてしまいます。
 
IMG_1214祭神の祟り
ここで実際にあった一例を紹介しましょう。(私がまだ高校生の頃の話し48年ほど前)
私の親せきに豆腐屋さんがあり、その家族は早朝から良く働き、繁盛していました。
そのお蔭で、豆腐や油揚げを時々頂いて美味しく食べたものです。
そこのお婆ちゃんはいつも精神状態が不安定で病気がちでしたが、80歳まで生きたのですから当時としては長寿だったといえるでしょう。
ある日、お婆ちゃんが亡くなったとき、お婆ちゃんに可愛がってもらった孫である朝子(20歳)がお婆ちゃんの遺体に狂わんばかりにすがって号泣したのです。
すると鳴き声がピタッと止まったと思ったら、次の瞬間に、朝子の顔が豹変し、目がつりあがり、下から睨みつけるような仕草で家族に怒鳴りつけたのです。
「おい。鶴子~(朝子の母)。我は神じゃ。ここにきてようく我の話しを聞くがよい。」
さっきまで悲しみのあまりに泣き崩れていた娘の朝子が、いきなり豹変した姿を見て家族はあっけにとられて合点がいかずに、ただ茫然としているだけでした。
娘の朝子は上半身の衣服を脱ぎ捨て、下半身のスカートだけの露わな姿になってしまい、もはや自分の意識でないことは誰の目にもはっきりとわかる。
母の鶴子が慌てて上着を掛けてあげようとすると、「鶴子~。余計な事をするでない、お前はこの場に伏して我の言うことを聞けばよいのだ。」と母に怒鳴りつけていた。
気の優しい父は、ただただおろおろするだけである。
このような異常事態に家族はパニック状態になり、為す術がなかった。
そうして何故か私の母に電話がかかってきた。
「娘の朝子が狂ってしまって、わめいてばかりで何が何だかわからない。きて様子をみてもらえないだろうか」ということだった。
朝子の母(鶴子)は、私の母を姉のように慕っていて仲の良い近しい親せきだった。
状況が状況だけに、母は取るものも取りあえずバスで飛んで行った。
20分ほどして豆腐屋についた母が見た光景、朝子は相変わらず居間のテーブルに腰かけて足を組んで目をつりあげた状態で威張り散らしていた。
私の母は様子のおかしい朝子に声をかけた。
「朝子。どうしたの?そんな裸でいないで上着を着なさい。」
「おお。サヨ(私の母の名)か。よくぞ参った。我は神じゃ。そなたなら我の話しがわかるであろう。ここにきて我の話しを聞くがよい。」
気丈な私の母が言った。
「あなたは誰ですか?神がこのように若い娘を裸にして語るようなことをするはずがないでしょ。いいかげんにしなさい。」
「何たる無礼な物言いじゃ。それが神に向かっていう言葉か。控えよ。」
「おまえは、ここの屋敷に祀られているお稲荷様の使いでしょ。」
「違う。代(よ)は神じゃ。この家の者たちは、我れが陰になって働いてやったことなど見向きもせず、商売がうまくいったらまったく相手にしなくなってしまった。お前たちの自分勝手な都合など断じて許す訳にはいかんのじゃ。末代まで祟ることになるぞ。」
このように、朝子の体に憑依して話しをしているのは神ではない、そう思った私の母は、日頃から信頼しているその市町村を代表する八幡宮の宮司にすぐに連絡をとった。
八幡宮は私の実家から歩いて15分ほどのところにある歴史ある神社で、私の小学生時代は秋祭りには境内で恒例の剣道の試合をおこなった場所でもあった。
相撲大会や、舞踊の発表会や、伝統芸能、民謡大会、歌謡ショーなど、とても賑わっていたものである。
その八幡宮の宮司は人望を厚く、温厚で人格者で通っていた志の高い人だった。
このような人間としてできた宮司のいる神社境内は非常に清浄な霊域に包まれているものである。
連絡をいただいた八幡宮の宮司は、「これから拝殿にて神々にお願いして憑きものを放していただくように致しますので様子をみていてください。」とのことだった。
それから十数分後に異変が起き始めた。
憑依された朝子の体がブルブルと震えて寒さに耐えられないような感じで、歯をガチガチと音を立てて何度も噛み合わせていたというのだ。
ちょうどこの時間帯には、八幡宮の宮司が拝殿にて祝詞を奉唱していた時間帯だった。
数分後に体は落着き、朝子は上半身が裸のままでその場にバタッと倒れこんでしまったのである。
これまでの騒ぎが、まるで嘘のように、台風が立ち去った後の如くに静かになった。
家族が朝子の体にタオルケットを掛けて休ませた。
一時間ほどして目が覚めた朝子は寝ている自分に驚いた様子で辺りを見回し、合点がいかない素振りだった。
聞いたら、自分は何もわからず、記憶がないとのことだったようである。
8月の真夏の出来事です。
この話は私が直接、母から聞いた話で、非常に興味深く聞いていて記憶違いはない。
結局、朝子に憑依した霊は、この家でお婆ちゃんが屋敷に勧請して祀ったお稲荷さんであって、それは稲荷神ではなく、その眷属の狐霊だったのである。
