安楽死についての霊的視点

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進んでいない安楽死の論議

「人の命は地球より重い」という言葉をメディアによって聞くことがあります。

命の尊さを表現した言葉かと思いますが、しかし、そうかといって決して地球が軽いわけではありません。

ご承知のこととは思いますが、地球が健康であればこそ人間の地上生活ができていることも忘れてはならないと思うのです。

神殿という言葉があります。

寺院が宗教者による修行の場、教会が民衆に対する布教の場であることを強調した言葉であるのに対して、神殿は神に対する祭祀の場であることを強調した言葉といえます。

そういうことから神殿とは神を祀る建造物という意味ですが、人間がつくった建造物としての神殿があろうがなかろうが神は宇宙の意識として存在しているとするならば、この地球こそが神殿といっても良いのではなかろうか。

となると私たちが地上で生活することは神殿にて暮らすことにもなります。

日々の恵と糧に感謝の心をもち、その心を忘れず生きる姿こそ祈りそのものといえるのではないでしょうか。

改めて神殿にて祈らずとも、日々の仕事を祈りであるが如く為していくならばそれこそが真の祈りかと思うのです。

さて話を本題に戻しまして、きょうは安楽死ということについてですが、これまでタブー視されてきたところがあるということを踏まえて、人間の感情論を理解しながらも、霊的な視点からすればどうあるのがよいかという非常に難しい倫理的なところにふれてみたいと思います。

先ず、これまでの日本国内の医療現場においては、人間の生命そのものの不可侵性(侵すことのことのできない権利)が絶対視されてきたように思います。

法秩序の面でもこれを厚く保護しています。

そして今日、終末期医療で過剰な延命治療を避け患者の意思を尊重するという「尊厳死法案」の国会提出が、党派を超えた議員連盟で検討されてきているようです。

世界に目を向けてみますと、オランダではすでに尊厳死より更に一歩踏み込んだ安楽死を認めています。

前回アップしました自殺についての霊的な視点にも関連しますが、人間社会が作った法律では、他人を殺せば当然裁きを受けますが、自ら命を絶った場合は違法とはならず、法律によってご本人が罰せられることはありません。

またそのような立法がある国家を私は知りません。

ただ、先に述べたオランダの刑法も日本の刑法と同様に、自殺そのものは違法ではないが、他人を教唆・幇助(ほうじょ)して自殺させ(自殺介助)、または相手方の依頼・承諾を得て殺害した場合(嘱託殺人)は犯罪になるとしているようです。

1984年、オランダの最高裁は、安楽死を刑法上違法であるにもかかわらず、耐え難い苦痛から患者を救うため、死しか方法がない一定の条件の下で事実上これを許容する方向に転換したとあります。

さらに1993年4月に「オランダ国会、安楽死法案可決成立」という見出しのニュースで世界に衝撃が走ったが、わずか21年前の世界のニュースです。

実際のところは「遺体処理法」を改正し、検視官への報告を義務化しただけなのに、あたかも安楽死を合法化する「安楽死法」を誕生させたかのような誤解に基づく報道がなされたからである。

年間4,000人以上が安楽死を選ぶオランダ

オランダの「安楽死法」が成立するまでには長い歴史がある。

1973年、実の親を安楽死させた医師の事件をきっかけに安楽死の国民的な議論が始まった。

そして、さまざまな事件を経て1993年に遺体処理法、さらに2002年、12年前にいわゆる安楽死法(正式名称は「要請による生命の終結及び自死の援助審査法」)が成立、施行されることになったた。

安楽死が認められるには一定の条件があり、

1. 患者からの任意かつ熟慮された要請 。

2. 圧倒的に医療的な苦しみがある。

3. 他に合理的な解決策がない 。

4. 独立した医師によるセカンドオピニオンなどの要件を満たさなければならない。

これらの要件が満たされれば、医師は薬の投与、注射により患者を安楽死させることが認められる。

このほか地域審査委員会という第三者委員会が最終的に判断することになる。

2012年度にオランダで認められた安楽死は4,188人、このうち医師による生命の終結3,965件、自死の援助185件。3,251人が末期がんなどの重病を抱えるが、「耐え難い苦しみ」という患者の訴えを医師が認めれば、安楽死が認められるケースもあるという。

日本では仮に患者が望んでも、医師がそれに手を貸せば自殺ほう助や嘱託殺人に問われるが、ではなぜ、オランダでこうした安楽死が可能になったのであろうか。

“オランダでは個人の自己決定が尊重されていること、関係者が納得できるまで議論を尽くす開かれた議論好きの国民性があること”が挙げられている。

「よき死」をめぐる日本の課題

安楽死に関して開かれたシンポジウムでは、2010年度のオランダの死亡総数のうち、安楽死が2.8%に対し、生命の終結を早める可能性のあった疼痛緩和、症状緩和の強化による死が36%あったというデータが挙げられたといいます。

そのデータに対し、日本の医師からは「生命の終結を早める可能性のあった疼痛緩和、症状緩和の強化による死の割合は、日本ではもっと多いのではないか」「それが表面化せず、医師の判断で死につながっているケースがあるのではないか」と指摘があった。

これはどういうことかといいますと、症状を緩和するための鎮痛処置、様々な疼痛を和らげるための処置によって薬が体に与える影響が死期を早めているのではないかという指摘である。

そして、私の経営する整体院でも鎮痛剤の使用をやめていただくと回復が加速する傾向にあることも数多くの施術例によって経験してきました。

そしてもう一つわかったことは、鎮痛剤が心臓に負担を掛けているという事実です。

私自身が歯科の麻酔によって心臓が異常を感じ拍動が弱くなることを何度か経験しておりますし、サッカーをしている選手が怪我の痛みを抑えて試合に出たいと鎮痛剤を服用して臨んだら心臓が苦しいといっていた事例があります。

このような事例も一つや二つではありません。

参考のために鎮痛剤の副作用を紹介しておきます。

『食欲不振、吐き気・嘔吐(おうと)、胃部不快感、腹痛、下痢、頭痛、ねむけ、めまい、むくみなどが現れることがあります。薬によっては、血液障害、好酸球性・間質性肺炎、無菌性髄膜炎(発熱、頭痛、吐き気・嘔吐など)、消化管穿孔(せんこう)、喘息発作、うっ血性心不全、血圧上昇、皮膚粘膜眼症候群、急性腎不全、大腸の潰瘍』

 

個人差があり病態にもよるものでしょうが、医療現場において麻酔事故が発生する理由が理解できます。

疼痛とは『ジンジン、ビリビリ、ピリピリ、チクチク、ズキズキ、刺すような痛み、鈍痛、底ぐるしい痛み、激痛が走る』などをいう。toutuutoha_01_img01

日本の医療は、医師の力が強い父権主義ともいわれていますが、オランダの安楽死が、本人、家族、医師の納得づくで選択されているのに対し、日本では「よき死」についてのそうした議論、コンセンサスがなかなか進んでいないというところでしょう。
「よき死」をめぐる議論が、今後さらに進んでいくことを期待したい。

ここで毎日新聞に掲載された比較的新しい記事を紹介したい。以下。

「いのち」と向き合う人々

安楽死を選択した人々の物語

苦痛から患者を解放する目的で、薬物投与などによって人為的に死を早める安楽死。語り尽くした末、安楽死を選んだ患者とその家族の物語に迫ります。

自分の最期、自ら決定

毎日新聞 2014年05月18日 東京朝刊

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自宅のギャラリーで、ロブさんは言葉を詰まらせながら別れの日を回想した。壁には靖子さんが描いたパステル画があった=萩尾信也撮影

選択の背景にあるものは

「靖子は『痛みで心が折れてしまう前に、人生を終わらせたい』と強く願っていました」

チューリップの花がオランダに春の訪れを告げた4月半ば。アムステルダム近郊、アムステルフェーン市の住宅街にあるネーダコールン家の居間で、ロブさん(69)が安楽死で逝った妻に思いをはせた。

10代で海を越えた文通を始め、1972年夏に待ち合わせたロンドンで恋に落ちて、12月にアムステルダムで挙式した。

ロブさんは高校の英語教師、靖子さんは日本人学校で音楽を教えながら2人の子供に恵まれたが、87年に甲状腺にがんが見つかった。

手術や放射線治療で闘病を続け、52歳を迎えた97年春に骨転移が見つかる。想像を絶する痛みに襲われ、「打つ手がない」と告げられた。

安楽死は語り尽くした末の選択だった。

「迷いはありました。でも、靖子は自分の病状も知らずにがんで亡くなった姉の最期を悲嘆して、『自分の最期は自ら決める』と思いを募らせ、私はそれを尊重しました」

夏が終わり、痛みは限界に達して衰弱が進んだ。医師の同意を得て「安楽死の要請書」を作成した。

そして9月17日の夕刻、別れのパーティーを開いた。

家族と友人がベッドを囲み、ワインで乾杯。ロブさんがマグロのすしを靖子さんの口に運ぶと、「(しょうゆの)つけすぎ」とつぶやいて、小さくほほ笑んだ。

午後8時、医師が来訪。子供と友人は夫婦を居間に残してキッチンに移った。

「ありがとう」「また一緒になろう」。手を握って交わした最期の会話。

「ドクターが注射を打つと、まるで人形のように目を閉じて、穏やかに息を引き取りました……」

あの日から17年。ロブさんは時折涙を浮かべながら、記憶の糸を紡いだ。

靖子さんは家族に残した日記に、感謝と別れの言葉をつづり、こう結んでいる。

あと十分で逝きます。本当にありがとう』

「人生のしまい方について考えてみないか」

今春、長野県松本市にある神宮寺の住職、高橋卓志さん(65)に誘われて旅に出た。

終末期の緩和ケアに取り組む英国と、安楽死を認めるスイスとオランダを巡り、「いのち」と向き合う人々に出会った。

以上。毎日新聞から掲載させていただきました。

ここまで安楽死について、日本の医療現場の状況や世界の状況と事例を少しだけとりあげて掲載してみました。

安楽死に関しては当事者ご本人の思いが尊重されるものでなければならないのは勿論ですが、ご家族の考え、思い、こういったものが利害を伴わずに一致するものでなくてならないだろうと思います。

病気による終末医療の現状、自殺、安楽死、事故死、殺人、法的手段による絞首刑、等々、どのような死であっても、ただ一つ共通することは、生命の尊重と尊厳に付随して当事者ご本人の死に際しての心の状態がどうであるか、それによってあの世での境涯が定められてくるということであります。

これはどういうことかといいますと、この世での生き方、死に際しての心の状態がそのままあの世に反映されて居住する段階が定まる霊界の仕組みをいっております。

しかし、現在の終末医療の実態のなかには本人の意思に関係なく延命処置がなされているところが多々あるのではないでしょうか。

延命治療・本人の意思のない対処

延命治療の説明をみますと、生命を延長させる医療を総称する概念とありますが、公的に明確な定義は存在しないようです。

いずれにしても回復の見込みがなく、死期が迫っている終末期の患者への生命維持のための医療行為をいっております。

例えば、人工呼吸器の装着、心臓マッサージや昇圧剤投与による心肺機能の維持、水分や栄養の点滴、胃ろう(お腹と胃の壁に穴を開けチューブから栄養を流入させる)、などがある。

現状、「終末期」の明確で具体的な定義はなく「いつまでが救命で、いつからが延命か」という線引きは難しい。

呼吸確保のための管の挿入は一度挿入したら抜くことが非常に難しくなり、やめるにはなかなか面倒(殺人罪で訴えられる危険がある)です。

医師は管を抜いたら裁判の可能性がある場合、現状維持続行を判断する可能性大。

病院に倫理委員会などがあれば、検討してもらい、治療の中止を依頼できるケースあり。

心肺蘇生や人工呼吸器で完全回復する場合は措置続行ですが、延命処置としての心肺蘇生は患者さんの苦痛を長引かせるだけであり、この辺のことも家族は考えなくてはならないでしょう。

機器につないでも、良くならずに植物状態や脳死状態になってしまう延命治療はいかがなものだろうか。

そいうことを考えますと家族の負担や本人の苦痛を強いず、自然に任せるのがベストではないだろうか。

肉体だけの「命」の大切さが強調され過ぎている弊害により、高額医療費・終末期・老人医療費問題や、介護する家族の各種負担の増加や疲労等による健康障害などの多くの問題が生じています。

回復の見込みがまったく無い患者に対する治療は、延命治療でなく、正しい終末医療を施すべき段階にきていると思うのであります。

苦痛が軽く、精神状態が安定しているうちに、死後の世界についての正しい情報や心の準備を促す措置を講ずることが大切ではなかろうか。

しかし、それでは遅いのです。

私たちは、日頃から魂の存在、人生の目的、何の為に生まれてきたのか、今の自分は何を為すべきなのか、この世とあの世との関係はどうなっているのか、死後の自分はどうなるのか、こういったことを正しく学んでおかなければならないのです。

