神を宿す心

  人生を翻弄(ほんろう)する神
「孫に憑依した稲荷」
「宗教にみる阿片作用」
という存在に関わるようになって家庭を不調和なものにしていった人、社会生活に支障をきたすようになった人、夫婦の破綻にまで陥ってしまった人たちがいました。
巷でいう(神界からの使者、もしくは修業中の龍、動物霊、修業途中の白狐)は、決して本来の神ではなく、人間の都合によって「神」とよんでいるに過ぎず、厳密にいうとその実態は真の「神」という神ではない。
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例えば、上段界光りの天使として使命を担った龍や、稲荷大明神といわれる自然霊が存在し、善行を為す人を背後から協力することはあるのだが、しかし、こういった存在を神として崇めて額ずいたり、崇拝してはならないのである。
龍や白狐にも霊格があり、人間をサポートすることはあっても、決して神として祭られるような存在でないことを知っておかなければならない。
実際のところ、祭祀している者の口を借りて語る神という?ものの本体は邪霊が殆どであり、仮に語ったとしてもそれは憑依によって低次元の霊、邪悪な霊、動物霊などが祭祀している者の意識と口を支配して語っているだけである。
決してよろしくない表現の低次元という言葉、邪悪な霊、これは何を以って低次元と表現するのか、邪悪な霊と表現するのか、それは自我我欲、執着、拘りという不調和な想念によって自らを貶めている霊のことであり、地上人間の心を支配し悪影響を及ぼすからである。
上段界の光りの天使は決して人を驚かせるようなこのようなパフォーマンスはしない。
そして、巷で神と称するものたちの実態が、祭祀する者の心のステージと同等の霊しか関わってこないことを知っておかなければならないだろう。
決して自分の心のステージ以上の霊が関わってくることはなく、ましてや、天地創造の唯一神が人間を支配することは有り得ぬ話であるし、神が人の口を借りて語ることは万に一つの可能性もない。
祭祀する者の言行不一致、消えない疑問、矛盾がある、金品に貪欲、カリスマ性を強調する、当たる当たらないに一喜一憂している、一方的、傲慢、通わせようとする、こういったことがみえたら離れるべきである。
神」という固有名詞が意味するところ真の神はとなると、大宇宙を統べるただ一つの意識がそれであり、森羅万象の調和と摂理の原点と私はうけとめている。
この原点とは愛と慈しみである。
慈悲は仏教で説かれる教えであります。
「釈尊は悟られた」と、すべての仏教家、仏教学者がいうが、その悟りがどんなものであったか、その内容については真の意味で誰も明らかにすることはできないであろう。
何故なら、釈尊と同等の境地まで大悟された方でなければその境地について明らかにすることは不可能だと思われるからです。
勿論、私自身も釈尊の大悟された境地についてはわかりませんが、その教えに真実を見出すことができるからこそ納得もし、感動し、共感するということでしかない。
ただ、20世紀にお一人だけ「宇宙即我」というその境地まで悟られた方がおられたと思うのですが、既にその方は帰幽しておられ、ここではそのことについての詳細は割愛させていただきます。
 さて、光(太陽)というエネルギーがつくり出す生命体は科学的に実証されているだけでも相当な数に及びますが、しかし、人間の知恵によって発見された働き(生命)は宇宙からみれば極限られたものでしかないだろう。
きょうは物質的存在としての太陽ではなく、四次元的太陽光エネルギーについて、スピリチュアルな側面から述べてみることにします。
先ず、この大宇宙は神によってつくられた。
大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけがそこにあった。
神は、その意識の中で意志を持たれた。
大宇宙の創造は、神の意志によってはじまった。
意識の働く宇宙と、物質界の宇宙の二つの世界を創造した。
意識界の宇宙はその意志をもって物質界の宇宙を動かし、そうしてこの二つの世界は、光と影という相関関係を通して、永遠の調和を目的とすることになった。
神の意識は、永遠の調和をめざし、そうして、二つの世界にあって、調和の要である中道という法秩序の中に住まわれることになった。
人間は、天地創造と共に、神の意識から分かれ(分霊)、神の意志を受け継ぐ万物の霊長として産ぶ声をあげた。
他の動物は本能と感情がほとんどであるのに対し、知性と理性と創造の力を頂いた動物は人間だけである。
人間の誕生は、意識界という四次元世界の宇宙に、まず姿を現わした。
そうして、神の意志である調和をめざす神の子として、物質界に降り立ったのである。
物質界に降り立った最初の人間を、地上の眼でみるならば、大地の一隅に、忽然と物質化されたといえるだろう。
人間は身体も心も小宇宙を形成している。
小宇宙とは大宇宙の縮図である。
大いにスピリチュアルな発言になるかと思いますが、大宇宙に展開する無数の星々は、人間の肉体を形作っている光の数(細胞数)とほぼ同数といってもよいだろう。