稲荷信仰は、本来は五穀豊穣を祈願する信仰から始まって、時代の変化と共に商売繁盛の神として企業や商店、一般家庭にまで祀られるようになってきたのです。
眷属(けんぞく)という存在は、稲荷神という自然霊の使いのことです。
稲荷神は、地上で心正しく働いて人々に貢献することを実践している、正しい心の者を側面からサポートする使命を担った光りの天使であり、この地上には肉体を持たない自然霊のことである。
人間のご利益を求めるという都合によって祀られるのですが、稲荷神とはいっても、その実態は、神が勧請されているのではなく、稲荷神(自然霊・光の天使)の支配下で働くことで修業をしている狐霊たちが呼ばれて(勧請)きている場合が殆どなのである。
人間のご利益信仰によって、自分たちが豊かになれば、これまで陰になり働いてきた眷属たちのことには感謝の心を忘れて慢心してしまうのも人間であろう。
稲荷神は古来より、荒神とも、祟り神とも言われ、粗末にすると祟られるということも言われてきました。
しかし、それはあくまでも稲荷神やその支配下で働く眷属たちが悪いのではなく、祭祀する人間のご都合主義の結果に招いたツケでしかないということだ。
迷惑千万は稲荷神や眷属たちであろう。
私の親せきで起きたこの事件では、眷属に丁重に礼を尽くして、眷属たちが所属する稲荷の総本社にお帰り願って祭りごとを一切やめてしまったのである。
さわらぬ神に祟りなしという言葉が示すように、ご利益求めの神々への参拝や、祈願は相当に危険であることを証明した事件である。
神様の眷属である神獣とはいっても、その実態は非常に上下ありです。
人間が信仰の祈りをやめると怒りだす程度の眷属が多いのは致し方のないところで、そのていどの眷属でも、祈ればその祈りの念波動をエネルギーにして力を付けていってご利益をもたらすのである。
その点では、蛇神信仰も、龍神信仰も同じです。
蛇も龍も人間が拝む対象ではないということを知っていただきたい。
そして、こういった信仰はよくよく注意されたい。
宗教信仰のない豊かさ
「私は一所懸命に信仰をして神様を拝んでいるのに、拝まない人の方がよほど幸せそうで生活も豊かだ」と疑問を持っている人がいるかもしれません。
確かにそうです。
神は私たちの善我なる心の中にあるのであって、そういう人は宗教集団に属さなくても、神社に願い事をしなくても、ちゃんとブレのない生き方をしているからなのです。
自分のなかにある善我なる心を信じて、心の調和を図りながら努力をしているから幸せに暮らせるのです。
善我なる自分を信じる為には、まず勇気が必要でしょう。
自分の欠点と戦ってそれを超えていかなくてはなりませんから、自分の欠点を支配することのできる人こそ本当に勇気のある人ということです
なかなか自分の短所を克服するのは難しいことですし、相談者の方々をみていても、いつも同じところで堂々巡りをしていてその悪い癖から抜け出せない人も多いのです。
人を批判することも簡単です。
人に説教することも簡単です。
しかし、人を受け入れ、良く理解してやること、そして慈愛をもって見守ってやるとなるとそう簡単にはできませし、難しくなってきます。
これは自我心、私心が強い人ほど難しくなります。
それだけに、私達は自分というものをよくよく見つめながら、自分が心の調和という原点から離れないようにして進んで行かなければなりません。
批判も説教も、自分に責任がもてなければ言うことはできませんし、言ってはなりません。
自己を確立するということは依存する心を捨てることから始めなくてならないでしょう。
あっちに真理の教えがあると誘われて行ったところが、やはり群れていることでお互いが安心感のなかで慰め合っているだけの集合でしかなかったり、こっちに本当の教えがあると誘われて行ってみたが、組織化された集団の義務的な行動に疑問を感じてやめたというようなことがあります。
共に学ぶという面では励みにもなりますが、反面、組織のなかにいる安心感の背景には人間の弱さの一面でもみられます。
自分を知る
自分を愛せる人は人を愛することができ、自分を粗末にする人間は、人を粗末にするところがあります。
私たちは、やはり自分を愛することができる自分になることです。
しかし、自己愛ではありません。
心の内にある善我なる自分を信じることです。
私たちの魂は肉体をもっています。
その肉体から淡い金色の光の出ている人達は間違いなく天上界へ行く人達です。
ところが、まったく裏腹に不調和な地獄霊と一緒に生活している人もおります。
もし、その人達が自分の偏った思考壁や、行なっていることを修正しなかったならば、その人達は間違いなく、その憑いている類と同じ世界に落ちて行きます。
話しをしていかに理屈がわかっていても駄目です。
必要のない分別でもって理屈を述べて得意になっていても駄目です。
いかに真理を学び、わかっていても駄目なのです。