肉体の生命活動を発揮して、社会の為に役立てることが出来なくなった場合でも、精神的、霊的活動の大切さを社会に発信していくことが大切です。

肉体”は物質界のこの世においては生命活動を表現する媒体、器ですから80年も使い切れば痛むことも傷むことも当然のことです。

その肉体に心を奪われて執着するからいろいろな気苦労がおこってくるのである。

仮に、肉体が千年も万年も生きながらえたとするならば、自然界の循環ということに沿わないものとなり、地球世界では魂の成長が停滞気味になるでしょう。

何故なら私たちの魂は自然界同様に一定の輪廻のなかでこそ成長することができるからである。

同じ環境、同じ肉体に長期間宿ることによって、修正不能なクセ(傾向性)や、人種や性別、国籍等の相違による根本的想念が固定化しやすく、人間としての進化速度が停滞しやすくなってしまう。

死は自然界の秩序に沿って為されることが望ましくそのことによって心の成長が成されるのではないだろうか。

主従の関係

“肉体”は媒体で従、本体は“霊”で主人公。

魂の成長こそが人間の究極目標。

神の意思に同調できるまでに成長すること。

安楽死の問題は、魂の尊厳、尊重ということを抜きにしてどのような対処をしても適切な方法は確立されてはこないだろう。

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自殺の霊的視点について

 

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戦後日本の代表的作家であった三島由紀夫氏(1925年~1970年)が存命であれば89歳にもなろうか。

代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『憂国』、その他があり、唯美的な作風が特徴と知られています。

晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。

1970年11月25日、前年の憂国烈士・江藤小三郎の自決に触発され、楯の会隊員4名と共に、市ヶ谷の防衛省本省を訪れて総監を監禁した。

その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、その約5分後に割腹自殺を遂げた。享年45歳だった。

この一件は当時の社会に大きな衝撃を与え、新右翼が生れるなど、国内の政治運動に大きな影響を及ぼしたとまでいわれているようです

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もうひとり、川端康成氏(1899年(明治32年)6月14日 – 1972年)は、東京大学文学部国文学科卒業。新感覚派の代表的作家として活躍されました。

『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』などで、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品は有名です。

川端康成氏はノーベル文学賞を日本人で初めて受賞した。

しかし、1972年(昭和47年)4月16日夜、満72歳のときにガス自殺でこの世を去る。

三島由紀夫氏、川端康成氏の両氏の自殺が2年の間に相次ぎ、その当時は文学を愛好する者にとっては、悲しい知らせとなっている。

作家の死に至る心のなかまではわからない。

尊敬する作家の死は、愛読する人たちのなかに淋しい思いを感じさせ、無情の思いが襲ってくるものではなかっただろうか。

きょうは特に自殺ということについてこの世的な思考や価値観ではなく、霊的な視点から述べてみたいと思います。

病死も、事故死も、災害死も、また自殺も、肉体が朽ち果てこの世を去り異次元の世界に移動する死という結論は同じであっても、その動機は、人それぞれの立場や、環境、思想によって異なってくるであろう。

ここで申し上げたいこと。それは自殺は人生からの逃避であり、自己保存の現われだということです。

これは何も文学者に限ったことではなく、人間は誰でも、どのような状況にあっても寿命をまっとうして果たすことが本来の死に方ではなかろうか。

すなわち、死に方を人生で学ぶことは、生き方を学ぶことであり、また生き方を学ぶことはそのまま死に方を学ぶことになると思うのです。

死に際して、医療の現場においては課題がたくさんあります。

過度な医療によって本人の意思に関係なく延命処置をすることにも霊的な視点からすれば疑問をもちますが、自然な流れの寿命のなかに旅立つ心の準備がいかに大切であるかということに反するのが、自ら命を絶つということではないだろうか。

自らの人生を全うすることのなかにこそ、心の修行というステージアップの意味合いが含まれているのであり、その人生修行を放棄することは、たとえ世間で立派な人間だと言われている人であっても、どう事情があるにしてもそれは正しい理とはならないのである。

本来、死はあの世の実在を知ることや、肉体への執着を減らすための正しい心の学びをすることによって、怖いものではないと思えるようになるものです。

しかし、私達が自ら望んで両親から与えられた肉体を持って、その生命の続く限り、人間としてこの人生の困難を経験しながら果たしていくという心の修行を続けなくてはならないでしょう。

生ある限りこの肉体を大切にするということが、天から分霊という魂をいただいた人間としての掟だからだ。

特に作家の残したものは、多くの人々が眼をとおして、その心に与える影響が大きいため、人間としての責任は一層重大であろうと思うのです。

小説という作品の中には、人々の欲望をそそり、その心を狂わせてしまうような低俗なものもあるだろう。

しかし一方には読者の心に感動によって涙を誘い、安らぎを与え、知性を豊かにし、調和のとれた心に安らぎを与えるものもある。

その内容は、まちまちである。

人間としての自覚に目覚め、心が調和されている作家の作品は、読者の心の糧となり人生に生きる喜びを与えるものです。

だが、いかに名声の高い作家の作品であっても、心を忘れてしまった作品は、やがて人々から忘れ去られてしまうだろう。

そのような作品が果たして読者の心を豊かにできるのか、疑問が投げかけられるところです。

また、心狭い読者と、心広い読者によっても、作品の受け取り方は異なる。

このことは私自身もブログの読者のみなさんからいただいたコメントの内容を理解することで経験しております。

同じ文章に、気づきと表現する方、批判的にお叱りのコメントをくださる方、その受け取り方の違いはとなると、すべてその方の心如何だと思うのです。

つまり、その作品内容は、読者の正しい心の物差しで判断するしかないということがいえるだろうし、それぞれの気根の違いかと思います。

しかし、作品の内容によっては、多くの読者に大きな影響を与えるし、それによる結果としての現象もまた大きい。

低俗作品の場合は特にそれが強い。

一時期テレビに出てもてはやされていた有名な女性霊能者の著書を読んだことがある。

その内容は霊的な諸問題と人生訓の内容だったが、文中のなかで自身のことを語る「苦労して生きてきた甲斐があって今ではベンツを買えるまでになった・・・・・云々」とあったのを読んで私は愕然とし、そこから先を読む気にはなれなかった。

著書全般にいえることであるが、その内容によって読者の心に不調和を与えたその責任は作者の側にもちろんあるが、しかし、その内容にある毒を食べた場合は読者自身にもあるということではないだろうか。

テレビを見てヒントを得て犯罪を犯す人間の場合もまた悪い毒を食べたことになる。

その罪の償いは、天の子である人間に課せられた掟なのである。

こうしてみると作家の責任は大きいと言わねばならないだろう。

心の働きというものは、ノンフィクションであれフィクションであれ、そのストーリーの主人公の心になりきって筆を進めているうちに、作家の心の中に造り出されていく想念が、それぞれの作中人物の心に同化し埋没してしまうのである。

作者が、正しい心の物差しを忘れて、創作中の不調和な人物に陶酔してしまうと、作者の心は、やがてストーリーの主人公にすり替えられてしまうことにもなる。

それだけに低俗な内容や争いの内容、殺戮な内容には特に心を調えるという一日の終わりに反省が必要である。

このように執筆活動の終わりに心の調和を図ることをしない場合、不眠からノイローゼという不安定な心の状態を造り出してしまいかねないのである。

いかに名作を書き残した作家であっても、その心の状態は常に変化しているということにおいて我々と何ら変わるものではないということを知らなくてはならない。

いつの間にか、その心の状態が、創作の中から生まれてくる不調和な心に応じた地獄霊に憑依されて、ついには正しい判断を失ってしまうということだ。

川端家に出入りしている人の後日談で残されているお話しがありますが、『川端さんは始終、霊に憑依されて不眠症で悩んでいられた』ということです。

また、ある川端康成氏の最も近い人で、その人がいわく川端家には氏の存命中にも幽霊が出てきたと言われておられるようです。

では何故このようなことが起こるのかと言いますと、晩年の作品は暗くその作品を書くときの心の暗さが未成仏の霊を引き寄せたということでしかない。

その地獄の霊達に憑依されることによって心を支配されて発作的に自殺をしてしまったものと考えられます。

一方、三島由紀夫氏のことですが、この話しはある方のお話しであり実話です。

三島由紀夫氏のお母さんが、『由紀夫さんがしよっ中出てきてその姿がはっきり見えてねむれない。幻覚症ではと診察にいったら、これは現代医学では治しようがないとことわられた』と。ある人が書いていたという。

三島由紀夫氏のお父さんの霊もいっしょに出るのだそうである。

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自衛隊本部に斬り込んで人を斬り、自分も割腹して果てた三島由紀夫氏は一部の人たちのあいだでは愛国心の権化だと讃えられているが、その当時の霊は浮かばれていなかったわけである。

さて、日本人として初めて昭和四十三年にノーベル文学賞を受賞された川端氏は、新感覚派として『伊豆の踊子』、『雪国』などの代表作があります。

しかし、晩年の氏は暗い作風が多く、そのことを指摘した書籍が出されていました。

昭和四十七年に自ら命を絶たれたのですが、人間の心の世界というものは「一念三千」と言って、心の針は悪にも善にも自由に向けられますし、それがまた現実となります。

例えば、役者が暗い役ばかりを演じたり、作家が暗い文章ばかりを書いていると、心根が暗く不調和な人の場合、あの世の暗い霊と同通し正しい自覚を忘れ、支配された結果として自ら命を絶つということが起こりえるのである。

最近はホラー(恐怖)、サスペンス、残酷、妖気などの暗い本が多くなりました。

売れるからという理由で、際限もなくそのような本が出版されることを私は憂います。

三島由紀夫氏に関しては、だいぶ前にいくつかの三島由紀夫の「霊界通信」なるものが出版されていましたが、私は次のように考えています。

あの世は心のままの世界と言います。

三島氏は自らの信ずるところを訴えて陸上自衛隊に斬り込まれたのでしょう。

そして計画を完遂することなく切腹自殺をされたのですが、その扇動の心は、そのままの心の世界、つまり右を向いても左を向いても、自分の考えを主張する者達ばかりの世界で、誰も聞いてくれない自論を延々と続けるという苦しい世界です。

そして、自らの死をも自覚していないのです。

そのために、三島氏のお母さんに救いを求めるというか、幻覚症ではないかと思われるほどに傍に寄ってきて姿を見せるということになるのです。

死の直前、死後に悟った人は一時間もこの世にはいないし、この世の人間に関わって姿を見せるようなことはしない。

そして、肉体や遺骨に、あるいは生前の出来事、物に執着することなく天上界へ帰って行く。

このことから考えると、三島氏の霊魂は、この世に思いを残していたようです。

また、自害後一年くらいして氏の遺骨が霊園から盗まれるという事件がありましたが、このような事件を含めて、いよいよこの世に執着し、天上の世界には帰ってはおられなかったと思います。

そして、この世の同通した人に霊界通信を送って、自らの思いを遂げようとしているのです。

暗い世界の霊にとって、同じくこの世の暗い人間の心がエネルギー源となることは当然の理であります。

特に、自殺者の場合、神の光を閉ざしているために神より光りのエネルギー補給ができないのです。

そのようなことからも分かるように、反省が神の慈悲といえるならば、生前の一つひとつを反省、修正することによってのみ、神の光、神のエネルギーを受けることができ、光の世界、天上の世界に帰ることができるのである。

ところが、自分の罪業を悔い改めることなく、神に詫びることなく、反省、修正のできない霊魂は、反省ができるまで地獄の暗い世界に定住することになるのです。

以上のような理由によって、三島氏が霊界通信を送ったという考え方と、もう一つは、あの世の困った動物霊や地獄霊が三島氏の名をかたって霊界通信をしているかもしれないという考えかたもできるということです。

困った霊は、人があっと驚くような名をかたって出てくるからです。

ここに「偏らず正しく見る」ことがいかに大事かということと、いかに地位、名誉があっても、心の針の向け方いかんによっては、正道を誤ることになるのだということをわかっていただきたと願うものです。