太陽系が太陽を中心に九つの星々(惑星)と三万数千個の小星群(衛星群)をしたがえ、太陽の周囲を循環している。
また、極小の世界においても(素粒子)も中心となる核とその周囲に小星群(陰外電子二が回っている。
太陽系という宇宙も、極小の世界も同じように、一つの法則の下に循環し、生かされ、生きていることは科学でも証明されているところです。
人関の肉体は、そうした極小の光粒子が集まって集団を構成し、体を成している。
これらの集団は、脳、心臓、肺臓、肝臓、腎臓、胃、腸などを形成し、これはそのまま宇宙に存在している太陽でもあり、九つの星々(水星、金星、地球、火星、木星、土星など)を意味し、さらには、大宇宙に展開する多くの太陽系の、それぞれの個性を持った集団群と同じようにつくられているといってもよいのではなかろうか
人間は肉体のほかに心(意識、或いは魂)を持っている。
その心は肉体という衣を通して、物質界、この現像の世界に調和をもたらすことを目的とする反面、大宇宙の心に同通し、それぞれの役割に応じた使命を担っている生き通しの意識だといえるだろう。
肉体は長生きしたところでわずか80年から90年の仮りの宿に過ぎない。
物質と非物質の世界は、交互に循環することによって、調和という運動形態を永遠に持続するためにあり、このため、肉体という物質は、時が経てば物質的形態を変えた世界に戻らなければならない。
人間といえどもこの大宇宙の循環の法則から遊離して存在することはできないのである。
しかし、人間の意識、心、魂は、物質、非物質に左右されず、永遠に、その姿を変えることがない。
私たちは肉体に囚われることより心を乱し、肉体まで不調にすることは医学の分野でも知るところであり、このことに着目して視点を変えていかなければならないでしょう。
このように人間の意識は、心が調和されることによって神の意識に通じながら、物質界という現象界と、非物質の意識の世界を循環し、個の意識である魂を持って、生き続けているのである。
神の子としての人間が、この世の現象の界において何故に悪をつくり出したか。
不幸をどうして生み出したか。
それは肉体の自分が自分であると思うようになり、肉体にまつわる諸々の考え方が、本来自由自在である心を、肉体の中に閉じ込めてしまったために外ならない。
全能の神が人間の不幸を予測できないはずはないと誰しもが考えよう。
不幸を事前にどうして防げないのかと。
では人間の親子がどうしてしばしば違った方向に歩いていってしまうのだろうか。
子供は成人すると親の自由にならない。
子は子としての人格と主体性を持っているからである。
神と人間の関係もこれと同じで、主体性を持たせてある人間を自由には出来ない。
自由に行使できる者は、神の子である人間自分自身だからである。
神は調和という中道の中で、厳然と生命の火を燃やしている。
人間が、その自由の機能を妄(みだ)りに使い、中道に反した行為をすれば、その分量だけ、反作用という苦しみを伴うよう仕組んであるのだ。
要するに間違った心の使い方、すなわち偏った心の使い方をしたときに苦悩が始まるのである。
この仕組みよって、神と人間の絆が保たれ、調和という永遠の目標に向うように計画されている。
人間の魂が肉体に宿ると、大抵は五官に振り回され執着する場合が多いものだ。
五官とは眼、耳、鼻、舌、身の五つである。この五官に、魂、意識が幻惑される。
美しいものを見ると欲しいと思う。
気持の良い香りには心がひかれる。
自分の都合のよい話には、つい乗ってしまう。
舌障りのよい物は食べ過ぎてしまう。
苦労するより楽な方に身を置きたい。
肉体五官はこのように、人の心を動かして行く。
五官が働かなければ肉体の維持はむずかしくなる。
さりとて、五官に心を奪われると過ぎた欲望がつのってくる。
欲望の源は、五官に振り回される心の動きにあったわけである。
諸々の欲望、争い、不調和、悪の根源は、五官に心を奪われる六根という煩悩にある。
さまざまな不幸は、肉体にまつわるこうした心の動き、カルマ(業)の想念行為によって生み出されていった。
業は執着である。執着は五官から生ずる肉体的想念が、魂に根を張ることによってつくり出されて行く。
地位、名誉、金への執着、自己顕示欲、カリスマ性への拘り、その他さまざまな欲望が、人間の神性仏性を侵して行く。
こうして、人は、その意識を、あの世と現象の世界であるこの世を循環する度に、その業を修正して行く人もあるが、新たな業をつくって輪廻している人もいる。
このために人類は、地上にユートピアを建設する前に、まず己の業を修正しなければならなくなった。
同時に、さまざまな執着を生み出して来たがために、神性の自分から次第に遠のいて行ったのである。
しかし、人間の魂は神性仏性そのものであるから、神性仏性を捨て去ることは出来ない。
動物、植物は、この地上の環境を維持するための媒体であって、人間はそれらの媒体を調和させて行く責任を神から与えられ、委されているといえるだろう。
その証拠に、自分の心に偽りの証しを立てることは出来ない。
人にはウソはいえても、自分にはウソはいえない。
文明文化は人間の社会にのみにあって、動物、植物の世界にはない。