天上界に行くということ、それは、私たちが一秒一秒、今置かれている環境の中で自分をちゃんと正して、不満や愚痴、怒りを捨てて、心の中が平和で安らかで調和されていたならば、その心の調和に比例しただけの世界が私たちの心の中に展開されていきます。
平和も、天上界も、暗黒の世界も、地獄も、すべては私たちの心如何にあるということです。
私たちの心は本来、この大宇宙を呑み込む程に偉大なる広さを持っています。
しかし、人間は目先の利益や損得勘定に支配されて我を見失い、足元をすくわれて大変な環境に身を置くことになったりします。
宇宙大にまで広がる心を自らの足ることを忘れた欲望によって小さく、暗くしています。
心の拡大については、私たちの心がきれいになり、こころの振動数と肉体の振動数が精妙になればなるほど、即ち禅定の姿になって心が静寂になって統一されてきたときに初めて実感できればわかります。
皆さん一人ひとりが身体も心も宇宙そのものです。
心が澄んで統一されてくると内面から智慧が湧きだしてきます。
その偉大なる智慧は誰をもが持っているものです。
自分の人生は貧乏のどん底だ。
そんなことはまったく苦にすることではありません。
どれほど豊かな大金持ちだって、この地上界を去る時には一円だって持っていける人はいません。
また、逆にあの世からこの世に誕生するときも、大金持ちであろうが、貧乏人であろうが関係ありません。
私も農家の子として生まれましたし、貧乏のどん底で、小学校時代に150円の学級費の袋を親に差し出せませんでした。
10円のお金があれば、飴玉を10個買えたのですが、その10円が言いだせません。
しかし、有り難いことに、貧乏は私に働くことによる忍耐を学ばせました。
私の財産はこれです。
人間は、地球上で肉体を持つとお金が大事になって、遂々心が貧しくなるります。
しかし、人間はお金がなくても、いつでもあの世に帰れます。
「地獄の沙汰も金次第」と、あるお坊さんはいうけど、決してそんなことはありません。
そんなもの信じちゃいけません。
戒名なんてどんなに低いものだって何にも支障ありません。
大体、本当の戒名というのは私たちが生活している中で、[そうだ!今までの自分は捨ててしまえ、今から新しい自分をつくっていくんだ。この際名前も変えてしまえ」というのが戒名の始まりです。
生きているうちに自分で戒名をつけて、自分を戒めて努力する人もなかにはいます。
それが、いつの間にか死んでから戒名をつけるようになりました。
ところが、死んでから戒名をいって招霊しても、戒名に反応して出てくる未成仏霊はいないのです。
俗名、つまり、「山田花子の霊よ」と呼んだ時にはじめて傍にくるということです。
戒名を名乗って出てくる霊はいません。
「何とか院、何々大居士、そんな名前知らんな」ですよ。
どんなに安い戒名料の名でも心清らかに生きた人は間違いなく天上界に行っています。
私たちの先祖が、もし地獄に落ちていたとしたら、その地獄におちる責任は子孫ではなくその人自身なのです。
その人自分白身の欲望であり、不調和な心のせいなのです。
でも「その人の責任だ」とそれだけじゃ、慈悲も愛もないですね。
私たちはご先祖さまから肉体をもらったのですから、そこはやはり自分自身の心を丸くして、家の中を明るくしてご先祖様に今の生活をみていただくのです。
平和で心安らかな子孫の生活をみたら先祖も安心するだろうし、不調和な先祖は自分が恥ずかしくなって見習うことになるでしょう。
このことが真の供養です。
朗らかにしてお互いに調和された家庭を作ってから、初めて「先祖の皆さん、私達の生活を見てください……」とできるでしょう。
ところが、大抵はそうじゃない。
病人が出た、あるいは経済的に困った。精神的悩みが生じた。
そして、その事を解決できない、処理できないとなると、そこから間違った神様を信仰し始めるわけです。
そうなると、その神様を拝んでいる街の神様の言うことはたいてい、「お前の先祖が……」といい出します。
だいたい、三代、四代、五代前をいうと誰もわかりません。
しかし、そういっても今は難しいお経を上げるのですね。
[いやいや、『般若心経』はありがたいものだ……」といって。
お坊さんの上げる『般若心経』の供養料もずいぶんと値上がりしたようです。
ところが、いくら上げたって無駄です。
家族の調和が無くして先祖供養もなにもないでしょう。
先ずは自分たちが心安らかな生活をすることが先であり、それが真の先祖供養につながっていくことを知らなくてはなりません。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとワンクリックして頂ければ有り難く思います。
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