我が心の師は言い残しました。

「人間の価値は、その人から地位や名誉を差し引いたものだ」と。このことばを大切にしたい。

川端・三島の両氏について長々と述べましたが、いつの日かそれも早いうちに天上の世界に帰って行かれることを願うものである。

自殺についてもう一度考えをまとめておきたい。

人間の目的は、己の魂の向上とそれによって成されなくてはならないユートピアの建設ではなかろうか。

あの世からこの世に生まれる時は百人が百人、今度こそ自分の業(カルマ)、心の傾向性を修正し、善を為し、この世を調和すると決意して出生します。

ところが地上の大気にふれ、この世の環境に染まってゆくうちに、こうした目的を忘れ、自己保存の想念に支配されてゆきます。

自殺の心理は、その極点に近いものと思っております。

いうなれば自己保存の自意識が過剰なために為された、自らそうした行為であり、結果的に神に対する冒涜、反逆であって人間否定を意味することになるだろう。

ですが、心やさしく、真面目で悪を犯さず、自分に厳しく遠慮がちで、純粋な個性をもって一生懸命に生きてきた人間の自殺。

しかし、純粋過ぎるという言葉では片づけられない。

純粋さもバランスを失い、そのことに偏り過ぎると傷つくことになる。

この世の中は善と悪が混在する世界である。

それは物質世界であるからだ。

肉体、物、金、知識、名誉、地位、職業、何一つとっても偏ると、心のバランスを失う原因と成り得る事ばかりである。

この世は悪がはびこってはいるが、心やさしい人々もいる。

そして善を為している人たちもいる。

決して悪ばかりではない。

上司によるパワハラの職場において、気の毒なほどいつまでも心に残してはいけない相手の言葉に傷つき、心から離せないで引きずっているときは、心が重く苦しく、そして負担になっていることにさえ気づけないほど自分を見失っている。

できない自分にいら立ち、自分を奮い立たせようとするが、心は晴れない。

完全にやり遂げようとすればするほどできない自分とのギャップに苦しむことになる。

できない自分を認めることができない自分が自分を苦しめていることに気づけないでいるケースもある。

苦しみは自分の心の視点を変えてやることで負担が軽くなるものですが、渦中の人にとってはそのようなことに思いが至ることは難しいだろう。

子どもでも大人の場合でも、優しい子だったとか、真面目な人だったとか、素直な子だったと追憶するのだが、それだけでは済まされない心の闇の実態を知っておく必要がある。

亡くなった方にムチ打つつもりはないが、自ら命を絶った人の場合、死んで楽になることはない。

死の瞬間の心は自責の念や、他への恨み、生きることへの諦め、悔しさ、悲しみ、地上への未練などで不調和の極みである。

いずれにしても死は、現世のままの連続体だといえよう。

その意味で、死の瞬間の心の状態がいかに重要であるかということなのですが、この世で不調和な人は、あの世に逝っても、当分は心が調和できるまで時間を要することになる。

時間というより年数といえる。数十年、数百年は瞬きの瞬間といえるでしょう。

ただ、あの世の場合は、心的変化がこの世よりも遥かに精妙な世界なので、肉体がないが故に、思うことがそのまま現象化する世界だから、不調和な心もまたそのまま現象化するということだ。

逆に気づき、あの世の場合、悟ればいっきに天上の世界まで上昇していくことになる。

自殺は、他を傷つけて殺人を犯すことより罪が重いという表現をする考え方もあるようですが、しかし、それは自殺がどれほど心の罪として深刻な状態であるかということのために殺人という言葉を借りたのかもしれません。

だが本来は殺人と自殺を比較して云々というような軽んじた観念遊戯の問題であってはならないだろう。

一人の人間が複数の人間を殺人する事件まであるのですが、これでも比較して自殺より心の罪は軽いといえるであろうか。

自殺も、殺人もさまざまな内容を伴い、各種にわかれていて同情を禁じ得ないようなことがおこっています。

たとえば家族の迷惑を考え、ひと思いに生命を絶っていく療養生活の長い老人。

老いた息子が母親を世話しきれず首を絞めて殺すという困難な介護の悲しい結末。

形はどうであれ、いちばん問題なのは、本人のその時の想念のあり方にありますが、しかし客観的に、私ならこうするという余地のある自殺は、もっとも悪い結果になるでしょう。

自殺と殺人の罪を比べて云々ということではないが自殺者の死後の世界は暗黒地獄です。

一寸先はわからぬ真暗な穴倉のようなところに閉じこめられての苦しみの連続です。

鼓膜が破裂しそうな轟音が鳴り響くどころとか、得体の知れぬ生物が意識のなかに入り込んでかきむしるのです。

頭痛や幻想に襲われても、この世では麻酔や疲労が救いになって眠ることができますが、暗黒地獄ではそれができません。

意識だけはハッキリしており、それでいて真暗ですから自分の体がどこにあるのかもわかりませんが、これは自殺した霊を降霊した際に語った言葉の内容からもわかることです。

自殺は「光」を否定した想念ですから、こうした暗黒界に自らを引き込み、客観的に説明のできない自殺は、その苦しみが長期にわたります。

ゆめゆめ、こうした想念に支配されないようにしたいものです。

次回は29日(木曜日)に『安楽死について』投稿の予定です。

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広い慈愛の精神

スリップ事故

私の住んでいるところは雪の多いところで、道路に雪が積もり始める初冬になると決まって車スリップの事故が発生する。

ドライバーが雪の路面に慣れるまでのちょっとの間なのだが毎年のことだ。

私の家の前の県道はカーブが二か所ほどあるために余計にスピンしやすく、すべり事故が毎年数回と比較的多いのだが、なかには電柱を折る場合もある。

除雪用に所有する自家用のパワーショベルで、これまで路肩から外れて側溝に落ちた車を何台引っ張り上げてやったことだろうか。それぐらいスベリ事故が多い。

女性ドライバーに声を掛けると、「ジャフを呼んだからいいです」とはいったものの、到着まで2時間以上かかるといわれたということだったので、それでは雪のなか難儀だろうとパワーショベルを引っ張り出して、わずか15分で引きあげることができた。

朝一番の思わぬスリップ事故で大変だったろうが、「助かりました」と、笑顔で仕事に向かっていく見知らぬ人。

お互い人間というものは、他の人が困っているのを見たときに、思いの差はあっても「なにか手助けできることはしてあげよう」と考えるのが自然の情ではないかと思います。

勿論、他の人の難儀を見ても見ぬふりをする、というような姿もときにはあるでしょう。

しかし、そういう場合でも、なにか特別の事情がない限りは、やはり内心ではできれば助けてあげたいとか、だれか他の人が助けてあげればよいのになどと思っているのではないだろうか。

これはおもしろい、大いに難儀して苦しめばよい、などとはまず考えないのではないでしょうか。

やはり、基本的にはお互いに苦しむようなことがない方がいいし、みなが安らかに楽しく明るく生活すること。

だからこそ、他の人が困っていれば、これをできるかぎり助けてあげよう、というような思いやりの心が働くのでしょう。

もともと人間というものは、互いに心を結びあって、大切にしあい、生かしあい、許しあい、助けあって生きてゆこうというような心をもっているのではないかと思うのです。

そういうことをハッキリと示した例が、三年前の三陸津波の被災時に全国から無償の奉仕活動に参加してくださった方々の活躍です。

このことによってどれだけの人たちがたくさんの感動や、安らぎ、そして勇気を感じたことでしょう。

つまり、そういう広い愛の心、慈悲心というものを、本来人間は備えているものだと思うのです。

しかしながら、現実のお互い人間の姿というものをみると、必ずしも常にそういう愛の心、慈悲心が発揮されているとはいえないでしょう。

実際、お互いの身の回りにおいても、また世の中の各面においても、世界をみても、人と人とが、時折、互いに争いあったり、いがみあったり責めあったり、憎しみあったりします。

また作為的に敵対する意識を教育している国の事情というものもみられることもあります。

様々な理由から、人間にはせっかく広い愛の心、慈悲心を本来備えていると思われるにもかかわらず、それがスムーズにあらわれてこない場合が少なくないのです。

これはまことに残念なことではないだろうか。

もっと私たちは、人間として本来備えている人間らしい愛の心、慈悲心というものを、常日頃から十二分に発揮しあって生活し、様々な場での活動を進めてゆくことがのぞましいと思うのです。

ではなぜ、そういう愛の心が言葉や行動に十二分にあらわれてきにくいのでしょうか。

これについては人によってはいろいろな考え方があるでしょう。

しかし、やはり一つには、お互いの心がいろいろなものにとらわれている、だからその本来もっているあたたかい心があらわれてきにくいのではないかと思います。

たとえば、お互いの心が一つの利害にとらわれてしまうと、他のことは忘れて利害のみを争うようにもなり、自分の思うようにいかないとそこに憎しみが生まれて愛の心をかくしてしまう、ということもあると思います。

また自分の意見なり、主張に囚われてしまえば、それを無理して通そうとして他との間に争いを生じることもあるでしょう。

これも闘争心とか憎しみで愛の心を覆い隠しているわけですが、こういう心のことをエゴ(自我心)ともいうようです。

このように、お互いが自分の考えや利害や主張、偏った価値観、自我心などにとらわれてしまった場合には、憎しみであるとか、相手を否定する心であるとか、非難する心が生じて、それがせっかく本来備わっている広い愛の心というものを隠して表さないようにしてしまうわけです。

そういう私も全く過ちがないわけではなく、今でも自分の油断から間違いを犯すことが有ります。

しかし、私自身は自分の間違い、過ちと気づいたときはいつでも、誰にでも、素直に謙虚に謝るという姿勢だけは忘れないでいたいと思っています。

お互いが素直な心になったならば、そういった諸々のとらわれというものはなくなっていくと信じているからです。

誰もがこういう心を忘れなければ、自分の利害にも、立場にも、また自分の考えや主張にも、すべてにとらわれることがないという姿にもなってくるはずであります。

したがって、謙虚で素直な心が高まったならば、お互い人間が本来備えている広い愛の心、慈悲心というものがなにものにも妨げられることなく、そのまま十二分に発揮されるようになるのではないかと思うのです。

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広い愛の心、慈悲心

とはいっても何も特別なこととしてあるものではなく、他の人が困っているのをみればこれを助けよう、苦しんでいる人があればなぐさめよ、そしてみんながともどもに楽しく明るく生きてゆくことができるように、互いに大切にし、生かしあってゆこう、というような思いが湧き出ること、またそういった考えをもつようになっていくことではないだろうか。

すなわち、素直な心になれば、人間本来の広い愛の心、慈悲心が働いて、みなが共々に明るく幸せに生きてゆくことができるような社会が生まれ、高まってゆくのではないかと思うのです。

掘り下げて行ってたどり着いてみると、素直な心というものは、そういう広い愛の心、慈悲心にもつながっていると思います。

一方、マスコミのニュースを聞くにつけ心が痛むのは、中国、ベトナム、日本、韓国、北朝鮮、アメリカ、関連する諸外国との摩擦です。

目先の利害に奔走する国の方針に国民は必ずしも納得しているとは限りません。

それは、それぞれの国内でのデモや暴動が物語っています。

政治を先導する立場にある人間も、そういう人たちを選ぶ国民も自分の立場だけを考え、囚われておこなっては、やがては我が身に諸問題が降りかかってくることになるのは避けられないでしょう。

愛や慈悲心というものは、何も個人だけの間で成り立つ心の働きではなく、あらゆる場面で人間の心に持たなければならない宝珠ではないだろうか。

5月26日(月曜日)は「自殺の霊的視点」について投稿致します。

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神を宿す心

  人生を翻弄(ほんろう)する神

「孫に憑依した稲荷」

「宗教にみる阿片作用」

という存在に関わるようになって家庭を不調和なものにしていった人、社会生活に支障をきたすようになった人、夫婦の破綻にまで陥ってしまった人たちがいました。

巷でいう(神界からの使者、もしくは修業中の龍、動物霊、修業途中の白狐)は、決して本来の神ではなく、人間の都合によって「神」とよんでいるに過ぎず、厳密にいうとその実態は真の「神」という神ではない。

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例えば、上段界光りの天使として使命を担った龍や、稲荷大明神といわれる自然霊が存在し、善行を為す人を背後から協力することはあるのだが、しかし、こういった存在を神として崇めて額ずいたり、崇拝してはならないのである。

龍や白狐にも霊格があり、人間をサポートすることはあっても、決して神として祭られるような存在でないことを知っておかなければならない。

実際のところ、祭祀している者の口を借りて語る神という?ものの本体は邪霊が殆どであり、仮に語ったとしてもそれは憑依によって低次元の霊、邪悪な霊、動物霊などが祭祀している者の意識と口を支配して語っているだけである。

決してよろしくない表現の低次元という言葉、邪悪な霊、これは何を以って低次元と表現するのか、邪悪な霊と表現するのか、それは自我我欲、執着、拘りという不調和な想念によって自らを貶めている霊のことであり、地上人間の心を支配し悪影響を及ぼすからである。

上段界の光りの天使は決して人を驚かせるようなこのようなパフォーマンスはしない。

そして、巷で神と称するものたちの実態が、祭祀する者の心のステージと同等の霊しか関わってこないことを知っておかなければならないだろう。

決して自分の心のステージ以上の霊が関わってくることはなく、ましてや、天地創造の唯一神が人間を支配することは有り得ぬ話であるし、神が人の口を借りて語ることは万に一つの可能性もない。

祭祀する者の言行不一致、消えない疑問、矛盾がある、金品に貪欲、カリスマ性を強調する、当たる当たらないに一喜一憂している、一方的、傲慢、通わせようとする、こういったことがみえたら離れるべきである。