人間はどこまでいっても人間である。
動物、植物も、それぞれの個性にしたがって転生輪廻し、進化を続けるものであるが、しかし彼らが人間になることはできない。
人間も動物、植物に生まれ変わることはない。
水が土になることができないのと同じであり、パンジーの花がひまわりの花になることがないのと同じである。
人間が神の子の己れを自覚し、業を修正し、本来の神性に戻るためには、神の心に触れなければならない。
神性の我に帰るとは、苦しみの世界の自分から離れることである。
生老病死のとらわれから脱皮することである。
神の心は、中道という調和の大宇宙に流れており、その流れに自分の魂が触れるよう努力することであろう。
一日には昼があり夜がある。
どんなに人類がふえても、空気、水の質量は変らない。
太陽の熱・光についても、その放射する質量が変ることはない。
人間社会は男と女とが生存する。
男女の比は常に一定に保たれている。
戦争、災害など、人々の心が自己保存、自我我欲に傾かない限りは、男女の比は均等に維持される。
人間の肉体も、休息と運動という循環から切り離せない。
夜も眠らずに仕事を続ければ、肉体的に支障が現われ、精神の平衡を失ってくる。
すべての生命、物質は、このように、中道から離れては保たれないようにできている。
悲劇や苦しみは、こうした中道から離れた想念行為があるからである。
中道の心は、毎日の生活行為に対して、反省し、反省したことを実践することから得られる。
実践にはたゆみない努力がひつようだ。
そして勇気が要ります。
智慧を働かせば、業の修正は意外に早まるだろう。
神は光明そのものである。
それは意識のある光明、エネルギーで、物質宇宙を創造し、その物質宇宙を包含している光明である。
その神が、創造の最後に、万物の霊長として人間を創造しようと想念される。
すると、神の意識の中から小さな光の粒子がはじけるように飛び出してきて、それが肉体と同じような形に集まる。
それが天上界における光子体(霊体)である。
その光子体の中に、神の意識がぽんと置かれる。
それがわれわれの魂である。
その光子体を元にして地上の肉体が創造られる。
肉体細胞は細胞としての一個の生命体であって、人間が魂を持っていると同じように、細胞には細胞の意識、魂がある。
その細胞が集まって、頭脳、心臓、肺臓、肝臓等、また、頭には眼、耳、鼻、舌等の器管がそれぞれつくられてゆく。
するとそこに、頭脳は頭脳として、心臓は心臓としてのそれぞれの集団意識が発生する。
それらの集団意識を統合して支配しているのがわれわれの魂である。
肉体全体を統合しているわれわれの魂が、なにを思うか、ということによって肉体細胞の集団意識は左右されていく。
ここに心によって健康になり、また、病気をつくることもできる原理がある。
創造された光子体、肉体にはそれぞれの役割が与えられる。
それが陰(女)であり、陽(男)である。
女と男、陰と陽は、神の意識を中心として回転し、新しい生命を生むことに条件づけられる。
男女夫婦の心が完全に調和された時、そこには神がつくられたままの健全な子供が誕生するが、その調和が歪(いびつ)なものになってくると、歪(ゆが)んだだけの心が、生まれてくる子供の肉体に投影されるのである。
ここに胎教の必要性、大事さがある。
キリストは、「神はここに見よ、かしこに見よというが如くにはいない」といわれた。
ということは、神の生命はどこにでも遍満しているというのである。
このことをまた「天国はあなたの手の中にある」といっている。
このキリストの言葉に比較して、釈尊の教えは更にもっと深く、また具体的である。
「神の意識は、永遠の調和をめざし……調和の要である中道という法秩序の中に住まわれることになった」
神はどこにいられるか、ということに対する釈尊のこの言葉を、キリスト流にいい直すと、「神はここに見よ、かしこに見よというが如くにはおられない。神を見んとするならば、天地宇宙、大自然がすべて調和されているその相を見、また、あなたがすべての関係において、親と子と、夫と妻と、という具合にすべてと調和した時に、そこに神の存在を知ることができよう。」ということになるだろう。
神を見ようと思ったら己自身の心を調和しなければいけないということがよくわかるかと思います。
争っている状態では神を感じることはできようはずがないし、まして神を語り、営利を目的とした宣託やエゴのままに説かれる法の場など、神の意識が存在することはない。
つまり、争っている状態のままで神を見ようとすることは、燃え盛る煩悩の火の中に清らかな水を求めるようなもので絶対に不可能である。
調和というと、それは親子、夫婦、男女といった人間関係の調和だけでなく、
天と地、心と物、時間と空間、引力と重力、求心力と遠心力等、すべてのものが調和されなければいけないので、その調和された状態を見て、われわれは神の存在を感じなければならないだろう。
心に執着が無く、調和されて感謝と報恩の実践ができるならば、その人の心には神の意志が宿ったことになる。
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