神」という固有名詞が意味するところ真の神はとなると、大宇宙を統べるただ一つの意識がそれであり、森羅万象の調和と摂理の原点と私はうけとめている。

この原点とは愛と慈しみである。

慈悲は仏教で説かれる教えであります。

「釈尊は悟られた」と、すべての仏教家、仏教学者がいうが、その悟りがどんなものであったか、その内容については真の意味で誰も明らかにすることはできないであろう。

何故なら、釈尊と同等の境地まで大悟された方でなければその境地について明らかにすることは不可能だと思われるからです。

勿論、私自身も釈尊の大悟された境地についてはわかりませんが、その教えに真実を見出すことができるからこそ納得もし、感動し、共感するということでしかない。

ただ、20世紀にお一人だけ「宇宙即我」というその境地まで悟られた方がおられたと思うのですが、既にその方は帰幽しておられ、ここではそのことについての詳細は割愛させていただきます。

 さて、光(太陽)というエネルギーがつくり出す生命体は科学的に実証されているだけでも相当な数に及びますが、しかし、人間の知恵によって発見された働き(生命)は宇宙からみれば極限られたものでしかないだろう。

きょうは物質的存在としての太陽ではなく、四次元的太陽光エネルギーについて、スピリチュアルな側面から述べてみることにします。

先ず、この大宇宙は神によってつくられた。

大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけがそこにあった。

神は、その意識の中で意志を持たれた。

大宇宙の創造は、神の意志によってはじまった。

意識の働く宇宙と、物質界の宇宙の二つの世界を創造した。

意識界の宇宙はその意志をもって物質界の宇宙を動かし、そうしてこの二つの世界は、光と影という相関関係を通して、永遠の調和を目的とすることになった。

神の意識は、永遠の調和をめざし、そうして、二つの世界にあって、調和の要である中道という法秩序の中に住まわれることになった。

人間は、天地創造と共に、神の意識から分かれ(分霊)、神の意志を受け継ぐ万物の霊長として産ぶ声をあげた。

他の動物は本能と感情がほとんどであるのに対し、知性と理性と創造の力を頂いた動物は人間だけである。

人間の誕生は、意識界という四次元世界の宇宙に、まず姿を現わした。

そうして、神の意志である調和をめざす神の子として、物質界に降り立ったのである。

物質界に降り立った最初の人間を、地上の眼でみるならば、大地の一隅に、忽然と物質化されたといえるだろう。

人間は身体も心も小宇宙を形成している。

小宇宙とは大宇宙の縮図である。

大いにスピリチュアルな発言になるかと思いますが、大宇宙に展開する無数の星々は、人間の肉体を形作っている光の数(細胞数)とほぼ同数といってもよいだろう。

太陽系が太陽を中心に九つの星々(惑星)と三万数千個の小星群(衛星群)をしたがえ、太陽の周囲を循環している。

また、極小の世界においても(素粒子)も中心となる核とその周囲に小星群(陰外電子二が回っている。

太陽系という宇宙も、極小の世界も同じように、一つの法則の下に循環し、生かされ、生きていることは科学でも証明されているところです。

人関の肉体は、そうした極小の光粒子が集まって集団を構成し、体を成している。

これらの集団は、脳、心臓、肺臓、肝臓、腎臓、胃、腸などを形成し、これはそのまま宇宙に存在している太陽でもあり、九つの星々(水星、金星、地球、火星、木星、土星など)を意味し、さらには、大宇宙に展開する多くの太陽系の、それぞれの個性を持った集団群と同じようにつくられているといってもよいのではなかろうか

人間は肉体のほかに心(意識、或いは魂)を持っている。

その心は肉体という衣を通して、物質界、この現像の世界に調和をもたらすことを目的とする反面、大宇宙の心に同通し、それぞれの役割に応じた使命を担っている生き通しの意識だといえるだろう。

肉体は長生きしたところでわずか80年から90年の仮りの宿に過ぎない。

物質と非物質の世界は、交互に循環することによって、調和という運動形態を永遠に持続するためにあり、このため、肉体という物質は、時が経てば物質的形態を変えた世界に戻らなければならない。

人間といえどもこの大宇宙の循環の法則から遊離して存在することはできないのである。

しかし、人間の意識、心、魂は、物質、非物質に左右されず、永遠に、その姿を変えることがない。

私たちは肉体に囚われることより心を乱し、肉体まで不調にすることは医学の分野でも知るところであり、このことに着目して視点を変えていかなければならないでしょう。

このように人間の意識は、心が調和されることによって神の意識に通じながら、物質界という現象界と、非物質の意識の世界を循環し、個の意識である魂を持って、生き続けているのである。

神の子としての人間が、この世の現象の界において何故に悪をつくり出したか。

不幸をどうして生み出したか。

それは肉体の自分が自分であると思うようになり、肉体にまつわる諸々の考え方が、本来自由自在である心を、肉体の中に閉じ込めてしまったために外ならない。

全能の神が人間の不幸を予測できないはずはないと誰しもが考えよう。

不幸を事前にどうして防げないのかと。

では人間の親子がどうしてしばしば違った方向に歩いていってしまうのだろうか。

子供は成人すると親の自由にならない。

子は子としての人格と主体性を持っているからである。

神と人間の関係もこれと同じで、主体性を持たせてある人間を自由には出来ない。

自由に行使できる者は、神の子である人間自分自身だからである。

神は調和という中道の中で、厳然と生命の火を燃やしている。

人間が、その自由の機能を妄(みだ)りに使い、中道に反した行為をすれば、その分量だけ、反作用という苦しみを伴うよう仕組んであるのだ。

要するに間違った心の使い方、すなわち偏った心の使い方をしたときに苦悩が始まるのである。

この仕組みよって、神と人間の絆が保たれ、調和という永遠の目標に向うように計画されている。

人間の魂が肉体に宿ると、大抵は五官に振り回され執着する場合が多いものだ。

五官とは眼、耳、鼻、舌、身の五つである。この五官に、魂、意識が幻惑される。

美しいものを見ると欲しいと思う。

気持の良い香りには心がひかれる。

自分の都合のよい話には、つい乗ってしまう。

舌障りのよい物は食べ過ぎてしまう。

苦労するより楽な方に身を置きたい。

肉体五官はこのように、人の心を動かして行く。

五官が働かなければ肉体の維持はむずかしくなる。

さりとて、五官に心を奪われると過ぎた欲望がつのってくる。

欲望の源は、五官に振り回される心の動きにあったわけである。

諸々の欲望、争い、不調和、悪の根源は、五官に心を奪われる六根という煩悩にある。

さまざまな不幸は、肉体にまつわるこうした心の動き、カルマ(業)の想念行為によって生み出されていった。

業は執着である。執着は五官から生ずる肉体的想念が、魂に根を張ることによってつくり出されて行く。

地位、名誉、金への執着、自己顕示欲、カリスマ性への拘り、その他さまざまな欲望が、人間の神性仏性を侵して行く。

こうして、人は、その意識を、あの世と現象の世界であるこの世を循環する度に、その業を修正して行く人もあるが、新たな業をつくって輪廻している人もいる。

このために人類は、地上にユートピアを建設する前に、まず己の業を修正しなければならなくなった。

同時に、さまざまな執着を生み出して来たがために、神性の自分から次第に遠のいて行ったのである。

しかし、人間の魂は神性仏性そのものであるから、神性仏性を捨て去ることは出来ない。

動物、植物は、この地上の環境を維持するための媒体であって、人間はそれらの媒体を調和させて行く責任を神から与えられ、委されているといえるだろう。

その証拠に、自分の心に偽りの証しを立てることは出来ない。

人にはウソはいえても、自分にはウソはいえない。

文明文化は人間の社会にのみにあって、動物、植物の世界にはない。

人間はどこまでいっても人間である。

動物、植物も、それぞれの個性にしたがって転生輪廻し、進化を続けるものであるが、しかし彼らが人間になることはできない。

人間も動物、植物に生まれ変わることはない。

水が土になることができないのと同じであり、パンジーの花がひまわりの花になることがないのと同じである。

人間が神の子の己れを自覚し、業を修正し、本来の神性に戻るためには、神の心に触れなければならない。

神性の我に帰るとは、苦しみの世界の自分から離れることである。

生老病死のとらわれから脱皮することである。

神の心は、中道という調和の大宇宙に流れており、その流れに自分の魂が触れるよう努力することであろう。

一日には昼があり夜がある。

どんなに人類がふえても、空気、水の質量は変らない。

太陽の熱・光についても、その放射する質量が変ることはない。

人間社会は男と女とが生存する。

男女の比は常に一定に保たれている。

戦争、災害など、人々の心が自己保存、自我我欲に傾かない限りは、男女の比は均等に維持される。

人間の肉体も、休息と運動という循環から切り離せない。

夜も眠らずに仕事を続ければ、肉体的に支障が現われ、精神の平衡を失ってくる。

すべての生命、物質は、このように、中道から離れては保たれないようにできている。

悲劇や苦しみは、こうした中道から離れた想念行為があるからである。

中道の心は、毎日の生活行為に対して、反省し、反省したことを実践することから得られる。

実践にはたゆみない努力がひつようだ。

そして勇気が要ります。

智慧を働かせば、業の修正は意外に早まるだろう。

神は光明そのものである。

それは意識のある光明、エネルギーで、物質宇宙を創造し、その物質宇宙を包含している光明である。

その神が、創造の最後に、万物の霊長として人間を創造しようと想念される。

すると、神の意識の中から小さな光の粒子がはじけるように飛び出してきて、それが肉体と同じような形に集まる。

それが天上界における光子体(霊体)である。

その光子体の中に、神の意識がぽんと置かれる。

それがわれわれの魂である。

その光子体を元にして地上の肉体が創造られる。

肉体細胞は細胞としての一個の生命体であって、人間が魂を持っていると同じように、細胞には細胞の意識、魂がある。

その細胞が集まって、頭脳、心臓、肺臓、肝臓等、また、頭には眼、耳、鼻、舌等の器管がそれぞれつくられてゆく。

するとそこに、頭脳は頭脳として、心臓は心臓としてのそれぞれの集団意識が発生する。

それらの集団意識を統合して支配しているのがわれわれの魂である。

肉体全体を統合しているわれわれの魂が、なにを思うか、ということによって肉体細胞の集団意識は左右されていく。

ここに心によって健康になり、また、病気をつくることもできる原理がある。

創造された光子体、肉体にはそれぞれの役割が与えられる。

それが陰(女)であり、陽(男)である。

女と男、陰と陽は、神の意識を中心として回転し、新しい生命を生むことに条件づけられる。

男女夫婦の心が完全に調和された時、そこには神がつくられたままの健全な子供が誕生するが、その調和が歪(いびつ)なものになってくると、歪(ゆが)んだだけの心が、生まれてくる子供の肉体に投影されるのである。

ここに胎教の必要性、大事さがある。

キリストは、「神はここに見よ、かしこに見よというが如くにはいない」といわれた。

ということは、神の生命はどこにでも遍満しているというのである。

このことをまた「天国はあなたの手の中にある」といっている。

このキリストの言葉に比較して、釈尊の教えは更にもっと深く、また具体的である。

「神の意識は、永遠の調和をめざし……調和の要である中道という法秩序の中に住まわれることになった」

神はどこにいられるか、ということに対する釈尊のこの言葉を、キリスト流にいい直すと、「神はここに見よ、かしこに見よというが如くにはおられない。神を見んとするならば、天地宇宙、大自然がすべて調和されているその相を見、また、あなたがすべての関係において、親と子と、夫と妻と、という具合にすべてと調和した時に、そこに神の存在を知ることができよう。」ということになるだろう。

神を見ようと思ったら己自身の心を調和しなければいけないということがよくわかるかと思います。

争っている状態では神を感じることはできようはずがないし、まして神を語り、営利を目的とした宣託やエゴのままに説かれる法の場など、神の意識が存在することはない。

つまり、争っている状態のままで神を見ようとすることは、燃え盛る煩悩の火の中に清らかな水を求めるようなもので絶対に不可能である。

調和というと、それは親子、夫婦、男女といった人間関係の調和だけでなく、

天と地、心と物、時間と空間、引力と重力、求心力と遠心力等、すべてのものが調和されなければいけないので、その調和された状態を見て、われわれは神の存在を感じなければならないだろう。

心に執着が無く、調和されて感謝と報恩の実践ができるならば、その人の心には神の意志が宿ったことになる。

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AC・結婚・離婚・言霊の働き

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今回は幼少の頃から親によって言葉の暴力や虐待を受けて育った方から、メールで問い合わせをいただき、その方と私とのやり取りをそのままアップさせていただきました。

言葉には人間の思い、精神状態が如実に含まれているものであり、それが相手に伝わっていくものであります。

「言霊、言魂」とはよくいったものですが、私自身、今回のやり取りもまたとても貴重な学びとなりました。

訪問してくださった方々にとって、何らかの参考になればと掲載をしたものです。

以下。

2014/2/13 藤田彩乃様(仮名)より受信

観童さま。初めまして。

サイトをありがたく拝見しております。ありがとうございます。

私は35歳の女です。〇〇県に住んでおり、藤田彩乃と申します。

私は転生やあの世といったものを信じきれないでおり、ある苦しみを手放せずにいます。

これについてご意見を伺いたくメールいたしました。
私はいわゆるAC(アダルトチャイルド)でしたが、回復に至るまでにちょっと変わった経験をしております。

私の父は、子供を人手扱いする農家で虐待されて育ち、心薄いまま家庭から逃げるように早い結婚をした人でした。

父の家系は、被差別部落から口減らしのように嫁がされてきた人などもいたし、暴力沙汰、精神異常が絶えず、地獄のようでした。

皆さん教育もつけられず、離婚したり精 神を病んだり、ひと通りでない人生を送っています。

母は父が頼りにならないので気が強く、攻撃性が強くなり、自分の世界から強く人を否定してばかりになりました。

兄は知的障害者として生まれました。

人を差別して自分の下に人をつくらねば自分を保てない精神性だった父は、自分を基準にして物事をとらえ、こんな子がいたら人にバカにされて俺は終わりだ、あの子を何とかして手放したいなどと気に病んで、さらに母に激怒され人格否定されていました。

やがて父はアルコール依存症になり、数多くのトラブルを起こしたあげく何も思うに任せぬまま、回復せずに死んでしまいました。

私はというと、親からあまりにも愛情や理解が得られないので、物心ついたときに彼らを 見限ってしまったようです。

無知蒙昧で話の通じない人たちなんだな、と割り切り、彼らを心に入れず、理不尽に罵られても殴られても感情が凍り付いたように動かなくなりました。

彼らからは何も与えられなそうだと思ったので一人で図書館に通い、何かあれば家庭外の大人に助けてもらい、具合が悪ければ自分で調べて医者に行きました。

感情が上がらないので論理性が育ち、依存心や依頼心がないので強いのですが、何も愛せず器も広がらず、いつも自分を無理に引っ張り上げて生きているようで苦しかったです。

被虐待児童によくある事ですが、自己肯定感も低く、かなりの年齢まで水や注射におびえました。

しかも、トラブル続きの家庭にいたため、恐怖や不安に 吸い取られるような感じで、視野の上半分から遠くを強く見るような感じが固く固定されてしまっていて他の状態を知りませんでした。

そのため自分の中に自分のためのものがなくなり空虚で、いつも吐き気がするような疲れがあり、欲望が薄く、自分の事を話していても他人事のようだとイラつかれる事もありました。

しかし理性が強く思考回路が利他的で言動がおおむねまともであったため、大きな問題を起こさず、むしろ精神性が高いかのように見なされたり、専門家にかかっても異常が見出されませんでした。

高校のとき私の見た目を気に入り執着していた男の同級生と漠然と年間付き合い結婚、3人子供をもうけて10年間結婚していましたが、私のほうは彼に愛情を持てず、機械的に生活をこなすばかりで、これが結婚生活と割り切っていました。

私は生活が苦しくて子供たちに愛情を注ぎきれなかった部分はありますが、義務感は強くとにかく育児書などをまじめに読んで実行し、理性で無理に頑張っていたので、子供はどうやら無事でした。今も健全に育っています。

もともと私とは対照的にユルくて自己愛の強かった彼は好きな女にも愛されず、まともな生活をする気力を保てなくなり、身の回りの事もできず汚い部屋の中に引きこもり、働かなくなり、他所に執着する女性を新たに見つけて入り浸るようになりました。

私は彼にも何も求めなかったので、壁や床と同じくらいに思い、黙って彼を養い続けましたが、妊娠時や出産前後はさすがに 働けません。

ふた親そろっていてどちらも働いていないタイミングでは子供を預けるところも確保できませんので、とり崩していた貯金も底をつき、経済的に立ち行かなくなって行きました。

ついに電気も止められるというとき限界を感じ、「ひとり親になれば手当ももらえるし保育園に子供を入れられる可能性が出て来る。そうしたら私が働けるから、離婚して」と、渋る彼を家から追い出しました。

私は依然「自分は普通でない事はわかるが何が普通でないのか」を追求していてある人に出会いました。

彼は「一日に100回ありがとうと言うようにしてみろ」とアドバイスしてくれました。

私はそれをしながら、時期同じくして自分と同じような精神不全を起こしていた人と出会い 、その人への共感や愛情で、苦しいくらいの猛スピードで回復しました。

今は器も広がり、視野も直っていますが、感情が平坦ではあり、上がりづらいです。

その代わり人にこうあって欲しい、こうあるべきだという要求がないため事実がありのまま見える事が多いようです。

今となっては、孤児のような強さ、感情上がらぬために得た論理性、母親としての愛情、かつての自分や家族のような不幸な人がこの世に一人たりとも出て欲しくないという強い気持ちをあわせ持つ結果になりました。

物事がうまく行かない人の精神世界をトレースし、その人に必要なものを見つけ出して気づきを誘発したり認識をひっくり返し、状況を改善する事も意図的にできるようになりました。

コ ーチングなども行って、お役に立てていただいています。

虐待されて育った人は、依存心や恨みつらみが大きくなって問題を起こす事が多いと聞きますが、私はそうならなかった例ですよね。

依存性も低かったので、父のようにお酒に逃げたり、母のように何をやらかしても省みずすべて忘れてやり過ごし、それを生活のためと正当化するなどという事もしませんでした。

それはおかしい、と、心薄く自分の価値観しかない世界ではっきり思っていました。

虐待の連鎖など厳しい事例を見慣れたカウンセラーさんなどは私を珍しがります。

これは私の努力というより単に生まれ持った性質のように思われ、逆になぜ私のように回復しない、父のような人が後を絶たないのかと思うよ うになりました。

人により生まれ持った、今生与えられた魂のステージみたいなものがあるのだろうか、これは自分の意思で上げる事ができるのだろうか。

それができる人とできない人はどこで分かれるのか。

また、来世があれば父のような人も救われるチャンスがあるのでしょうしそれならこんな良い事はありませんが、確たる証拠なくそれを信じる事は私にとって、お酒や薬物に逃げるのと同じような安易な自己救済のように思えて、それがブロックになって信じられないのです。

臨死体験なども脳の機能として説明がつくような気がするし、人口が増えているのなら魂も増えるのか、それはどこから来るのか、生活が苦しかった時代には転生などないという教えが流行ったり、国によって宗教が違うのは、ニーズが先にあって都合良くつくられているからではないのか。

それとも私が小さな視点から見ているから物事を逆にとらえてしまっているのか。

目に見えないものを信じるのは良い事だと思うのですが、信じる事に抵抗を感じているのです。

このままで良いのだろうかと疑問に思っています。

また、世界に、理不尽な慣習に苦しむ人たちや、虐待されている生物たちがいる事も苦しく、その苦しみが手放せません。

具体的にそういう事を改善するよう行動してもおりますし、自分が余裕を持って貢献し、良い心を波及させて行くのが一番良いのだと思ってはいるのですが、微力すぎて、とりこぼしが出るのが苦しく、無力感があります。

も ちろん私がすべてを救える訳はないのですが、救われない人にとっては、何もしない人間はすべて一種の加害者だと思います。

自分が自覚もなく何らかの犠牲のうえに安全なところで暮らし、自分以外の苦しみを知らない、あるいは知っていても何もできない事はそれだけで害をなしているのではないでしょうか。

だとすればどうしたら良いのか・・・。これについて何かご意見をいただきたく思っております。

今後の生きる指針を探し続けたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 

2014年2月15日 土曜日返信

藤田彩乃さま。おはようございます。

返事がおそくなりまして、失礼いたしました。

ブログを訪問してくださりありがうございます。

転生やあの世の存在を信じる、信じない、信じきれない、確信がもてない、これは誰もが持っている思いであり当然のことと思います。

実は、あの世ということを言い方を変えて表現するならば「通常では見えない次元の存在」といっても間違いではないと思います。

その意味で言えば、私たちの肉眼では見えないものはたくさんあります。

電気エネルギーは見えません。

水だって気化すると見えません。

紫外線だって肉眼ではみえません。

磁気だって見えません。

この他に見えないけれど実際に存在するものは無数にあります。

人間の体から発する生体エネルギーも見えませんが特殊な機器を使用することでこれが確認できます。

魂は機械器具で確認できないほど精妙な存在ですから根拠がないということになっているだけです。

科学的根拠がなければ信じることができないという現状でもありますが、しかし、これが人間の限界かもしれませんね。

唯物的思考の限界点はここにあります。

しかし、まれに、高性能な電子機器によってオーブ(生命体、魂)の動きをとらえることも可能になってきました。

転生やあの世は存在しているのですが、その理論が自分のなかで裏付けされていないがためにわからないというだけのことではないでしょうか。

さて、あなたの生い立ち、メールを拝見しまして先ずは、「ご苦労されましたね」と声を掛けさせていただきます。

よくぞこれまで試練を超えて生きてこられましたね。

私は思います。

あなたのような非常に厳しい家庭環境に生まれていながら大きく脱線することもなく歯を食いしばって耐え忍んで生き、自立する人もいれば、グレてしまって親に対して仕返しをしたり、社会を敵視するような人もいます。

同じような環境に生まれていながら道を分けることの違いは何であろうか。

これは一言、気根の違いといえるでしょう。気根とは心根(こころね)のことであります。

要するに、もって生まれた其々(それぞれ)の魂のステージ(個性、徳性)の違いということがいえると思います。

何度も転生輪廻を繰り返しながらここまで成長してきた証であるといえます。

そういう意味で言えばあなたは厳しい環境に生まれることを敢えて避けることなく、覚悟を以って生まれてきた勇気ある魂だといえるでしょう。

失礼かもしれませんが、これまでのあなたのご苦労には心から同情を禁じ得ません。

「見えないものを信じることに抵抗を感じる。」

これは無理して盲信する必要はないでしょう。

何故なら、今以上に心の拡大が成されてくれば、それを信じるというより自然に感じてくるようになるからです。

見えないエネルギー、それは宇宙の万象万物を生かす慈愛のエネルギーと私は心と体で受け止めております。

「また、世界に、理不尽な慣習に苦しむ人たちや、虐待されている生物たちがいる事も苦しく、その苦しみが手放せません。」

このようなあなたの思いこそが他を生かす力となるのでしょう。

しかし、どのように善を思い、行動しても、それが苦しくなるのであれば、それはその苦しくなる心から脱して、自然体で生きることが必要であります。

をもって行動をする者が、自分自身の心に重さや苦しさを抱えては本当の調和とはいえないのです。

何事に対しても事にあたっては『淡々と為すこと』この心構えが己の心の解放の秘訣です。

私も毎日人々と話し合い、手助けしたいと、できる限りのことはさせていただいておりますが、しかし、必ずしも思うようにいかないことが多々あるのです。

虚であることはいいとしても、私自身が微力だからと自分自身を卑下したりすることは自己否定にもつながり、やがては苦しみとなって無力感に苦しむことにもなります。

こうなるとせっかくの行いである善行も執着になりかねないでしょう。

ここにも拘らない心のバランスが要求されますね。

何事にも片寄った思考、偏った価値観をもっては苦悩の元になってしまうのです。

「救われない人にとっては、何もしない人間はすべて一種の加害者だと思います。
自分が自覚もなく何らかの犠牲のうえに安全なところで暮らし、
自分以外の苦しみを知らない、あるいは知っていても何もできない事は
それだけで害をなしているのではないでしょうか。」

ここのお話しには少し偏りがあると思うのですが、何もしない人間を差して加害者という言葉が必要でしょうか?

本来加害者という言葉の意図するところは、『他人に対する加害行為を行った者をいうのであって、民法学では、不法 行為を行った者を加害者と呼ぶ』ということかと思います。

何かをしたいと思ってはいても実際には他のためにその何かをできないでいる人たちは多いでしょう。

それには立場上それぞれのおかれた状況、都合などもありその理由は千差万別です。

あなたの生い立ちからくる反骨精神?、熱い心故にほとばしる言葉だとは思いますが、

「一種の加害者」は適切なことばとは言えないのではないでしょうか。

 良かれと思うことは『淡々と為す。』この精神で生きたいものです。

他を裁くより、慈愛を以って事を為す。

こういった自身の心の波紋が人々の心を動かしていくでしょう。

観童

 

2014年2月15日 土曜日 午後3:17受信

観童さま。お返事ありがとうございます。

以前身近に、利己的な思考回路を土台に、「自分が死ぬまでに結果が出なくても、自分が生まれ変わってその恩恵を受けると思えばがんばれる」と言っていた人がいて、その方はあくまで自分のためにひたすら転生を信じていました。

その方の場合は、頑張らなければ社会に認められないので何とか自分を日々の生活につなぎとめるため、自己救済のために転生を都合良く信じた事例だと、私には思われました。

私は、自分が死ぬまでに報われなくとも子供の代にはもっと良い世界を残したいために努力するのだという思考回路です。

これはまったく目に見える範囲で正しいと思います。

しかし、結果が保障されない中での努力というのが苦しく感じる事もあります。

おそらく、私にはわからない高次元の事が世界にあり、それは私が思うより救いのある事なのではないかと思いつつあります。

そしてそれは科学で解明されつつあり、もっと魂のレベルを上げて行くと、確信できるようになるのですね。

私が道を外れなかった理由は気根であり、今生、生まれつき与えられた魂のステージという解釈で良いのですね。

今までの生い立ちに対してもご同情ありがとうございます。心から感謝いたします。

最中にいるときには説明できない事でも、回復した後にはこうして理解していただける事もあるんですよね。

そして、今生で魂のステージ低い方たちは、修行の一番苦しいところをまさに行っているところなのですね。

それはそれで頭の下がる事と思います。

父は一生かけて救われぬ姿を見せる事で、私にこの精神を定着させたという意味で、身を捨てて最大の功徳をしたのかも知れないとも思います。

心薄い父はおそらく最後、人を恨み死を恐怖して死んで行ったと思います。

その魂はどう救われるものかと気になっております。

彼が私の子供として生まれ変わって来れば今度は幸せに育ててやれますが、彼は転生してもまた試練を与えられるのでしょうか・・・。

書き方が悪く誤解があったかも知れませんが、

私は人に要求が薄く、平坦で、熱い心を持ちづらいので、他の人を責める気持ちはありません。怒りを感じる事もほぼありません。

とにかく私自身がこれ以上行えないという事に無力感や罪悪感を感じてしまいます。

これは一種の傲慢なのかも知れませんが・・・。

よく「いじめ被害者にとっては、何もしない人は皆加害者」という認識がありますよね。

これは、確かにそうなる事があるだろうなと思います。

見ていながら知らんぷりをしている、これは加害者と同罪ではないかと。

たとえば中国の「熊農場」で生きたまま腹部に管を入れられ、漢方薬として胆汁を搾取される熊が一万頭もいるそうです。

今この瞬間、彼らは誰でも良いから助けて欲しい事でしょうが、誰も助けられない。

私もです。

せいぜい、ネット上で熊農場廃止の署名をするくらいです。

私が精いっぱいやっても微力なのでとりこぼしは出る。

実は、虐待死のニュースがあったりすると、これも自分の心と波及力が至らなかったためだと、その子供に申し訳なく、無念に思っています。

自分が幸せになる事にもためらいがあります。

幸せの波及を起こす反面、幸せな人が増える事で不幸感が増す人たちがいる事、その人たちが精神状態による棲み分けの二極化が起きる事でさらに救われづらくなる事。

幸せになる事で「平和ボケ」して悪を想像できなくなる事の弊害などを考えてしまいます。

反骨精神というほどのものかどうかわかりませんが、

職場などで強引な人や立場ある人が力づくで状況を思うままにし、全体の良い流れを妨げているような状況で、私は、徐々に、あるいは急速に、状況を変える事をしばしばして来ました。

それは反抗心によってはなしえません。

大抵は、問題になっている人の精神をトレースし、気づきの材料を置いて行く事で可能になります。

私は幼く見えるため、しばしば中高年の男性に見た目を気に入られ、「感情的でかわいらしく媚びてくれる、自分より見識が下のオンナノコ」を期待され、思い通りにならないとわかると嫌がらせをされたり、場を出されたりという事が何度かありました。

そういう方は、私がご自分より仕事ができたり、ものがわかっている部分があるとそれだけで気に入らず、大抵は、根も葉もない事を言い立てて罵ったり、あらぬ噂を立てて陥れようとしたりなさいます。

家庭がありながら私に本気で懸想してしまわれ、その恐怖からそういったはかりごとをした方もいました。

場を出されると決まれば私個人への害はおそれず行動する事ができますので、確実に問題の人の認識をひっくり返してそこを後にして来る、というパターンが多かったです。

自己満足になってしまっていないかと何度も考えましたが、そのご本人には認めたくない事を認めるという苦痛が伴うケースもあれど、他の方たちのためにはなっただろうと、思っています。

それを正直に話しても、最初は「こんな小娘にそんな事ができる訳がない」

「できてたまるか。事実であっても認めない」といった感じで信じてくれない方もいるし、認めても、ただの自慢話として受け取ったり、向上心の裏返しや自己価値感の低さからか、劣等感を感じて攻撃して来る方も絶えません。

いつかはそれもご理解いただけるだろうと思っておりますが、結局のところ、最初から抵抗なく波風立てず受け取っていただけるだけの力が色々な意味で私にないようです。

ゆっくりでとりこぼしが出ても、自分に無理のないようにやって行くのが私の限界で、設定された魂のレベルなのでしょうか。

たとえば私の寿命を何年か差し出せばつらい思いをする人が何人減る、という事であればそれはそうしようと思いますが、(つらい思いをして100年生きる人が1人いるより、思い通りに50年生きる人が2人いたほうが私は良いと思っていますので)、そうは行かないのですね。

戦争や犯罪などで一見無駄に苦しめられ浪費されて行く命にも意味があるのでしょうか。

私には何の役割が与えられているのでしょうか。

それは、私が考えても仕方ない事なのでしょうか。

 

2014年2月17日 月曜日 午前7:20返信

田彩乃様

メールを拝見していて感じるあなたの知性と、論理的物事の見方に対してどうお答えすればよいのか、私の技量不足を痛感するところです。

そのような訳で、必ずしもあなたの望む返事にはならないかと思いますが、その点はご容赦いただきまして私の意見を述べさせていただきます。

さて、転生に対する受け止め方、考え方については皆さんそれぞれの知識によっても違いがあるようです。

それはその方の人生での知識や様々な経験からくる価値観にもあり、この世での実体験もあり、自分が気づいてはいなくても過去世での経験による魂への潜在意識などが影響を及ぼしていることにもよるでしょう。

転生を信じない、否定するという人に比べれば、転生を信じる人の場合、個人個人が魂のステージにこそ差はあっても、まだ次のステップに進むための心の準備ができているといえます。

「自分が死ぬまでに結果が出なくても、自分が生まれ変わってその恩恵を受けると思えばがんばれる」と言っていた人がいて、その方はあくまで自分のためにひたすら転生を信じていました。

その方の場合は、がんばらなければ社会に認められないので何とか自分を日々の生活につなぎとめるため、己救済のために転生を都合良く信じた事例だと、私には思われました。」とありましたが、

恩恵を受けるという言葉は、単純に今世の行いが来世に結果となって現れてくるというように捉えて良いのではありませんか?

因果応報があり、原因と結果の宇宙大自然の法則を自分の人生で表現した極自然の思いだと感じますがいかがでしょうか。

果たしてご本人は自己救済のためと思って転生を信じているのでしょうか。

仮にそうであっても良いではないですか。

そこから時を経て相互扶助の精神に昇華していくことを待つことが大切ではないだろうか。

やがて真実を悟る時がくるのです。それまで優しく、心静かに待ってあげてくださいな。

私たちはこの地上で生きているがために、物質の恩恵をいただき生命をつないでいることは否定できない事実であります。

そのために物に拘り、お金に拘りながら、形に見えるものに拘りながら生きているということも事実であります。

ただ人によって拘り、執着の程度の違いがあるだけといえるでしょう。

この3次元物質世界では、努力してもそれがすぐに結果が出るということにはなりません。

物理的制約のなかで生命活動を行っているからです。

むしろ報われたという実感がもてるまで相当の時間、月日、年月がかかるし、人によっては、今世でその喜びを実感できないままに帰幽しなければならない人も多いかと思います。

それだけに自分の努力が今世で報われなくても、あるいは恩恵を受けなくても来世でその恩恵があるなら頑張れる。

こう思い、こう考えるのはこの物質世界である3次元の地上で生活する人間としては何ら不自然なことではないと思うのです。

人は最初は誰もが自分の為を思い、その思いがやがて人生経験のなかから昇華されて向上し、他の為にという『利他心』にまで成長していくものではないでしょうか。

社会のなかで生きる私たちは、

人の頑張る姿に感動もします。

励まされます。

涙もします。

自分の為に頑張ることは悪いことではありませんね。

自分の為に頑張っていた人も、

時が来ればやがてはそのような経験が己の心の成長の糧となり、

心の充足にもなり、

余裕にもなり、

やがては他の為に心を尽くすということによって、至上の喜びを体験するにまで心が進化していくでしょう。

成長は一夜にして成されるものではありません。

どのような人を見ても『待つこと』を心に置いて接していきたいものですね。

特に、自分から見て未熟と思われる人をみたならば尚更のことです。

人間は他人を見た時にこそ、そして接したときにこそ自分の本質が表面に出てきます。

その表面にでてきた自分を他人が見聞きし、感じ、思い、反応し、行動となって返ってきます。

「今世で魂のステージの低い人」というのは何を以って基準とするのでしょうか。

人間は本来、生まれた環境、土地、物質経済の多寡に関係なくみな平等に丸く豊かな魂をいただいて地上に降りているはずです。

ただ違うのは、輪廻転生する過程において、何かしら心に曇りを宿し、執着という不調和な想念を重ねた度合いの違いだけのことでしょう。

しかしそれでも、人間は逆境や試練によって気づかされる心をいただいております。

私たちはいま、目の前にいる同僚、部下、上司、お客様たちのなかに、もし不調和な想念と感じられるような方がいたとしても、決してそのことで自分が心を動揺させたり、不満の心や、愚痴や怒りの心をもってはならないでしょう。

仮に、相手が間違っていたとしても、自分が正しいとしても、自分を押し通すような言動は避けなくてはなりません。

どれほど正しいことでも作用すれば必ず反作用が生まれます。

これは宇宙大自然の法則でありますが、私たちの心にも同じ働きとして常に日常生活の中で作用しております。

相手が敵対してくる。

傲慢な態度で接してくる。

これは自分の心の働き、言動、魂から発する波動エネルギーの特性がそう部分を持ち、発しているために起こる結果だと受け止めたいものです。

言いかえれば、他人は自分を映し出す鏡ともいえます。

人間対人間の関わり合いは、見 えない心の関わり合いであることを肝に銘じて知っておきたいものです。

人間が成長して育っていくには時間が必要ですね。

私がこのようなことを言う理由は、24年間営んでいる整体院で多くの若い人たちを育ててきたなかで気づいたことが『待つこと』だったからです。

医療専門学校を卒業して国家資格を持ち、どれほど知識豊富で弟子入りしてきても、合理的に、論理的に、知識偏重に過ぎると不思議とお客様から敬遠される傾向にあることも弟子たちの姿から学びました。

人はそのようなことより、心のこもった対応、言葉、態度、施術、押し付けでないもの、そして最後に技術を望んでいることも学ばされました。

また、どれほど素晴らしいことも、知識も、論理も、技術も、方便も、望んでいない人には余計な事でしかなく、精神的負担を強いることになるものです。

喉の渇いていない人には美味しいお茶を差し上げてもそれほ喜びもしませんが、渇いている人はコップ一杯の水をあっという間に飲み干してしまいます。

あなたのお父様の生きざまはお父様ひとりをみれば決して良い人生とは言えないでしょう。

しかし、あなたが言う ようにお父様のお陰でこの世に生まれさせていただきました。

そのことによってあなた自身、非常に厳しい家庭環境のお陰でとても深く学ぶことがあったかと思います。

親子愛の大切さ、あり方、素晴らしさ、人間は試練に立つほどに深く学びを頂くものですね。

お父様自身はあの世では相当のご苦労をされることになるでしょう。

何故なら、たとえお父様自身が恵まれない家庭環境に生まれ育ったのだとしても、自身の精神をどうもって人生を学ぶかはお父様自身の心一つにかかっていることだからです。

この世で心を曇らせて死んだ人間が、亡くなった途端に天国に生まれることなどできない相談です。

この大宇宙大自 然のなかには慣性の法則が働いています。

この法則は地上で生きる私たちの心にも働いている、変えようのない不変の法則であります。

不調和なままに心を曇らせて亡くなった魂は、そのままの状態であの世に移動することになります。

これは死者を近親者に降霊することで語りだす霊の言葉によって現在の置かれている状況が如実に証明するものです。

一般的に言われている死んで仏になるということの意味は、ただ亡くなったことの代名詞として「仏」と表現しているだけであって、大きく悟られた方という意味での「仏」とは大きく異なります。

ですから、大方は生前の生きざまがそのままあの世の姿と思って間違いではないでしょう。

当分は心の修正にご苦労されることになろうかと思います。

お父様は数百年後か千数百年後に転生できた時に、今世での心の業をどれだけ清算できてくるか否かで来世の人生における大きなガイドラインが定まってくるかと思います。

人間は強くもありますが、弱くもあります。

みんなそれぞれに持ち合わせた個性、気質、徳性、いろいろあります。

私自身、弱点もあります。

あなたは「私は人に要求が薄く、平坦で、熱い心を持ちづらい」といっておられますが、しかし、こうしてあなた自身のお話しを客観的に観ておりまして感じることは、目先の小さな事には要求が小さくても、決してあなたがおっしゃるほど、必要なところでは要求が薄くもなく、平坦でもなく、熱い心がない訳でもないと思えるのです。

このことは決して否定されることでもなければ、十分に心の内にほとばしる求道心が随所に表現されているものと思います。

そして、その証拠に、中国の「熊農場」の問題に対する疑問と自分自身への歯がゆさ。

そして自分が幸せになることへの抵抗感、自分がこれ以上できなことへの無力感と罪悪感。

れらの感情の働きはそのまま裏返しの感情でもあります。

心が希薄でもなければ、情熱の欠如でもありません。

心にあるからこそあなたの文章に表現されてくるのです。

ただあなたがもう少し楽な心で生きる為に心していただきたいことがあります。

それは自分を責めないこと。

過剰に責任感を持たないこと。

自分を解放すること。

そして自分が幸せに生きることに素直になること。

これまでのあなたの努力には感銘するものです。

あなたはご自分の人生すなわち寿命を全うしなければなりません。

自分を犠牲にする心は崇高なものですが、しかし、心身を犠牲に することは必ずしも尊いことではありません。

これまであなたは十分に心を尽くし、努力をされてきました。

私からあなたへのメッセージとして言わせていただけますなら、

「あなた自身を赦し、他を赦し、他の成長を待ちなさい。」

失礼いたしました。観童

2014/2/17受信 藤田綾乃

観童さま

重ねてご丁寧なお返事ありがとうございます。

(私のお話しした事例に対して)

「果たしてご本人は自己救済のためと思って転生を信じているのでしょうか。仮にそうであっても良いではないですか。そこから時を経て相互扶助の精神に昇華していくことを待つことが大切ではないだろうか。やがて真実を悟る時がくるのです。それまで優しく、心静かに待ってあげてくださいな。」

書き方が悪く誤解があったらすみません。このエピソードを挙げたのは、転生を信じる事が自己救済のように思えてしまうという私のマインドブロックの説明をしたかったための単純な補足のつもりで、私はそれをいけない事とは思っておりません。

書き方が悪いのかも知れず、言っても信じていただけないかも知れませんが、

私は人を裁く気持ちも見下す気持ちもありませんし、人が変わらない事に対しての怒りも焦りも本当にないのです。

ここ数ヶ月「テンションが上がる」という経験を初めてするようになっていますが、

上がり下がりの波が極端に少なく、衝動的の逆だと思っていただければと思います。

もし私が、思い通りにならない事に怒ったり投げ出したりする精神性であれば、

観童さまに自分の本意が伝わらない感触なのにも憤慨して、このお返事も書いていない事でしょう。

(すでに書きましたが、私はただ待っているだけでなく、目の前の人の認識を意図的に促進する事もできますし、それに時間がかかる事も経験的に知っています。

関わる時間さえあるならば、その人の世界観をトレースし、積極的にその人の気づきの材料を置いて待つ事ができます。(この時、自分本来の価値観から見て相手を裁いたり感想を持つのは邪魔でしかありません。

ひたすら相手になりきる事で相手の本当の要求が見えて来るのが重要なんです)

心が拒否している人はまっこうから事実を突きつけても受け入れてくれませんから、それ以外の方法をとるという事です。

これまでのところ、目の前にいた人に、何もできなかった事は一度もありません。

具体的にお話ししたらなるほどそういう事もあるのかと思っていただけるかも知れませんが、長くなるので今回は書きません。

これも誤解されるかも知れませんが、これまでに黒星なしだからと言って私は得意になっている訳ではありません。毎回が出たとこ勝負で、余裕の顔で話しながら内心必死に、

手探りで相手の理解ポイントを見つけて行くのです。

毎回、ああ今回こそはもうダメかと思います。それでもあきらめずやっていると、不思議な事に、どこかでその人の認識をひっくり返すタイミングが訪れます。

いい気になっている余裕など私には一瞬たりともありません。

私など遠く至りませんが、世界銀行の副総裁だった西水美恵子さんという方がおっしゃっている事がとてもよくわかります。

ご興味あれば読んでみてください。 

ちなみに、その転生の話をした方に私は直接

「私は子供たちのため次代に良い世界を残そうと思えば転生を信じる必要はない」と言った事があります。

この方は「あなたの考え方のほうが理想的だし、理にかなっているし、今の自分ならば、あなたと同じように考えられる。

自分は転生を信じ始めたときは利己的な理由だったし、今も人間は基本的にそういうものだと思っている」

と言っていました。ですからこの方は本当に世界のシステムとしての転生があると確信しているのではなく、単に自分にとって合理的だから便宜上信じる事にしただけとご自分で言っていますし、その時点ではそれで良いのだろうと私も思っています。

「しない善よりする偽善」だと思います。

ただ私自身はこの方のように「自分に便利だからそう思う事にした」という発想が

にわかにできないという事をご説明したかったのです。

それよりも「安易な自己救済としての妄信ではないか。都合が良いから信じたでは、実際にいるかも知れない神仏や、真実への冒涜なのではないか」と思ってしまうのです。

そしてこれはそう考えている方への批判ではありません。

安易な自己救済を良しとしない事で正気を保って来た私特有の性質が邪魔をし、一段上の理解をしなければならなくしているのです。

今の私の認識に一番近いのは、神仏はサンタさんみたいなものだという事です。

子供にとって、信じている限りプレゼントだけは届くから「サンタさんはいる」という認識で支障ない。

ただし、この子供の立場で終わるなら良いが、プレゼントを用意する親の立場になったら

「サンタさんがいるから任せとけば良い」という認識でいては、子供たちにプレゼントが届かないのです。

私はこの「用意する」役割を果たすように生まれついて来たのかも知れないと

今回の一連のお話を通じて思いました。

サンタさんは実際にいるのかも知れません。

しかしすべての人には手が届きません。

その意思を理解し継ぐ者がいなければ必要な人々すべてにプレゼントが行き届かないのです。

こういう事を思い行動する存在も含めて、サンタさんの意思の波及なのではないのかと思います。

おっしゃる通り、私は人に対しての目先の要求というのはほぼ持てないのです。

そういう気持ちは物心ついた頃に消えてしまったからです。

抵抗できない内から相当イヤな事をされて育ちましたが、私の親たちは話してわかる相手じゃないし、物事は自分の問題としてとらえねば解決できない。

自分の力で解決できないのなら耐えるしかない。

つまり起きる事は必ずしも自分の落ち度によるものではないが、解決するのは自分しかいない。誰も助けてはくれない。

この親はさんざん虐待したあげく自覚もなく何の責任もとらずに死ぬだろう。

自分の人生は自分でつくるしかない。

生まれつき自然にそのように考えていました。

私の見た目に一方的に懸想し、勝手に恐怖して私に濡れ衣を着せて

クビにする上司がいたとしても、それは私の見た目に起因する事ですから、私の体が引き起こした事です。

女性が、自分にその意思なくとも生まれつき男性を惑わすようにできている。

これはキリスト教で言うところの「原罪」の解釈のひとつであると私は考えています。

落ち度ではないが原因はこちらにあるのです。

私は基本的にすべての物事にそのように思っています。

今私が望んでいるのは、すべての生物がつらい思いをしない世界だけです。

父やかつての私のような人間がもう一人たりとも出て欲しくないのです。

そう思って目の前の小さな事を日々微力ながらなしていますが、これで良いのかと自問の繰り返しです。

れ自体が良くない事なのだろうかとも迷いますが、私が何をすべきか考え続けるべきなのかとも思います。

かと言って養護施設などのカウンセラーさんにお会いした時は、ああこれはとても私にはできないと思いました。

虐待された実経験がある人は、自分がやられてしまうので、一般的には、直接そういう仕事に就かない方が無難な事が多いようです。

ここまでお話しして来て、アドバイスを求めさせていただけるのであれば、

私が何をすれば良いか、具体的に思い当たる事がありましたら、

いつでもご連絡ください。お願いいたします。

「魂のステージが低い」というのは表現が良くないのかも知れませんが、

今までお話しして来た事を基準に言っているつもりです。

先ほど書きました通り、もし私が他人を見下す気持ちで書いているとおとらえになり、

それをいさめていらっしゃるのであればそれは違いますと申し上げるしかありません。

 輪廻転生を繰り返し、最終段階に来たら、もう生まれ変わる必要はないから「入滅」する。それがお釈迦様であったのであろうと私は考えます。

宗教上正しい解釈かどうかわかりませんが、私のこの認識でお話をしますと、

ここで言う「魂のステージが低い」は、その最終段階から、より前にいるというだけの事です。

かつ、それは7時発の電車と8時発の電車の違いのようなもので、

別に現時刻においてゴールに近いからエライとかいう問題ではないと思います。

それぞれに自分にたまたま乗った客や貨物を運び、役割を果たしているだけでしょう。

私がたまたま「魂のステージが最終段階に近い」状態で今生生まれたために恨みつらみに染まらず虐待に負けずここまで育ち回復に至ったのだというお話の流れだったのではないのでしょうか?

私は誤解しておりましたでしょうか。

何か間違いがあれば今までのお話の理解に関わる事ですので、ご訂正いただければと思います。

余談ですが、私は回復以前にスピリチュアルな人にお会いした事があります。

その方は私を見るなり困ったような顔をして「あなたのオーラは、極端に大人な部分と子供な部分があって、とても変わっている。

似たような人には一生会えないかも知れない」と言いました。

これは今考えると当たっていましたし、やはり珍しく思われたようです。

今は私も、人を見ると、その人の精神段階がわかる事があります。

以前、聖人画のように神々しく顔が光っている全盲の方を見た事があり、

目の見えない方は見たものにとらわれないから、精神性が高くなりやすいのだろうなと思いました。

ですからオーラが見える人も本当にいるのかも知れません。

あの世も転生も、あるのかも知れないし、あれば良いと思っています。

長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。(藤田彩乃)

 

2014年2月18日 火曜日 午後10:58返信

藤田彩乃さま。

こんばんわ。夜分に失礼致します。

あなたの真意を正しく理解できず大変失礼いたしました。

メールでつづる言葉というものは直接話しあう会話とはことなり、往々にしてこのようなことがおこりやすいものです。

しかし、それも私の至らなさ故のことですのお許しくださいませ。

さて、転生に関しては地上人類71億6千万人のうちの殆どの方が確信を持てているのかとなるとそうは思えません。

なかには根拠もなくそう信じている人もおられるでしょうし、否定される人たちもいることでしょう。

信じるにしても

『都合がよいからでは神仏や真実への冒涜になるのではないか』とのお話しですが、このことを冒涜という言葉で表現するまでではないかと私個人としては思います。

私自身は、冒涜という言葉の意味合いとしては一番重い罪と解しております。

それでは一番重い罪はとなると『両親を介して神より頂いた地上生命を自ら絶ってしまうこと』だと解しております。

つまり自殺です。

その点では『転生を都合がよいから信じた』であっても如何ほどの事でもないと思います。

そして冒涜という言葉を以って表現するまででもない、とても地上人間的視点でしかないと思います。

こういったことを神仏がどのように判断されるかはわかりませんが、もし、仮にです、私が神の立場とすれば、「可愛い子らよ、あなた方の成長を楽しみにしているよ」です。

まったくもって冒涜とは思いません。

何より神仏の心に沿わない生き方、反した生き方となればやはり自ら命を絶つこと。これだと思うのです。

子が自殺して一番悲しむのは親でしょうから。

経緯はともかくとして自殺したことそのことは本人 の心の罪です。

神仏と人間の関係もまさにそうではないかと思うのです。

これはあくまでも「冒涜」ということに関して私の考えを述べさせていただいたものでしかありません。

ここで質問をさせてください。

「目の前の人の認識を意図的に促進する事もできます」

「これまでのところ、目の前にいた人に、何もできなかった事は一度もありません。」

「これまでに黒星なし」

「どこかでその人の認識をひっくり返す」

これらの言葉から推察すると藤田様はカウンセリングのようなことをしておられるのでしょうか?

「私の見た目に一方的に懸想し、勝手に恐怖して私に濡れ衣を着せてクビにする上司がいたと しても・・・・・・・・」

これは実際にあなたを首にした上司がいるのではないですよね?

だとすれば起きていないことをこのように表現すると過激に感じてしまうのですが私の考えすぎでしょうか。

「女性が、自分にその意思なくとも生まれつき男性を惑わすようにできている。

これはキリスト教で言うところの「原罪」の解釈のひとつであると私は考えています。」

あなたのこの解釈を考えますと最終的に神は原罪を女性の体につくったことになりませんでしょうか?

私にはそうは思えないのです。

本来、女性も男性も非常に完全なものとして創造された存在だと思うのです。

男女がお互い足らざるもの を補い合い融合することで真の愛にまで昇華し到達するものと捉えております。

ならば何故問題が発生するのでしょうかとなると。

原因は、あなたや女性にあるのではなく、歪んだ感情で女性をみる男性個人の不調和な想念にあるのだと思います。

本能、感情、知性、理性、これら基本的心の働きが程良くバランス良く働いてこそ人間が人間であるものだと思います。

ところがこれらのどの働きが突出しても問題が発生します。

本能や、感情が突出して理性が欠如すると一方的な懸想ということにもなったり、セクハラということにもなったりしかねないでしょうし、長じては性犯罪にも発展しかねません。

例えば、キリスト教では「人間は生まれながらにして罪を背負う」

としているようですが、必ずしも聖書が間違いなく真実をのみを伝えているとばかりはいえないのではないでしょうか。

この世に生れて帰幽するまでに心を磨き、生まれたとき以上に成長して帰る人もいるでしょう。

また逆に生まれたときの魂を曇りで覆ってしまい、心に業を重ねて帰る人もいます。

この違いはどこにあるのでしょうか。

人間が罪を犯すことの原因こそが心の働きのなかにあり、執着、拘り、驕り、傲慢、等々・・・・・。

ただ人間は気づかぬうちに相手を誘発するような言動をしていることがあるかもしれません 。

そういう意味ではまったくないとは言い切れないものかもしれませんね。

それだけに自分の言動には気をつけて生きたいものと私自身は思っております。

ありがとうございます。

観童

2014年2月20日 木曜日 午前9:14受信

観童さま

かさねて丁寧なお返事ありがとうございます。

私の文章でどこまで伝わるか不安でしたが、
ご理解いただけまして安堵と感謝をいたしております。

「冒涜」についてのご説明、ありがとうございます。
なるほど、教えていただけば私もそのように思います。
軽々しく冒涜という言葉を用いてはならないと反省いたしました。
ありがとうございます。

私がカウンセリングのような事をしているのかというご質問ですが、まず私は、コーチ職の方のサポーターとして勉強させていただいている他、現在無料でモニターコーチングをさせていただいています。

(仕事にして行きたいので、今年後半あたりから有料化させていただく予定ですが、
それまでに勉強させていただくため、希望者の方たちに無料モニターになっていただいてフィードバックをいただいている段階です。

また、コーチング単体では生業にするのが色々難しく、事業の軸としては、セラピー・コーチング職の方々の事務的支援を考えており、コーチングは主にそのための傾聴・支援ツールとなって行くと考えています)

私はそれにライフペイジズというカードを使いますが、スピリチュアルなものではなく、
「今の自分だと思うカード」などテーマに合ったカードを選んでいただき、そのカードに解釈を加えて行く過程でご本人の価値観が浮き彫りになり、それを軸に今後のライフプランが組めて行くという、きわめて論理的な性質のものです。

たまたま先日セッションさせていただいた知人が当日18日付の自社ブログに書いてくださったので、もしご興味とお時間あれば読んでみてください。

私はまだ認定コーチ講座を受けておらず、公式本流のやり方と違うので、この段階では
ライフペイジズセッションと表記しないでほしいと考案者の方には言われておりますが、今まで例外なく結果は良いです。

こうして何か結果を数多く出せる事で、今はやっと何もできていないという苦しみを手放せつつあります。

何もせず他者の苦しみを思って苦しんでいるより、いま自分にできる事を数多くした方が、彼らの苦しみを救える事に近づけます。そういう意味では、私は根拠なく苦しみを手放すという事が依然できない訳ですね。

しかし、支援的な事を仕事にしているかという事は、本質的な問題ではないですよね。

支援職でない方の中にも、日常生活の中で優れた支援をなされる方たちがいらっしゃいますし、観童さまのように無償でライフワークとなされている方もいらっしゃいますから。

私は日々、すべての対話が一種のコーチングだと思っております。

一番手ごわいのは、コーチングを望んで受けに来るような人たちではありません、私の親のような蒙昧な人たちです。

その人たちと調和してやって行くという事に私は日々挑戦しています。

そしてコーチングの本質とは、きれいな鏡となって相手を映し出し、気づかせる事だと思います。

「私の見た目に一方的に懸想し、勝手に恐怖して私に濡れ衣を着せてクビにする上司がいたと しても・・・・・・・・」のくだりは、まあ言葉足らずな表現ですが、これにかなり近い事は事実ありました。

そしてそれは、私がその方を支援し続けたためにそうなったのですが、ひきかえに、精神に異常をきたしていた彼に回復の糸口をつけたので、これでまったく良かったと思っています。

人一人精神異常から回復するなら、私が仕事をかえるくらいの代償は何でもないでしょう。

拒絶され、その方の権限をもって場を出されたのでもうお会いする事はありませんが、
いまだどうしているかと案じ続けています。

その方は私の回復の原動力となった、私が初めて世界観を共有できた方だったのですが、
育ちにより精神に歪みが生じていて、その一部が私とマッチしました。

人間の成長には、内観的な事や、人とのマッチングが有効なのだと思います。

彼は私に本音を話して安堵を得たものの、その事自体や恋愛感情を抱いてしまった事におびえ、私の在職中も、私が頭のおかしい女だと他の人に吹き込み、私に話してしまった事や、私と関わりがあった事自体を私の妄想だとして無かった事にしようとずさんに企んだりしましたが、結局は普段の私の様子や筋の通り方から、私のほうが真実を話していると他の方に気づかれてしまい彼の嘘がバレてしまいました。

そんな人ですが、彼も好きでそのような精神性になった訳ではなく、気の毒な来歴があったのです。

何不自由なく育てば天使のような善人になり、苦しむ人が試練に負ければまた修行を積む事になる。

私には不公平に思え、自分の意思でそれを選んで生まれて来たというのがまだ信じられずにおります。

ちなみに、その事例のような方向性の事はしょっ中ありますよ。

まさかそんな事があるものかとお思いになるならば、観童さまご自身が良い心の方だから、そのような場面に出くわす事なく済んでおられるのかも知れませんね。

たとえば私は主に中高年の男性に見た目を気に入られ、ステレオタイプな彼らの理想
「感情的でかわいく媚びてくれて自分より頭のわるいオンナノコ」を期待される事が数多くあります。

しかし私は、決して人間としては幸せでない育ちのため、大抵の人より考える訓練ができていて論理勝ちです。恐怖や危機感は人の論理性を育てますから。

私が意に沿わないと見ると気を悪くした彼らに嫌がらせされたり理不尽に罵られたり怒鳴られる事は珍しくありません。

一般的な会社勤めの方ならそんな中高年の男性をすぐ想像できると思います。

どうも、自己承認感情に飢えた男性は、若くかわいらしい女性の保護者(あくまで自分が上)でいる事で自分を満たそうとする事がしばしばあるようなんです。

単に私が努力したために彼らより仕事ができたり、ものがわかる部分が見えただけでも、
彼らは喜んだりほめたりはできません。

生意気だ、バカにしやがってこの小娘が、と怒り、おびえ、俺のほうが上なんだお前に発言権なんかないんだと必死で私を陰に押しやってしまおうとします。

そういう方はたいてい本音や欲望を見透かされる事が嫌いで、人間関係を上下や勝ち負けだと考えて自分の下に人をつくる事で自分を保とうとし、ちょっとした事も見下されたと受けとります。

おわかりだと思いますが、私を受け入れる訳がありません。

しかも人間誰しもそういうものだ、それが社会性だと思っている事も多々あります。

そういう人が人事権を持っていれば、私のほうが「こいつは社会性がない」と見なされたり、まったく筋の通らない難癖をつけて会社を辞めさせられる事も当然あります。

私が仕事でベストを尽くす事と彼らとの関係を尊重する事は矛盾するのです。

信頼関係を築く事もできますが、あまりにもコストがかかりもったいない事が多く、私は今後、会社勤めは避ける事にして、他の道を模索しています。

とは言え当然、私の言動に配慮が欠けているというのもあるんです。

観童さまでさえ、私の文章を、人を見下しているようにおとりになられたかと思います。

私の方にまるで悪気がないため、そういう受け取り方をする方がいるという事に配慮できず、よりによってそこが敏感なポイントになっている人に対して悪くとられる言葉を発してしまって激怒される事が今でも時々あります。

これが課題と言えば課題ですが、何しろ私は悪意が強い人の精神が実感できないので、
いまだどうにもならないままです。

私の精神不全と回復の経験すらも、ある層の人たちからは嫉妬され、自分の物語より力を持つとして恐れられ遠ざけられます。

あんな事は単純にない方が良いに決まっているのに。

特にいまの40代以上の方に多いようなのですが、人を内側からでなく外側から見てしまい型やノウハウにこだわって本質を見失ってしまいがちな、欲しかモチベーション源を持たないある種の中高年の男性は、私にとっては特におつきあいが難しい事の多い層の方々なのです。

戦後から今にかけて、日本ではそういう人、特に男性が量産されたのだろうと認識しております。

今はその歪みを直すときなのではないでしょうか。

こうあるべきという型を外し、まずありのままの自分を出す事で解決に結びつく。

人単位の上下関係ではなく、個々の能力を部分ごとに切り分けて生かす選択ができる。
そんな考え方が主流になって行くのではと思います。

いかがでしょうか。藤田彩乃

以上。ここまでが全文です。

総括

私がいうまでもなく、言葉が大切なものだと理解しているのは誰もが思うところかと思います。

メールという文章のやり取りで自分の思いや真意を伝えることの難しさは、直接やり取りする会話以上のものがあります。

一般的には、これまでの経験で得たことが自分の価値観となって、それが言葉に表現されていることも多くあり、そのことによってどのような言葉づかいで表現するか、伝えるかでスムーズに受けとめられる場合もあれば、「んっ?」と思わせて読者の心に疑問やあるいは拒否反応が起こる場合もあるかもしれません。

正しいと思って発した言葉が、直接の会話の中でも、文章でもそうですが、実は、

断言するような威圧感、圧迫感となる場合もあり、

強引な発言と受け取られることで、反発心をもたせる場合もあり、

相手のプライドを強く刺激して怒りを駆り立てることもあり、

第三者からみれば必ずしも納得のできる言葉づかいではなかったり、

と様々な受けとめられかたがあるものです。

若い女性が関わりあった年配の人たちの中には、その人にとって許しがたい出来事があったかもしれないということを考えれば、ご本人にとって深刻な事態であろうことは理解するものです。

しかし、そのことで戦後から今にかけて「人を内側からでなく外側から見てしまい型や、ノウハウにこだわって本質を見失ってしまいがちな、欲しかモチベーション源を持たないある種の中高年の男性が量産された」と認識することもまた偏りすぎた見方に思えてならないが読者の皆さんはどのように思われるのであろうか。

「今はその歪みを直すときなのではないでしょうか。」ということは、戦後の日本男児が歪んでいるから、直すときだと解釈されるのですが、このように受け止める私が歪んでいるのかもしれません。

私は木が林立する豊かな自然環境のなかで暮らしていますが、山を散策しながら自然環境の健康を考えるとき。

数本の木を見て山全体を語ると間違いが起きる場合もあるように、山全体ばっかりに目を向けて一本の木を見ない事もまた、小さくも重要な実態を見逃す場合があることを知りました。

いずれにしても事の真実、実態を、偏らずに観るということは大切であるが難しいものでもある。

「今生与えられた魂のステージみたいなものがあるのだろうか、これは自分の意思で上げる事ができるのだろうか。」

これは人間の魂そのものが神からの分霊と解釈をするならば地上人類全ての人間に与えられた魂が備わっているということになろうかと思います。

そしてまた今生の人生で学び、努力をすることで魂のステージは昇華されていくものですが、しかし、逆に、拘りや執着心、歪んだ価値観などによって魂に曇りを重ねて帰る場合も多々あるのである。

このような状態であの世で一定期間の心の修養を経た後に再び地上に生れては来るのだが、前回の地上生活で魂に重ねた曇りを修正しきれないままで誕生するならば、誕生した時点で過去世の業を背負って生まれることになる。

人間の魂のステージの違いは曇りの層が厚いのか薄いのかの違い、つまり、エゴ(業)の厚さ、深さの違いであり、言い換えるなら、心の調和度の違いといえるでしょう。

こうしてみると、今世の自分は過去世の自分の生き方の結果だといえるところもある。

しかし、過去世がどうあったとしても、それより今生の人生が最も重要であることは当然の理であろうし、このことは誰もが理解できることかと思います。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。

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